あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平 ・ 十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」

2018年02月09日 18時42分44秒 | 十月事件

私が桜会の会合に出席するようになって、
すっかりうちとけてきた後藤少尉が、
学校の帰り途、肩をならべてあるきながら、
「このクーデターが成功したら、
二階級昇進させると参謀本部の人たちがいっています。」
と いった。
私にも行賞の及ぶことを伝えたい好意からにちがいなかったが、
これは聞き捨てならないことだった。
しかし私は聞き捨てにしようかすまいか 一瞬ためらった。
が 思いきっていってみた。
「ちょっと待った。 それはおれの考えとはちがう。
おれは革新イコール死だとおもっている。
たとえ斬り込みの際死なずとも、
君側の奸臣とはいえ、陛下の重臣を斃した以上は、
お許しのないかぎり自決を覚悟していなければならない。
失敗もとより死、成功もまた死だと思っている。
生きて二階級昇進などして功臣となろうとはおもっていない。
連夜紅燈の下、女を侍らして杯を傾けて語る革新と、
兵隊と一緒に、汗と埃にまみれて考える革新とのちがいだよ。」
後藤少尉はしばらく考えていたが、
「そういわれてみればその通りです。
われわれも根本から考え直さねばならぬようです。」
と 素直に私の意見にしたがった。
二階級昇進のはなしをきくにつけても、
桜会急進派の革新に対し、益々異質なものが感じられた。
しかし、これと別個に革新を実行するとは、一体どういうことになるのか
・・・・という点に想到すると、急には明快な決断はつかなかった。
しかも実働部隊は部隊将校であり、
戸山学校、砲工学校、歩兵学校等の青年将校であり、混交してしまっている。
こういった空気のなかで、
野田中尉、菅波中尉と私が橋本中佐、西田税提携の仲介をした。
一緒にやってみたらどうか、ということになったのである。
これで改めて「郷詩会」グループの陸海青年将校、民間人が、
橋本中佐を中心とするクーデター計画に合流することになり規模は全国的なものに拡大した。
しかし時日が経過するうち、やはりしっくりいかないところがあった。
ある料亭で、長(勇)少佐と菅波中尉が連判状をめぐって争ったということもその一例だった。
私はこの会合には わざと出席しなかった。
料亭での参謀本部幕僚と青年将校の会合は、前から多かったが、
私は一度も出席しなかった。
特にこの連判状の会合には意識して出席しなかった。
その戸山学校の青年将校で、なぜ出席しなかったか、となじるものがあった。
私は、連判状がいるような同志では本当の同志とはいえまい、
またお家騒動の破局は連判状と相場が決まっているではないか、
といってとりあわなかった。
部隊将校は
斬奸目標と、それに必要な兵力の検討が行われ、
偵察もしているということだった。
私たち 戸山学校や砲江学校の学生は別働隊で、
適宜斬奸目標が示されるということだった。
私たちは折角剣術を習っているのだから、飛道具は一切使わず、
日本刀一筋でいこうということをきめ、誰いうことなく抜刀隊が通称になった。
自然餓鬼大将の私が抜刀隊長ということになったが、
学校の剣術教官柴有時大尉が、抜刀隊長を希望しているときいて、
それを柴大尉にゆずった。

梅林での会合は、
橋本中佐ら参謀本部側将校と在京部隊将校、戸山学校、砲工学校、
歩兵学校等諸学校将校との、いわば顔見せの会合だった。
どうせ地獄で落合うだろうが、この世で一度ぐらい会っておかないと、
その時お互い初対面で具合が悪かろうというので、決行を間近にひかえたことでもあるし、
一度一つ座敷に寄合って、一夜の歓を尽くそうというわけだった。
私は定刻少し前に梅林にいった。
東京各部隊の将校が大勢、控えの小部屋小部屋に別れて広間の宴会が始まるのを待っていた。
知らぬ顔が多かった。
定刻をすぎても橋本中佐らは現われなかった。
ほかにも一つ会合があって、それが済んでからこちらにまわるということだった。
それを告げに私たちの小部屋にはいってきた参謀本部の通訳将校、
天野(勇)中尉が、このとき私にとっては奇怪なことをもらした。
「これはまだいわないほうがいいかも知れないが、
橋本中佐はクーデターが成功したら、
天保銭を廃止して、諸君に鉄血章をやるといっている。」
前には二階級昇進のことを後藤少尉の口を通じてきいた。
信頼する野田中尉も、このとき同じ小部屋にいた。
私は野田中尉が何か抗議でもするかと、その顔をみた。
が 野田中尉は別に何もいわなかった。
私は 菅波中尉の現れるのを待った。
菅波中尉はこの夜、まだ来ていなかった。
ぶっつける言葉は準備していた。
随分遅れて橋本中佐らがやってきた。
ようやく広間で宴会が始まろうとして、芸者や女中の動きが活発になった。
控えの小部屋小部屋から将校が広間のほうに移動しはじめた。
私は広間に行く気がせず、小部屋に残って菅波中尉を待っていた。
  菅波三郎中尉
やっと菅波中尉が現れた。
私はいきなり菅波中尉に欝憤をぶちまけた。
「あんたは在京部隊の将校を利で誘いましたね。
道理で沢山集まっていますよ。
大岸中尉は同志十人あれば天下の事は成る、といったが、
十人どころか大変な人数ですよ。
私なんかもう出る幕じゃないから引込みますよ。」
菅波中尉は眼鏡の底で目をきらりと光らせると、
「なんということをいうんだ。どうしたんだ。」
といった。
私はつづけていった。
「クーデターが成功したら鉄血章をくれるそうじゃないですか。
野田中尉がだまって聞いていたところをみると、あんたも知っているんでしょう。」
「なにッ、鉄血章、誰がいった。」
「天野中尉がいいましたよ。」
「よしッ、おれにまかして置け。」
菅波中尉はぐっと口を真一文字にむすんで広間にはいっていった。
私もそのあとにつづいた。

広間の床の間を背にして参謀懸章を吊った軍服姿の橋本中佐らが坐っていた。
部隊将校や諸学校の将校は、申し合わせたように着物に襟をつけていた。
広間はぎっしりつまっていた。
芸者にまじって酒を注いでまわる将校もいた。
遅れて座についた私は注がれるままに、ただ盃を干した。
参謀本部の将校も起って酒を注いで廻った。
「 君かね、抜刀隊長は・・・・・」 と 私に酒を注ぐものもいた。
酒が廻るにつれ、にぎやかになり座は乱れかかった。

その時 片岡少尉が気色ばんで、それでも声は落としていった。
「 ちょっと来てください。 菅波中尉が小原大尉と組み打ちをやっている。」
私が片岡少尉のあとにつづいてはいった部屋は、広間につづく小部屋だった。
組み打ちは終わっていた。
やっと仲裁者によって引き分けられたところだった。
小原大尉も菅波中尉もまだ息をはずませて、にらみ合っていた。
仲裁をしたらしい数人の青年将校が、これもみな顔面を紅潮さして、壁にくっついて坐っていた。
鉄血章が原因で口論になり、その果ての組み打ちだったことはきくまでもなかった。

 
末松太平 著

私の昭和史
十月事件の体験  から 


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