老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

光市母子殺害事件の死刑判決と裁判員制度(3)

2008-05-08 16:15:56 | 社会問題
日経ニュースによれば、「文化放送(東京)は6日、報道特別番組「死刑執行」で、実際に死刑が執行される瞬間の音を放送した。裁判員制度の導入を前に、死刑の実態を伝えるのが目的」と報じている。

http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080507STXKC014806052008.html
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080430STXKC020929042008.html
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080417AT1G1702N17042008.html

例え死刑囚であろうとも人の命の尊さに違いはない。勇気ある報道番組だと思う。

一方、光市母子殺害事件の遺族の本村氏は、判決後の記者会見で「被告と妻と娘の3人の命が奪われることになった。これは社会にとって不利益なこと、これで終わるのではなくどうすれば加害者も被害者も出ない平和で安全な社会を作れるのかということを考える契機になれば」と語っていた。これは、社会を含め国と裁判官への訴えではないかと思う。

殺人は悪いに決まっている。被害者の無念と残された遺族の悲しみと哀れも分かる。同情は当然である。しかしそれを承知で敢えて死刑制度に反対である。何故ならこの世に完璧な人間はいない。犯罪は人間が持って生まれた性ではないかと思う。その性を押さえらる人と押さえ切れずに罪を犯した人の違いや差は何であろうか。例えば犯罪者と全く同じDNAを持ち同じ環境と同じ教育のレベルに置かれ育ったとすれば、自分は犯罪を犯さないと断言できるであろうか、小生には自信は持てない。

現実には人間は生まれながらにDNAは違い、育つ環境も受ける教育も違う。少年時代まではその置かれた環境を自分では殆ど選択できない。どのような家庭に生まれ育つかは、その子の運命である。生まれた環境が悪ければ、生きるための本能は暴走し犯罪を引き起こす。そして、この本能を制御できるのもまた、生まれ育った環境であり、中でも教育が最大の要素であろう。

それでは犯罪が極力発生しない環境と教育は誰が作るのか。それを個人や家庭に求めるには自ずと限界がある。それは国の役割であろう。しかし、それは日本のように犯罪を取り締まる警官を増やすことではなく、裁判で死刑判決を増やすことでもない。まして死刑執行を増やすことでもない。これでは被害者の感情を汲み、癒すことはできるかもしれないが、人間に潜む罪の性を制し、正しく導くことはできない。そのような犯罪の事後対策ではなく、犯罪が発生しないような事前の社会政策こそ必要である。

本村氏は確かにメディアを通して死刑を強く訴えてきた。しかし本村氏の言わんとするところは、突き詰めれば「犯罪被害者の権利」のはずである。近代法は私刑による報復を禁じている。その延長線上で、国家権力(警察・検察)によって犯罪被害者は何の申し立ても許されず、権利や感情が疎外されてきた。それが本村氏の訴えで大きく改善されたことは大いに評価すべきである。

しかし、メディアは常時殺害された母子の写真をクローズアップし、視聴者の感情に訴え、死刑要望を終始誇大に報道し、それによって最高裁までが翻弄され、応報感情に同調し、頻発する凶悪犯罪の防止策として死刑を広島高裁に選択させたように思われてならない。

知的特権階級である裁判官は、死刑判決に犯罪防止を委ねるのではなく、むしろ死刑判決を減らして、犯罪が増加している国の社会政策にこそ警鐘を鳴らすべきである。それが本村氏の記者会見での訴えに応えることではないだろうか。それとも裁判員制度スタート後に、裁判員の死刑忌避の常識に託すつもりであろうか。

「護憲+BBS」「裁判・司法行政ウォッチング」より
厚顔の美少年
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光市母子殺害事件の死刑判決と裁判員制度(2)

2008-05-08 16:14:20 | 社会問題
私にとっては母子の命は一般的かつ抽象的なものであるが、木村氏にとっては具体的であり、かつ彼の人生で最大の価値である。何にも代え難い価値であったと思われる。その価値を奪われた以上、その代償を求めるのは当然である。その代償が犯人の死であるというのも理解できる。

一方、国家は凶悪な殺人者でも、教育できるという自負がある。その観点から死刑判決を控えてきた。ところが、最近の犯罪増加、凶悪化によって自負が揺らいでいる。さらには官憲への国民の信頼感が今や50%以下に凋落である。したがって、裁判所が犯罪、殺人に対して厳罰化の傾向にあるのも時代の流れということか。

無実の者が、冤罪によって死刑判決されることもあるから、裁判は慎重に、かつ十分人権を尊重して行われなければならない。と同時に犯人の命以上に救うべき命は地球上には数億人もいる。

アメリカ人は言う。殺人犯を収監しておくのは税金の無駄である。早く死刑を執行して、アフリカ、アジアの餓死寸前の人に援助を差し伸べるべきであると。英会話のボランティアをやっていた人の話である。

日本でも、このアメリカ人のような考え方が増えるのかもしれない。裁判員制度は司法のアメリカ化だそうだから、考え方もアメリカ化していくのでしょうか。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと(4/30)」より
竹知庵
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光市母子殺害事件の死刑判決と裁判員制度(1)

2008-05-08 16:13:21 | 社会問題
その人が笑った顔を初めて見た。「ああ、この人でも笑うことがあるのだ」と思った、当たり前のことではあるけれど。テレビのインタビューに答えて自宅で静かに語る姿があった。本村洋氏。それまで、テレビ画面で見るその人は、ある時は泣き、ある時は激高し、だから私は、その人が闘って来た9年という長い歳月を思い、その苦しみの計り知れない重さを思った。

しかし、それでもなお、元少年に対する死刑判決は妥当だったのか?という疑問が残る。マスコミを通じての大量の情報と、ネットを通しての僅かな情報しか持たない私には、「分からない」としか答えはない。マスコミ情報は餃子事件の時もそうだが、極めて信憑性に欠けるものも多く、それに振り回されてはいけないと思って来た。

しかし私が裁判員になって、もし、このような事件を扱ったら「分からない」では済まないだろう。この少ない情報の中で「死刑判決は妥当」という結論は出せないし、ではどのような量刑が妥当なのか?というのも答えが出せない。今言うべきことは「死ね!死ね!」でもないし「本村さん頑張って!」でもないと思う。

本村氏が記者会見の最後に語っていた「社会全体でこの事件を考えて欲しい、でなければ妻も子どもも、加害者である少年の死も犬死になってしまう」という言葉に共感する。

裁判とは、冷静に状況証拠や証言の積み重ねを検証することで事実を争うものだとしたら、マスコミの報道や被害者家族の訴えに影響されてはならないと思う。

極めて歯切れの悪い投稿で申し訳ないけれど、とても難しい事件で、スパッと結論はでないなーと思う。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと(4/30)」より
パンドラ
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夫殺害・三橋被告(東京地裁判決)について

2008-05-06 21:22:09 | 社会問題
http://easyform.net/bn/Fr.exe?Parm=kp!P0036A
 『護憲+』 資料館 (キーワード検索画面)
 ※キーワード:「夫殺害」 ⇒ 
年 月 日            内                     容          分   類
2008/04/29 中国新聞・社説: 夫殺害・切断で判決 鑑定の意味どこにある ※三橋歌織被告(33) [14] 社会・政治・ほか
2008/04/29 朝日・社説: 刑事責任能力―裁判員に分かる鑑定を ※夫殺害切断:三橋歌織被告 [14] 社会・政治・ほか
2008/04/28 歌織被告に懲役15年 夫殺害・切断 東京地裁判決 責任能力認める [14] 社会・政治・ほか
2008/04/28 夫殺害切断:三橋歌織被告に懲役15年の判決 東京地裁  ※裁判官が(鑑定)専門家以上? [14] 社会・政治・ほか
2008/04/28 <動画>夫殺害、三橋被告に懲役15年判決  ※異議あり・感情(バッシング)裁判にも [10] 日本国憲法
2008/04/10 <動画>渋谷・夫殺害し切断、懲役20年求刑  ※証拠(鑑定)からすれば無罪 [10] 日本国憲法
2008/02/13 被告の精神鑑定結果、口頭で 渋谷・夫殺害 来月報告  ※訴訟経済のみを追わないよう [14] 社会・政治・ほか
以 上

 http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh200804290145.html
 中国新聞・社説: 夫殺害・切断で判決 鑑定の意味どこにある ※三橋歌織被告(33)

「刑事責任能力―裁判員に分かる鑑定を」という問題意識より、「鑑定の意味はどこにあるのか」との問いの方が、この問題では適切なように思う。本件についても、また、裁判員制度を迎えるにあたっても。

卒直に言って、鑑定意見(被告は心神喪失)を肯定しながらの、東京地裁独自の判断(被告には責任能力があった)には、疑問を感じざるを得ない。或いは“懲役15年”という刑のみに意を用いたのかとも感じたりする。判決言渡し後の反響を斟酌し、或いはその落し所?保安処分?としての判断か、と。確かに、その後、TVやマスコミは、熱狂的報道をやめ、身を潜めたかのように見える。しかし、このような「不明朗な」裁きには反対だ。

そもそも、専門的な意見(見解)を必要としたから、検察・弁護人ともにその申請をし、その意義を認め、鑑定人の意見を裁判所も聴取した筈であり、また、たまたま双方の鑑定人意見が「被告は事件当時、心神喪失」と一致した判断を示し、これを不服とした検察が再鑑定の申立てをしたところ、裁判所はこれを(必要なしとして)却下したのだった。その挙句が、裁判所独自判断として「心神喪失ではない(責任能力あり)」としてしまおうとは、余り予見できなかったのではないか。その言い分は、「責任能力あり・なしは、裁判(法律)上の判断だから、鑑定意見に拘束されない」とのものらしい。
 
確かに裁判官は日本国憲法以下の法律とその良心のみに従い判断を下すその独立した立場は、その通りであり、色んな評価に晒される厳しい社会的立場でもあるだろう。しかし、だからといって、個別の裁判官(裁判所)が全能の神であろう筈もないし、そのようなことを法律も想定していないではないかと思う。鑑定人の制度も法律上のものである。また、現代社会においては、各方面で専門性を尊重する場面は増えて行っているのであって、この方向性は許容すべきではないかと思う。鑑定意見が食い違っている場合、どちらを採用するか、或いはどの場面ではどちらの所見を判断の基礎とするか、それは裁判官・裁判員(裁判所)の常識(良識)で判断されて良いことだろう。

更に、この先(1年後)裁判員制度導入が待っているわけだが、このときは、当然、職業裁判官は、他の一般裁判員と役割分担して、審理・判断を担当するわけであって、“全知全能”を発揮する(すべき)場面は想定されていない(筈)。…むしろ職業裁判官は、妙な(異常な)指導性発揮がないよう、警戒(自戒)すべきことではないかと思う。
 
また、今回のように、検察・弁護双方の鑑定人意見が一致するようであれば、ずばり「尊重する(しなければならない)」という取り扱いであってよいように思う。最高裁判所の立場も、これとさほど違うようには思われない。

最後に、この事件への異様な関心、取り上げ方、好奇心等々、非情に気に懸かった。被告への社会的バッシングが終始あったといっても良い。被告は、本件判決への不服申立て(控訴)しないそうだが、こうした社会的バッシングがその判断の背景になったとすれば、裁判所の責任能力ありの判断も含め、極めて遺憾に思う。これでは(現状)、「法の支配」と似て、非なるものではないか。

(注)
  責任能力『ウィキペディア』
   ■心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び観察等に関する法律

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
蔵龍隠士
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5・6読売社説「防衛省改革」提言

2008-05-06 15:54:13 | 安全・外交
5月6日付・読売社説のタイトルは「防衛省改革 極力、慎重に議論を進めよ」である。
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080505-OYT1T00531.htm?from=any

読売の社説に納得できたのは、渡辺恒雄氏が実権を握ってから久し振りではないだろうか。

社説の論旨は、現在防衛大臣と自民党防衛部会が検討中の防衛省改革案に対しての提言である。改革の方向性の細部までは分からないので何とも言えないが、それでも社説の最後で「そもそも防衛省改革の原点は、給油量取り違え、情報漏洩(ろうえい)、前次官の汚職、艦船衝突など不祥事の再発防止だった。今の改革は無関係な方向に進んでいないか、と懸念する関係者は少なくない。分かりやすい説明が必要だろう。」と指摘している。小生もこれまで不祥事発生の解明が先決で手順が逆であり、これでは便乗改革であると指摘してきたので、この見解には納得である。

しかし文民統制の最高責任者である内閣総理大臣と防衛大臣が自衛隊の在り方を規定する憲法9条を遵守しようとせずに、解釈改憲を容認したり、特別法で憲法9条をないがしろにするようでは、いくら立派な防衛省改革を導入しても隊員の魂は入らず形骸化するのは時間の問題であることを、読売の社説には指摘したい。

現状憲法9条がある以上、文民統制の最高責任者がそれを遵守するのは当然であり、解釈改憲で集団的自衛権を行使できる等とは口が裂けても言うべきではない。最大の問題は改憲したいのは自衛隊の制服組より文民統制を担う政治家であり、一部のメディアではないのかと言うことである。

政治家は集団的自衛権を持ちたいのであれば、なし崩しの解釈改憲で論じることではなく憲法改正で堂々と論ずべきであり、解釈改憲と改憲には厳然と一線を画すべきである。かっての安倍内閣のように集団的自衛権は解釈改憲でも可能であると言い、目的のためには手段を選ばぬようでは、文民統制の自衛隊トップとして自衛隊内部にも信頼は得られないであろう。

集団的自衛権の行使で戦闘に参加し最大の犠牲を払うのは政治家ではなく自衛隊員である。集団的自衛権推進論者は「仲間がやられるのに黙って見ていられるか」と言うが、先ずは何よりも戦闘をしないこと、自衛隊員の生命を守ることが第一であり、それが憲法9条の理念に通じるものであり、政治家の務めのはずである。

自衛隊の最高責任者である総理大臣と防衛大臣は自衛隊を改革しようと思うのならば、先ずは日本の自衛隊の在り様を規定した憲法9条を遵守し、その範を自衛隊に示すべきである。それなくして自衛隊の真の改革は有り得ない。

「護憲+BBS」「自民党政治を検証する」より
厚顔の美少年
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子供たちの今と未来のために

2008-05-05 21:14:49 | 憲法
子供の日の今日、三歳の孫を連れて近くの公園に行きました。あいにくの曇り空でしたが、両親や祖父母に見守られて、滑り台を滑ったり、ブランコに乗ったり、駆け回ったり、ボール投げをしたり、シャボン玉を飛ばしたりと、思い思いに遊ぶ幼い子供たち、お弁当を囲む家族の姿がありました。本当に平和。欠乏も心配も恐怖もない。全身に喜びと楽しさを漲らせた子供たち。

5月4日から、幕張メッセで「9条世界会議」が開催されています。4日の全体会議の冒頭では、マイレッド・コリガン・マグワイアさんやコーラ・ワイスさんから、今もなお世界で貧困、病気、無学、人権侵害、テロ、環境破壊が起きていて、それを解消させると称して戦争が起こされている、その結果沢山の罪のない子供たちが殺され、傷つけられているという現実が語られました。

全体会議第一部の最後には、広島の中学3年生のひと言メッセージを元に作られた「ねがい」が、様々な国の人たちによって様々な言語で歌われました。『もしもこの頭上に落とされたものが、ミサイルではなく本やノートであったなら』の言葉に、世界中の人々の素朴で切実な願いが込められていて、胸に迫るものがありました。

日本の憲法13条は、『すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』と謳っています。

そして、前文では『われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する』と、9条では『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』『国の交戦権は、これを認めない。』と規定しています。

「9条世界会議」は、9条の「武力によらず平和を作る」という考え方を世界で生かしたいと呼びかけています。4日の全体会議でコーラ・ワイズさんは、「戦争を止めましょう。そのためにあなたは何をしますか?」と問いかけました。

公園で屈託なく遊ぶ目の前の子供たちが、未来に於いても個人として尊重され幸福に生きられる社会であって欲しい。同様に、世界の子供たちも恐怖や欠乏のない環境で生きていって欲しい。世界の子供たちの今と未来のために、大人として何ができるか。今年の子供の日は、孫たちの弾ける笑い声を聞きながら、世界の子供たちの幸福にも思いを馳せた一日となりました。

「護憲+コラム」より
笹井明子
コメント (1)
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東京新聞5/3付けの社説

2008-05-05 07:53:26 | 憲法
5月3日憲法記念日の東京新聞の社説が秀逸だったので、転載いたします。http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008050302008501.html

+++++++++ 憲法記念日に考える~「なぜ」を大切に ++++++++++++++++++++++++

日本国憲法の規範としての力が弱まっています。現実を前に思考停止に陥ることなく、60年前、廃墟の中で先人が掲げた高い志を再確認しましょう。

昨年7月、北九州市で一人暮らしの男性が孤独死しているのが発見されました。部屋にあった日記に生活の苦しさがつづられ、最後のページには「おにぎりが食べたい」と書いてありました。

男性はタクシー運転手をしていましたが腎臓の病気で働けなくなり、4月まで生活保護を受けていました。病気が少し良くなり、福祉事務所の強い指導で保護を辞退したものの働けず、にぎり飯を買うカネさえなかったようです。

「忘れられた公平、平等」

全国各地から生活に困っていても保護を受けられない、保護辞退を強要された、などの知らせが後を絶ちません。憲法第25条には「」全ての国民は、健康で文化的な生活を営む権利がある」とあるのに、どうしたことでしょう。

国が抱える膨大な借金、将来の社会を支える若者の減少など、日本は難局に直面しています。しかし、最大の要因は弱者に対する視線の変化でしょう。

行き過ぎた市場主義、能力主義が「富める者はますます富み、貧しい者はなかなか浮かび上がれない」社会を到来させました。小泉政権以来の諸改革がそれを助長し、「公平」「平等」「相互扶助」という憲法の精神を忘れさせ、第25条は規範としての意味が薄れました。

リストラでよみがえった会社の陰には職を失った労働者がたくさんいます。「現代の奴隷労働」とさえ言われる悪条件で働くことを余儀なくされた非正規雇用の労働者が、企業に大きな利益をもたらしています。

年収200万円に満たず、ワーキングプアと称される労働者は1,000万人を超えると言われています。

「黙殺された違憲判決」

安い賃金、不安定な雇用で住居費が払えず、インターネットカフェや漫画喫茶に寝泊りしている人が、昨年夏の厚生労働省調査で5,400人もいました。これは推計で、実際はもっと多そうです。

憲法には第25条のほかに「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(第27条)という規定もあります。

「なのに、なぜ?」---ここにも、そう問いたい現実があります。

「戦力を持たない」(第9条第2項)はずの国で、ミサイルを装備した巨艦に漁船が衝突されて沈没しました。乗組員2人はいまだに行方がわかりません。「戦争はしない」(同条第1項)はずだった国の航空機がイラクへ行き、武装した多国籍兵などを空輸しています。

市民の異議申し立てに対して、名古屋高裁は先月17日の判決で「自衛隊のイラクでの活動は憲法違反」と断言しました。「国民には平和に生きる権利がある」との判断も示しました。

しかし、政府は判決を黙殺する構えで、自衛隊幹部の一人は人気お笑い芸人のセリフをまね「そんなの、かんけえねえ」と言ってのけました。「判決は自衛隊の活動に影響を及ぼさない」と言いたかったのでしょうが、「憲法なんて関係ねえ」と聞こえました。

イラク派遣反対のビラを自衛隊官舎に配った東京都立川市の市民は住居侵入容疑で逮捕され、75日間も拘置された末に有罪とされました。団地の新聞受けにビラを静かに入れて回っただけなのに「他人の住居を侵し、私生活の平穏を害した」というのです。

ビラ配布は、組織、資力がなくても自分の見解を広く伝えることができる簡便な手段です。読みたくなければ捨てればいいでしょう。それが犯罪になるのなら憲法第21条が保障する「表現の自由」は絵に描いたモチです。

これでは、民主主義にとって欠かせない自由な意見表明や討論が十分できません。

国民から集めた税金で職場にマッサージチェアを設置したり豪華旅行をするなど、「全体の奉仕者」(第15条第2項)である公務員による私益優先のあれこれが次々明るみに出ました。

長い間に「主権在民」(前文)が無視されて、主権在官僚のようなシステムが組み上げられてしまったのです。

憲法は政府・公権力の勝手な振る舞いを抑え、私達の自由と権利を守り幸福を実現する砦です。

「国民の砦を守る責任」

憲法を尊重し擁護するのは公務員の義務(第99条)です。国民には「自由と権利を不断の努力で保持する」責任(第12条)、いわば砦を守る責任があります。

その責任を果たすために、一人ひとりが憲法と現実との関係に厳しく目を光らせ、「なぜ?」と問い続けたいものです。

**********************************

本当に・・・なぜ?なぜ?だらけです。
①「自衛隊イラク派遣は違憲」を冒涜する自衛隊幹部を、なぜ懲戒処分にしないのでしょうか?
②シビリアンコントロールを働かせない防衛省次官を、なぜ防衛省大臣は更迭しないのでしょうか?
③違憲判決を無視して活動を続けさせる政府を、なぜ解散させられないのでしょうか?
④そんな政治家・官僚を検挙しない警察が、ビラ配布の市民を逮捕・拘留した。この不作為や恣意的運用をした警察官僚を、なぜ罰しないのでしょうか?
⑤「道路特定財源は道路行政ならば何にでも使える」と拡大解釈して市町村にハコモノ予算をバラまいたり官舎・旅行・マッサージを満喫する官僚の不作為を、なぜ罰することができないのでしょうか?
⑥弱い生活保護対象者には費用をケチり、恫喝する悪質な生活保護対象者には言いなりになる。こんな職務怠慢な役人とそれを動かす官僚は、なぜ懲戒処分にできないのでしょうか?

なぜ、なぜ・・・ああ、東京新聞さん。脳ミソの血管が切れそうです。品川正治さま、「護憲」の旗竿を持つ手が壊死しそうです。

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
猫家五六助
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年金天引き(政策転換?) の件

2008-05-04 23:43:24 | 社会問題
http://news.tbs.co.jp/20080502/newseye/tbs_newseye3843049.html
<動画>後期高齢者医療、低所得者の対応検討 ※月額6万6000円(基礎年金)以下年金受給者:保険料免除?(5/2)
 >後期高齢者医療制度について、厚生労働省は月額6万6000円の基礎年金以下の年金受給者の保険料を免除できないか、検討を開始しました。
 >後期高齢者医療制度については福田首相が30日、「財源が必要なら、道路整備特別会計などの無駄を排除しねん出する」と述べています。(02日19:20)

このニュースを見た時、「ふざけんな」と思いましたね。というのも、この年金天引き、その酷さに気づかされていたから。下記にあるような貴重な異議申し立て者たち、その悲痛な訴え、辛吟、その闘いへの思いもあったからです。
 
概略を先にしますが、年金天引きは、先ず介護保険料の天引きから実行されました。当時、余り大きな反対(抵抗)の声になりませんでしたが、きちんと『これでは堪らん』と、生活の困難の中から、声を上げた方々はいたのです。

それが、「介護保険料に怒る一揆の会」の方々です。原告となったのは、福井宥氏です。そして、第1審、第2審と、原告と弁護団は、闘って来ましたが、いづれも棄却判決(原告敗訴)です。
 
例えば、第1審判決では、「3つの争点について判断を示していますが、何れの論点についてもそれは立法裁量であり、行政裁量に委ねられており、当不当の問題はあるにせよ裁量権の逸脱、又は濫用があるとは言えず、法及び本件条例が著しく合理性を欠き、明らかに裁量権を逸脱・濫用しているとはいえない、等々とする」もの。第2審判決では、「当裁判所も,法及び本件条例が憲法14条,25条及び13条に違反するとは認められず、云々」とした。
 
こういう一節もある。「(4) 控訴人は、保険料の5段階設定は、無収入者や住民税非課税世帯からも保険料が徴収されるのに対し、所得が250万円以上ある者はいくら所得があっても、最低保険料額の3倍しか保険料が賦課されないから、保険料の逆進性が著しく、法14条で保障される平等権に反すると主張する。」
 
他にも詳細なことが述べられているので或いは、後で検討することになろうか、と思っていた。冒頭の、政府の方針転換(ニュース)が聞えてくるまでは。

年金天引きの基本は、似ているが、後期高齢者医療制度の場合、天引きできる限度額が、月1万5千円となっている。しかし、月1万5千円など、高齢者の生活の最低限の保障になっていると、何故言えるのか。強弁(合法化)できるのか、解しかねる。無論、年金など当てにしないで生活できる生活基盤と蓄えを保有する方も多かろうが、かように、異議申し立てがある以上、(政策・法律の)当不当の問題はもとより、甚だしい場合には、政府の人権保障違反に至る場合もあり得る筈であって、一概に、三権分立だの、立法権の裁量などと言い放って、人権が保障されるわけも無い。現に、年金天引きを苦にして、一家心中に追い込まれた者まで伝えられている。為政者としての責任感、使命感があれば、勝手に死んだと言って言い訳がない。

それに政治の有り様や政策の当不当を棚上げするために、政府やその支持者(司法を含む)が、こういう三権分立或いは間接民主主義制度(建前)論に逃げる時、常に胡散臭い恣意的な結論が用意されているように見える。要注意だと思う。

それが今度は、「単身世帯で月額6万6000円以下などの低所得者からは、保険料を徴収しない」というのだ。基礎年金のみが収入の者で、月額6万6000円以下であれば、年金天引きはないことになる(実現すれば)。
 
この最後の首相の言い回しには、従来の道路特定財源から年金等社会保障関係費に支出しようとする狙い、意欲もあるのではあろうが…それは、一向に構わない。一般財源化を支持する立場から、当然のことでもあろう。

☆添 付☆
 http://www.eonet.ne.jp/~ombudsman/ikki-chinsyagennkou.htm
 介護保険料に怒る一揆の会: 「一揆の会」と介護保険料違憲訴訟 (4/17)
 >はじめに
  
  >2000年秋、65歳以上の「第1号被保険者」の介護保険料徴収が始まった。介護保険制度実施から半年、全国の高齢者達は介護保険が何たるかを身をもって知ることになった。「長年働いてやっと手にしたわずかな年金から介護保険料を天引き」「無年金・無収入でも保険料がとられるのか」「医療費の引き上げに介護保険料で追い討ち。年寄は早く死ねということか」など、全国の市町村の介護保険担当窓口にはごうごうたる苦情・問合せが殺到し、列島騒然状態であった。
  
  >この高齢者の怒りと不満を集め、大阪で始まった「介護保険料一揆」は、2年後の今日、1300件(2001年度)、900件(2002年度)を超える集団不服審査請求運動へと拡大し、介護保険料の「違憲性」を問う3件の裁判闘争へと発展してきた。また、九州や関東にも飛び火し、全国的な広がりを見せてきている。「一揆の会」運動は、高齢者一人ひとりの自発的な結集を基礎に主権者としてあらゆる争訴権を集団的に行使して行政に果敢に抵抗する新しい型の社会保障闘争と言える。大阪の自治体窓口で介護保険業務に従事する傍ら、介護保険料不服審査請求の普及と一揆の会の立ち上げを援助させていただいた1人として、「一揆の会」運動と介護保険料違憲訴訟の意義と内容について紹介する。

 http://houmu.h-chosonkai.gr.jp/hanrei/jirei130.htm
 介護保険料賦課決定処分取消請求控訴事件(大阪高裁:平成18年07月20日)  (4/17)
 http://www.hasebe-atushi.jp/kakehashi-h50.html
  長谷部あつし web site: 後期高齢者医療制度のしくみと目的  ※「天引き」根拠法

 http://www.houko.com/00/01/S34/141.HTM
 国民年金法 
 >(国民年金制度の目的)第1条 国民年金制度は、日本国憲法第25条第2項に規定する理念に基き、老齢、障害又は死亡によつて国民生活の安定がそこなわれることを国民の共同連帯によつて防止し、もつて健全な国民生活の維持及び向上に寄与することを目的とする。
  (国民年金の給付)第2条 国民年金は、前条の目的を達成するため、国民の老齢、障害又は死亡に関して必要な給付を行うものとする。
 http://www.houko.com/00/01/S29/115.HTM
 厚生年金保険法
 >(この法律の目的)第1条 この法律は、労働者の老齢、障害又は死亡について保険給付を行い、労働者及びその遺族の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とし、あわせて厚生年金基金がその加入員に対して行う給付に関して必要な事項を定めるものとする。
 http://www.houko.com/00/01/S22/049.HTM
 労働基準法 第3章 賃 金
以下、割愛

「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
蔵龍隠士
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「9条世界会議」ピースウォーク(広島から幕張へ)

2008-05-03 23:25:18 | 憲法
九条世界会議を目指して広島の原爆ドーム前から歩き始めたピースウォークに、茅ヶ崎から藤沢まで参加した人から聞いた話です。

「ふらふら歩いているアメリカ人と隣り合わせになったので話をした。イラクからの帰還兵で、イラクで上官の命令で 戦車で民家に突っ込んで7歳と11歳の子供をひき殺した。兵隊を続けることにとても耐えられなくて、除隊、退職金を持って子供を殺した家に償いに行った。そこの親は、子供一人への償いにヤギを一頭づつもらいたいとのことだった。その元兵士がふらふらしていたのは、断食しながらピースウォークに参加していたためだという」

そのピースウォークも明日幕張に到着です。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
松林
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元裁判官への叙勲は妥当か?

2008-05-03 22:24:12 | 社会問題
今年も4月29日に春の叙勲が政府より発表された。この中の瑞宝重光章に元高等裁判所長官・判事が併せて9名、その他の章にも若干名の元裁判官が含まれている。叙勲は退官後約5年以上の高裁以上の裁判官経験者が多いようだ。問題はこのような元裁判官に対する叙勲が果たして三権分立に照らして妥当か、ということである。

日本は曲がりなりにも三権分立の国である。曲がりなりという理由は、裁判官の指名・任命権は内閣にあると憲法6条・79条・80条に規定されているからである。そして一方では、現実に立法府(国会)の権能や行政府(内閣)権能も裁判せねばならない立場が司法であり裁判官である。

具体的には都会と地方の参議院議員数の比率も適正か否かが裁かれている。また自衛隊の行動も常に憲法9条に照らして訴訟が提起されている。そして裁判の結果、国会・行政府に不利な判決であれば、為政者は知らん振りか裁判への軽視発言が今や常識である。一方裁判所は憲法判決を迫られれば判断回避が慣習化している。

このような立法・司法・行政の三権の独立を歪めるような関係を助長若しくは追認するような元裁判官への叙勲制度は、今まで気にとめなかったが良く見ると何か異常である。

三権分立の制度に照らした場合、果たして元裁判官が行政府から叙勲されることが適正であろうか、これまでの常識は非常識だったのではないかと思う。過去から行われてきた慣習に慣らされ何ら疑問を感じずに来たところにも、国会議員や行政府の大臣が判決を軽視し、三権分立が形骸化しつつある原因があるように思う。

叙勲制度を全面廃止せよとは言わないが、元裁判官が叙勲されることは三権分立の建前から見ても不適切である。元裁判官も何の矛盾も感じずに叙勲に甘んじている鈍感さには驚かされる。更に叙勲される裁判官とされなかった裁判官は同じ裁判官としてどこが違うのか、職務内容として優劣を付けられる問題ではないはずである。

敢えて元裁判官の叙勲制度を認めるのであれば、国民から見て妥当な叙勲は「長沼ナイキ判決」で自衛隊の違憲判決を下した元札幌地裁の福島重雄裁判官と先の名古屋高裁でイラクへの自衛隊派遣を違憲と判断した青山邦夫裁判官くらいであろう。その理由は憲法判断の訴訟に対して逃げずに正面からに踏み込み判決を下したからである。果たしてこれまで叙勲された元裁判官は憲法判断を回避しなかったか、国民の目線に立って行政裁判をしてきたか自問してみて欲しい。そうすれば元裁判官への叙勲制度が適切か否かも分かるはずである。

参考までに、Yahoo検索欄から引いた叙勲の在り方について取り上げているサイトを掲載する。この機会に元裁判官への叙勲の非常識を問いただそう。
http://www8.cao.go.jp/intro/kunsho/
http://www.collectors-japan.com/nevada/content/c050501_4.html

「護憲+BBS」「裁判・司法行政ウォッチング」より
厚顔の美少年
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