私が大学を卒業して入隊したとき二十六歳であった。
( 当時は在学中徴兵延期が認められていた )
所属した中隊は第七中隊で隊長は野中四郎大尉、教官が常盤少尉、
班は第二内務班で班長は佐久間軍曹、班付が齋藤伍長であった。
入隊後間もなく身上調査が行われ中隊長から家庭学歴趣味などを聴かれた揚句、
最後に崇拝する人物を尋ねられた。
私は即座に西郷隆盛と明智光秀をあげたところ理由は何かと重ねて聴かれたので、
意志の強さに共鳴していると答えたが、
この間四十五分を要したので班長が大分心配していたことがあった。
訓練は基本教練から始まったが、
満洲に行く関係からか大分テンポが早いらしく四十日たつ間に実弾射撃を二回行った。
これは大久保射場に行き実弾五発を標的にうちこむのであるが、
二回実施したことで大分射撃に自信をつけることができた。
一月末に初めての非常呼集が行われた。
二年兵に指導されながら仕度をして舎前に並び出発したが、
途中で停止して着剣すると今度は駈足で警視庁の前まで行き、
突撃の構えをとって状況終りとなった。
その直後号令で庁舎目がけて小便をさせられたのには驚いた。
常盤少尉は若いがしっかりした将校で初年兵に信頼があった。
彼は熱血漢で、当時社会の注目を浴びていた相沢事件を
テーマにしてよく我々に精神訓話をしてくれた。
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このような背景のもとに
二月二十五日夜半非常呼集がかかったのである。
不寝番がどなりながら兵隊を起こして廻った。
「 点燈して軍装をしっかり整えろ 」
この前の非常呼集は暗闇の中で仕度したが、今度は点燈してもよいというので安心して軍装ができた。
この間幹部が時折やってきて初年兵の軍装を天険していた。
全員が舎前に整列すると編成と軍装検査が行われた。
編成はすでに一月末の非常呼集の時に完了しているので人員の掌握程度だったが
変わっていたのは新に被服掛の田島粂次曹長と兵器掛の堀宗一曹長が加入したことで、
両名は軍装検査の実施にあたって一人一人を綿密に点検し落度のないように注意していた。
検査が終わると実包が支給された。
一人一二〇発で薬盒に六〇発、背嚢に六〇発を収めた。
次いで乾麺麭、粉末噌等が渡り、出発には全員被甲(防毒面)を携行する旨言渡しがあった。
考えてみると物々しいいでたちである。
私は編成の結果 第一小隊 ( 小隊長常盤少尉 ) 第一分隊 ( 分隊長石川喜代吉上等兵 )
の 所属となり兵力は八名であった。
準備が整ったところで一たん舎内待機となったが、
ここで戦友同志の間で合言葉の練習をやらされた。
「 尊皇 」 といったら 「 討奸 」
「 大内山に茜さす」 といったら 「 暗雲なし 」
こうして合言葉の応答が済むと
弾込メ と安全装置が行われ、特に安全装置は厳重に点検された。
中隊の出動人員については勤務要員と病弱者を除く全員で
班長の佐久間軍曹は健康が勝れぬため残留に廻った。
下士官の人選については我々の舎内待機中に行われたようである。
出発は〇四・三〇頃だった。
歩一の前を通過する時 歩一からも出動する兵力があったのを認めた。
行先は不明だが進んで行く道順はかつての非常呼集の時と同じようだ。
約三〇分後到着したのはやはり警視庁だった。
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〇五・〇〇
野中大尉が突如正面玄関にツカツカと入って行ったので私の分隊も続いて入り、
本館を通りこし裏手にある新撰組の建物に突入し、瞬く間に二階に至るまで占領した。
屋内はすでに逃げたあとで人気はなかった。
その間 野中大尉は玄関前で予備隊の隊長と称する警官を相手に交渉を進めていた。
占領をおわった私たちが側で見守る前でかなり緊張したやりとりがあった。
野中四郎
「 我々は国家の発展を妨害する逆賊を退治するために蹶起した。
貴方達にも協力して頂きたい 」
「 そのような事件が起ったのなら我々も出動しなければならない 」
「 警視庁はジッとしていればよい。
私のいうことを聞かず出動すれば立ちどころに射撃するがそれでよいか 」
交渉はゴタゴタして相手は野中大尉の意見に従う様子が見えない。
常盤稔
すると側に居た
常盤少尉がサッと抜刀して、
「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」
と 迫ったので、
この見幕に警視庁側の隊長はドギモを抜かれ遂に
「 解りました 」
と 降伏の意志を告げた。
こうして警視庁は瞬く間に我が手に帰し
庁員を一ヵ所に軟禁し歩哨を立てた。
〇六・〇〇
我々は中庭に集合して野中大尉から今朝行われた蹶起部隊の状況を聞かされた。
この時自動車置場から出てゆく警視庁の自動車があったので
他の分隊の者がタイヤ目がけて射撃し脱出を阻止した。
その後小休止をしたあと各分隊は夫々の配置について警備体制に入った。
私の分隊は桜田門の前に歩哨線を布き特定者以外の交通遮断を行った。
特定者とは身体のどこかに三銭切手を着けている者、
合言葉の問に応答した者を蹶起部隊の一員とみなし歩哨線の通過を許すことになっていた。
何時頃だったか参謀肩章をつけた将校が歩哨線を通過しようとした。
早速
「 止レ! 」
と 銃剣をつきつけると、
「 参謀に向って何をいうか 」
と 相手はおこり出した。
「 中隊長殿の命令で歩哨線の通過は禁止されております 」
「 俺は上官だぞ !」
「 たとえ上官でも命令ですから通すわけには参りません 」
するとその様子を見ていた戦友がいきなり参謀を突飛ばした。
「 帰れ ! 」
その一声で参謀はあきらめて帰っていった。
また常盤少尉が桜田門前を巡察中、自動車ぎきたので停車を命じたところ、
中に閑院宮が乗車していて宮中参内にこられたことを知り、
少尉は不動の姿勢で殿下を見送る一幕もあった。
その日は寒い一日だったが、警備を続行しながら夜をあかした。
・
二十七日朝、
中隊は警備を撤収し文相官邸に移動、
次いで一五・〇〇頃
国会議事堂の工事場に移った。
この間において昨日午後三時頃公布されたという陸軍大臣告示を読み聞かせられた。
これによると我々の行動が天聴に達したというので一入感慨を深くした。
議事堂で待機中 聯隊のトラックが食事を届けにきた。
指揮者は残留になった佐久間班長で、
食事は戦時給与ということで今までの食事とは格別の相違で我々は腹一ぱいつめこんだ。
その夜は鉄道大臣官邸に移動して泊ったが、
日中夜間を通じ部外者の来訪がはげしく邸内は混雑した。
我々は入口で三銭切手の有無を検査し、
無い者は追いかえしたが来訪者の多くは参謀であったようである。
この官邸には食糧がなく贈り物の猪が一頭あるだけだった。
これを食うにも料理する者がいないので手をつけることができず、
結局空腹をかかえて我慢する以外に打つ手はなかった。
・
二十八日朝、
村中、磯部、渋川の面々をはじめ同志将校等が各個に野中中隊長に連絡にきた。
状況が変化したのでその対策打合せのようだ。
一〇・〇〇頃
私は野中大尉からの命令で吉原伍長と共に銀座の伊東屋に行き謄写版とワラ半紙を買ってきた。
乗っていた乗用車のフロントガラスに 「戒厳令」 「統監部」 と 書いた紙を貼りつけ
鎮圧軍の中を突破していった。
伊東屋では金はあとから払うという口実で持出したがこれは体のいい徴発であった。
私はついでにポケットマネーでキャラメルと煙草を買って帰った。
早速印刷器具を一室にひろげ、ガリ版を切り印刷を仕上げた。
この時切った原稿は、村中、磯部からのもので
「 我等の糧道は断たれたり 」
「 鐘は鳴る、鐘は鳴る、昭和維新の鐘が鳴る 」
「 瑞穂の国に米あれど皇軍に米なし 」
で 書初た蹶起部隊の趣意表現に関する文章だった。
これをワラ半紙約五〇枚に印刷すると同志将校が分け合ってどこかへ持去っていった。
その頃聯隊からの食事が断たれ我々は空腹を抱えて警備についた。
どこからも差入れはなく、細々と 乾麺麭をかじりながら頑張る意外になかった。
鎮圧軍が徐々に官邸を包囲する様子が見え、何か状況の逼迫を感ずるようになった。
夜になって挺身隊が編成された。
堀曹長以下一コ小隊が選出され、
全員尊皇討奸の白ダスキをかけ夜陰に乗じて官邸を出て行った。
目的は不明だが食糧確保ではなかったかと思う。
だがしばらくして帰ってきた。
堀曹長の報告によると鎮圧軍の包囲が厳重で突破できないとのことだった。
その頃私は中隊長の当番になって身のまわりの世話をしていた。
それから後何時頃だったか空腹に悩む中隊に丼飯が四個届けられた。
中隊長の温情を思い有りがたくいただいた。
しかしこれは空腹のたしにするのではなく食い納めを意味したのである。
これから死ぬ者に飯など不要だという。
我々は今から一戦を交えるらしい。
そういえば
豊橋教導学校から参加した竹島中尉が白ダスキをかけ抜刀した姿勢で、
「 皆の命をもらった 」
と いったがやはり戦闘を決意していたのに相違はなかった。
その夜中隊は新築中の国会議事堂に移った。
戦闘の為の陣地としては恰好の場所である。野砲の砲撃でもしばらく持こたえできるであろう。
内部は真暗なので壁に貼ってある大理石の被覆用のハトロン紙をはがし、
丸めてタイマツがわりにして足場を照らしながら
床のジュータンを窓際に積上げて銃座を作り戦闘準備を整えた。
・
緊迫した状況に二十九日の朝を迎えた。
私は早朝から屋根上で展望哨についていたところ、
明るくなると同時に飛行機が飛来しビラを撒きちらした。
拾ってみると 「下士官兵に告ぐ」 という原隊復帰の呼びかけであった。
早速ビラをもって野中大尉のところに持っていった。
私はこの時迂闊にも直属上官に対する捧げ銃の礼を欠いたため
側にいた下士官から 「敬礼せんか!」 と怒鳴られ、間髪ビンタを一発頂戴した。
持場に戻ってみると議事堂は完全に包囲され、
戦車がゴウゴウと唸りながらやってきてスピーカーで盛んに投降勧告をはじめた。
これに対し議事堂の窓という窓には、
銃座が築かれ小銃が首を出し発砲の号令を待つ兵隊の姿でひしめいていた。
適が撃ったら撃帰す、但し銃口は絶対に皇居に向けてはならないと定められていたが、
相手も同様の考えでなかなか撃ってこない。
こうして一触即発の数刻が流れた。
戦車のスピーカーからは繰返し勅令の下ったことを強調していた。
私達は誰一人として勅命の下ったことなど知らなかったが、
ビラの内容により事態が最後の段階にきたことを覚った。
流石の野中大尉もことここにおいて遂に決断をくだし、下士官兵の原隊復帰を命じた。
そして本人は陸軍官邸へ向かった。
常盤少尉もガックリした表情で全員に訓示をしたが誰も原隊復帰に応ずる者はなかった。
少尉は何度も反復しながら説得するうち、感極まり絶句し目に涙があふれた。
教官を慕う我々の感情が少尉の胸を強くうったのであろう。
ようやく一同は冷静に戻り堀曹長の指揮で原隊に向ったが、
途中戒厳参謀によって武装解除を受けた。
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二・二六事件は、私にとって入隊後、日も浅いうちに起きたことだけに、夢中で参加したが、
あの当時の世情から考えれば事件は早晩のうちに起ったはずで、
惰眠を貪る為政者への警鐘とも思われ、
その真意を速やかに国政に反映し国民の不満にこたえるよう配慮すべきであった。
野中大尉も常盤少尉も人間的には立派な将校で、人徳の深い人柄だった。
このように尊敬された人たちを事件に巻込んだ原因は何だったのか、
しかも統帥権を干犯してまで蹶起に走らせた要因は何であったのか。
これら純粋無垢の青年将校たちが日頃抱いていた 「 憂国の精神 」 は
まことに崇高で真に国を思う気概には敬服するばかりである。
私はそうした上官を戴いたことにほこりを感ずるものである。
陣中のガリ版印刷
歩兵第三聯隊第七中隊 二等兵 福島常二 著
二・二六事件と郷土兵 から