デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



8月末のことだがバルテュス展を鑑賞してきた。

いつもどおり印象に残った作品を挙げ、展に足を運ぶための予習内容とバルテュスの本名や経歴などを照らし合わせる記事にしようと思っていたのだが、展で起こった忌々しいできごとの方がどうにも印象に残り、先にそちらについて書いてしまおうと思う。

美術展では、習作(練習のために作品を作ること、または練習でつくられた作品)の展示が少なくない。デッサン(素描)も含めたら多いといっていい。
バルテュス展にはテート・ギャラリー所蔵の『眠る少女』(1943)という作品が来ていて、その作品が掛けられてある同じセクションに、「《横たわる女》のための習作」(木炭、鉛筆,1948)という素描が展示されていた。二つとも似たような構図の作品である。
それらの作品のある場所でメガネをかけた少し痩せ気味の50代ぐらいの半そで半ズボンのおっさんが、来場者の監視と作品について来場者からの軽い質問があればそれに答えることを兼ねた監視員の女性を相手に息巻いて何やら物申していたのである。
その様子をすぐ横で窺っていたら、どうやらおっさんは、テート・ギャラリー所蔵の完成品が1943年とあるのに、同じセクションに展示されている習作の方が1948年と記されていることを「発見」して、あたかも展の作品の制作年表示が致命的かつ重大な間違いを犯していると言いたいようであった。そのおっさんの表情は間違いに憤る風でありながら、内心得意がっているかのようだった。「完成品より習作の年があとになってる!これおかしいんちゃうか? どや?」といったことをねちっこく執拗に繰り返す感じである。
監視員の女性は通常 習作→完成作 という流れとは逆になっている(それも5年も!)というこの「目の前の事実の指摘」に少々戸惑いつつも、「お調べいたしますので、少々お待ち願えますか?」と控えめに言い、展示について責任者の立場にあるような人に無線で連絡を取った。すぐさま展の開催において立場が上だと思われる男性が現れ、そこからおっさんは周囲にこれ見よがしに、聞かせてやれといわんばかりに鬼の首を取ったが如く同じ糾弾内容を繰り返す。
無線で呼ばれた男性が展示作品についてより詳しく調べるため、おっさんに丁寧に少しその場を離れることを願い出ると、おっさんは無碍にも「いや、いいよ」とぶっきらぼうに言い残し、さっさとその場を去っていった。まるで学芸員相手に一発かましてやった、「正当な理由」で食って掛かってやったという悦楽の表情が後姿からもにじみ出ているかのようであった。小中学校に通うこましゃくれた子供ならまだしも、いい歳こいたおっさんのやることではないなと、忌々しい気持ちになった。
私は女性の監視員さんが可哀想になったものの、とりあえずおっさんの指摘が本当に正しいのか確かめるため、テート・ギャラリー所蔵の完成品の作者の署名と、習作の署名とを見比べてみた。
すると素人目に見ても、両作品ともに他の作品に見られるしっかりとしたバルテュスの手による署名と制作年が画面に間違いなく記されていると分かるではないか。
となると、展の作品の制作年表示は正しく、展を開催しているスタッフの方々に何ら落ち度はない。そこで私はあえて「おっさんの指摘が正しければ、『眠る少女』(1943)と「《横たわる女》のための習作」(1948)が同じ意図(企図)で描かれたものでないといけないし、もし同じ意図で描かれたものならば日本語によるタイトルが誤っていることになる」と思い、原題を確認した。するとまぁ、

『眠る少女』(1943) 原題:Jeune fille andormie

「《横たわる女》のための習作」(1948) 原題:Etude pour 《 Femme couchee 》
  (E と couchee の最初の e にアクサンテギュ)

となっていて、そもそも原題でも別の作品じゃないか(笑)。おっさん、あまりにも短絡的過ぎるだろ。
展で両作品をご覧になった方にはきっと分かっていただけると思うが、たしかに『眠る少女』(1943)と「《横たわる女》のための習作」(1948)とは、描かれている女性のポーズが似ていて、素人目に見ると「同じ作品」のように見えてしまう可能性があるように思う。事実、私も初見の直後の時点ではそう見えた。
ただ、二つの作品をよく見比べてみると、習作の方の女性は上半身をソファや長椅子と思われる家具に凭れさせて頭部を横に向けているポーズをとっていて、就寝時に仰向けになるようなベッドと身体が平行になっているポーズではないことが分かる。(カタログにある図版はこちら
百歩譲ったとしても、バルテュスがモデルに要求したポーズは、それこそ仰け反ったもの、寝ているもの、もたれているものが多いのだから、タイトルが違えど似たポーズのものがあってぜんぜんおかしくないんじゃないかと思う。つまりは《横たわる女》の完成品がどんなものであれ、その習作が過去の作品のポーズと似ていないようにする必要はどこにもないのである。描く人は同一の画家なのだから。

このように考えてから、私は監視員の女性に、二つの作品がそもそも別作品であると断ったうえで、このいわれなき「間違い」について、あえて「間違いとのたまったほうが正しい」と仮定しその場で思いついた蒙昧ないくつかの戯言を披露した。

一.1943と書いたつもりが、単純に1948と誤記してしまって、バルテュスはずっと1943年のつもりでいた、誤記であると気づかなかった。
二.1943年に描かれたものだが、作品を整理する際にバルテュスが制作年を勘違いして1948年と書いてしまったあと、それと気づかないまま他人の手に渡ってしまった。
三.習作自体は1943年より前に描かれたものだが、習作を買おうとした人がパリのバルテュスを訪ねたのが1948年で、バルテュスはその買い手の目の前で署名と"譲った年"を記した。

展示になんら落ち度はないというフォローにはなっていない卑しい行為だったかもしれないが、三番目の突飛な「説」で監視員の女性から笑いを取れたことを正直誇らしく思う。1948年、バルテュスはパリに居たが展覧会を開催してはいたものの画家として経済的に苦しかったのは事実だそうだし、それは5年後にブルゴーニュ地方のシャシーの城館に住んで以降も変わらなかった。
ちなみにシャシーの城館の費用を用立てたのは画商たちで、その費用はバルテュスの絵で賄うという契約だったそうである。バルテュスは城館を買ってくれた画商たちのために次から次へと制作をつづけたのだ。実際、作品が完成するとすぐさま画商が城館を訪ね、作品を持って行ってしまったという。
バルテュスにとってみれば描いてはすぐ持って行かれ、描いてはすぐ持って行かれという状態(常態?)だったゆえ、それならば、素描も「借金の返済」や生活費の足しになるのであればそれこそ持って行かれても仕方のないものであったことは想像に難くないのではないか、それが"過去"のパリ時代であったにせよ(笑)。

本当は展にて印象に残った作品、とくに旅の思い出と重なるような作品について書きたかったが、上記の、作品名をよく確認しないまま見た目だけで「いちゃもんの衝動」を抑えきれずを己の行為を正当なことと心から信じていたおっさんのものの言い方やふるまいが、残念ながら強い印象として残ってしまったバルテュス展であった。(いまさらながら、展では今なお議論を呼ぶ作品やすばらしい作品が多かったのは間違いない。)
しかしこういったことは否応なしに記憶にしっかりと残るものであるゆえ、なんらかの(たとえ忌まわしい感情を覚えるような)きっかけでバルテュス展のことや、展に来ていた作品たちがどの美術館所蔵のものであるかを思い出せたら、また旅のいろいろな記憶を呼び起こせるかもしれないわけだから、将来的に体験として悪くないものになるのかもしれない。

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