老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

「その時歴史は動いた・シリーズ日本降伏(前編)」と戦争責任

2008-09-09 17:12:33 | 戦争・平和
3日夜のNHKの「その時歴史は動いた・シリーズ日本降伏(前編)」の後半をみました。

その当時も生きていて、その後もその時について相当の関心を持って比較的文献を読んでいる人間として、あの省略の多いというか粗雑な放送には少々怒りを感じました。

14日に近衛師団長を虐殺して偽命令を発し、天皇の録音盤を奪いに皇居内に乱入し、そこを相当時間占拠した陸軍部隊とか、閣議での阿南と米内などの激しいやりとりなど、みんな無視されているのはとても残念でした。

いまの戦後育ちの方たちが、こんな粗雑な放送でなく、もう少し詳しい終戦の記録を読んでくださることを希望しています。

日本は終戦まで陸軍に占領されていたという、なださんが8月15日のブログで紹介されていた安野さんの意見(氏のは軍隊で陸軍ではなかったかもしれませんが)は、とてもあたっていると思います。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
くぬぎ林
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私もNHKの「その時歴史は動いた」で、くぬぎ林と同じような感想をもちました。

それで終戦前夜のことを思い返してみました。 といっても、空襲下、空腹を抱えながら学校工場で3交代でミリングとかボーリングなどの大型機械を操って飛行機のエンジンの部品を作っていた私たちは、新聞も読まず、ラジオも聞かない毎日でしたので、終戦にいたる動きなど知りようもありませんでした。

当時天皇は現人神(あらひとがみ)と呼ばれ、出征するのも、戦うのも、戦死するのも、銃後を守るのも、すべて「天皇のため」といわれていました。なぜ戦争をしているのかなど考えもせず、ひたすら「勝つ」ためにすべて我慢の生活でした。

「戦争が終わったらいい」などと口走れば、たとえば町内会長などに密告されました。母校の女学校の後輩は、工場に動員されていて、憲兵に命じられた教師から「不埒な言動をする生徒がいないか、スパイしろ」といわれたと、当時の記録に書いています。

そういう生活の中での、「終戦の詔勅」は大歓迎でした。まず、今夜から灯火管制(窓に黒幕を張り、電珠を黒い布で覆う)をしなくていいから始まって、実は食べるもの、着るものもない生活はまだまだ続きましたが・・・。終戦を実現するまでのいろいろ知ったのは大分後になってからです。          

軍は戦争を止めるなどという意思は全くなく、本土に米軍を上陸させ、国民一丸となって戦うと言っていたようでした。といっても、武器は竹槍!しかも、内閣などにポツダム宣言受諾の気配が出てきたときには、陸軍では内閣を倒して軍の内閣を作り、戦争を続けるというクーデター計画が進行していた。

何度会議をしても軍の強硬な反対で終戦に持っていけない時に、鈴木首相が「聖断を仰いで」天皇がポツダム宣言を受諾するといわれ、やっと終戦が決定した。あの時、天皇以外の人では戦争を終わらせることはできなかったのです。このことは、天皇の神格化には反対でも認めざるをえません。

しかもそれに納得しない軍の中堅が司令官を殺したり、録音盤を奪いに宮内省に乱入したという一幕もあったのですから、NHKの放送でそこを省略したのは納得できないのです。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
松林
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ポッタム宣言の受諾に昭和天皇の意志が働いていたのはクヌギ林さん松林さんのおっしゃるとおりです。といってすべてをその名において行った天皇の戦争責任が帳消しになったわけではないと思います。

アメリカが占領政策上天皇を免責したのをこれ幸いと、メディアも文化人も共産党以外は「一億総ざんげ」とか言って、天皇を頂点をする指導者層の戦争責任追求ををうやむやにしてしまった。いまだになにかと近隣諸国と摩擦を引き起こすのも、それが元になっているのではないかでしょうか。 

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
宮天狗
コメント
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