あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

末松太平 ・ 十月事件の体験 (2) 桜会に参加 「 成功したら、二階級昇進させる 」

2018年02月06日 16時22分41秒 | 十月事件


末松太平
前頁 十月事件の体験 (1) 郷詩会の会合 の 続き

当時東京から千葉にかけての陸軍の諸学校では
私の二期後輩の四十一期生が圧倒的に多かった。
千葉の歩兵学校、東京の戸山学校、砲工学校に、
四十一期生の大量が全国の連隊から派遣されてきていた。
この四十一期の士官学校在学中の区隊長である小原大尉らが、
この青年将校群を桜会に入会させ、クーデター計画のなかにひきいれようとしていた。
小原大尉は橋本中佐らの参謀本部ロシア班の一人である。
このロシア班が桜会の急進派で、秋のクーデーター計画の主体だった。
戸山学校の学生控室では、この桜会組が古参の私などに、
いくらか控え目ではあったが、クーデター計画のことを話し合っていた。
私は最古参で班長をしていたが、そ知らぬ顔でこの班の将校の動向をながめていた。
一方に満洲の風雲は急だった。
中村震太郎大尉の死は特に四十一期生の連中を憤激させていた。
そのうち
九月十八日満洲事変が勃発すると、
四十一期生にかぎらず、いやしくも軍服を着ている以上、
誰もが心を大陸に奪われることになった。
・・・
これまで控え目だった後藤少尉らの言動も、
班長を仲間にした以上は誰に遠慮もいらなくなった。
将校控室はクーデター計画の支部のようになっていった。
控室の将校も殆んど全員が共鳴した。
戸山学校の筋向かいの砲工学校の学生も暇をみては顔を出すようになった。
私はいつの間にか
戸山学校、砲工学校の四十一期生を主力とする青年将校の餓鬼大将みたいになった。
それでも桜会の会合には顔をださなかった。
後藤少尉がしきりに桜会の会合に出席するよう、
参謀本部の小原大尉らに会うようすすめたけれど、
そのうちに、と態度をあいまいにしていた。

しかし、そのご間もなく私は桜会の会合に顔を出すようになった。
それは野田又男中尉に勧誘されてであった。
近衛の何連隊付かであった野田中尉は大岸中尉と同期の三十五期生で、
「 郷詩会 」 には出席していなかったが、かねてから大岸中尉と連絡があり、
大岸中尉から私のことを、よろしく指導を頼むと照会してあったとみえ、
初対面のとき 「 指導などおこがましいよ 」 と 私にいったことがある。
豪快な、先輩としていかにも頼り甲斐のある人柄で、
三月事件にも重要役割を持った関係もあって最初からの桜会のメンバーだった。
その野田中尉が
「 桜会は会員の紹介があれば誰でも入会できるんだから、
おれが紹介するから、貴様ら二人入会したらどうだ 」
西田税 のうちで
菅波中尉と私に入会をすすめた。
大川周明から藤井斉大尉がきいた秋のクーデター計画も、
桜会の急進派が中心であってみれば、
その情報を掴む意味からも、このあたりで桜会の会合に出席することも必要だった。
野田中尉の勧誘もその意味からだった。

次の会合のあった夜、
野田中尉に紹介された菅波中尉とわたしは桜会に出席した。
もともと桜会自体はクーデターを目的につくられたものではなかった。
政治や社会問題に没交渉であった軍人に、この方面の関心をよびさまさす集いだった。
したがって、革新をめぐっての、樋口 (季一郎) 中佐を中心とする穏健派と、
橋本中佐を中心とする急進派意外に、
意識の低い感覚の全くズレたものも、まぎれこんでいた。
この会合は有志が次々に立って演説するのが慣例になっているようだったが、
ときにはこういった感覚のズレた将校が、とんちんかんな熱弁をふるって、
主催者側を苦笑させることもあった。
私と菅波中尉が初めて出席したときにも、前座にこの苦笑ものの演説が二三あったが、
そのあとで、橋本中佐が
「 ケマルは、ケマルは 」 と ケマル・パシャのクーデターについて熱弁をふるった。
この会のどこかにケマル・パシャやムッソリーニの臭いがあった。

私が桜会に前ぶれもなく現れたので、四十一期生グループは変な顔をしていた。
が 会が終わると、
それでもうれしそうにして私の周囲に集まってきた。
そのとき、そのなかにひとり、見馴れない不満そうな顔をした男がいた。
それが片岡俊郎少尉だった。
片岡少尉は後藤少尉とは熊本幼年学校以来の親友で、
このとき札幌二十五連隊から派遣されて、千葉の歩兵学校にきていた。
私は不思議にこの無愛想な片岡少尉に心を惹かれた。
以心伝心、互いに通じるもののあることを感じた。
彼は果して桜会にも橋本中佐のイデオロギーにも、
これに同調している同期生にも不満であり批判的だった。
桜会急進派の幕僚的な上からの革新に対し
彼は、兵を通じて社会をみた、下からの革新を考え、
それを理論的に裏付けようとしてもいた。
こういった彼にとっては、桜会によってはじめて革新を知った同期生は、
おぼつかなくてみておれなかった。
同じ四十一期生でありながら、あるときはそのグループをはなれて、
爾後私と二人だけ特別のつながりを持つ機縁が、この初めての出合いにきざしたのである。
片岡少尉についで、特別に親近したのは後藤少尉だった。
それは血書のときの因縁もあり、片岡少尉と親友であるせいもあったけれど、
直接の動機は、ある日彼が、ふともらした言葉からであった。
私が桜会の会合に出席するようになって、
すつかりうちとけてきた後藤少尉が、
学校の帰り途、肩をならべてあるきながら、
「 このクーデターが成功したら、二階級昇進させると参謀本部の人たちがいっています。」
と いった。
私にもその行賞の及ぶことを伝えたい好意からいったにちがいなかったが、
これは聞き捨てにならないことだった。
しかし私は聞き捨てにしようかすまいか一瞬ためらた。 
が 思いきっていってみた。
「 ちょっと待った。 
それはおれの考えとはちがう。 
おれは革新イコール死だとおもっている。
たとえ斬り込みの際死なずとも、君側の奸臣とはいえ、陛下の重臣を斃した以上は、
お許しのないかぎり自決を覚悟していなければならない。 
失敗もとより死、成功もまた死だとおもっている。
生きて二階級昇進などして功臣となろうとはおもっていない。
連夜紅燈の下、女を侍らして杯を傾けて語る革新と、
兵隊と一緒に、汗と埃にまみれて考える革新とのちがいだよ。」
後藤少尉はしばらく考えていたが、
「 そういわれてみればその通りです。
わかりました。 
われわれも根本から考え直さねばならぬようです。」
と 素直に私の意見にしたがった。
私はやはりいつてよかったとおもった。
後藤少尉がすっかり私に気を許すようになったのは、このことがあってからである。

二階級昇進のはなしをきくにつけても、
桜会急進派の革新に対し、益々異質なものが感じられた。
しかし、これと別個に革新を実行するとは、
一体どういうことになるのか――という点に想到すると、
急には明快な決断はつかなかった。
しかも実働部隊は部隊将校であり、
戸山学校、砲工学校、歩兵学校等の青年将校であり、
混交してしまっている。

こういった空気のなかで、
野田中尉、菅波中尉と私が橋本中佐、西田税提携の仲介をした。
一緒にやってみたらどうか、ということになったのである。
これで改めて
「 郷詩会 」 グループの陸海青年将校、民間人が、
橋本中佐を中心とする
クーデター計画に合流することになり規模は全国的なものに拡大した。

末松太平著 私の昭和史 十月事件の体験 より 
次頁 
末松太平 ・ 十月事件の体験 (3) 「 それじゃあ空からボラを落として貰おうか 」  に続く


この記事についてブログを書く
« 末松太平 ・ 十月事件の体験 ... | トップ | 末松太平 ・ 十月事件の体験 ... »