デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



『ジャン=クリストフ』で、主人公がさまざまな社会的階層の人々と出会ううちに、いつしか大切なことに気づく場面がある。

他の人々との一致的交わりを成就する音楽のみが、ほんとうに生きている音楽である。ヨハン・セバスチアン・バッハはもっとも孤独な最悪の時間のなかで、彼が自分の音楽を通じて表現する宗教的信仰によって自分以外の人々とふたたび結ばれた。ヘンデルとモーツァルトとは否が応でも一般の聴衆のために作曲しなければならなかったのであり、彼ら自身だけのために作曲したのではなかった。ベートーヴェンさえも聴衆を考慮して作曲しないではいられなかった。これは彼のためになることだった。世の一般の人々が天才に向って――
 「君の作る芸術のなかに、ぼくのための何があるのだ? それが全くないから、ぼくは君なんぞに用はない!」
と叫ぶのはいいことだ。
 こんな強制によって天才こそ得をする。たしかに自己をしか表現しないような大芸術家たちは存在する。しかし大芸術家たちのうちの最大の者らは、その心情が万人のために鼓動する人々である。生きている神を眼のあたりに見ることを欲する人は、その「神」を、その「神」の思想世界の荒寥たる天空のなかではなく、人と人との愛のなかに探し求めなければならない。

聴き手によって解釈の仕方はさまざまであるが、とにかく聴き手の心に何かを呼び起こさせるもの、それは作曲した本人から離れても、孫の代以降も聴き継がれるもの。そこに「芸術のための芸術」という言葉はないのかもしれない。
このことと関連して、現代で古典小説といわれるものは、昔のその当時では雑誌や新聞に載っている読み物として、一般の人が読んでいたことを、今の私はもっと意識すべきかもしれない。「古典」だからといって闇雲にありがたがらず、一人の人間が真剣に書き綴った作品として、今となっては昔のものだが今に通じるものとして読んでいきたい。

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