唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 五位無心 二定を解す (2)

2010-12-01 22:39:21 | 五位無心

         第三能変 起滅分位門 

    ―  二定を解す (2) 無想定について  ―

 「無想定は、謂く有る異生の、遍浄までの貪をば伏するも上の染をば伏せずして、出離想の作意を先と為すに由って、不恒行の心・心所をして滅せしむ。想を滅するを首と為すに無想と云う名を立つ。身を安和ならしむるが故に亦定と名く」(『論』第七・十一左)

 (意訳) 第一段五義がだされます。(1) 異生 (2) 遍浄(3) 出離想 (4) 不恒行 (5) 想滅為首 をもって無想定を解釈しています。大方はこの一段で云い尽されています。無想定という定は聖者の厭うものでであり、凡夫の類は第三禅天の遍浄天までの貪欲を滅することはできても、第四禅天の染汚を滅することが出来ずに、無想天を想い出離涅槃の想を作してこの定を修して不恒行(前六識)の心・心所を滅する。しかし想を滅することを首とするので無想という名が与えられている。入定前の定力に依って身をして安和ならしめられること有心定の如くであるので、また定という名を与えた。

  出離想作意に基づいて、不恒行(六識)の心・心所を滅した定で、解脱を求めるのではなく、今の境遇を受け入れられずに、その場所から逃避するために意識活動を停止する。無心といわずに、無想というところに、此の定の意味があります。想は遍行(触・作意・受・想・思)の一つですが、想は知的な束縛をもたらす働きがあるといわれます。「想とは境のうえに像をとるを以て性と為し、種々の名言を施設するを以て業と為す」と。言葉による束縛から離れて身を安和ならしめることが無心であるといい、この状態を解脱と考えているのですね。「身を安和ならしむるが故に亦定と名く」といわれていますが、定は心の状態ですね。「心を専注して散ぜらしむる」、心一境性と定義されていますが、定の世界は身を安和ならしめるのですね。身が安らかに和むと。こいうところに誤解が生まれてくるのでしょうね。無想定を修して得られた果が解脱であるという謬りです。ここを明らかにするのが『論』の役割なのでしょう。造論の主旨に「二空の於に迷・謬すること有る者に正と解とを生ぜしめんが為の故なり」と、「今この論を造る」主旨が述べられていますね。聞法しているから迷・謬するのではないでしょうか。聞法の落とし穴です。「あ、これだ」と思った瞬間に辺地懈慢に生まれるのでしょう。

          「仏智不思議をうたがいて

            善本徳本たのむひと

            辺地懈慢にうまるれば

            大慈大悲はえざりけり」 (正像末和讃)

 「述曰。 この下は別解なり。文は六に分かつといえども、義に十一有り。

 (異生)とは一に得する人を顕す。聖はこれを厭うが故に。

 (遍浄)とは謂く第三禅天なり。第四禅以上の貪を猶未だ伏せず。二に離欲を顕す。

 (出離想)とは三に行相を顕す。即ち涅槃の想を作すなり。

 (不恒行)等、滅とは四に所滅の識の多少を顕す。

 (想滅為首)等とは五に定の名を釈するなり。

 謂く有心定は身心ともに平等ならしむるを安と名づく。怡悦(いえつ)するを和と名づく。いま無心定は定前の心力によって身をして、平等和悦ならしめること有心定の如くなれば、また名づけて定と為す。義が彼と等し。この体は前の第一巻に説けるが如し。二十二法(心王・五遍行・五別境・善十一)の滅する上に依って仮立す。以上、総じてこれ第一段の文なり。五義あるなり。

 何を作し染を伏して定に入るとならば、瑜伽の第十二に説く、 問、 何の方便をもってこの等至に入るや。 答、 想は病の如し、癰(ようーはれもの)の如し、箭(や)の如しと観じ、第四定に入り、想を厭背(おんはいー忌み嫌うこと)する作意を修し、生起するところの種々の想の中において、厭背して住す。ただ無想のみ寂静微妙なりとおもい、無想の中において心を持して住す。かくの如く漸次に諸の所縁を離れて、心は便ち寂滅すといえり。・・・」(『述記』第七本・六十三右)


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