昨日は、有部の教説である阿毘達磨(アビダツマ)について触れていました。六足・発智ですが、これは『阿含経』に基づいて作られた阿毘達磨(論)なのです。六足論というものがあるわけではありませんで、六つの足論(各論)から成り立っているという意味です。
阿毘達磨集異門足論 二十巻
阿毘達磨法蘊脚論 十二巻
阿毘達磨施設足論 欠訳
阿毘達磨識身足論 十六巻
阿毘達磨界身足論 三巻
阿毘達磨品類足論 十八巻
それに対して身論(しんろん)と云われているのが、『阿毘達磨発智論』二十巻になります。この論書は、六足論を一つにまとめ組織されたものです。そしてこの『発智論』を解釈したものが、『阿毘達磨大毘婆沙論』二百巻になり、この論書から世親の『阿毘達磨倶舎論』が生れました。ですから『倶舎論』を学ぶためには、どうしてもさけて通ることが出来ないのが『大毘婆沙論』なのです。『倶舎論』は理長為宗(理の長ずるを宗と為す)いいまして、有部の教説には違いないのですが、世親は、そこに経量部の優れたところを取り入れて、有部の教説を少なからず批判しつつ独自の所論を展開しています。これが基になり、大乗に転向した世親菩薩は多くの論書を作りましたが、この『唯識三十頌』もその中の一つになります。
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第二門 遮遍行門 を述べる。
その(1) 主張を挙げる
「唯触等の五のみを経には遍行と説けり、十と説けるは経には非ず、固く執ず応からず」(『論』第五・三十一左)
ただ触等の五のみを経典には遍行と説いている。大地法に説かれている遍行の十は、有部の教学であって、経典に説かれているのではない。従って、これに固執するべきではない、と。
「大段第二遮是遍行 論。唯觸等五至不應固執 述曰。唯五是遍行。如前引經。説十非經。不應固執。須依本經。非末論故 既別説已。次總結之。」(『述記』第六本上・十七左)
(「大段第二に是れ遍行を遮す。「述して曰く。唯だ五のみ是れ遍行なり。前に引く経の如し。十と説けるは経に非ず。固く執すべし。本経に依るべし、末論には非ざるが故に。既に別して説き已んぬ
次には総じて之を結す」)
「経では遍行というものは五である。遍行が十であるというのは、説一切有部の対法であって経ではない。対法といっても特定の部派の対法であって、固執することはできぬ。だからもっと根底に帰って考えて見ようというのである。それが経の精神に近づくものであるという。一切の心・心所を成り立たせる地盤は五つに限るので、欲・勝解・念・定・慧は遍行に対しては特殊的なものである。遍行から独立せしめるところに主眼点がある。どこまでも特徴をもった作用として区別してあるが、そうかといって善や煩悩の心所になるには価値的な性格を帯びていないから、それらよりは基礎的な層をなすものである。そこで遍行から区別して別境であることを明らかにする」(『唯識三十頌聴記』 選集巻三P317)と、安田理深師は述べられています。
部派の『対法論』は仏説ではなく、論書であるから「十」と説かれていても証拠にはならないという、しかし経典には、「触等の五」を遍行として説いているので、別境の五は、遍行ではないという証拠になると説明しています。
その(2) まとめ
「然も欲等の五は、触等に非ざるが故に、定んで遍行に非ざるべし、信貪等の如し」(『論』)
しかも、欲等の五は触等ではないので、必ず遍行ではない。それは信貪等のようなものである。
「論。然欲等五至如信貪等 述曰。此中比量。欲等五法。定非遍行。非觸等五故。如信・貪等。」(『述記』第六本上・十八右)
(「述して曰く。この中に比量あり。欲等の五法は定めて遍行に非ざるべし(宗)。触等の五にあらざるが故に(因)。信貪等の如し(喩)」(『述記』)
ここは、因明立量の、三支作法に則って説かれています。
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