唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(36) 別境 ・慧について

2013-04-01 06:58:18 | 心の構造について

 

    萬ちゃんの、どや顔です。Image_1364730611977499

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 「大段第三明欲等五独或並生」(大段第三に欲等の五が独りと或は並びて生ずることを明かす。)

 諸門分別・第三門は独並門(別境の五の心所が、単独で生ずる、或は並び立って生ずるということを説明する科段である。)を説明する。

初めは、安慧の説。この五つの心所は決定して相資(あいたす)くのである(必ず互いに相い助ける)。一時に並生するという説である。

 「有義は、此の五は定んで互に相資く、随って一が起こる時には、必ず余の四有りという」(『論』第五・三十一左)

 「この師の意の説く、此の欲等の五は、もし一が起こる時には、必ず四ありという。相資くるとき、まさに作用して転ず。五は必ず倶生す。もし一が起らざるときには、余の四みな起こらず。これは安慧の説なり」(『述記』)と説明されています。

 「論。有義此五至必有餘四 述曰。此師意説。此欲等五。若一起時必有餘四。相資之時方作用轉。五必倶生。若一不起時。餘四皆不起。此安惠義。西方共責。論説四境能生欲等。如何此五定可倶生。又若有境非曾所受。但聞此勝名即生希欲。如何有念。不專注故如何有定。不印是非亦無勝解。故必不倶。彼言四境能生欲等。約欲等五行相増説。謂欲但於所樂境増。故偏説之。非實於中無細餘四。故必相資。」(『述記』第六本上・十八右。大正43・431b)

 (「述して曰く。此の師の意の説く、此の欲等の五は、若し一が起こる時には、必ず四あり。相資くる時に、方に作用して転ず。五は必ず倶生す。若し一が起らざるときには、余の四みな起こらず。これは安慧の義なり。
 西方に共に責むらく、論に四境能く欲等を生ずと。如何ぞ此の五定んで倶生すべきや、又若し有る境は曾って受けし所に非ず、但だ此の勝れたる名を聞いて即ち希欲を生ず。
 如何ぞ念有るや。專注せざるが故に。
 如何ぞ定有るや。是非を印(可)せず、亦勝解無き故に、必ず倶ならず。
 彼は言く、四境能く欲等を生ずと云う。欲等の五の行相が増せるに約して説けり。謂く欲は但だ可(
私に云く、可は古本に所に作く)楽の境に於て増す故に偏に之を説く。実に中に於て細の余の四無きに非ず。故に必ず相資くと云う。」)

 次に護法の説(正義)が述べられます。互いに相い助けることも有りうるという。単独で有る場合・五が並び立ち起こる場合もあるという。これが二つの部分に分かれる。初めに他の説を論破し、つぎに護法の説(正義)が述べられます。

 護法正義を述べる 

  初めに、四一切の具欠から論破(別境の心所は、単独で起こるか、五が並び立つのかは不定であるという。)

 「有義は不定なり。瑜伽に、此処には四の一切の中に後の二無しと説けるが故に」(『論』第五・三十二右)

 四一切は前にも述べましたが、『瑜伽論』巻三に説かれている、一切性・一切地・一切時・一切倶の一切を指します。

  • 一切処の心 - 三性の心に遍在する三性の心王すべてに生起すること。
  • 一切地 - 三界九地を有尋有伺地(欲界と色界の初禅)・無尋有伺地(色界初禅の大梵天)・無尋無伺地(色界第二禅乃至無色界)の三地に分類して、一切三地すべてに有ることをいう。
  • 一切時 - 他の一切の心有る時には皆起こることをいう。(1)一切の有心の時 (2)無始より間断しないこと (3)一切の境を認識する時 に必ず起こること。
  • 一切倶 - 「遍行の五の心所は定んで頭を並べて倶生し一をも欠かざるなり」同時に起することをいう。

 尚・一切処の処は三性のことです。

 遍行は四つの一切を備え、別境は、一切処と、一切地を備え、善は一切地を備え、不定は一切処を備える。煩悩(随煩悩を含む)には四つの一切はないとされます。

 「五が中に、遍行には四の一切を具す。別境には唯、初めのニの一切のみ有り」(『論』)と説かれていました。

 護法は別境の五の心所は単独で生起するのか、五が並び起こるのかは定まっていない、という。その理由は『瑜伽論』巻三に別境には一切性・一切地は備えるが、後の二である一切時・一切倶を備えないと、説かれていることを教証として説明しています。。

 遍行は四の一切を備えているわけですから、四の一切を備えていない別境の心所は単独か並生かは不定であるというのです。

 「論。有義不定至無後二故 述曰。起欲等五或倶不倶。所以知者。瑜伽第三説四一切。説此五種無後二故。第三是時。第四是倶。未必倶故。若言欲等行相不倶増故彼不説倶。五體既倶有。彼處應説。」(『述記』第六本上・十八左。大正43・431b)

 (「述して曰く。欲等の五を起こすこと、或は倶なり、不倶なり。知る所以は、瑜伽の第三に四一切を説き、此の五種に後の二無しと説くが故に。第三是れ時、第四は是れ倶なり。未だ必ずしも倶ならざるが故に。若し欲等の行相が倶に増するに非ざるが故に。彼に倶なりと説かずと言はば、五の体既に倶に有るを以て彼の処に説くべし。」)

          - 四境によって論破 -

 「また此の五は、四の境を縁じて生ずと説けり。所縁と能縁といい定んで倶にして非ざるが故に」(『論』第五・三十二右)

 四境とは、所愛(所楽)・決定・串習(曾習)・観察(所観)の境を指します。

 「不遍行の五種の心所は何れの各別なる境事に於て生ずるや、答ふ、其の次第の如く所愛、決定、串習、観察の四の境事に於て生ず、・・・」(『瑜伽論』巻五十五)

 また別境の五は四つの対象を縁じて生じる、と『瑜伽論』巻五十五に説かれている。所縁の四境と能縁の欲等とは、必ずしも倶に存在するとは限らないからである。

 「論。又説此五至非定倶故 述曰。五十五説此欲等五縁四境生。所樂・決定・曾習・所觀。所縁四境能縁欲等。非是倶故。論説此五依四境生。若境不必倶。欲等未必並。所縁・能縁各各非定倶故。非必相資 此義如何等。」(『述記』第六本上・十八左。大正43・431b)

 (「述して曰く。五十五に説けり。此の欲等の五は四の境を縁じて生ず。所楽と決定と曾習と所観なりと。所縁の四の境と能縁の欲等とは、是れ倶に非ざるが故に。論に此の五は四の境に依って生ずと説けり。若し境が必ずしも倶ならざれば、欲等も未だ必ずしも並ぶにあらず。所縁も能縁も各々定めて倶ならざる故に、必ずしも相資くるにあらず。此の義何等の如きぞ」)

 不遍行の五種である、別境の欲・勝解・念・定・慧はそれぞれ別々の境に対して生じるということです。所謂、欲は所楽の境に・勝解は決定の境に・念は曾習(串習)の境に・定と慧は所観(観察)の境をそれぞれ認識対象とする、ということです。従って安慧のいうように互いに助け合い、並生するとは限らないのである。次科段に詳細が述べられます。


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