(2)で書いた母校の後輩が作った冊子の中に、憲兵のことを書いた手記があった。
一人は作業中に教師によびだされて憲兵を紹介され、協力するように言われる。憲兵は彼女を別室に連れて行き、工場内の戦争反対者を告発しろと申し渡す。
周囲の生徒たちにはいなかったが、同じ部屋で働いていた大人たちの中には、「この戦争はもう負けだ」などといっている人達もいたが、知らないと言ってもしつこくくいさがってくる。
考えて別の話を喋りまくったら、わざわざ家までやってきて、娘に協力させろと母親にいう。母は、「親類に憲兵少将(実はすでに亡くなっていた)がいるから相談する」と言ったら、それからはいってこなかったとか。
なぜ私にこんなことをさせたのかと先生を多いに恨んだが、今考えてみるとカトリックの学校はとかく異端視されていたし、当時の憲兵に言いつけられれば先生はとても断れなかったのだろう、とこの筆者は書いている。
もう一人は、憲兵が書かせたとは知らずに書かされた感想文に、通勤の列車の中で「もう日本は負けるなあ」と話しているのを聞いて、そういうことは言ってほしくないといったことを書いた。
すると憲兵に呼び出され、誰が言ったのか教えろと迫られたという。応えないでいると何日も憲兵に呼び出されて同じ質問をされ、仕舞いにはいつも一緒に通っている友達まで呼び出されて大変迷惑をかけてしまった、また、家の近所にもそういうことを言う人はいないかと問いかけたとも。この筆者は、その後のことは書いていない。
この体験をしたのは14歳くらいの時で、書いているのは終戦後50年以上たっている、つまり60歳を超えている、ということを頭に入れて読んでいただきたいと思う。
しかし、当時は、労働運動も法的に認められていなかった、つまり牢屋入り覚悟でなければできなかったし、マルクスの資本論が本棚にあっただけでも捕まったという時代だが、まさか「日本が負ける」といった言葉で、勤労動員の14歳くらいの少女に憲兵がそういう対応をしたとは知らなかった。実際に、たとえばその工場で、その憲兵が捕まえた人があるのかどうかは知るよしもない。
憲兵と特高。まさに「物言えば唇寒い」時代であった。
「護憲+BBS」「戦争体験者の証言」より
松林
一人は作業中に教師によびだされて憲兵を紹介され、協力するように言われる。憲兵は彼女を別室に連れて行き、工場内の戦争反対者を告発しろと申し渡す。
周囲の生徒たちにはいなかったが、同じ部屋で働いていた大人たちの中には、「この戦争はもう負けだ」などといっている人達もいたが、知らないと言ってもしつこくくいさがってくる。
考えて別の話を喋りまくったら、わざわざ家までやってきて、娘に協力させろと母親にいう。母は、「親類に憲兵少将(実はすでに亡くなっていた)がいるから相談する」と言ったら、それからはいってこなかったとか。
なぜ私にこんなことをさせたのかと先生を多いに恨んだが、今考えてみるとカトリックの学校はとかく異端視されていたし、当時の憲兵に言いつけられれば先生はとても断れなかったのだろう、とこの筆者は書いている。
もう一人は、憲兵が書かせたとは知らずに書かされた感想文に、通勤の列車の中で「もう日本は負けるなあ」と話しているのを聞いて、そういうことは言ってほしくないといったことを書いた。
すると憲兵に呼び出され、誰が言ったのか教えろと迫られたという。応えないでいると何日も憲兵に呼び出されて同じ質問をされ、仕舞いにはいつも一緒に通っている友達まで呼び出されて大変迷惑をかけてしまった、また、家の近所にもそういうことを言う人はいないかと問いかけたとも。この筆者は、その後のことは書いていない。
この体験をしたのは14歳くらいの時で、書いているのは終戦後50年以上たっている、つまり60歳を超えている、ということを頭に入れて読んでいただきたいと思う。
しかし、当時は、労働運動も法的に認められていなかった、つまり牢屋入り覚悟でなければできなかったし、マルクスの資本論が本棚にあっただけでも捕まったという時代だが、まさか「日本が負ける」といった言葉で、勤労動員の14歳くらいの少女に憲兵がそういう対応をしたとは知らなかった。実際に、たとえばその工場で、その憲兵が捕まえた人があるのかどうかは知るよしもない。
憲兵と特高。まさに「物言えば唇寒い」時代であった。
「護憲+BBS」「戦争体験者の証言」より
松林