唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

法執について (3) 二種の法執について

2013-09-12 22:11:23 | 心の構造について

 第五は、「法執の分別と倶生とを伏(ぶく)し断ずる位次を解(げ)す。

 「然も諸の法執に略して二種有り。一には倶生。二には分別なり。」(『論』第二。七左)

 法執について概略を述べてきましたが、その法執に二種あることが述べられます。一つには倶生起の法執、二つには分別起の法執です。
 倶生起・分別起については、前回まで、我執について考究してまいりました。説明文は倶生・分別起の我執の科段と同じです。我執が法執に変えられたものですが、その意とするところは、見道所断の煩悩と修道所断の煩悩の底深くに横たわっている法執の問題との違いがあります。ここに微妙に相違があるのです。

 『述記』には、「護法の云く、法執は寛なるが故に。人執と倶時に必ず法執有り、法執有る時、人執無きことあるべし。前の人執と性を同じうして起こらず。体寛広なるが故に。唯だ法執の種子より生ずること有るが故に。唯だ人執の種より起こること有ること無し。又倶に変似する所の我・法も亦爾なり、故に妨害無し。・・・」(『述記』第二末・四十五右)

 背景には、有部の教学があります。有部の主張は、三世実有法体恒有という説です。諸法は実有であると主張していますから、法執は問題にはなりません。我執のみが問題なのですね、有部に於いても、有我だとはいいません、無我であると認めています。ですから、我が有るとする執着を問題にしています。分別起にあたる見惑・倶生起にあたる修惑ですが、我執は見道以前の有漏道でも断じられるといわれています。しかし法執は無漏智のみが断ずるとされています。

執というのは唯だ見のみをいうのではなく、我見相応の心・心所法を皆な執と名づけるのである。

 「倶生」と「分別」の法執があると答えています。身と倶起するのを倶生と名づけ、後に横計(おうけ・間違って考えること。遍計所執)して生ずるのを分別起と名づけるのである。

 先ず倶生起の法執です。菩薩十地の最後身において断ぜられるとされています。

 倶生起の法執とは、無始以来虚妄分別に熏習された(現行熏習子)内因の種子の力によって、生まれながらにして恒に六・七識の上に存在する。生まれながらにして、ということですから倶生起の法執は、生命と倶に(恒に身と倶)生起するということですね。法は無いにも拘らず、法は有るとして恒に(一瞬も休むことなく)執着しつづけ、その執着が自己の内、即ち第八阿頼耶識に熏習され、熏習された習気を種子として蓄積され、等流されて、瞬時瞬時法執が現行しつづけるのです。現行しつづけるというのは、任運(意図することなく。意思を働かせることなく)に転起する(種子生現行)、その転起は、邪教・邪分別(自らの考え方)に依らないといわれています。後天的なものではない、ということです。

 「倶生の法執は、無始の時より来た、虚妄に熏習せし内因力の故に、恒に身と倶なり。邪教と及び邪との分別を待たず、任運に転ず。故に倶生と名づく。」(『論』第二・七右)

 つぎに、倶生起の法執に二種有りと述べています。それは恒相続と、そうでないもの(有間断)がある、ということです。

「論。倶生法執至恒與身倶 述曰。下隨別釋。此中顯彼倶生法執。由自種子内因力生。釋其倶義 論。不待邪教至故名倶生 述曰。顯非外縁方始得起。釋其生義。」(『述記』第二末・四十六右。大正293a)

 (「述して曰く。下は随って別釈す。此れが中には彼の倶生の法執は自の種子の内因の力に由って生ずと云うことを顕し、其の倶の義を釈するなり。(倶生起は)外縁を以て方に始て起こることを得るに非ざることを顕す。其の生の義を釈するなり。」)

 「此れに復二種有り。一には常に相続するぞ。第七識に在るぞ。第八識を縁じて自心の相を起こし、執して実法と為す。」

 「此れは、相続は唯だ第七識のみなることを顕す。」(『述記』)

 「常に相続する」ということは、恒起の義である。「第七識に在るぞ」とは執の所依を顕しているのです。「第八を縁じて」とは、所縁の境を顕している。執着の所依は、第七末那識であり、第八阿頼耶識を所縁の境として恒に生起しているわけです。「自心の相を起こし、執して実法と為す」、第七識と第八識の関係は、第五頌に「依彼転縁彼」(彼(第七識)に依って転じて彼(第七識)を縁ず)といわれているように、第七末那識は、第八阿頼耶識の見分を縁じて「第七識自らの所変の相」を変現しているのです。この相が「自心の相を起こし」ということです。そしてこれを誤って、実の法であると執着を起こすのです。これが法執の根本になる、と教えています。無漏智を得ないときは、第七識の中の法執が恒に起こるところから、常相続という、と。生きているということは、縁と共に生きてあるということですから、縁と恒に一体となっている。無間断である。無間断ということから、第六意識と区別されるのです。第六意識の中の法執のようなものではない、と。

 次に有間断の法執について説かれます。   (つづく)

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿