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偏愛と放浪の記録

「スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪」(編:ボストングローブ紙〈スポットライト〉チーム /訳:有澤 真庭)

2016-06-24 00:33:37 | 【書物】1点集中型
 本当は映画に興味があったんだけれども、例によって結局観そびれた(どうにも映画館から足が遠いのである)ので本だけでもと読んでみた。
 映画はこの「スポットライト」という記事コーナーを担当する記者チームの活動そのものを描いているそうだが、一方でこの本はそのチームの人々がそうして発表した記事と新たなルポルタージュを1冊にまとめたもの。と、読んで気づいたので、やっぱり映画も観たかった。そしたら自分の理解にも相乗効果が生まれただろうと思う。いっそ、この本(をできれば文庫にして)と映画のソフトをセットにして売ってくれたらいいのになぁと思ったくらい(笑)。

 ボストン・グローブ紙の「スポットライト」が暴き出したのは「ニューイングランド地方きっての権力組織であるボストン司教区の中核で起きたスキャンダル」、つまり「聖職者による性的虐待とその継続を古した組織ぐるみの隠蔽」である。それがまさに、この本の原題「BETRAYAL」の通り、教会が信徒たちに為した「裏切り」なのだ。
 発端は、1人の司祭が30年間にわたって信徒の少年たちに虐待を繰り返していたことを、教会がどの程度把握していたのかを調べ始めたことだったという。それが、調査を進めるうちに問題は当該の司祭だけのことではなく、教会が数多の事例を和解の名のもとに隠蔽し続けていること、また裁判になった事例でもその記録が秘密保持扱いとなっていることなどが見えてくる。

 それらを記事という形にするまでの苦闘については、この本にはほとんど触れられてはいない(そこが映画になっているのであろう)が、これだけの被害者の声を集めるだけでも相当な困難があっただろうことは容易に想像できるし、教会に踏み込んでいくことはそれ以上の激闘になったことだろうと思う。
 司教は虐待の事実を把握しながら、被害者たちに口封じのための和解を強要し、さらに「犯人」である聖職者を別の教区にたらい回しにすることで被害を拡大させた。人々にとって教会とは、聖職者とは、信徒にとっては神の代理人として自分を導いてくれる存在であり、侵すべからざる存在である。被害に遭った子どもたちには、親に虐待のことを告げても信じてもらえないかもしれないと考えてしまったり、あるいは「(聖職者が悪いのではなく)自分にその原因があるのではないか」と思い悩んだりする人も少なくなかった。それだけ宗教が人々の生活や文化に深く入り込んでいることが普通なのだと、この本を読んであらためて実感した。日本のように一般的には宗教とそれほどに深い関わりを持たない国にいると、そんな状況は想像もつかないことだ。

 読めば読むほど、宗教に法や常識が通用しない前時代的な状態がこれほどまかり通っていたとは……と、暗澹たる思いがする。西洋文化における教会の存在の絶大さを、究極にマイナスの結果から示された感じだ。しかも、こうした事件は今だって完璧に根絶したわけではないのである。
 もちろん、聖職者とはいえ人間であるから、普通に考えればどんなことも起こり得る。教職者や警察関係者が罪を犯すのと、その意味では本質的は同じであろうと思う。しかしそれにしても事件の数が桁違いだし、その蔓延ぶりと隠蔽体質は想像を遥かに超えていた。それをこうして隠蔽し続けていた教会の体制は、極端なことを言えばスターリン時代のソ連の体制と変わらないのではないか。

 ようやく、罪を犯した司祭をたらい回しにすることはされなくなってきたようだ。ただ、そうした罪における独身主義の弊害を指摘する声は大きい。しかし「主と教会へ自身を完璧な捧げ物とする独身主義」ということは、教義に基づく考え方考え方としては理解できる(って私は信者ではないんだけれども)。結局は、罪そのものは個人に帰するものではあるけれども、司教をはじめとして聖職者を統べる立場にある組織幹部が、そもそも教えを人々に伝える者として教会がどうあるべきかを今一度考え直さなければ、信徒たちへの対応は変わっていかないのだろう。
 「神の名の下に受けた裏切り」は、信徒たちの心を殺し、回り回って教会とその根本にあるはずの教えの価値そのものを殺すのである。