音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■ ブラームス・アナリーゼ講座が終わりました ■

2007-12-24 16:06:54 | ★旧・私のアナリーゼ講座
2007/1/30(火)

★1月28日のブラームスアナリーゼ講座は、おかげさまで多数の方が受講され、

内容についても喜んでいただけたようです。

満席のため、ご予約をお受けできない方が、多くいらっしゃたこと、お詫び申し上げます。


★今回、ブラームスを勉強してみて、改めて気付いたことを書きます。

あのバッハですら、死後100年近くたってやっと正当に評価されています。

1843年(バッハ没後93年)、バッハを世に知らせたメンデルスゾーンが、

聖トーマス教会の傍らに「バッハ記念像」を寄贈しました。

その除幕式に、バッハ一族最後の音楽家であり、バッハの孫である当時84歳の、

「ヴィルヘルム・フリードリッヒ・バッハ」が出席しましたが、

バッハの孫を知る人はいなかった、とシューマンは伝えています。

このように、バッハはまだまだ“”認知“”されていませんでした。


★ブラームスは、ことしでちょうど、没後110年です。

生前から現在まで、ずっと愛され続けていますが、はたして正しく評価されているのでしょうか。

私は、そうではない、と思います。


★講座では、ある伝記本に書かれたブラームスの年表を皆さんと見ました。

ブラームス57歳から59歳までの3年間(1890年~1892年)が、見事に「空白」となっていました。

ブラームスは、57歳から59歳(1890年~92年)ごろに遺書を書いたようです。

「自分の霊感が衰え、創作力が減退してきてのを感じた。そのため、

これまでの仕事を整理し、出来るだけ大曲の作曲をやめて、

平和で落ち着いた生活を楽しみたい」と、考えたから、とされています。

実際、そのように感じたかもしれませんが、

それを額面どおりに受け取るのはどんなものでしょうか。


★実は1892年(59歳)に、晩年の驚異の作品群、つまりOp116~Op119のピアノ小品群が生まれたのです。

しかし、この年を空白にしている年表作者のブラームス観が、まだまだ一般的かもしれません。

受講者の方のお話では、「晩年のブラームスは、創作力が衰え、無味乾燥で、

死を目前にして旋律のラインはすべて下行している」という趣旨の解説本まであるそうです。

この方は、このピアノ作品群がとても好きで、弾きたいとずっと思っていらっしゃいました。

しかし、「立派な解説本」で、上記のように「全く評価されていない」ため、

長年、戸惑いを、感じ続けていたそうです。


★はっきり言って、この作品群がなければ、20世紀の音楽は、もっと違った形になっており、

いまの20世紀音楽ではなかった、と思われるほど、画期的な作品です。

伝記作者たちが、ブラームスの言葉に惑わされ、楽譜を読み取れなかったのでしょう。

実際、ブラームス自身も無意識のうちに、20世紀音楽への重い扉をこじ開けていたのかもしれません。


★それを発見したのは、シェーンベルク(1874~1951)と、

その弟子のベルク(1885~1935)、ヴェーベルン(1883~1945)です。

ベルクの叙情組曲(1925~26)や、ヴェーベルンの作品5「弦楽四重奏のための5楽章」という

作品に見て取れます。

また、ブラームスの上記作品群には、私の名づけた10種類の「ブラームス・トーン」が

縦横に張り巡らされています。

ブラームスの集大成であり、次世紀の礎となった曲です。

年表の最重要項目として、「1892年」が書かれるのは、はたして、何時のことでしょう。


★いただきましたアンケートで、一番多かったご質問は「アナリーゼの分かりやすい本を知りたい」でした。

ございましたら、直ぐにでもお知らせしたいのですが、残念ながら、思い当たりません。



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■ ブラームスのピアノ作品 ■~自分の手で写すことの大切さ~

2007-12-24 16:05:38 | ★旧・私のアナリーゼ講座
2007/1/26(金)

★ブラームスは、数は多くありませんが、生涯にわたって、

ピアノ独奏曲を作曲しました。

「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ 作品24」は、1861年、28歳の作品です。

ブラームスは、この曲を「大好きな作品」と、自ら語っています。

それ以前のものより、格段に優れた曲と考えていたようです。

ブラームスは、バッハの作品では、特に「ゴールドベルク変奏曲」を愛していました。

ヘンデル・ヴァリエーションを勉強していきますと、背後にゴールドベルク変奏曲が

透けて現れます。

ブラームスの弟子ホイベルガーが「先生の曲には、習作のようなものはありませんね」といいますと、

「そう思う人間は、何も分かっていないんだ。僕の初期作品を見てごらん。

次から次へと勉強していることが、はっきり分かるから。」とブラームス。

そういう意味で、ヘンデル・ヴァリエーションは、ブラームスの初期の集大成といえそうです。


★ブラームスは、1865年、32歳で、母クリスティーナを亡くしましたが、

「母臨終」の知らせを受けると、涙を頬に垂らしながら、ゴールドベルク変奏曲を弾いた、といわれます。

バッハが、貴族の不眠症を解消するために作った曲は、

ブラームスにとっては、お母さんが天国で、安らかに眠るための曲になったのです。

その前年1864年、31歳の時、ヴィーン・ジングアカデミーの合唱指揮者を辞任しています。

「バッハばかりを演奏する」と、批判を受けたからのようです。

いつの時代でも、単調で甘ったるい「分かりやすい」音楽を、

迎合して演奏するほうが喜ばれる、というのが永遠の真理のようです。

ブラームスも、「すべての人に、分かってもらおうとは思わない」と語っています。


★ブラームスは、ハンブルグ生まれで、30歳前後でウィーンに移り、そこでの初めての仕事が、

「シューベルト交響曲全集」を全部「手で書き写す」ことだったそうです。

現在は、コンピューター万能で、手で書くことが大変に、おろそかにされています。

楽譜もパソコンやコピー機を使うと、簡単に写すことができますが、

自分の手で書くことによってのみ、覚えられることは、確かにあるのです。


★「鉛筆で写す奥の細道」が、静かに流行しているそうですが、写経に始まり、

読みたい人が「源氏物語」を、自分の手で写していたという日本の歴史。

文学、音楽、絵画という領域の違いがあっても、

「手で写す」ことは、芸術を学ぶ際の大原則でありましょう。

バッハにも、兄に隠れて夜遅く、楽譜を書き写した、という有名な逸話があります。


★私の恩師・池内友次郎先生は晩年、一年の半分をフランスで過ごされていました。

帰国されるたびに、学生だった私にお電話があり、池内先生が審査員をされていた

パリ・コンセルバトワールで、受験者が書いたコンクール課題のフーガや、

和声の答案を「清書してください」とのご依頼でした。

コンクールは、「プルミエール・プリ」(一等)、「ドゥージエム・プリ」(二等)

それに「不合格」の評価です。

プルミエール・プリを取りますと、≪首席で卒業≫と訳す方が、日本では多いようです。

演奏会のパンフレットで、よく目にするお馴染みの表現です。

日本の「優」、「良」、「不可」のようなものでしょう。


★乱雑に書かれた、分厚い束の答案を、短期間で清書する作業は、大変でした。

いまにして思えば、そのように手で写すことで、「覚えさせてやろう」という、

先生の有難いご配慮だったことが、いまやっと、分かりました。

話を戻しますと、ブラームスは、バッハ、シューベルト、シューマンに負うこと大でした。


★モーツァルトについてのブラームスの逸話は、つぎのようなことが残されています。

彼は、数少ないピアノの弟子に、モーツァルトのピアノソナタを、熱心に教え、

弟子が「すごく新鮮でした」と、驚きをもらすと、

「全部、ここに入っているんだよ」と、モーツァルトの楽譜を指差したそうです。



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■ ブラームスが晩年に到達した世界 ■

2007-12-24 16:04:20 | ★旧・私のアナリーゼ講座
2007/1/19(金)

★1月28日の「ブラームス・アナリーゼ講座」に向け、

ブラームスのピアノ作品を勉強中です。

ロマン派の作曲家といいますと、シューマン、ショパン、ブラームスなどを思い浮かべる方が多いようです。

画家のマネやモネが、曖昧模糊な風景をただ単に絵にした「印象派」の画家ではないのと同様、

この3人が、感情のままに、霊感を受けて作曲する「ロマン派」でないことは、当然です。

しかし、よくいわれるように、≪ブラームスは保守的な古典主義作曲家≫では、決してありません。

このことは案外、理解されておりません。


★ショパンについては、彼が若い時に習った作曲の先生が、当時としては変わった人で、

バッハ好きだったために、幸運にも、ショパンはバッハをよく学ぶ結果となりました。

それが彼の傑作を生んだ源泉であります。

ショパンのエチュードは、バッハの平均律プレリュードを下敷きにしていることが、明確に分かります。

ショパンの作品は、一生涯、ある意味で大変に「古典的」であり続けました。

このショパンの「古典的」については、いずれアナれーゼの会を改めてお話いたします。


★ブラームス晩年のピアノ小品群は、「年老いて大曲を書く気力が失せたため」という

愚かな評論や伝記があります。

ブラームス本人が、実際にもし、それに近いことを発言していたとしても、

それは、彼一流の韜晦でありましょう。

実際、ブラームスは、皮肉屋で知られています。


★ブラームスの和声言語の特性は、10項目ぐらい挙げることが出来ますが、

それは、≪すべて調性の破壊≫へと導いているものです。

それを理解しないと、晩年の作品を≪老いた大家の「諦観」「悲しみ」などから生まれた≫とする

常套的な解説に騙されてしまいます。

ブラームスが到達した凄い世界を、作曲家ではシェーンベルクが、的確に捉え、

一生涯をブラームス研究に充て、自身の創作活動の源としています。

それは、ベルクやヴェーベルンにも伝えられています。


★ピアニストでは、ヴィルヘルム・ケンプやグレン・グールドが、いち早く気付き、

ブラームスの意図に沿った演奏をしています。

ケンプやグールドは、ピアニストですから、何も言いません。

ブラームスの意図に気付くとは、音楽の設計図を理解できた、ということだけなのです。

彼らは、設計図の上に、素晴らしい音の建築をピアニストの仕事として、施工したのです。


★設計図を読めない、“耐震偽造”のブラームス演奏は、あれこれいくら聞いたところで、

クラシック音楽を聴く本当の喜びは、味わえません。

ケンプやグールドの演奏は、何度聴いても、その都度、新しい発見があり、

飽きることがないのはその所以です。


★そういう演奏を不朽の名演というのでしょう。



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■メシアン夫妻による≪モーリス・ラヴェルのピアノ作品アナリーゼ≫■

2007-12-24 16:02:06 | ★旧・私のアナリーゼ講座
■オリヴィエ・メシアンとイヴォンヌ=ロリオ・メシアン夫妻による≪モーリス・ラヴェルのピアノ作品アナリーゼ≫■

2006/12/20(水)

★とても素晴らしい本を購入いたしました。

【 Ravel analyses of the Piano Works of Maurice Ravel 】

         by Olivier Messiaen and Yvonne Loriod-Messiaen

                            DURAND

★PREFACE
 
All through his life Messiaen taught, discussed and analysed the music of

Maurice Ravel, particularly those great masterpieces for the piano

Ma Mere l'Oye, Gaspard de la Nuit and Le Tombeau de Couperin.

I myself benefited from Messiaen's analyses when I was a pupil in his class

at the Paris Conservatoire; many analytical notes figures on his personal scores.

I have thereby reconstituted, completed and edited Messiaen'analyses,

especially for some of the movements of Le Tombeau de Couperin.

Hence is at last this little volume of dialogue between two of the

greatest geniuses of French music.

               Yvonne Loriod-Messiaen June 2003

■序文

★メシアンは、一生を通して、モーリス・ラヴェルの音楽、

特に、ピアノのための傑作である「マ・メール・ロワ」、「夜のギャスパール」、

「クープランの墓」を教え、議論し、分析しました。


★私(イヴォンヌ・ロリオ)が、パリのコンセルバトワールで、彼の生徒だったとき、

彼のアナリーゼから、とても多くのことを学びました。

;彼が持っていたスコアには、たくさんのメモが書き込まれています。


★そこで私は、メシアンのこのアナリーゼ、特に「クープランの墓」の数楽章について

書き込まれていたメモを構成し直し、完全に読解できるようにしました。

よって、この小冊子は、フランス音楽で最も偉大な2人の天才の対話、ということになります。

           イヴォンヌ=ロリオ・メシアン 2003年6月


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


★この序文には、<オリビエ・メシアンが一生涯、何をしていたか>について、

簡にして要を得た表現で、すべてが書き込まれている、と思います。


★メシアンは、ラヴェルの音楽、なかでも、ピアノの傑作を終生、アナリーゼしていました。

訳者のポール・グリフィスが「この本は、ラヴェルについてたくさんのことを語っていますが、

同時に、メシアン自身についても語っているのです」と解説しているとおりだと思います。

作曲家が、他の作曲家をどのように解釈するか、ということは、彼の作品を

読み解くカギでもあるのです。


★イヴォンヌ=ロリオは、メシアンの2番目の妻で、現代曲のピアニストとして高名な方です。

緻密に構成するラヴェルの作風と、メシアンのそれはよく似ています。

ラヴェルを、メシアンの「音楽語法」で分析しています。

すなわち、この本では、ラヴェルだけでなく、メシアンの音楽スタイルが分かるのです。


★「マ・メール・ロワ」と「クープランの墓」は、ラヴェルの作品の中では、

ピアノの華やかなテクニックを誇るのではなく、音楽の骨格を知的に楽しむ面が強く出ています。

そこも、メシアンの作品と共通性があるところです。


★この本のエッセンスを、折に触れ、ご紹介していきます。



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■■ シューベルトからシューマン、そしてブラームスへ ■■

2007-12-24 15:59:08 | ★旧・私のアナリーゼ講座
2006/12/14(木)

★月に2回、カワイ表参道で、アナリーゼ講座を開いています。

昨日は、シューベルト(1797~1828)の「アルペジョーネ・ソナタ」D821が、

いかに、シューマン(1810~1856)を通して、ブラームスに影響を与えているか、をお話ししました。

このソナタは、シューベルトが27歳の1824年に、作曲されたといわれます。

初演は作曲の年ですが、出版は、彼の死後である1871年、なんと約50年後です。

シューマンの没後15年後でもあります。


★しかし、シューマンは著書(「音楽と音楽家」:岩波文庫、吉田秀和訳)で

「僕は、シューベルトの様式や、彼のピアノの取り扱い方を熟知している」と述べています。

これは、一体どういうことなのでしょうか。

それは、シューマンが、シューベルトの兄(当時、存命中で1859年に没)の家に行き、

シューベルトの未出版楽譜を見せてもらっていた、という事実から、推測できます。

シューベルトは存命中、歌曲以外は評価されず、その他のたくさんの交響曲、器楽曲などは、

「難し過ぎる、誇張がひどい」などと評判が悪く、演奏されることは稀でした。


★そうしたなかで、《シューベルトを崇拝する》シューマンという若い作曲家が、兄の家を訪問しました。

当然、兄は、この上なく、嬉しかったことでしょう。

そこで、シューマンは、山積みになっていたシューベルトの楽譜を、

貪るように読み、勉強し、血肉化していったのです。

まさに「お宝の在りかは、天才だけが知っている」です。

当然、「アルッペジーネ・ソナタ」も知っていたことでしょう。


★「アルぺージョネ・ソナタ」には、シューマンの最も好んだ「和声進行」や

ブラームスが多用した「非和声音」が、重要なところに含まれています。

「ああ、シューマンの和声だ」、「ブラームスらしい音だ」という響きを、

実は、シューベルトのこの曲で聴くことができます。


★ブラームスらしい音(ブラームス・トーン)とは、「逸音を伴う3度進行」、

「巧みに隠された導音」、「異名同音を使った転調」が主な要素です。

具体的には、ブラームスのOp118のピアノ小品集に典型的な例があります。


★1月28日の「ブラームス・アナリーゼ講座」で詳しくお話する予定です。


■中村注 《彼のピアノの取り扱い方を熟知している》の『取り扱い方』は、

「ピアノ作品の作曲手法」が妥当な訳ではないでしょうか?



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■■ 絶対音感について ■■ 大ピアニストの音感は・・・

2007-12-24 15:57:52 | ★旧・私のアナリーゼ講座
2006/12/8(金)

★<絶対音感>なるものについての認識を深めるために、

次の書物が参考になります。

「ピアノの巨匠たちとともに」=ある調律師の回想=

フランツ・モア著(音楽の友社)。

モアは、ホロビッツやルービンシュタイン、グールドなど大ピアニストのために、

ニューヨーク・スタインウェイを調律した方です。

ホロビッツについて、次のような興味深い逸話が、書かれています。

「ホロビッツは、【パーフェクト・ピッチ】をもっている、と宣言していました」

【パーフェクト・ピッチ】に関して、

モアは、本文で以下のように説明しています。

(「何の計測手段がなくても、それは、1秒間に

442サイクルで振動している真ん中のAだ」とか、

「438で振動している」などと断言できる音感をさします。

しかし、実際には、誰も、音叉との照合なしには、それは不可能である。)


★そのホロビッツですが、

ときおり「フランツ、このピアノは高すぎる」と言ったり、

時には「低すぎる」と調律に注文をつけます。

しかし、モアはいつも、ホロビッツの要求どおり440に調律していたため、

「多分、お天気のせいですよ」などと言って、決して取り合いませんでした。

そういう“注文”が多いため、「私の調律のピッチを確かめてください」と、

音叉をホロビッツに渡しました。

しかし、ホロビッツは、決して音叉を使おうとはしなかった、そうです。


★1987年5月24日、アムステルダムでコンセルトヘボウと共演した際の出来事。

リハーサルに現れたホロビッツは、

ピアノに触れる前、取り巻きの人々に向かって、言いました。

「ホテルの部屋に、素晴らしいピアノが用意されていた。

ドイツ製のスタインウェイだ。

NYのものと大差があることが分かった。どうして、そんなに素晴らしいか?。

それは、435に調律してあるからさ!」

モアは「そんなことは不可能、反対にヨーロッパは、

いつもアメリカより高く調律されている。

しかし、私は、口を開かなかった」と書いています。

スタインウェイのインターナショナル・ディレクターが、

「マエストロ、それは逆です」と、説明しかかりました。

その途端、癇癪をおこしたホロビッツは「ニューヨークに帰れ!。

あんたはピアノもピッチも全然分かってない。

車でも売ったほうがいい・・・中古車をだ!」。


★リハーサルを始めたホロビッツは、

ステージのピアノの調律に大満足して、3時間ほども弾き続けました。

そのようなことは、稀でした。

ちなみに、このピアノは、

ニューヨークから運んだ愛用のお気に入りピアノでした。


★モアは著作で、【レラティブ・ピッチ】という語も使っています。

「ある音を聴いたとき、それはD、それはAだ、と断定できる音感」としています。

日本で使われる<絶対音感>という語が示す意味に近いかもしれません。


★余談ながら、この本では、ルービンシュタインについて、

暖かい愛情あふれる記述が随所にみられます。

ルービンシュタインは、演奏旅行に特定のピアノを持ち運ばず、

地元のピアノと調律師を使いました。

大都市での演奏会は、NY・スタインウェイを運び、モアが同行しました。

「椅子の背もたれに深くよりかかって、

彼が造る音楽を心から楽しむことができた」

「ホロビッツと一緒にいるときは、

絶対にルービンシュタインの名を口にするな」と注意されていました。

ルービンシュタインは「豊かな深みのある重厚な音を好み、

打鍵したとき、鍵盤の底に抵抗を感じる」のを好みました。

ピアノの選択でも、気に入れば、最初の一台で決め、他は弾きませんでした。

その理由を「私は、ある一つの楽器と私との間に特殊な結びつきがあるか、

すぐ分かる。

楽器と私は一つにならなければならない。

その上で、自分を表現し、自分を完全に開放しなければならない。

そのようにして、私は音造りに没頭する。

そういう結びつきが感じられないときだけ、他のピアノを試してみる」


★「人は、アルトゥール・ルービンシュタインを心から愛する。

それは、彼が人を大事にするからだ」

「彼はどんなに急いでいても人と話す時間をつくり、

誠意をもって人々と話をした」

「ホロビッツは、ちょっとピアノの位置が狂っていても癇癪を起こした」

のに対し、

「彼とはとても仕事がしやすかった。たとえ些細なことでも、

他人がしてくれることにいつも、深い感謝の念を表した」

親族のほとんどをホロコーストで失うという、

筆舌に尽くせない辛酸を舐めた人であるが故だからなのでしょうか。


★G・グールドについても、「月に一度、トロントへ、ピアノの調律だけでなく、

調整と整音に行っていた」

「彼は極端に浅いタッチを要求した。それはすでに危険な領域に入っているのだ。

特に、湿度と温度が変わると非常に危険だ。

その危険とは、突然、アクションが作動しなくなることがあるのだ」


■ルービンシュタインについては、

このブログの「アナリーゼ(楽曲分析)講座」の

<ロジェ先生のお話の続き>(10月24日)でも、書いてあります。



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■■ 絶対音感について ■■

2007-12-24 15:56:05 | ★旧・私のアナリーゼ講座
2006/12/5(火)

★数日前、私は、音大や音高志望者のご本人、ご両親、先生を対象とした

講座に出席しました。

ソルフェージュについて、あるお母さまから質問を受けました。

「3人の子供のうち、音楽の好きな一人が、音大進学希望です。あとの2人は、絶対音感があるのに、

音大希望の子供だけ、絶対音感がありません。大丈夫でしょうか」という内容でした。

私は「絶対音感は、もっていますと便利ではありますが、不可欠なものではありません。

お子さんは、相対音感(移動ド)で音を聞いていると思われます。

すなわち、楽曲がすべてハ長調、または、イ短調に移動して聞こえる、ということです。

これは、西洋音楽が身に染み付いているということです。

大変に音楽的な方なのですから、自信を持って勉強を続けてください」とお答えしました。


★<絶対音感>とは、なんでしょうか?

例えば、NHKの時報で聞かれる<ラの音>、1点イ音のピッチ(音高)を、

記憶して聴き分けられるか、ということです。

その<ラの音>から、短3度上の<ドの音>2点ハ音が、ピアノで奏されたとき、

即座に<ド>とこたえられるか、ということでもあるのです。

しかし、その基準となる1点イ音も、実は、ピッチがまちまちなのです。

NHKの時報「ポ、ポ、ポ、ポー」の最初の低い「ポ」音は、440ヘルツです。

しかし、現在のピアノは、普通、442ヘルツに調律しています。

さらに、オーケストラでは、さらに高く調律することもあります。

絶対音感の人たちは、これらをすべて、聴き分けているのでしょうか???

質問された方のおっしゃった「絶対音感」とは、<ラ>に近い音がそれなりに分かる、

ということを、指していらっしゃるのだと思います。


★「大雑把に」いいまして、バロック時代は、

ピッチが、現在より約半音(短2度)低かったと、いわれます。

(これも、諸説あり、本当のところは不明ですが・・・)

約半音とした場合、バロック時代の調律で、

ハ長調の<ド、レ、ミ、ファ、ソ>を演奏しますと、

現代のロ長調の<シ、ド♯、レ♯、ミ、ファ♯>と聴こえます。


★私は、昨年、バロック時代の調律をしたチェンバロの作品を書きました。

バロック調律のチェンバロを使って作曲しました。

私は、いわゆる「絶対音感」をもっていますので、

作曲中に、≪ドの鍵盤を押して出たこの音は、一体、ドなのか、シなのか≫と、

混乱したものです。

しかし、暫くしますと、低い調律になれてしまいます。

この時点で、いわゆる<絶対音感>が“消えた”、と言っていいのかもしれません。

チェンバリストの中には、「毎日、バロック調律など現代と異なる調律の楽器を弾くため、

<絶対音感>をなくした」という方もいらっしいます。

しかし、全く、不都合はありません。


★つまり、『絶対音感』という言葉が怪物のように一人歩きして、あたかも、

特別に重要であるかのように、錯覚させられていることが、問題なのかもしれません。

『絶対音感』という言葉に惑わされるのは、もういい加減に止めにしたいものです。



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■■ シューマンの音楽評論 ■■

2007-12-24 15:54:34 | ★旧・私のアナリーゼ講座
2006/11/24(金)

★「音楽と音楽家」シューマン著 吉田秀和訳(岩波文庫 ¥600)で、

シューマンの評論を読むことが出来ます。

音楽の基礎を理解しない訳者による、日本語になっていない音楽翻訳本が、

氾濫していますが、

この岩波文庫は、(ベルリーズの交響曲のアナリーゼの部分で、訳に首を傾げるところもありますが)

お薦めできます。

シューマンの肉声が聞こえる凄い内容の本だからです。

特に、195ページ「音楽の座右銘」は、わずか9ページですが、音楽を志している人すべてが、

繰り返し読むべき内容です。

この座右銘は、当初、「子供のための小曲集」(ユーゲント・アルバム)Op68に添付されていました。


■【シューマンの珠玉の座右銘のピックアップ(文庫本の訳文通り)】

★やさしい曲を上手に、きれいに、ひくよう努力すること。

  その方が、むずかしいものを平凡にひくよりましだ

★小さいときから、昔の音部記号を練習しておくこと。

  さもないと、多くの昔の宝をむざむざと逃すことになる

★大きくなったら、名人よりはスコアと交際するように

★よい大家、ことにヨハン・ゼバスチャン・バッハのフーガを熱心にひくように

★≪平均律クラヴィーア曲集≫を毎日のパンとするように。そうすれば、いまにきっと立派な音楽家になる

★いわゆる大演奏家はよくやんやと喝采されるが、あれをみて、思いちがいしないように

★みんなが、大衆の喝采より、芸術家の喝采を重んじるようだといいと思う

★およそはでなばかりで内容のない売物は、時代とともに流れてしまう

★技巧は、より高い目的に奉仕しているときだけ、価値がある

★どんな流行も、結局流行遅れになる

★大きくなったら、流行曲などひかないように。時間は貴重なものだ。

★いまあるだけのよい曲を一通り知ろうと思っただけでも、百人分ぐらい生きなくてはならない。

★小さいときに、和声学の基礎を勉強するように

★理論、ゲネラルバス、対位法等々といった言葉におじけないように。

★こうしたものは、使っていると、段々なれてしまう。

★音楽好きの人たちは何かというと「旋律」という。もちろん旋律のない音楽なぞ、音楽ではない

★しかし、その人々のいう旋律とは、何をさしているかよく考えてみるがいい

★あの人たちはわかりやすい、調子のよいものでなければ、旋律だと思わない

★貧弱な、どれもこれも同じような旋律、ことに近頃のイタリアのオペラの旋律など、

  早くおもしろがらなくなるように。


★いつも正しく調律された楽器を扱うこと


■この文章は、いまから150年以上前の言葉ですが、現代にも、完全にそのまま当てはまります。

早く派手に弾く名人芸だけで喝采を浴びるピアニスト、

オペラの甘ったるく耳に慣れた旋律にブラボーを叫び、それしか喜ばない多くの聴衆、

バッハの美しい対位法を、努力して聴こうとせず、“難しい、頭が痛くなる”と耳を塞いでしまう

音楽ファン、調律が狂っていても平気な、楽器に無関心なピアノの先生、などなど。

★シューマンの言葉の分かりやすさはどうでしょう!!!

一度読むだけで完全に理解できます。

シェーンベルクの評論も、同じくらい分かりやすく、含蓄に富んだものです。

第一級の音楽家は、決して、難しい言葉で、難解なことは言いません。

もし、皆さんが理論書や音楽書をお読みになって、<分かりにくい>、

<どうしても理解できない>と感じられた場合、往々にして、

本の内容や訳文に問題がある場合が多いのです。

※■中村注「理論、ゲネラルバス、対位法等々といった言葉」の【ゲネラルバス】という語は、

  【通奏低音】の訳がいいと思います。

「マタイ受難曲」や「パッヘルベルのカノン」のスコアで、和音の下に

数字が書いてあるのを、ご覧になったことがあると思います。

チェンバロなどの鍵盤楽器奏者は、その数字によって指定される和音を、即興的に演奏します。

例えば、「5」は和音の基本形、「6」は第一転回形、

「4、6」(しろくの和音)は第二転回形を意味します。

ドミソの和音の5はドミソ、6はミソド、4、6は、ソドミを意味します。

≪子供のころから、数字付低音を見て、初見で、鍵盤上で和音をつくれるように、慣れなさい≫と

シューマンは薦めているのです。



▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲
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■■シューマン「子供の情景」■■その3~ボロディンへの影響

2007-12-24 15:51:11 | ★旧・私のアナリーゼ講座

2006/11/1(水)

★「子供の情景」第8番「暖炉のそばで」は、7番の「トロイメライ」に続く曲ですが、

弦楽四重奏のスタイルを彷彿とさせます。

バイオリン(右手上声)が、冬の暖炉のような暖かい旋律を奏で、第2バイオリンとビオラ(内声)が、

和音を刻み、チェロ(左手下声)が、朗々とそれらを支えます。

アウフタクトの内声は、いかにも弦楽四重奏らしい響きです。

私は、この「暖炉のそばで」を弾きますと、ロシアの作曲家・ボロディン(1833~1887)の

弦楽四重奏曲第2番の第一楽章の響きと曲想を思い起こします。


★ブラームスと同じ年に生まれたボロディンは、1859年、化学(医学)の勉強でドイツの

ハイデルベルグに留学しました。

そこで1861年、将来の妻となるピアニスト・エカテリーナと出会い、シューマンの曲を初めて

教えられました。

ボロディンは、エカテリーナに自己紹介する際、「熱心なメンデルスゾーン崇拝者」と言ったそうです。

エカテリーナのピアノの師は、メンデルスゾーンの有名な弟子でした。

当時のロシアでは、メンデルスゾーンとシューベルトの人気が高く、

シューマンはほとんど入ってきていなかったのです。

このように、シューマンの影響は、フォーレをはじめとするフランスのみならず、

ロシアの音楽家にも、深く浸透していくのです。


★軍医のインターンだったボロディンは、1856年、エレガントな青年将校だった

ムソルグスキーとサロンで出会います。

シューマンは、この年に亡くなっております。

ムソルグスキーが、ヴェルディーの「椿姫」の断片をピアノで弾き、

サロンのご婦人方から賞賛を浴びる光景を、やや皮肉を込めて回想しています。


★1859年、作曲に専念しようと退役したムソルグスキーと会い、二人は親しくなります。

「椿姫」を弾いて、サロンの喝采を浴びるムソルグスキーから、

貪欲に新しい音楽を吸収する作曲家へと変身していたムソルグスキー。

二人でメンデルスゾーンの交響曲を連弾した後、ムソルグスキーは、感動していた

シューマンの交響曲を、ボロディンのためにピアノで弾き始めました。

しかし、途中で「残念だが、この先は数学みたいで手に負えない」と、止めてしまったそうです。

ボロディンは、当時としては最先端の“現代音楽”だったシューマンに、ここで初めて接したわけです。

その直後、ハイデルベルグ(当時、ドイツのオックスフォードと呼ばれた学問の都)へ留学します。

そこで、シューマンとショパンの曲に目を開かされていきます。


★有名なボロディンの弦楽四重奏曲第2番も、このようにシューマンの影響を抜きにしては語れません。

ロシアへの影響も折に触れて書いていきたい、と思います。


▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲
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■■シューマンの「子供の情景」について■■ ~音にされない音を聴く~

2007-12-24 15:49:46 | ★旧・私のアナリーゼ講座
2006/10/25(水)

★シューマン「子供の情景」の最後の曲は、第13番「詩人のお話」です。

冒頭の6小節は、コラールのように4声体で書かれています。

ソプラノ、アルト、テノール、バスの4声です。

ところが、6小節目の一番最後のテノールの音が、

ぽっかりと欠けています。

そこは、イ短調の「導音ソ♯」が、「主音のラ」へと進行する所です。

肝心の一番大事な「主音ラ」が、穴が開いたように欠けているのです。

その「ラ」がないために、耳は、「ラ」を期待していたので、

心の中に、あたかも「ラ」を聴いたかのような強い印象が、残ります。

生の音を聴く以上に、強い効果が生まれます。

この効果は、シューマンの“大発明”であると、思います。

さすがのクララも、このシューマンの意図を理解したのでしょう。

その「ラ」は、クララ版でも、原典どおり、欠けたままにしてあります。


★ところが、大作曲家フォーレは、“ラ”を作曲してしまいました。

6小節目と同じ音型が、18小節目にも再現されますが、

原典にはない「ラ」を、ここでも、フォーレは、書き込んでいます。

私の大好きな作曲家フォーレ!!!

本当にフォーレが、「ラ」を望んで書き入れたのか、

出版社の暴走なのか、それ以外の事情なのか・・・・・・

よく分りません。



▼▲▽△▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲▽△▼▲
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■ ロジェ先生のお話の続き ■

2007-12-24 15:48:05 | ★旧・私のアナリーゼ講座
■ ロジェ先生のお話の続き ■
2006/10/24(火)

★≪ある「完全な音楽家」の肖像≫マダム・ピュイグ=ロジェが日本に遺したもの 音楽之友社 を

読んでいます。

今回はその中から、興味深いいくつかのお話です。

作曲家オリヴィエ・メシアン(1908~1992)について、「私(ロジェ)が、パリ音楽院の学生だったとき、

彼も学生でした。

オルガンのクラスでは、同級生で、『前奏曲集』の初演をはじめ、彼の多くの作品を演奏しました。

『前奏曲集』は、私に捧げられています」

「メシアンは、ポール・デュカ(「魔法使いの弟子」で知られている作曲家、日本ではデュカスともいう)の

クラスでした」

「デュカは、音楽様式に関して、妥協を許さない人で、作品を書いても、その多くを破り捨てていました。

自己への批判精神が大変に強く、生徒にも様式に関して、厳しいものを求めていました」

「本音を言えば、個人的には私(ロジェ)は、デュカの生徒になりたかった。彼は素晴らしい教師でしたからね。

しかし、私はビュセールのクラスに入りました。なぜなら、私はポール・ヴィダルの生徒だったからです。

ヴィダルが退官することになり、ビュセール(1872~1973)がその後任となったためです」

(ちなみに、ビュセールは、池内友次郎先生の師でもあります)。


★デュカについては、大ピアニスト・アルトゥール・ルービンシュタインの伝記に、つぎのような逸話が

出ています。

ルービンシュタインは、少し有名になりつつあった若い頃、周囲からちやほやされ、ピアノの練習もせず、

パリで放蕩三昧の毎日を過ごしておりました。

ある日、デュカは、カフェで酔っ払っているルービンシュタインの首根っこを捕まえ、デュカの家まで

連れ帰ったそうです。

そこで、ルービンシュタインはデュカから懇々と説教されました。

それ以来、心を入れ替え、練習に打ち込むようになりました。

“この説教があったからこそ、大ピアニストへの道が開けた”と、いつまでも感謝していたそうです。


★デュカには、『ラモーの主題による変奏曲と間奏曲、および終曲』(1903)という、素晴らしい

ピアノ独奏曲があります。

ブラームスの『ヘンデルの主題による変奏曲』に比肩しうる曲です。

日本のピアニストがあまり弾かないのはなぜなのでしょうか。


★ロジェ先生「メシアンは、ローマ賞は絶対に取れないだろう、と決めてかかっていました」

「彼は独創的過ぎたのです。彼は、あまりに傑出しすぎた個性で、他のコンセルバトワールの面々とは

違いました。

その彼がいま、コンセルヴァトワールで教えているのです」

「メシアンは、若い作曲家と、向き合うときに画一的な態度で接することはしません。

彼は、和声と音楽分析を教えていますが、音楽分析のクラスは、彼を念頭において創設されたのです」

ちなみに、ドビュッシーはローマ賞をとりましたが、ラベルは受賞できず、そのことが“事件”に

なったそうです。


★また、ロジェ先生は、ピアニストのマルグリット・ロン女史についても、一言おっしゃっています。

「ロンについては、鮮明な思い出がありますが、それは良いものではないので、話さないほうがいいでしょう」

ラベルも、ロン女史について『ピアノの下手なあの人』と言っています。

また、ロン女史は、ガブリエル・フォーレとも不仲だったと、伝えられています。

ロン女史の残した書物は、大変貴重で、私も参考にしておりますが、一応、上記のことを念頭に

入れておくほうがいいでしょう。


★≪ある「完全な音楽家」の肖像≫には、先生と同じころ滞日していた、マサビュオという

フランス人地理学者が友人のロジェ先生との交友を綴った想い出もあります。

“日本人は細部にこだわりすぎる”という感想から、

ロジェ先生は「私の生徒たちは、ひとつの楽譜(ソナタであったり、コンチェルトの一楽章であったり)を

全体として考えること、その全体構造を把握することができないの。

彼らはいつも小さいことにのめりこみ、作品全体の仕組みに無知なのね。・・・

そこで、作品の意味を本当には理解しないままで演奏する、という結果になってしまう」

「ある人の演奏が音楽的でないと言いたいとき、彼女は『ああ、彼(彼女)は全部の音を弾いている』と

いうのが常だった。

それは、バラバラとまではいわないが、その演奏が感受性に欠けており、機械的なだけだということを

意味していた」


★「ある日、ある名の通ったピアニストが弾く、著名な日本人作曲家のピアノ協奏曲を聴きに行ったとき、

帰りの道すがらに彼女曰く

『うちのトイレの水を流す音かと思った!』」


★私は、この曲と演奏家について、なんとなく想像がつきます。



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■■ ソルフェージュについて=「ショパン」12月号 ■■

2007-12-24 15:41:10 | ★旧・私のアナリーゼ講座
■■ ソルフェージュについて=「ショパン」12月号 ■■
2006/11/17(金)

★11月20日発売の雑誌「ショパン」12月号に、「楽典、聴音、視唱、いまやっておくべきこと」

のタイトルで、音大受験直前特集の原稿を書きました。

受験生にとっては、あと数ヶ月で入試、是非頑張ってほしいものです。


★「ソルフェージュ」とは、書き取り聴音や、新曲の楽譜を見てすぐに歌ったり、リズムをとる、

ことなどを総称します。

少々分かりにくい分野で、受験生にとっても、専門の楽器以外の“おまけ”のような存在と、軽視され勝ちです。

しかし、音楽家にとって一番大事な、土台のような訓練です。

ピュイグ・ロジェ先生もソルフェージュの先生としての一面をお持ちでした。

きょうは、その中で、音部記号についてお話します。


★皆さんがご存知のト音記号、ヘ音記号のほかに、5種類のハ音記号があります。

一点ハ音を「5線の一番下の線」に指定するのを、ソプラノ記号、「二番目の線」

に指定するのを、メゾソプラノ記号。

「三番目」が、アルト記号、「四番目」がメゾソプラノ記号、「五番目」がバス記号、といいます。

ハ音を指定するので「ハ音記号」といい、一番分かりやすい例では、ヴィオラの記譜は、アルト記号です。

弦楽四重奏や、オーケストラのスコアを見ていただければ、すぐに分かると思います。

この5つの記号を、ト音記号と同じように自由に読み、使いこなせると、オーケストラスコアを楽に

読めるようになります。

また、クラリネットのような移調楽器の実音が何であるか、簡単に確かめることができます。

ピアノ科の受験生にとっても、将来、ピアノ協奏曲や、ピアノ五重奏、クラリネットソナタのような

室内楽曲を演奏する際、最も必要な技術です。


★私は、ハ音記号を読むことが出来るようになる訓練として、バッハの「コラール」を初見で弾くことを、

強くお薦めします。

ソプラノ記号、アルト記号、テノール記号、バス記号(ヘ音記号)で記譜されている楽譜を用意します。

これを、ゆっくりとピアノで弾き、歌いますと、ハ音記号が読めるようになるばかりか、

バッハの旋律の力強い美しさが、自然に体得できるようになります。

コラールは、もともと、プロテスタント教会でプロの音楽家ではない一般の信者が、

神をたたえて合唱する曲で、単純な中に、音楽の一番根源的なものを含んでいます。


★私は学生時代、リーポケットスコア(Lea Pocket Score、いまは絶版)の

≪J.S.BACH 185 FOUR-PART CHORALES≫を、一夏毎日、弾きましたら、

あ~ら不思議!

ハ音記号は読めるようになり、さらに、フーガのメロディーもきれいに作曲できるようになり、

一挙両得でした。

クリスマスも近づきました。

皆さまも、バッハのコラールを、ゆっくりで結構ですから、是非、ピアノで奏でたり、歌ったりしてください。

聴くだけでは不十分です。


★繰り返しますが、ご自分で音にすることが何より、大切なのです。

それにより、「バッハ」が自分の体に沁み込み、西洋音楽の真髄、音楽の喜びに触れることができるのです。



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■■シューマン「子供の情景」■■その4

2007-12-24 15:39:30 | ★旧・私のアナリーゼ講座
■■シューマン「子供の情景」■■その4
2006/11/12(日)


★木枯らしが吹き、寒くなりました。

前回は、ロシアの作曲家・ボロディン(1833~1887)とシューマンとの関係でしたが、

意外なことにシューマンは、ロシアに旅をしたことがありました。

クララとの結婚3年後の1843年、シューマンが33歳のときです。

そのクララの演奏旅行に、半年ほど同行したのでした。

あちこちでクララの演奏は、熱狂的に歓迎されました。

シューマンは、「著名なピアニスト・クララの夫」という肩身の狭い立場でした。

彼の作品も若干、演奏されましたが、ほとんど無視されました。

ロシア滞在中は、寒さから健康も損ない「作曲する時間も、心のゆとりもない」という状態でした。

当時、ボロディンは、まだ10歳でした。

もしその時、ロシアで彼の作品が広く受け入れられていたならば、

ボロディンが後年、ドイツ留学でやっとシューマンを発見するということにはならなかったでしょう。

歴史の皮肉ですね。


★「子供の情景」第十番<きまじめ>では、シューマンは、曲頭に、ペダル記号を一つポツンと書いたきりです。

7小節目まで、なにもペダル記号を書いていません。

ペダルは各奏者が、工夫して踏むように、というシューマンの意図ですが、フォーレの校訂版では、

1~6の各小節の冒頭でペダルを踏み、2拍目でペダルを離す記号を付けています。

この記号通りに演奏しますと、一拍目が「掛留音」である2,3,4,5小節では、音が濁ります。

第5番「満足」の曲頭に、GisとGとを順に奏し、音を濁らせる手法がありますが、

それをさらに、敷衍して使い、音が一瞬濁ることを狙っているのです。

第11番「怖いぞ」の12小節目一番最後のアクセント「H音」も、怖がらせるように、

「C音」から短2度下がって、「H音」に到達するのと、すこし似ています。

このように、フォーレは、この曲集全体の設計を見て、ペダル記号を付したのです。

大作曲家の素晴らしい校訂です。


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■■シューマン「子供の情景」■■その3~ボロディンへの影響

2007-12-24 15:37:39 | ★旧・私のアナリーゼ講座

2006/11/1(水)

★「子供の情景」第8番「暖炉のそばで」は、

7番の「トロイメライ」に続く曲ですが、

弦楽四重奏のスタイルを彷彿とさせます。

バイオリン(右手上声)が、冬の暖炉のような暖かい旋律を奏で、

第2バイオリンとビオラ(内声)が、

和音を刻み、チェロ(左手下声)が、朗々とそれらを支えます。

アウフタクトの内声は、いかにも弦楽四重奏らしい響きです。

私は、この「暖炉のそばで」を弾きますと、

ロシアの作曲家・ボロディン(1833~1887)の

弦楽四重奏曲第2番の第一楽章の響きと曲想を思い起こします。


★ブラームスと同じ年に生まれたボロディンは、1859年、

化学(医学)の勉強でドイツの

ハイデルベルグに留学しました。

そこで1861年、将来の妻となるピアニスト・エカテリーナと出会い、

シューマンの曲を初めて教えられました。

ボロディンは、エカテリーナに自己紹介する際、

「熱心なメンデルスゾーン崇拝者」と言ったそうです。

エカテリーナのピアノの師は、メンデルスゾーンの有名な弟子でした。

当時のロシアでは、メンデルスゾーンとシューベルトの人気が高く、

シューマンはほとんど入ってきていなかったのです。

このように、シューマンの影響は、フォーレをはじめとするフランスのみならず、

ロシアの音楽家にも、深く浸透していくのです。


★軍医のインターンだったボロディンは、1856年、エレガントな青年将校だった

ムソルグスキーとサロンで出会います。

シューマンは、この年に亡くなっております。

ムソルグスキーが、ヴェルディーの「椿姫」の断片をピアノで弾き、

サロンのご婦人方から賞賛を浴びる光景を、やや皮肉を込めて回想しています。


★1859年、作曲に専念しようと退役したムソルグスキーと会い、

二人は親しくなります。

「椿姫」を弾いて、サロンの喝采を浴びるムソルグスキーから、

貪欲に新しい音楽を吸収する作曲家へと変身していたムソルグスキー。

二人でメンデルスゾーンの交響曲を連弾した後、ムソルグスキーは、

感動していたシューマンの交響曲を、ボロディンのために

ピアノで弾き始めました。

しかし、途中で「残念だが、この先は数学みたいで手に負えない」と、

止めてしまったそうです。

ボロディンは、当時としては最先端の“現代音楽”だったシューマンに

、ここで初めて接したわけです。

その直後、ハイデルベルグ(当時、ドイツのオックスフォードと呼ばれた学問の都)へ留学します。

そこで、シューマンとショパンの曲に目を開かされていきます。


★有名なボロディンの弦楽四重奏曲第2番も、

このようにシューマンの影響を抜きにしては語れません。

ロシアへの影響も折に触れて書いていきたい、と思います。


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■■シューマンの「子供の情景」について■■ ~音にされない音を聴く~

2007-12-24 15:34:37 | ★旧・私のアナリーゼ講座

2006/10/25(水)

★シューマン「子供の情景」の最後の曲は、第13番「詩人のお話」です。

冒頭の6小節は、コラールのように4声体で書かれています。

ソプラノ、アルト、テノール、バスの4声です。

ところが、6小節目の一番最後のテノールの音が、

ぽっかりと欠けています。

そこは、イ短調の「導音ソ♯」が、「主音のラ」へと進行する所です。

肝心の一番大事な「主音ラ」が、穴が開いたように欠けているのです。

その「ラ」がないために、耳は、「ラ」を期待していたので、

心の中に、あたかも「ラ」を聴いたかのような強い印象が、残ります。

生の音を聴く以上に、強い効果が生まれます。

この効果は、シューマンの“大発明”であると、思います。

さすがのクララも、このシューマンの意図を理解したのでしょう。

その「ラ」は、クララ版でも、原典どおり、欠けたままにしてあります。


★ところが、大作曲家フォーレは、“ラ”を作曲してしまいました。

6小節目と同じ音型が、18小節目にも再現されますが、

原典にはない「ラ」を、ここでも、フォーレは、書き込んでいます。

私の大好きな作曲家フォーレ!!!

本当にフォーレが、「ラ」を望んで書き入れたのか、

出版社の暴走なのか、それ以外の事情なのか・・・・・・

よく分りません。



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