映画『芙蓉鎮(ふようちん)』(1987)を見た。
『芙蓉鎮』を見始めて20分ぐらい経つと、イタリア映画の『マレーナ』のことを思い出した。この連想について、なんとなくでもいいので言わんとしていることが少し分かるよ、という方がおられれば幸いである(笑)。
作品は文化大革命直前から革命が終わるまでの時代を扱っている。作品はまた、1980~1990年代に現れた中国の「傷痕ドラマ」の1つといわれるそうだが、たしかにその説明で納得できる。作中の働き者の胡玉音の歩んだ人生だけでなく、彼女のまわりの人たちの人物像に苦々しくも共感を覚えた中国人は多いのではないだろうかと思う。登場人物の一人ひとりにスポットを当てれば、本当に記事がいくつも書けそうなくらいである。
さて、映画を見て私は、時代のうねりが胡玉音を飲み込んでゆく描き方のほかに、どうしても人の感情がいびつな時代のうねりを作ってしまったように思える描写に目が行ってしまうのであった。
私の記憶が間違っていたらご指摘いただきたいが、後に党の「偉い人」となる独身の李国香の営む食堂は「国営食堂」で、谷燕山から公平にいい米を回してもらっていたが、李国香の営む食堂のメシは不味くて客が入らず、片や胡玉音は米カスから美味しい豆腐を作ってよく働き商売を繁盛させていたように思う。李国香はいい米を回してもらっているはずなのに、料理の味や器量で胡玉音に勝てず、国営食堂であることや身内に地方の書記がいてその権力にすがり付くことで、胡玉音に一発お見舞いしようとしている。つまり李国香の「運動」の力を支える動機はただの羨望や嫉妬心なのだ。(頭に花咲いたような感想だが、冒頭の集会の場面の前に、私は「李国香さん、さっさと豆腐の作り方や味付けを主人公に習いに行け」と思ったほどだ(笑))。
李国香が居ろうが居るまいが文革は止まらなかった、だから動機うんぬんは流行らない見方だと思う人もいるかもしれない。ただ、自分に実力が無く、自分一人では何もできないこと、自分が弱い人間であることを自覚しようとしない者はいつの時代でも存在するが、その劣等コンプレックスを自分の腕を磨いて跳ね返すのでなく、他の政治的権力の首にぶらさがって嫉妬の対象を粉砕しようとするという哀れな人間がどう生きてそして生き残っていくのか、その生きる過程で胸に巣くったろう自己韜晦もこの映画の大いなるテーマのように思うのである。
李国香は頭でっかちではあるが、根っからの悪人ではない。しかし、出世して結婚が決まった後の彼女が、美味しい料理を自らの手で作っていくのかどうか、そこはやはり気になるところであった。
| Trackback ( 0 )
|