デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



奈良行博 著『現代中国の道教――庶民に生きる信心文化』(阿吽社)読了。
道教の入門関連書、それも同じ著者の分で二冊目になると内容の充実度で少し不満を覚えるようになった。この著書のコンセプトは道教を自らの足で現地を取材し、これまでの研究を踏まえてタイトルどおり現代中国の道教について書こうとするものだ。もし道教の道観を訪ねたならば大いに活用できる内容だし、決して悪い本ではない労作といえよう。
だが、どこかしら舌足らずなところがあり、読者に中国の道教が現世利益ばかりを追求し、やりたい放題宗教であると勘違いさせる懸念も覚えさせるように思った。道教徒の福・禄・寿を願ってばかりいる面にスポットライトが当たりすぎてはいないか、道教のどの教えでもって信者が道徳をもつにいたるのだろう…?と。
道教も宗教である以上、戒めの要素、教団が事実上の統治をおこなっていた時代があるならば教義を基にした戒律や規制による罰則があるように思うが、著書では習俗の紹介の箇所にちらっと触れているところを拾っていけば、ある程度戒律らしきものはあるのであろうことは察せられるようになってはいるものの、ただ祈って道観に据え付けてある神様たちに賄賂を贈っているのが道教の信者で道徳はその次のような印象を受けたのは、少し残念だった。
その印象を覚える原因は、おそらく、老子の思想と五斗米道や太平道、葛氏道、劉宋以後の天師道のつながりについてのある程度の詳細な記述を省いているところにあると思う。老子の思想と天師道の教理が庶民にとってどのようなものだったのか、儒教でもない仏教でもない道教とはなにか、を狭義の定義として書き始めると、著書の分量に収まらずもう一冊分のスペースが必要になるであろう。そういったことは、私でも察することができるが、一応建前でも道教を狭義に定義した上で、今の中国の道教の変遷と現状について触れてほしかった。前著の『中国の吉祥文化と道教』では今に生きる道教を習俗でもって分かりやすく教えてくれる内容だったから、二冊目は狭義の道教と現代中国に生きる道教を対比して紹介したものであったなら、もっと切れ味の鋭い内容になったかもしれない。

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