ゲゲゲの女房(映画)
貧乏の苦労話を見聞きしていても楽しく感じられるのは、その人が後には成功したり、幸福になったりする場合(典型的なのが古今亭志ん生の「びんぼう自慢」。貧乏が自慢できるのも後に名人と呼ばれるほどになったからこそ)であって、最後まで貧乏で不幸なままでは、あまりカタルシスがないし、だいいち暗い話にしかならない。まあ、そういう話を意識して創作する向きもあり、長年愛されていいることも確かにあるのだけれど(例:フランダースの犬)。
「ゲゲゲの女房」も、主人公の水木さん夫妻が、後には大成功すると知っているので、安心して楽しく見られる。
ただし、TV版では、夫妻役とも美男美女で、貧乏しているといってもあくまで明るいムード(朝から暗い話もできまいが)なのだけれど、映画版は、湿っぽく、暗い。奥さん役の吹石さんは(美人なんだけど)最初から最後まで理不尽な貧乏に不満顔であるし、宮藤さんは昔の(やせていた)水木さんそっくりで、食事のシーンで放屁したりする。
劇中で貸し本屋のオヤジが、水木さんのマンガ(後には秀作と言われたものだろうけど)を「暗いんだよね」と非難する場面があるが、「明るいだけが取り柄じゃなかろう」という脚本の主張なのだろうか。
昭和30年代の話なのに、背景には現代の建物が写り(狙いはよくわからなかった)、時々画面のはしっこに妖怪が立っている。
TV版の貧乏はエンタメ風だったけど、映画版では知り合いの漫画家が餓死したりして切迫感がある。
何より水木家の2階に間借りしている貧乏神(カネナシさん)がどんよりしたムードに追い討ちをかけている(終盤で出てくる貧乏神と水木さんの会話シーンは鬼気迫るものがあった。
大向こう受けはとてもしそうにない(TV版のファンだった人は映画版を見てとてもがっかりしちゃいそう)作品だけど、私はとても好きだ。それは、今ではあまり見られないような、食い物もふくめて「何一つない貧乏」(何でも質屋に持っていってしまうので家の中には時計すらない)を見せられてノスタルジーを感じるからだと思う。
今時の、TVなどで見る貧乏は、モノがそこかしこにあふれていて、登場する人は肥満体だったりするので、私のような古い人間からみると「何か違う」と思えてしまう。
それでも、最後には、貧乏神は水木家を去り、家にいくつかのモノが質屋から戻って、後の大成功を予感させる場面がラストシーンになっているので、ほっと安心して映画を見終わることができるのだった。