第三十九頌 (第十八三断門)
「十五唯修断 後三界通三 不染非六生 色定非見断」
(十五は唯だ修断なり、後の三界は三に通ず、不染と非六生と、色とは定んで見断に非ず。)
どれだけがただ修所断か、どれだけが見所断・修所断・非所断に通じ、どれだけがけっして見所断でないのかが考察される一段です。
- 一に見所断(見道所断のもの)
- 二に修所断(修道所断のもの)
- 三に非所断(見道所断のものでもなく、修道所断のものでもないもの)
十八界を三断門に配当すれば、この三に分類されると考察しています。
前十五界は有漏だから非所断ではなく、又見道所断でもない。前十五界は修所断である。修道によって断ぜられるものである。
後三界は三に通じる。
不染は染汚(不善・有覆無記)でないもの、即ち、善と無覆無記と、非六生、非六生は前五識のこと。詳しくは、六の生とは、第六意処より生じたものを指し、非ですから、六の生に非ざるものという意味で、五根より生じたもの、即ち前五識を指します。これらは、無覆無記であり、第六意根から生ずるものではなく、又悪趣を招く身語業は色法であり、これらの三種は四諦の理に迷って親しく起こしたものではないから、決して見所断ではない。
『倶舎論』における百八煩悩説。(唯識の説は、百二十八の煩悩を数えます。)
見道所断の惑(見惑)に十の根本煩悩があるとされます。これは三界に通じて四聖諦が教えられています。四諦の理に迷っているのですが、なぜ迷っているのかと云えば、十の根本煩悩が働いているからだといわれています。これは三界において若干の相違はありますが、おおよそ苦諦においては、欲界には十の根本煩悩が働き、色界・無色界においては瞋恚は働かないと云われています。これが三界・四諦において八十八の見惑を数えます。これは分別起の煩悩です。
次に見惑は見道において断ぜられるわけですが、倶生起の煩悩である、四煩悩(貪・瞋・癡・慢)が働いている。欲界ではすべてが働き、色界及び無色界では瞋は働かないとされ、十の修惑を数えています。これらは修道において断ぜられるとされます。それと十纏を加えて百八の煩悩、除夜の鐘は百八の煩悩を断ずるという意味で、大晦日の夜空に百八の鐘が鳴り響きます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます