あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

十月事件 ( 錦旗革命 )

2018年12月15日 14時19分04秒 | 十月事件

前頁  三月事件 ( 宇垣の変心 ) の 続き

満洲事變
昭和六年九月十八日、
突如勃發した柳条溝の鐵道爆破は、遂に全満に於ける排日張学良一派の驅
之は國際的に見れば、英佛米現狀維持派のベルサイユ體制の一環が崩れ落ちたことを意味し、
國内的に見れば、英米追随外交政策を採れる國内現狀維持派への一大反撃と見られる。
國際現状維持者 英、仏、米と國内現狀維持者、追随外交、政黨政治との間に結晶した九ケ國條約の廢棄の第一頁である。
同年初頭 ( 一月二十二日 ) の議會に於ける外交方針演説中に、
幣原外務大臣は満洲問題に触れて
「 我々は本より、民國の正當なる立場を無視して、濫りに利己的の要求を爲すが如き意志を有するものでない。
 同時に民國側に於ても亦、我南満洲鐵道の地位を危くせんとする如き計畫があり得べきものと信ぜぬ。
又 斯る企てが容易に實現し得らるゝものではない云々 」
と 述べたが、當時國民政府の躁急なる國權回収運動が捲起した排日機運と、現實の権權益侵害とは、
我國の徹底忍び得ざる程劇しいものであつた。
國民政府を背後にした張学良の鐵道政策は、満鐵の包囲攻撃であつた。
胡蘆島の築造、満鐵と平行する鐵道の敷設は着々進行し
「 満鐵昭和五年度決算は、鐵道石炭其他各事案に亘り、創立以來の大減収を来し、
 前期配當に比し三分減の年八分の配当をなすには、從來毎期實行し来つた特別積立金 ( 一千萬圓以上 )
社員退職給与積立金 ( 二百萬圓以上 ) を全然行はず、更に翌年度繰越金に於て、
二百七十八萬圓を前期より減少した上、辛うじて辻褄を合せたものだ 」
と 昭和六年六月二十一日の東京朝日がその惨状を奉じて居る程である。
外相の演説は、此の満鐵の地位が危うくされた明白なる事實を、國民の前に平然と否認して居るもので、
軍部の反感をいやが上に高らしめた。
當時、我國と満洲との間には不當課税問題、商租權問題、領事館分館設置問題等
三百有余件の懸案が横はつて居り、我抗議は絶えず繰返されたが、
支那側は之に對して解決遷延策をとり、解決の端緒すらも得られない實狀にあつた。
外交時報 ( 第六三八号一七〇頁 ) が指摘する其の原因は次の如くである。
一、日本の支那に對する國家的權威失墜し支那側の輕侮を招ける事。
二、支那國民が幣原外交の無爲軟弱を見縊みくびつて居る事。
三、出先官憲亦事無かれ主義をとつて事件を根本的に解決せざる事。
四、満洲各地に國民党々部外交協会の如き、民衆運動を煽動する機關が設置せられ、
 宣伝に努めて居る結果、民衆の對外的思想一般に惡化した事。
五、一般に智識向上して國權回収熱が高くなつた事。
六、支那官憲は意外にも排外排日行動を取締らぬのみか之を慫慂する傾向にある事。
斯る狀勢に對し軍部は極度に硬化した。
 南次郎
同年 (昭和六年 ) 八月四日、軍司令官及師團長會議に於て、南陸相は鞏硬なる決意を示し、
世上の軍縮論に對する反駁竝満蒙問題に對する政府の無氣力を痛烈に非難し
「 満蒙地方の情勢が、帝國にとつて甚だ好ましからざる傾向をたどり
 むしろ事態の重大化を思はしむ 」 る旨を切言し、軍部の決意の程を窺はせた。
( 昭和六年八月五日東京朝日 )
南陸相の此の訓示は政府部内に衝動を与へ、同月六日閣議散會後、
幣原外相は陸相に對して、
「 陸相の訓示は國務大臣としては穏當ではあるが、之を故意に外部に發表する事は、
 内は國民の疑惑を受け、外は支那より英米其他の列鞏に對し、
二重外交、武力外交の誤解を受ける事は必定である。
目下多難の時に斯の如き發表は、外務當局として決して喜んでいない 」
と暗に忠告を試みた模様である、
之に對し南陸相は斷然外相の意見を斥け
「 満蒙問題に附 正確なる認識を、軍司令官や師團長に訓示するのは當然である。
 目下支那の現状は、再び勢力爭覇戰によつて混沌たる事情にあるのであるから、
陸軍の負担する使命は實に重大である。
斯の如き事態を前にして國務大臣が満蒙問題に言及するのは理の當然であつて、
その一部を發表する弊害なし 」
と言ひ放ち、外務、陸軍當局の意見はまさに反對の立場に立つたものの如くである。
( 昭和六年八月七日東京朝日 )
斯る軍部内部の革新風潮が目論む急速的積極的解決方針は、
外務當局と對立しつゝ益々壓力を加へて進んだ。
櫻會の急進派が、満蒙問題を解決せよと全國の軍隊に檄を廻したと云はれるもこの當時の事である。
而して斯る機運が柳条溝の爆破によつて口火を切られて満洲事變の蹶起をみたのである。
此事變に附、注意すべきは同事変は軍内革新氣運の爆發であつて、
革新思想に依つて指導せられ、満洲國の成立を見るに至つた事である。
東京日日新聞の記事によれば、同年十二月二十六日荒木陸相は政友會顧問山本条太郎に
「 軍部側の今日迄研究せる新満蒙對策 」 を次の如く説明している。
一、新満蒙は支那本部と何等政治的關係を有せざる特殊地域となすこと。
二、資本家にその利益を壟斷せらるる如き事を絶對避け、或種の事業は國家の直接經營とすること。
三、満蒙における収益は、新満蒙の完全なる建設と徹底的開發とに充當すること。
四、満蒙居住者をして可及的諸般の衝に當らしむること。
等を根本方針とする。
この第二項に於て、満洲事變が革新的思想を有していることを明瞭に観察する事が出來、
かかる革新的政策が、苟くも陸軍大臣から軍部の總意として表現された事に附て、
更に重大なる意義を發見するのである。

十月事件
満洲事變勃發直後、
參謀本部一部中堅將校と大川周明が首謀者となつて、
國内改造を圖る爲にクーデターを計畫したと傳へられ、
世に之を十月事件又は錦旗革命と呼んでいる。
 大川周明
(一)  概要
大川周明自身の述べたる所によれば其概要は次の如くである。
「 三月事件に於て宇垣陸相初め軍人は、非常な覺悟を持つて一九三六年迄に満洲問題を解決し、
 日本を建て直し、長期戰爭に耐へ得る様にする必要より クーデターを目論み、
諸種の事情から中止したのであるが、大川等は老人を加へては駄目だから、
自分等に於て解決しようと云ふ事になり、參謀本部に於ては
支那課長  重藤大佐    露班長  橋本 ( 欣 ) 中佐    関東軍  板垣 ( 征 ) 少将    同  土肥原大佐
等と大川等とが集まり、満洲の形勢は日本の軟弱外交で如何なる事になるか判らぬから、
外交自體に任かせて置く事は出來ぬ。
帝國の面目を潰す様な事があれば、武力を以て之を引摺らうといふ考へを決め、
そこで九月十八日に満洲事變が起きたのであるが、既に板垣、橋本、重藤等が覺悟を定めて、
夫々準備をして居つたので思ふ通りに満洲問題は解決した。
本庄司令官は部下の遣り方が餘りに鮮かなので驚いて居た。
満洲問題の解決端緒が出来たので、第二彈として之に對する準備と満洲經營の具體案を、
大川と參謀本部の者とで作り、之に基いて事變後割合に順調に進展した。
そこで今度は、政黨政治は内地の政治だけでもこなし切れないのであるから、
之に満洲迄も託す事は出來ない。將來何うなるか判らぬ。
それが爲に國内問題も至急解決しなければならぬと云ふ所から、
玆にクーデター計畫が行われる様になつたのである。
然し今度は、軍部の上層の人々には判らぬ顔をしてやるために、
軍部の一番頭の人が中佐であつた。
これを中心として、大川等五名が集り實際の計畫を樹て、
其攻撃目標と担當者と其率ゆる兵力とろを決定し、
中心となつた五名以外の者には全然判らぬ様に計畫した。
それは二十數箇所を攻撃し、一擧に政權を倒して仕舞ふ段取であつたが、
此計畫は十月十八日に暴露し、是も亦挫折した。
この計畫に於ては參謀本部の陸地測量部に改造本部を置き、
錦旗革命本部と書いた大きな旗を立てる事になつて居た。
大川の手許には八十名の兵隊が配置せられ、
大川は都下の大新聞社を占領することになつて居た。」
( 五 ・一五事件記録に拠る )
(二)  計畫
田中清少佐執筆と傳へられる手記には次の如く記載されて居る。
『 橋本中佐は八月四日 ( 昭和六年 ) 我に言ふ
  
「 本年九月中旬関東軍に於て一の陰謀を行ひ満蒙問題解決の機會を作るべく國内は
之を
契機として根本的變革を敢行せらるべきなり云々と
而かも國内改造問題は參謀本部首脳部には十分諒解あり 」 と
更に同中佐は云ふ
「 此の如きを以て軍部に政權の來るべき更言すれば軍部が中心となり政權奪取の爲
計畫案を九月初旬迄に構成せられたし 」 と。
九月十八日満蒙問題突發
十月三日夜 ( 土曜日 ) 橋本中佐より速達あり、文に云ふ
「 明四日打合せ有之候間森ケ崎の萬金にお出で被下待入申候匇々 」
( 原文の儘  消印は京橋新富町 )
十月四日所示の地点に至る。
萬金に到り、橋本中佐を訪れたる旨主人に傳えたるに、吾が身分氏名等を問ひ、
之を階上に傳へ 始めて吾を案内せり。
在室する者は、最近支那駐在武官として赴任せる長少佐、
參謀本部露班の田中弥大尉、小原大尉の三名なり。
彼等は云ふ
「 今や國内變革決行せらる。
 陸軍省 參謀本部を初め、近衛師團等凡て國内變革に向つて準備中、
先づクーデターにより政權を軍部に奪取して獨裁制を布き先づ政治變革を行ふ 」 と。
十月十二日、我は街頭に於て田中弥大尉に會す。
彼は 「 首相官邸に對する現地偵察中なり小原大尉又然り 」 と、
同日 午後六時大森の末浅に至る。
會する者 橋本中佐、長少佐、馬奈木大尉外に二名と我なり。
此の夜 田中大尉はクーデター 実施の際に於ける詳細なる計畫を極秘として示したり。
其の内容は左の如し。
但し吾等に對しては秘匿しあるもの少なからず。

決行の時機   十月二十一日 ( 註、他の資料に依れば十月二十四日が眞の決行期の様である。後に記す  )
參加將校   加盟せる將校在京者のみにて約百二十名
參加兵力   近衛各歩兵聯隊より 歩兵十中隊、一機關銃中隊、歩三より約一中隊、
但し夜間決行の場合には歩三は殆ど全員。
外部よりの參加者
大川博士及び其門下

西田税、北一輝の一派
海軍將校の抜刀隊  横須賀より約十名
霞ヶ浦の海軍爆撃機  十三機
下志津より飛行機  三---四機
實施
1  首相官邸の閣議の席を急襲し、首相以下の斬撃===長少佐を指揮官とす。
2  警視廳の急襲占領===小原大尉を指揮官とす。
3、陸軍省、參謀本部の包囲、一切外部との連絡遮斷竝上司に鞏要して同意せしめ
 肯ぜざる者は捕縛す。軍行動に對する命令を下す。
4、同時に宮中には東郷元帥參内。
 新興勢力 ( 彼等は自らを新興勢力と稱せり ) に大命降下を奏上す。
閑院宮殿下、西園寺公には急使を派す。
新内閣の氏名
首相兼陸相  荒木中將
内務大臣  橋本欣吾郎中佐
外務大臣  建川美次
大蔵大臣  大川周明博士
警視総監  長少佐
海軍大臣  小林少將 ( 霞ヶ浦海軍航空隊指令官 小林省三郎 )
其他彼等の見て不良將校、不良人物に對する制裁
資金金二十萬圓は随時使用し得る様準備しあり

リンク  ↓
・ 粛軍に関する意見書 (10) 所謂十月事件に関する手記 1
・ 粛軍に関する意見書 (11) 所謂十月事件に関する手記 2
・ 
粛軍に関する意見書 (12) 所謂十月事件に関する手記 3

當時、大川周明と橋本中佐一派との間にあつて
聯絡通報者として働いて居た大川側近の中島信一の供述する所は、
其の大要右の手記に符號して居るが、
決行の期日に附ては最初十月二十日の豫定であつたが、
十月十六日朝 橋本中佐より千葉歩兵學校生徒が二十日に演習に行く事になつた爲、
二十四日に變更されたから豊橋歩兵第十八聯隊長佐々木大佐に傳令せよと云はれ
佐々木大佐に其の旨を傳令した事があつて、
十月事件の眞の決行日は十月二十四日であつたとして居る。
又 革新内閣の顔触に附ては全く別個のものを想定して居る。
中島信一は大川の下にあつて
狩野 敏    片岡気介    平田九郎    雪竹 榮
等と共に軍より附けられ兵士の長となり、
東京日日、東京朝日、時事、報知、讀賣、國民、中央放送局を占領する事となり、
中島は東京日日の分担を引受け、十月十五日頃同社に見學と稱して偵察のため行つたと言つている。
又其の計畫は
十月二十四日午前一事に開始せられ、參加すべき各聯隊の兵は、
夜間演習の名目を以て出動し、同志の將校の指揮の下に豫定の部署に着き
各政党の首領其他首脳部
財界の巨頭
首相以下閣僚
君側の奸臣、特權階級
を襲撃し、之を逮捕、監禁し通信機關である中央電話局、中央電信局、中央郵便局
を軍の手に於て占據し
民間側に於て宣傳機關の襲撃、統制、管理を計る爲 各新聞社、放送局を占據し
之等の行動は午前三時頃迄に、約二時間で終り、
直ちに東郷元帥に出動を乞ひ、同元帥は直ちに參内し、
一切の事情を闕下に奏上し 戒嚴令の施行を奏請し奉り、
大命により新國家の組織、内閣の顔触を決定し、其の結果を直ちに全國民に報道し、
國民は一夜の中に天下の一變した事を知ると言ふ筋書であつたと言つて居る。

以上の如く十月事件の計畫は三月事件と同様のものであつたとされているが、
之等に於て注意すべきは三月事件の計畫に於ては、
第一段に於て民間側が左右両翼分子のデモンストレーションを敢行せしめ、
警視廳の力によつては収拾不能の狀況を作爲し、
第二段に於て軍隊がその鎮撫の名目を以て出動し、各機關を占領し、改造を實行する順序であつたのに對し、
十月事件に於ては第一段を行はず、直ちに軍の出動を開始するのであつて、三月事件のそれと相異して居る。
之は三月事件當時に於ては一般の輿論が必ずしも軍部支持でなかつたが、
十月事件の計畫當時に於ては、満洲事變の勃發により、輿論は軍部支持に傾き、
革新的気分が漸く各方面に反映して來て居つたので、かかる情勢の相異が、自ら影響したものと見られる。
又十月事件は、満洲事變に躍動した軍内革新氣運が、國内的に發したもので、
櫻會の急進分子と関東軍内に強い力を有つて居る革新分子とが中心となつて、
全國の革新的將校に呼び掛けたものと見られる。
(三)  挫折
此の計畫は決行直前十月十七日朝、憲兵隊によりその首謀者が檢擧せられ失敗した。
橋本欣五郎中佐    長 勇少佐    田中 弥大尉    小原重厚大尉    馬奈木大尉
の五名は築地の待合金竜亭より同行せられ、東京憲兵隊長、難波大佐の官舎に
知知鷹二少佐は四谷の自宅から澁谷憲兵分隊長官舎に
根本博中佐    天野勇中尉 等は四谷の某所から
藤塚少佐    野田中尉    田中信男少佐 他二名  も夫々同行せられ、
他の憲兵分隊長の官舎に夫々収容せられ、
其の翌日 横浜、市川、宇都宮、沼津 各憲兵分隊長に預けられた。
( 中島信一供述 )
(四)  影響
1  十月事件は、以上の如く大規模のものであつただけ軍内の革新氣運を刺戟し、
 熾烈しれつならしめた事大なるものがあつた。
又一般民間側の革新分子に与へた影響も大なるものがあつた。
軍部内に於て、斯る徹底した改造計畫を有する一大革新勢力のある事を確知した民間改造運動者は、
好機到來せりとして夫々準備を整へ、堅い決意をなして軍部側の決行に應じて蹶起しようとした。
井上日召の一派、橘孝三郎の一派は、
十月事件によつて夫々同志を待機の状態に置き、只軍部側の決行の日を待つて居つた。
十月事件の挫折は彼らの決意を飜へすには役立たず、
却つて彼等が軍部に先んじ捨石となつて、軍部の革新的大勢力を決行に引摺らうと考へるに至らしめ、
血盟団、五 ・一五事件の原因となつた。
2  十月事件は大川周明対北一輝、西田税一派との間を
 全く犬猿も啻ただならざる不倶戴天の間柄となした。
十月事件は、大川周明と從來から親密であつた橋本欣五郎等參謀本部の幕僚將校と、
大川周明とが中心人物となつて居つた。
然るに一方、北、西田一派は 從來から大川一派と對抗し、
陸軍、海軍、民間側に相當の同志を有し、大川に拮抗して改造運動を進めて居つた。
兩派の同志の階級層を見るに、大川が古くから參謀本部に出入し、
後に関東軍と特殊關係を有する満鐵に入り、參謀本部及関東軍の幕僚將校、
佐官級以上の將校に多く同志を有して居たのに反し、
北、西田一派は西田の關係により隊付尉官級の靑年將校に多くの同志を有して居つた。
斯る關係にあつたので、此の十月事件が成功し、其の計畫により改造が行はれるならば、
最も得意であるのは大川であり、北、西田にとつては不愉快な失意なものとならなければならない。
十月事件の計畫は進められるに從ひ首謀者である幕僚將校は、
實際に兵力を有する処の都下各部隊の少壮將校に加担を求めた。
從つて其の計畫は、隊附將校に同志を有する西田、北の耳に筒抜けに入つた。
北、西田は政黨財閥特權階級を打倒し、革新を計らうとするこの計畫に表面より反對はしないが、
來訪する靑年將校に對し、具體的改造の巧拙、資金の出所、大川個人の問題に附批判的態度に出て、
殊に大川の遊興振り等に附て惡口を言ふ。
これが大川一派に通じ、大川一派は北、西田を革命ブローカーなりとして惡口をやり返す事になり、
之が次第に激しくなり、兩派の反目は日に日に激化した。
橋本中佐等軍部の首謀者は、北、西田に計畫が洩れた以上之を排斥することは出來ず、
加担を求め、一部實行行爲の分担を引受けしめたが、
大川と北、西田とに對する關係は親疏自ら差異があるので、
北、西田等は心底よりこの計畫に賛意を表し兼ねた。
長勇 西田税
終りには橋本中佐の片腕であつた長勇少佐が
酔餘 西田方に至つて短刀を抜いて同人を威嚇する事件を生じ、
北、西田一派と橋本、大川派との關係は甚しく惡化した。
事件が失敗に終り、首謀者十三名が各地の憲兵分隊長に預けられた。
其間に事件の失敗の原因に附、諸説紛々として傳へられ、
互に他を疑フ如き黯澹たる空氣が漂つた。
北、西田一派は大川が牧野伸顕に密告したと言ひ、
大川一派は 北、西田が事件を宮内省方面に賣込んだと主張し、
諸説混沌とした。
又一部には橋本等首謀者が遊興に耽り、發覺の端緒をなしたとした。
橋本等首謀者は謹愼に處せられ、間もなく十一月に入り歸京し、この浮説に憤慨し、
偕行社に於て櫻會の會合を開き、大川、西田の對決をなさしめ、黒白を決せんとした。
此時 西田に好意を寄せる隊付靑年將校は殆んど全部十一月の機動演習に行き、
出席したものは僅かに戸山学校の大蔵榮一、末松太平の二名であつた。
西田は之に出席せず、橋本以下は事件を漏洩した者は西田なりと斷定した。

以上の如くにして 北、西田と大川との溝は、北、西田終世迄立越えることが出來ないものとなつた。
この兩派の確執は後日、革新陣営に二つの對立した流を生ぜしめ、
繼起した諸事件に影響するところが多かった。
3  幕僚と隊付靑年將校との分離
 陸軍部内に於ては、昭和六年十月事件に先立つこと遠き
昭和の初年頃より革新運動に關心を有し、
西田税と交り 革新氣運の醸成に力めて居つた隊付靑年將校があつた。
兵火事件を起した 大岸頼好
昭和二年に天劔党に其の名を連ねて居る 
末松太平   村中孝次    菅波三郎   野田又男
他多數の靑年將校はそれ等である。
彼等の一部は十月事件に際し、計畫には加盟はしたが、
内心自分等は革新運動の先覺者であるとの自負心を有し、批判の目を持つて居た。
就中、菅波三郎は鹿児島聯隊勤務當時より、革新的靑年將校の信望を集めて居り、
昭和六年八月麻布歩兵第三聯隊に轉隊後間もなく、
西田税、井上日召等が主催した靑山靑年會館に於ける
陸軍、海軍、民間三者革新分子の會合に出席し、
西田を統制者とするこれ等 革新分子の一群に加つて居た。
菅波及末松太平の如きは十月事件に表面參加したが、内心に於ては批判的態度を持し、
鋭く之を監視して居つた。
彼等は陸軍の首脳部が所謂長閥に依つて占められていた當時、
長閥打倒運動を進め、陸軍の大勢、輿論の趨勢すうせいが革新を叫ばざる時に、
革新的氣運の醞醸うんじょうに努めた。
彼等の念頭にある國家改造、革新達成は常に苦悩に充ちたいばらの道であつたのである。

一方橋本中佐、長少佐、小原大尉、田中弥大尉、天野勇中尉等 所謂十月事件の御歴々聯中は、
既に天下を掌握したかの如く大言壮語し、且 聯日待合料亭に會合して居つた。
菅波、末松等は次第にこの態度に疑惑を持つに至り、
橋本等は眞の憂國の至誠より發したるに非ずして、権勢欲より出でたるものに非ずやとすら思ふに至つた。
十月十日頃、橋本中佐等は
加盟した在京將校數十名を、牛込區神楽坂待合梅林に招待し、宴會を催した。
此際、橋本中佐の腹心の天野勇中尉は、末松太平中尉 ( 戸山学校甲種學生 ) に、
橋本中佐はこの計畫が成功した暁は、鐵血章をやると言つて居るから十分努力せられたいと話した。
末松中尉及之を聞いた菅波中尉は激昂し、菅波は橋本中佐に對し、
「 革命に利を以て誘うとは何事ぞ 」
と云つて詰め寄り、
傍にあつた橋本腹心の小原大尉のため首締めに逢つて氣絶した椿事が起つた。
( 末松述、但し一説には小石川區白山の待合白山亭、又は神楽坂の金波とも言ふ )
菅波三郎末松太平
リンク  ↓
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」
・ 末松太平 ・十月事件の体験 (4) 「 なに、鉄血章、 誰が言った !! 」
右の如き經過によつて橋本一派幕僚將校と、菅波、末松等隊附將校とは漸次分離して行き、
後に皇道派、淸軍派の二派をなすに至つた。
4  十月事件は軍部の全將校に對する大啓蒙的役割をなした。
 事に青年將校に強い刺戟を与へ、後に二 ・二六事件に連座した、
大蔵栄一    安藤輝三
陸士第四十一期生 ( 当時少尉 )  栗原安秀    對馬勝雄    後藤四郎  以下多数
に革新思想を強く植えつけた。
而して此等 隊附青年將校は初め橋本中佐の下にあつたが、
事件中に橋本中佐等の行動を見、更に菅波、末松等の影響を受け、
次第に菅波、末松等と親密となり、同人等を通じ直接 西田税と接し、其影響を受けるに至つた。
是等一團の隊附青年將校は十月事件の失敗を見、斯の如き心構では革新を成し遂げ得ないと考へ、
革新の根源を國體に求め、國體の原理に徹して初めてここに革新の道ありとなし、
國體原理派と稱せらるゝ革新思想に燃える隊附青年將校の一團を形成するに至つた。
此の國體原理派は一般に皇道派と稱せらるゝ荒木陸相一派を支持し、
之と密接の關係を有し、或は全く之と同一視するものもある。
十月事件の翌年勃發した五 ・一五事件に參加した士官候補生
後藤映範、篠原市之助以下九名及池松武志も亦十月事件に參加して居つた。
十月事件當時は約二十名の士官候補生が參加の豫定となつて居り、
自動車が迎えに來るからそれでは來ればよいと指令されていた。 ( 池松述 )
その大半はこの事件により革新思想を抱くに至り、
鹿児島歩兵第四十五聯隊より派遣せられていた後藤映範、池松武志は
菅波中尉が元來同聯隊附であつた關係上、士官候補生一同を菅波に紹介し、
彼等は同人に心服し同人の統制に服し、一方一同は権藤成卿、井上日召に數回面談し、
彼等にも敬服して居つた。
結局これ等が彼等をして五 ・一五事件に參加するに至らしめた原因をなすものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
リンク  ↓
五・一五事件 士官候補生・後藤映範 『 陳情書 』
・ 
五 ・一五事件と士官候補生 (一)
五 ・一五事件と士官候補生 (二)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
右翼思想犯罪事件の綜合的研究 ( 司法省刑事局 )
---血盟団事件より二 ・二六事件まで---
これは「 思想研究資料特輯第五十三号 」 (昭和十四年二月、司法省刑事局 ) と題した、
東京地方裁判所斎藤三郎検事の研究報告の一部である
現代史資料4  国家主義運動1  から


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