異熟から生じるものを異熟生といいますが、種子を増上縁として第八識の現行が生じ、恒に相続する、果報としてですね。それを総報とあらわして、異熟といわれています。そして、総報の果から種々の果報が生じてきますが、それを満業に酬いて六識で受ける果報として、それを異熟生と名づけられています。間断することがあるので、異熟とは名づけられないといわれます。
「前の六識をも感ず。満業に酬いたるは異熟従り起るを以て異熟生と名づく。異熟とは名づけず。間断すること有るが故に。」(『論』第二・十一左)
「第八識真異熟従り起るを以て異熟生と名づく。」(『述記』)
真異熟(異熟果)の三義 - (1) 業果 (2) 不断 (3) 三界に遍ず。
第七識は、不断であり、三界に遍ずるが、業果ではないから真異熟とは名づけられない。第六識の報心は業果であり、三界に遍ずるが間断があり、非報心は三界に遍ずるが業果ではなく間断がある。前五識の報心は業果ではあるが、間断があり、三界に遍ずるものではない。非報心は三義倶になし、と。故にただ第八識が真異熟と名づけられるのである。(『樞要』)
真異熟を異熟識といい、初能変として別開されます。
善悪の業果によって生じた阿頼耶識を異熟果とし、真異熟といい、果としての阿頼耶識から生じた六識の果を異熟生といわれているわけです。
「即ち前の異熟と及び異熟生とを異熟果と名づく。果いい因に異なるが故に。」
異熟は因は善・悪、果は無記である。真異熟と異熟生はどちらも異熟果と名づけられている、善・悪業の種子は、この異熟果を招く習気ですから、異熟習気と名づけられています。異類にして熟す、というのが正義になります。
異熟の三義
(1) 変異にして而も熟す。
(2) 異時にして而も熟す。
(3) 異類にして而も熟す。
「此の中には且く我愛に執蔵せられ雑染の種を持する能変の果識を説いて名づけて異熟と為す。一切を謂はんとには非ず。」(『論』第二・十二右)
異熟とは真異熟をいい、第八識のみを異熟と為し、初能変が展開される能変の果識であることを説いています。
(1) 我愛に執蔵せられ、第八識は第七識の我執によって執蔵されて阿頼耶識と名づけられる。我愛執蔵現行を以て阿頼耶識と名づけられる。
(2) 一切種子識である。
(3) 能変の果識である。
以上で、簡単ですが、最初の一頌半である、「略して難を釈し宗を標す」一段を終わります。次科段より広説が述べられます。
明日より、また第三能変に戻り、折をみて初能変を考究したいと思います。
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