■聴衆に媚びる演奏家と、演奏家に媚びを要求する聴衆■
~ Afanassiev 現代の音楽批判 続 ~
2013.7.4 中村洋子
★7月 9日(火)の KAWAI 表参道での、
第 3回 「 平均律クラヴィーア曲集 第 2巻 アナリーゼ講座 」
の準備で、忙しくしております。
★Bach 「 Wohltemperirte Clavier Ⅱ
平均律クラヴィーア曲集 第 2巻 」 を学ぶためには、
「 Goldberg-Variationen ゴルトベルク変奏曲 」、
「 Die Kunst der Fuge フーガの技法 」 、
「 Musikalisches Opfer 音楽の捧げもの 」 など、
Bach 晩年の傑作群も同時並行的に、眼を通し、
探求しなくてはなりません。
そういうわけで、
勉強は、遅々として進みませんが、
Bach という巨樹に、向かい合うためには、
当然のことなのでしょうね。
★若干 20代で、Bach 「 Wohltemperirte Clavier Ⅰ、Ⅱ
平均律クラヴィーア曲集 1、2巻 」 を、
新たな視点で、校訂し、
曲順すら、創造的に組み換えた、
Bartók Béla バルトーク (1881~1945) の天才に、
つくづく、脱帽しています。
★勉強の合間に、Valery Afanassiev
ヴァレリー・アファナシエフ (1947~) の著作
「 ピアニストのノート 」 講談社選書メチエ を、読み進み、
その指摘の一つ一つに、納得、
共感しております。
★私がいつも痛感し、嘆いているその通りのことを、
Afanassiev も、書いています。
★今回は、皆さまもきっと、ご興味があると思われます
≪ 音楽コンクール ≫、 ≪ リサイタル ≫ についての、
さまざまな記述の一部を、ご紹介いたします。
★[ 2年前、リヒテル国際ピアノコンクールに、審査員として参加した。
あごあしつきで、二週間、
生まれ故郷の町に滞在する機会を、得たわけだ。
コンクールのレヴェルが、かなり低いものになるだろうということは
分かっていたー(略)
一次予選での、ブルガリアからの参加者の演奏は、
私の気に入り、
まだ音楽の世界にも、大いなる可能性が残っているか、
と思ったものだ。
★しかし、二次予選の演奏には、大いに失望させられた。
本選では、彼の演奏に嫌悪さも、感じ始めていた。
彼ら若い演奏家たちは、最後まで保たない(もたない)。
ちょうど、だめなワインのように。
一、二時間なら上手に弾く。
だが、そこからショーが始まってしまう。
これ見よがしに、腕を振り上げる。
しかめっ面をする。
演奏は、ごてごてした飾りだらけで、
音楽は、跡形もなく消えてしまう。
このブルガリア人の参加者は、
ここのところ何度も、コンクールに参加している。
テキサスでは第四位、ブリュッセルでは第二位、
ワルシャワでは、第四位を獲得していた。
聴衆はいつも、拍手喝采だった。
聴衆が歓呼の声を上げ、あがめ奉り、
スターに祭り上げたのは、彼だった。
「彼を優勝させなければ、聴衆に殺されてしまいますよ」。
審査員団は、そのように言われたが、
それでも、押し切られることはなかった。]
★以下は要約。
もう一人の候補者。
モスクワ音楽院の空気が漂うような、
スカルラッティの演奏には、衝撃を受けた。
しかし、数日後 (二次予選のことか)、このロシア人候補者は、
まったくのやっつけ仕事で、片づけてしまった。
彼が弾いたラフマニノフの
「 コレルリの主題による変奏曲 」 は、最悪だった。
二分に一度は、記憶が欠落、
いくつかの変奏を、すっ飛ばし、
順番を、ごちゃごちゃにしてしまった。
本選に進む可能性は、断たれた。
★それでも、
コンクールの優勝者は、彼であるべきだったのだ。
音楽政治局 ( 比喩的に、コンクールを裏で牛耳っている人たちのことを
Afanassiev は、こう表現しているのでしょう ) は、
彼の年齢が 29歳と聴いて、 「 あっ、そうですか 」 としかいわない。
音楽界の指導的人物にとって、
今日、音楽界でのキャリアを始めることができるのは、
15歳か 75歳なのだからだ。
( “ 天才少年、天才少女 ” やら、
いつお亡くなりになるか、分からないような、
飛び切りの老年など、
マスコミが飛びつくような話題性、意外性がないと、
スターには決してしない、という意味でしょう )。
★彼が、二次予選の演奏で失敗したことは明らかだ。
しかし、彼の演奏のほとんど一つ一つのフレーズが、
私の耳に、残っている。
彼は、自分自身に対して、
あれほど、たくさんの音符を書きつけた作曲者に対して、
戦いを、挑んでいた。
彼の戦いぶりは、悲壮であり、
また、ぞっとするほど怖ろしかった。
★リヒテルコンクールのあいだ、私は彼の失敗と、
凡庸なる者たちの成功とを、比べる機会を得た。
凡庸なる者たちの成功には、興味がない。
( この後に、前回のブログでの内容、
つまり、音楽の構造がなく、
ビーフストロガノフの肉片のように、細切れの、
エクスタシーの連続のような “ 音楽もどき ” が、
跋扈している、という話が続きます )。
★「 決して、聴衆のために弾いてはならない。
そんなことをすれば、途中で音楽を見失い、
自分すらも、見失ってしまう 」 、
これが彼への、私のアドヴァイス。
もちろん、彼は聴衆のために演奏していたのではなかったが。
★10年ほど前、スペイン・バルセロナで演奏会をした。
「 成功だった 」 と、
主催マネージャーから、言われた。
「 評論家の評判も、とてもよかった。
しかし、一つだけ問題があった 」。
「 あなたは、愛想がよろしくないでしょう。
アンコールも、なさらない。
聴衆は、そういうのは好きじゃないんです。
皆さんから、苦情が出てました。 」
★私は普通、アンコールはしない。
しかし、私の目指すレヴェルに、
コンサートが達しなかったと、感じたときは、
聴衆への申し訳と、埋め合わせの意味で、
何曲か、アンコールをするようにしている。
自分に対する不満を、
恥ずかしくない演奏によって、補うのだ。
リヒテルは、しばしば、その日のプログラムの中で
うまくいかなかった曲を、アンコールとして、
演奏した。
★成功のための不可欠な原料。
しかめっ面、スマイル、アンコール。
6回でも、ときには 20回でもアンコールをする。
洪水のごとき、聴衆サービス。
聴衆の歓心を買おうとする、この激しい衝動を、
止めることができるのは、
消防署だけだ。
★アンコールは、プログラムの中身とは何の関係もない。
アンコールに選ばれるのは、
その演奏家の十八番 ( おはこ ) で、
とりわけ、名人芸を要求される曲目だ。
★聴衆に、 “ 自分たちが聞いているのは大音楽家なのだ ”、
と思い込ませるために、
ピアニシモで演奏される曲も、何曲かある。
私は最近、この新しい流行に気付いた。
普段は、
ピアノとステージを破壊するのが、唯一の目的であるかのように、
鍵盤を思いっきり、叩きつけているピアニストが、
突然、ピアニシモで弾き始める。
だが、彼らの人生に明日はない。
★もし、私がリストの練習曲をミスタッチなく、
速く、弾けば、
あるいは、私の肉体や顔の表情で、
私の内なる感情を、露わにすれば、
人々は立ち上がり、少なくとも、
5分間は、
私に、拍手喝采を送る。
★もし、 Brahms の間奏曲を、
身じろぎもせずに、弾いたとすると?、
ホールに、
携帯電話の着信音が、
鳴り響く。
★音楽は、
外側からも内側からも、破壊されている。
アーティストが、内側から、
聴衆が、外側から音楽を破壊している。
破壊 ーー それが本書の主題である。
今日、音楽は破壊されるとともに、
解体されている。
★Afanassiev が批判している、
現代のスター奏者の演奏と対極的な、
偉大な演奏を成したのが、 Wilhelm Kempff
ヴィルヘルム・ケンプ (1895~1991) であると、
彼が、書いていますが、
それは別の機会に、ご紹介します。
★7月 9日( 火 )の、 KAWAI 表参道 での
「 平均律クラヴィーア曲集 第 2巻 3番 Cis-Dur 」
アナリーゼ講座では、
「 3番 Cis-Dur 」 と、
「 Goldberg-Variationen ゴルトベルク変奏曲 」、
Chopin 「 prelude Op.24 」 との関係についても、
少し、お話しする予定です。
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