日経ニュースによれば、「文化放送(東京)は6日、報道特別番組「死刑執行」で、実際に死刑が執行される瞬間の音を放送した。裁判員制度の導入を前に、死刑の実態を伝えるのが目的」と報じている。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080507STXKC014806052008.html
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080430STXKC020929042008.html
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080417AT1G1702N17042008.html
例え死刑囚であろうとも人の命の尊さに違いはない。勇気ある報道番組だと思う。
一方、光市母子殺害事件の遺族の本村氏は、判決後の記者会見で「被告と妻と娘の3人の命が奪われることになった。これは社会にとって不利益なこと、これで終わるのではなくどうすれば加害者も被害者も出ない平和で安全な社会を作れるのかということを考える契機になれば」と語っていた。これは、社会を含め国と裁判官への訴えではないかと思う。
殺人は悪いに決まっている。被害者の無念と残された遺族の悲しみと哀れも分かる。同情は当然である。しかしそれを承知で敢えて死刑制度に反対である。何故ならこの世に完璧な人間はいない。犯罪は人間が持って生まれた性ではないかと思う。その性を押さえらる人と押さえ切れずに罪を犯した人の違いや差は何であろうか。例えば犯罪者と全く同じDNAを持ち同じ環境と同じ教育のレベルに置かれ育ったとすれば、自分は犯罪を犯さないと断言できるであろうか、小生には自信は持てない。
現実には人間は生まれながらにDNAは違い、育つ環境も受ける教育も違う。少年時代まではその置かれた環境を自分では殆ど選択できない。どのような家庭に生まれ育つかは、その子の運命である。生まれた環境が悪ければ、生きるための本能は暴走し犯罪を引き起こす。そして、この本能を制御できるのもまた、生まれ育った環境であり、中でも教育が最大の要素であろう。
それでは犯罪が極力発生しない環境と教育は誰が作るのか。それを個人や家庭に求めるには自ずと限界がある。それは国の役割であろう。しかし、それは日本のように犯罪を取り締まる警官を増やすことではなく、裁判で死刑判決を増やすことでもない。まして死刑執行を増やすことでもない。これでは被害者の感情を汲み、癒すことはできるかもしれないが、人間に潜む罪の性を制し、正しく導くことはできない。そのような犯罪の事後対策ではなく、犯罪が発生しないような事前の社会政策こそ必要である。
本村氏は確かにメディアを通して死刑を強く訴えてきた。しかし本村氏の言わんとするところは、突き詰めれば「犯罪被害者の権利」のはずである。近代法は私刑による報復を禁じている。その延長線上で、国家権力(警察・検察)によって犯罪被害者は何の申し立ても許されず、権利や感情が疎外されてきた。それが本村氏の訴えで大きく改善されたことは大いに評価すべきである。
しかし、メディアは常時殺害された母子の写真をクローズアップし、視聴者の感情に訴え、死刑要望を終始誇大に報道し、それによって最高裁までが翻弄され、応報感情に同調し、頻発する凶悪犯罪の防止策として死刑を広島高裁に選択させたように思われてならない。
知的特権階級である裁判官は、死刑判決に犯罪防止を委ねるのではなく、むしろ死刑判決を減らして、犯罪が増加している国の社会政策にこそ警鐘を鳴らすべきである。それが本村氏の記者会見での訴えに応えることではないだろうか。それとも裁判員制度スタート後に、裁判員の死刑忌避の常識に託すつもりであろうか。
「護憲+BBS」「裁判・司法行政ウォッチング」より
厚顔の美少年
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080507STXKC014806052008.html
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080430STXKC020929042008.html
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20080417AT1G1702N17042008.html
例え死刑囚であろうとも人の命の尊さに違いはない。勇気ある報道番組だと思う。
一方、光市母子殺害事件の遺族の本村氏は、判決後の記者会見で「被告と妻と娘の3人の命が奪われることになった。これは社会にとって不利益なこと、これで終わるのではなくどうすれば加害者も被害者も出ない平和で安全な社会を作れるのかということを考える契機になれば」と語っていた。これは、社会を含め国と裁判官への訴えではないかと思う。
殺人は悪いに決まっている。被害者の無念と残された遺族の悲しみと哀れも分かる。同情は当然である。しかしそれを承知で敢えて死刑制度に反対である。何故ならこの世に完璧な人間はいない。犯罪は人間が持って生まれた性ではないかと思う。その性を押さえらる人と押さえ切れずに罪を犯した人の違いや差は何であろうか。例えば犯罪者と全く同じDNAを持ち同じ環境と同じ教育のレベルに置かれ育ったとすれば、自分は犯罪を犯さないと断言できるであろうか、小生には自信は持てない。
現実には人間は生まれながらにDNAは違い、育つ環境も受ける教育も違う。少年時代まではその置かれた環境を自分では殆ど選択できない。どのような家庭に生まれ育つかは、その子の運命である。生まれた環境が悪ければ、生きるための本能は暴走し犯罪を引き起こす。そして、この本能を制御できるのもまた、生まれ育った環境であり、中でも教育が最大の要素であろう。
それでは犯罪が極力発生しない環境と教育は誰が作るのか。それを個人や家庭に求めるには自ずと限界がある。それは国の役割であろう。しかし、それは日本のように犯罪を取り締まる警官を増やすことではなく、裁判で死刑判決を増やすことでもない。まして死刑執行を増やすことでもない。これでは被害者の感情を汲み、癒すことはできるかもしれないが、人間に潜む罪の性を制し、正しく導くことはできない。そのような犯罪の事後対策ではなく、犯罪が発生しないような事前の社会政策こそ必要である。
本村氏は確かにメディアを通して死刑を強く訴えてきた。しかし本村氏の言わんとするところは、突き詰めれば「犯罪被害者の権利」のはずである。近代法は私刑による報復を禁じている。その延長線上で、国家権力(警察・検察)によって犯罪被害者は何の申し立ても許されず、権利や感情が疎外されてきた。それが本村氏の訴えで大きく改善されたことは大いに評価すべきである。
しかし、メディアは常時殺害された母子の写真をクローズアップし、視聴者の感情に訴え、死刑要望を終始誇大に報道し、それによって最高裁までが翻弄され、応報感情に同調し、頻発する凶悪犯罪の防止策として死刑を広島高裁に選択させたように思われてならない。
知的特権階級である裁判官は、死刑判決に犯罪防止を委ねるのではなく、むしろ死刑判決を減らして、犯罪が増加している国の社会政策にこそ警鐘を鳴らすべきである。それが本村氏の記者会見での訴えに応えることではないだろうか。それとも裁判員制度スタート後に、裁判員の死刑忌避の常識に託すつもりであろうか。
「護憲+BBS」「裁判・司法行政ウォッチング」より
厚顔の美少年