あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

河野壽大尉の最期

2019年02月26日 20時41分10秒 | 牧野伸顕襲撃 河野隊

 
河野壽大尉
« 昭和十一年三月一日、熱海衛戍病院 »
「 ご心配かけてすみません 」
弟は はじめて口を切った。
思いもかけず兄弟きりの水入らずになったのであったが、
ここにいたるまでの、緊張した心のしこりは急にはほぐれなかった。
事件の結末が、最悪の事態に立至ったいま、
事件のことに関してこちらから触れることは、
弟の心境をいたずらに苦しめる結果になることを懸念して、意識的にこれを避けた。
「 怪我をしたそうじゃないか。でも経過がよいそうで安心した 」
「 たいしたことはありませんでした。しかし・・・・」
弟は言葉を切って眼をそらして、
「 不覚の負傷でした。大失敗でした。
おかげでなにもかもめちゃめちゃです。
私が負傷をしなかったら牧野をやり損じるようなことはなかったでしょう。
それよりも東京の同志達が逆賊になるような過誤をおかさせやしませんでした。
それが なによりも一生の遺憾です 」
「 きっと、血気にはやる栗原が事態をあやまったに違いありません。
私がいれば栗原を抑えることができたと思うと残念でたまりません。
取返しのつかないことをしてしまいました 」
栗原中尉ともっとも親しく、もっとも相通じていた弟としては、
この間の事情について、一抹の予感があったらしく唇を噛んだ。
事件に関する話は避けたいと思った心遣いもいまは無駄だった。
弟の心中には、事件のこと以外には考えるなにもなかったようだ。
「 勅命に抗するに至っては、万事終りです。
いろいろと複雑な事情はあるに相違ありませんが、
ことの如何を問わず、勅命に抗し、逆賊になるにおよんでは、大義名分が立ちません。
こんな結果になろうとは夢にも考えなかったことです。
無念この上もありません。
死んでも死にきれない思いです 」
暗然として黙考する弟の姿に、返すべき言葉もなかった。
「 兄さん、どうか許してください。
こと 志と違い、いやしくも逆賊となり終った今日、
私一人はたとえその圏外にあったとはいえ、その責め同断です。
この事態に処すべき私の覚悟は、すでに充分にできました。
立派に死んでお詫びをいたします 」
はっと 胸を衝くものがあった。
弟は死を決意している。
弟の参加を知って以来、日毎に悪化する情勢のなかで、
事件のもたらす最悪の結果がなによりの傷心の種であった。
が、規模こそちがえ、血盟団や五・一五事件等、
この種の結末になにかしら心のよりどころを求めて、
どうしても最後的な死を考えようとはしていなかった。
あるいは そう考えることが怖ろしかったからであろう。
血盟団、五・一五の人々のことが、弟の言葉を聞きながら脳裡をかすめる。
「 しなないでも 」
という 気持ちが浮んでくるが、言葉にはならなかった。
ややあって、弟は再び語をついだ。
「 実は、昨夜以来 まんじりともせず熟慮しました。
それがいつの間にか叛乱部隊となり、帰順命令がでて事態の収拾を見た、
という 最悪の結果を知らされたときは、ただ、呆然として、泣くに泣けませんでした。
しかしこの絶望の中にも、なお一縷るの望みは、
私たち同志が叛徒として処断されるようなことは よもやあるまいということでした。

この最後の命の綱も、先刻の宮内省発表ですべてが終りました。
圏外にあった私も、抗勅者として、同様に位記の返上を命ぜられました。
国家のため、陛下の御為に起ち上がった私が、夢にも思わなかった叛徒に・・・・」
弟は涙を流し、ふるえる唇を噛みしめて言葉を呑んだ。
「 栗原や私たちは、万一、こと破れたさいにも、 ということについては、
一つの考えを持っていました。
それは失敗の責任を自決によって解決する方法は、
いわゆる武士道的の見方からすれば立派であり、綺麗であるが、
反面安易な、弱い方法である。
われわれの不伐の信念は、一度や二度の挫折によって挫けるものではない。
自決によって打切られるような、そんな皮相なものではなく、
死の苦しみを超克ちょうこくして、あらゆる苦難を闘い抜くことが、
ほんとうに強い生き方であるという信念です。
この考え方は、私はいまも変わりありません。
しかしながら、この信念も、それを貫くことのできない、絶対の窮地に立つに至った現在、
私の進むべき道はただ一つしかありません。
叛徒 という絶体絶命の地位は、一死をもって処するあるのみです 」
弟の眼にはもう涙はなかった。
沈重な面持に、低く重く、悲壮な信念が一言一句、強く私の肺腑を衝いた。
「 東京の同志たちは
この叛徒という厳然たる事実をなんと考えているのか諒解に苦しみます。
私共の日頃の信念であるところの、
あらゆる苦難を排して最後まで闘い抜く生き方も、
現実の私どもの冷厳なる立場は、絶対にそれを許さないのです。
私どもはたとえ、こと破れたさいも、恥を忍んでも生きながらえ、
最後まで公判廷において所信を披瀝ひれきして世論を喚起し、
結局の目的貫徹のために決意を固めていました。
しかし 日本国民として、
絶体絶命の 叛徒 となった現在、なにをいい、なにをしようとするのでしょう。
東京の同志たちが、もしあえてこの現実を無視して、公判廷に立つことができたとしても、
叛徒の言うことが、どうしても、世論に訴える方法があるでしょうか。
たとえその途が開けたとしても、その訴えるところが世論の同調をえることがあるとすれば、
それはいたずらに叛徒にくみする者を作ることになります。
そのあげくは、さらに不忠を重ねる結果となるに過ぎないということを、
深く考えねばなりません。
こと志とまったく相反して、完全に破れ去った私どものとるべき唯一の途は、
その言わんとし、訴えんとするところのすべてを、これを文章に残し、
自らは自決して 以て闕下にその不忠の罪を謝し奉るより他はありません 」
弟が考え抜き、苦しみ抜いた最後の決意はこれであった。
不動の決意を眉宇に輝かせながら語る弟の語に、
何一つ返す言葉もなく、私はただ無言でうなずくばかりであった。
弟は語調を改めて、
すくなくとも自分一人は、幸か不幸か熱海にあって、
勅命に抗した事実はいささかもないことを認めてもらいたいこと、
なお、亡父母もこのことだけは喜んでくださると思うと、
苦悩のうちにも、わずかに自ら慰めるところのある心境を語った。
・・・
・・・
「 河野大尉、今朝六時四十分死去す、来られよ 」
との 官報が配達された。
義兄と私は二人、ただちに熱海へ急行した。
ラジオが弟の死を報じたのは午後一時だった。
六日午後一時戒厳司令部発表  第八号
湯河原にて牧野伯襲撃に際し負傷し、東京第一衛戍病院熱海分院に入院中の
叛乱軍幹部元航空兵大尉河野寿は、昨五日自殺を図りて重態に陥り、
本日六日午前六時四十分遂に死亡せり。

自決

三月五日の朝、
私が持参した風呂敷包の下着類の中から、
弟は果物ナイフのみを受取って、
剃刀の方は 「 これはお返しします 」 と 院長に返したという。
私が来院して帰ったことを知って、末吉中尉が弟の病室を訪れたが、
弟は平素とすこしも変らず、淡々として談笑していたが、
その談笑のなかに、いよいよ、午後決行の決意をほのめかされ、
言外に最後の訣別を告げて、中尉は病室を辞し、そのまま病院をでた。
この日、特に入院将校中の最上席者であった金岡中佐から、
昼食を共にしたいとの申し出があり、
弟はありがたくお受けして、両名で最後の昼食をとった。
感慨ひとしおに深いものがあったらしく、
死後、左の歌が、中佐宛に残されていたのを発見した。
  武夫もののふの道と情を盛り上げし
  昼餉ひるげの味のいとゞ身にしむ
入院以来、弟に附添いっていた附添婦は、
この日、朝からなにか予感があったらしく、
終始弟の身近にあって離れなかった。
三時すぎ、彼女が下の事務所に立った隙に、
弟は白衣を素早く軍服に着替えて、縁側から病室を脱けでた。
病棟の横手の低い垣根を越えて、左手の山林に入ると、
病院との境界を劃かくする板塀から一〇メートルくらい離れたところに、
大きな松の木がある。
木立を通して崖下に熱海湾が碧い色をたたえているのが見下せる。
その松の根元に端坐した弟は、はるかに東方皇居を拝し、
午後三時半頃、
上着を脱いで、用意の果物ナイフを持ち、
武士の作法にのっとって、
下腹部を真一文字に割き切り、
返す刃で頸動脈を突いた。
一刀、二刀、さらに数刀が加えてある。
鮮血が拳を染めて軍袴ぐんこにしたたり落ち、
その血に おおいかぶさるように、前に崩折れた。
病室に帰った附添婦は、
弟の姿が見えず、白衣は整頓され、軍服のないのに驚いて、
たたちに院長に報告した。
院長の支持で、一同で捜査に取りかかっが 院内に見当らず、
院外にでた一班が、間もなく自決現場を発見した。

駆けつけた瀬戸院長が弟を抱き起すと、
まだこと切れていなかった弟は、きっと院長を振り向き、
頸部を指差して、
「 まだ切れていませんか 」
と、たずねた。
院長が首をかしげるのを見て、
弟は鮮血にまみれた右腕を振りあげ 最後の力をふりしぼって、
さらに一刀を頸部に加えたという。
すでに周囲に病院の人々が多数集まったなかで、
院長は上体を支えて、止血法を行うと、
弟は
「 よしてください 」
と、すでに力ない腕を振って、これを拒否した。
しかしそれも、力尽きて、再びがっくりと前に伏した。
手にした果物ナイフは、刃が滅して悲惨というほかなく、
突き傷から推しておそらく六刀は加えたものらしい。
院長は担架を命じて、元の病室に収容した。
人々は弟の絶命を信じたという。
しかし、寝かせる位置を打合す人々が
「 北枕に 」
と 語り合うのが聞えたらしく、突然意識を回復した弟は、
大声に、
「 皇居に向って東向きにしてください 」
と 叫び、
感に打たれた人々が、静かに東向きに寝かせると、
満足気にかすかにうなずいて、
それきり また 意識を失ってしまった。
用意した亜砒酸は、自決直前に服用したが、量が多かったせいか吐きだしてしまって、
事後の万全を期した処置も悲運にも無駄に終った。
一刀にて死をえず、
数撃を加えてなおかつ死を果しえず、
しかも冷厳なる意識を保つ弟を思うと、まことに無惨というほかなかった。
弟はその後も おりおり 意識を回復しては、
枕頭に詰めていた人たちと、
「 刃物が骨に当って切れなかった 」 とか、「刃物が鈍かった 」 とか、
その他のことを断片的に語りながら、次第に昏睡状態に陥っていった。
そして、翌六日の午前三時頃にはまったく意識を失ってしまった。
病院からの急報によって、東京第一衛戍病院から田辺院長が自動車でかけつけ、
最後の処置をとられた。
白いカーテンを張った縁側の外が、明るくなってくるころ、
脈搏を診る田辺院長から、静かに臨終が告げられた。
六時四〇分であった。
瀬戸院長、末吉中尉が最後の死水をとった。
割腹後、実に一六時間の長きにわたって生を保ちながら、
一言半句も苦痛を洩らさず、
また苦面をさえ呈せず、
従容しょうようとして死についたという。
机の上に、整然と多数の遺書が残されてあった。
和紙に毛筆でしたためられたものであった。
そのなかに瀬戸院長宛の辞世があった。
  辞世
  あを嵐過ぎて静けき日和かな


私と義兄が熱海の病院に着いたのはもう夕方に近かった。
遺骸を引取りにこいという、次の電報を待って出てきたからである。
病室にはすでに仏壇が設けられ、
たくさんの生花や花輪が供えられていた。
弟は昨日のままの布団に横たわっていたが、面を覆った白いガーゼが淋しかった。
「 どうか会って上げてください 」
と、うながす末吉中尉の言葉に、二人は弟の傍に座った。
ガーゼを取る。
本当に温和な死顔だった。
なんの苦悶も、恨みもない、清らかな顔だった。
よかった。
ありがとう、と 私は瞑目して頭を下げた。
再びガーゼを面にかけて、義兄は静かに掛布団をはいだ、
外科医らしく、手際よく咽喉部の傷口をあらためた。
すくなくとも 五、六回はついたのであろう、ジグザグの傷口が無惨である。
さらに 白い下着を排して、腹部を開いた。
下腹部に薄く、真一文字に見事な切創がまざまざしく、
じっと見つめた義兄の口から
「 よくやった 」 と 一言、感極まったように洩れた。
「 立派に武士らしく切腹して死にます 」
と 約束した弟は、約束通り 立派に死んでくれた。
二人はあらためて合掌を捧げた。

河野司著  私の二・二六事件 から


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