音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■中山靖子先生の「リート」、中山悌一先生の「ピアノ」、忘れ得ない体験■

2015-01-19 20:55:25 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

中山靖子先生の「リート」、中山悌一先生の「ピアノ」、忘れ得ない体験■
     ~Berlinで、私のCello四重奏曲を演奏~

                                     2015.1.19   中村洋子

 

                

★故「中山悌一」先生の奥さまの「中山靖子」先生が、

お亡くなりになりました。


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訃報:中山靖子さん93歳=東京芸大名誉教授、ピアニスト
毎日新聞 2015年01月16日 
 中山靖子さん93歳(なかやま・やすこ=東京芸大名誉教授、ピアニスト)16日死去。通夜は18日午後6時、葬儀は19日午前11時半、東京都台東区上野公園14の5の寛永寺輪王殿第2会場。葬儀委員長は迫昭嘉(さこ・あきよし)東京芸大教授。喪主は長男欽吾(きんご)さん。     
 日本の音楽界に寄与したロシア出身のピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事し、クロイツァー記念会名誉会長などを務めた。夫はバリトン歌手の故中山悌一。2005年に瑞宝小綬章。
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故悌一先生がお元気でしたころ、二期会「ドイツリート研究会」を、

私も、勉強のため聴講させていただきました。

そこでの、悌一先生による素晴らしい講義については、

以下のブログで、詳しくご紹介しております。http://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/e/87b52c5e9163a9a3bab1bad7b933ea17

http://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/e/b58c0b3803815a32b41acf428860da63

 

★「ドイツリート研究会」の分科会のような形で、靖子先生による、

ピアノ伴奏の勉強会も時々、開催されていました。


★その勉強会に、普段は顔をお見せにならない悌一先生が、

ある時、靖子先生と一緒にいらっしいました。

どうも、靖子先生の体調がいま一つだったためのようですが、

その講義では、一生忘れえない体験をいたしました。

 

 


Schubert のリートを、靖子先生が歌い、

ピアノ伴奏を、悌一先生がなさったのです。

逆の組み合わせです。

悌一先生のピアノは、「素晴らしい」という月並みの表現では

言い表せない程、感動的なものでした


先生のリートと同様、ピアノの一音一音が、

全体の曲の構造の中で、明確に位置付けられ、

どれ一つ欠かすことのできない音であることが、

手に取るように分かる演奏でした。

Schubert の短い歌曲が、強固な構造体で出来ていることが、

実感できたのです。

そして、端正で清々しく、はったりがなく、

誠実で暖かい演奏でした。

当たり前のことですが、超一流の芸術家は、

どんな楽器であろうとも、超一流なのです。


★靖子先生のリートも、細い声でしたが、

透明感のある見事な歌でした。

 

 


★「ドイツリートは、他の国の歌とは違う」と、

悌一先生は、絶えずおっしゃっていました。

つまり、Bach の音楽に通じるからです。

リートで歌われる言葉の一つ一つが、

音楽全体を構成する motif モティーフとなっているからです。

ドイツリートの揺るぎなき礎を築いたのも、

Bachである、と言えるのです。

 

★悌一先生のおっしゃるドイツリートとは、

Wolfgang Amadeus Mozart モーツァルト(1756~1791)、

Franz Schubert シューベルト(1797~1828)、

Robert Schumann  シューマン (1810~1856) 、

Johannes Brahms ブラームス(1833~1897)、

Hugo Wolf ヴォルフ (1860~1903)、

Richard Strauss リヒャルト・シュトラウス (1864~1949)

を指します。

 


★いつものことですが、靖子先生の訃報記事には、

「夫はバリトン歌手の故中山悌一」と書いてあるだけ。

歴史を知らない若い方には、単なるバリトン歌手であったとしか、

受け止められないでしょう。

日本人で初めて、世界に通用する本当の音楽家であった、

という位置づけが欠落しています。

せめて、≪「二期会」を創設、日本でのクラシック音楽の普及、

教育に尽力した≫ぐらい、書いて欲しいものですね。

読者が、日本でのクラシック音楽の歴史を知ることにも、

なるからです。

 

 

★先日、Berlinの女性cellist Susanne Meves-Rößeler先生から

お便りがあり、可愛いお弟子さんのお嬢さん四人が、

コンサートで、私のCello四重奏曲

"Vier Paar Kastagnetten" (Nr.5) aus: Zehn Fantasien

für Celloquartett を、弾いてくださるという、

嬉しいお話でした。

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Konzert
Der Fachbereich Streichinstrumente
präsentiert Ensembles,
Schülerinnen und Schüler
Musik für Streicher
Mittwoch, 21.01.2015 um 19.00 Uhr
Festsaal im Rathaus Charlottenburg
Otto-Suhr-Allee 100
Eintritt frei !
www.ms-cw.de
Programm
Karoline Kyrieleis, 12 J; Cäcilie von Galen, 13 J;
Maruscha Obuhov, 11 J;Katharina von Stackelberg, 13 J,
alle Violoncello Einstudierung: Susanne Meves-Rößeler
Yoko Nakamura :
"Vier Paar Kastagnetten" (Nr.5) aus: Zehn Fantasien für Celloquartett

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★この曲 "Vier Paar Kastagnetten" (Nr.5) は、 

Zehn Phantasien für Celloquartett (Band 1,Nr.1-5)    

チェロ四重奏のための 10のファンタジー (第 1巻、1~5番)

の一曲で
Musikverlag Hauke Hack  Dortmund 社から

出版されています。

 

★いま、Berlinは “Celloの都” と言われるほど、

Cello が盛んだそうです。

Wolfgang Boettcher ヴォルフガング・ベッチャー先生のお人柄と

熱心な指導に負うところが、大のようです。

若い芽がすくすくと育ち、早く私の「 無伴奏チェロ組曲 」も

弾いて欲しいものです。


24日土曜日は、 Wolfgang Boettcher ベッチャー先生が

Berlinで、私の「Suite für Violoncello solo Nr.4 

無伴奏チェロ組曲 第4番」を premiere 初演されます。

「 Musikverlag  Ries & Erler  Berlin

リース&エアラー社 」で、私の作品の楽譜編集を担当して下さった、

editor でcellistの Thomas Schwalbe トーマス・シュヴァルベさんたちも、

楽しみに、演奏会に行かれるそうです。

 

 


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■Manet 「笛を吹く少年 Le Joueur de fifre」は、三角のcomposition、Bach に似る■

2014-10-02 18:57:42 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■Manet 「笛を吹く少年 Le Joueur de fifre」は、三角のcomposition、Bach に似る■
          2014.10.2        中村洋子

 

 


★9月17日に開催しました「KAWAI金沢」での、

「 Inventio & Sinfonia Nr.1」 の講座では、

この曲が、実は二声ではなく、四声であることを、

実際に演奏することで、十分に理解していただきました。


★同21日の「KAWAI横浜」では、

「平均律クラヴィーア曲集第1巻22番」について、同様に、

この 「 b-Moll  Prelude 」  を、四声体に要約いたしまして、

実際に、聴いて頂きました。

これが、一つの「アリア」となることを、証明いたしました。

受講された皆さまも納得され、

Bach の豊かさに、感嘆されたことと思います。


★忙中閑ありで、国立新美術館で、Musée d'Orsay

オルセー美術館展を見てまいりました。

Édouard Manet エドゥアール・マネ(1832 - 1883)に、

焦点を当てて、じっくりと見ました。

 

Manet 晩年の傑作「Portrait of George Clemeceau 

クレマンソーの肖像画」(1880)は、彼の最高傑作の一つ

思います。

 

 

 

★接近して見ますと、 Clemeceau の右眼は、黒目の部分は

漫画のように、黒く塗りつぶしただけ。

しかし、3~4メートル離れて見ますと、大政治家の発散する、

威圧感、したたかさ、ふてぶてしさ、尊大さに気後れし、

負けてしまいます。


見ている私が、肖像画の Clemeceau 

クレマンソー(1841-1929)から、

『お前は誰であるか』、と鋭い眼差しで問い掛けられ、

“値踏み”されているような、感じです。

 Clemeceau クレマンソーという人物が、どんな人であったか、

この一枚の絵が、多分、書物よりも雄弁に語りかけています。


この体験は、印刷された画集を見ては不可能でしょう。

実物の絵画を見て、初めて分かるものなのです。

 Clemeceau のやや薄い頭頂部が、キューピー人形の尖った頭

のように、三角を形作っているのに、気付きます。

本来在り得ない形、自然にそこに視線が注がれます。

これが、この絵画の基本の構造なのです。

この頭頂部から顔、胸、手と視線が下がっていきます。

すべて三角形が、基本の構図です。

 


★同じ構造が、有名な「 Le Joueur de fifre 笛を吹く少年」

 ( 1866 )でもいえます。

帽子の最頂部には、小さな「赤い三角」、そのすぐ下の帽子本体には、

少し大きめの「金の三角」。

視線は、そこから不思議な三角形をした鼻の方へと移ります。

額から眉間、眉により、「大きな眉間の三角」が、

肌色で、描かれています。

そして、フルートを当てた「赤い唇」へと自然に降りていきます。


★黒いフルート、黒い上着の縦列金ボタン、

金色のフルートケース、

これらが、大きな「力強い三角」を描きます。

さらに「大きな三角」が、左腰と両足靴下の白により、

形作られています。


★「 Le Joueur de fifre 笛を吹く少年」のポーズは、

極めて具体的。

しかし、見始めますと、非常に抽象的な、

近代的な絵画に見えてきます。

すべてが、≪三角のcomposition コンポジション≫なのです。

 

 


★小さい三角は、至る所に散りばめられています。

右手の親指、中指、薬指が、「肌色の三角」。

手の平の窪みも「三角」、

その反行形ともいえるのが、先ほどの「大きな眉間の三角」。

赤いズボンの左足裾にも、「皺による三角」が描かれています。

作曲の canon カノンのようです。


★唇、帽子の上部、ズボン、これらは「赤」。

フルートケースを吊るベルトと靴下が、「純白」。

顔と手が「ピンク」。

フルート、上着、ズボンの縦線、靴が「黒」。

背景は「灰色」。

五色です。


全体の構成は、きれいに四分割できます。

画面の最上部から唇までの縦の距離を、「1」としますと、

唇から、腰の白ベルト中央に描かれた、

「大きな金ボタン」までが「1」、

この金ボタンが全体の要の役割です。

その下のズボンから画面下端までが、ちょうど「2」の距離。

 

 


★「 Le Joueur de fifre 笛を吹く少年」は、フランスの第二帝政期、

鼓笛隊のメンバーとして、戦場で最前線に立ち、

笛を吹き、その高く鋭い音で、兵士を鼓舞させ、

戦場へ、戦場へと駆り立てる。

そして、真っ先に殺される悲劇的な運命だったそうです。


★しかし、この絵画を見ていますと、そのような文学的な意味は、

あまり意味を持たないように思われます。

精緻に張り巡らされた≪三角のcomposition≫がもたらす、

交感に酔います。

見れば見るほど、Bach の音楽のもつ構築性に、

そっくりであることに、驚きます。

それゆえ、感動するのでしょう。

 

 


Bach  Wohltemperirte Clavier 平均律クラヴィーア曲集 」 は、

第1巻が、多種多様な「調」を展開し、色彩感がとても豊かです。

しかし、第2巻は、「調」が、主調とその近親調に限られ、

色彩豊かな展開は、一見しますと、なさそうです。

それゆえ、あまり、好まれなかったことも事実です。


★ Manet 晩年の傑作「Clemeceau クレマンソー」の肖像画は、

黒、白、肌色のほぼ三色です。

これも、極めて限定されています。

しかし、恐ろしいまでの迫力です。

この延長に、 Paul Cézanne 

ポール・セザンヌ(1839- 1906)があるのは、当然でしょう。


Bach も  Manet も晩年は、要素を極限まで減らす、

限定することで、何を獲得しようとしたのでしょうか。

私はいま、10月9日のKAWAI表参道での

「Bach 平均律第2巻・アナリーゼ講座」 でお話します、

第 19 番 A-Dur BWV888 Prelude & Fuga の勉強をしております。


★ようやく、Bach が平均律クラヴィーア曲集第2巻で、

目指したものが、見えてきたような気がします。

そこから見えてきましたものは、得も言われぬような、

色彩感にあふれた、まるで交響曲の世界なのです。

講座で実演とともに、詳しくお話いたします。

きっと、驚かれることでしょう。

 

 

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■映画「ブルージャスミン」を見る、米国の近未来を暗示。救いはあるのでしょうか■

2014-07-08 23:27:14 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■映画「Blue Jasmin」を見る、米国の近未来を暗示。救いはあるのでしょうか■

                  2014.7.8    中村洋子

 

 

★Woody Allennウッディ・アレンの新作映画
「 ブルージャスミン Blue Jasmin 」(2013年)を見ました。

悲しい映画です。「救い」がありません。
彼は絶望しているのでしょう、「アメリカ」という国に。
主人公のジャスミン Jasmin という女性を描くことで、
その国の近未来を暗示しています。

 

★「ミッドナイト・イン・パリ Midnight in Paris 」で、
Woody Allennは、
“いつの時代でも、理想郷などありはしない”。 
その時代の愚かさ、軽薄さを憎み、俗物と戦い、
日々、命を削る思いで創作している芸術家だけが、後世からみて、
その時代を輝かせている・・・というメッセージとともに、

主人公である、売れっ子の脚本家に、アメリカでの職業も、
リッチな婚約者もすべてを捨てさせ、パリを徘徊する生活を選択させました。

ここで既に 、Allennはアメリカの繁栄なるものへの疑いの「種火」を埋め込んでいました。そして、この「Blue Jasmin」です。 


Fuga にも似て、 Jasmin という主人公(主題)に、妹 Ginger と彼、元夫。
 Jasmin の夫、息子、新しい恋人という脇役(副主題)が、現在と過去とを経糸と横糸のように、絡ませ、縦横無尽、それぞれの生き方をさらすことで、アメリカの現在を暴きます。

 

★甘い香りを四方八方にまき散らす Jasmin の花。
しかし、この花の名前をもった主人公は、破産し、落ちぶれ、
行くあてもなし。
誰も救ってくれない。
路傍のベンチに座り込み、独り言をつぶやいている。
映画は、残酷にそこで終わらせています。

 

★NYに住み、アメリカという国を、
その落ち窪んだ目で、じっくり眺めてきた Woody Allenn が
「もう、救いようがない、アメリカという国は、
いずれ Jasmin のようになる」と、アメリカという国への訣別を、
この映画で表明しているのかもしれません。

 

 


★NYから、サンフランシスコへ飛ぶ機内、ファーストクラスの席です。
中年の女性が、隣席の上品な老女に、一方的に喋りつづけます。
ボストン大学で人類学を学んでいた時、投資家の大金持ちに見初められ、中退したのよ」「夢のようなゴージャスな生活だったわ」「彼のセックステクニックは最高よ」「ある日、突然破産し、無一文になったの」
「いまから、サンフランシスコの妹の家に行くの、トランク一つで」
「安定剤やたくさんの薬を、カクテルのようにして飲んでいるのよ」
「ジャネットが本名だったけど、平凡だから神秘的なジャスミンに変えたの」。

40代後半に見えるこの女性が、主人公の Jasmin ジャスミン。

 

★純白の生地に黒い縁取り、みるからに高価そうな「 Chanel 」の上着、
バッグには、黄色い Hermès のスカーフが結わえられ、ヒラヒラなびきます。
しかし、このシャネルはどことなく、陳腐に見えます。
一方、隣の老女は上品、さりげなさを装いながらも高級さがにじみ出る服装。

 

★タクシーで到着する妹の家は、安っぽいカフェやレストランが並ぶ、下町の庶民街。妹は不在でした。
スーパーでレジ係として汗まみれになり、働いているのです。

日本人から見ますとかなり広く、整ったこぎれいな家ですが、典型的セレブだった Jasmin の、かつての宮廷のような邸宅とは比較になりません。
パソコンを開くのも、
キッチンシンクの横。


 
★フラッシュバックのように、 Jasmin の過去の生活が、挿入されます。
これが、この映画の見事な技法です。
 Jasmin の意識の中で、現実と過去の夢のような生活とが、混在しています、
その混在、混乱を、映像が描きます。

 

★ Jasmin の大邸宅は、優しそうなメードさん、豪華な家具の居間、
プール、広大な庭、山の中の美しい別荘。

★妹の名は、Ginger ジンジャー「生姜」、少々コケティッシュな名前。
Jasmin は、背も高く、歩き方も前方を見据え、胸を張って歩きます。
Ginger は、小柄、痩せています。見るからに貧相です。
化粧もほとんどしない。
一目で階級の違いが分かります。
この姉妹は、ともに養女でしたが、Ginger は養い親と折り合いが悪く、
若くして家を出ていたことが分かってきます。

 

 

★「お金がないのに、どうしてファーストクラスなの」と妹。
「今までの癖でつい、頼んじゃったの・・・」

 Ginger には、別れた夫との間に小さい男児が二人います。
その夫は家具修理工、東欧系の移民の様子。いまでも子供とは会っています。
元夫の家へ、子供を迎えに来たGinger が、 Jasmin が来たことを話します。
「あの女は全部知ってたんだ。絶対に許せない」と元夫。
「知らなかったのよ」とかばうGinger 。
彼はこの映画で、重要な役割をこれから演じていきます。
離婚の原因も、 Jasmin にあったことが次第に分かってきます。

 

★Ginger には、いま、新しい彼がいます。「食事をしよう」、彼とその友達と四人で街に出かけます。なだらかな坂のはるか下には美しい海が光ります、派手なネオンの中華街での散策、観光案内もたっぷりしてくれます。


 
★その彼も、やはり、肉体労働者でした。典型的なブルーカラー。
ジーンズに、薄汚れたセンスの悪いシャツ。
いろいろな血が混じり合ったような浅黒い風貌、いわゆる白人ではありません。
知性の香りは全くしません。
彼の体から発する、暑苦しい汗の臭いがスクリーンにまで漂ってきます。
彼らの話は徹頭徹尾、口に出すのも憚られるような、卑猥な話ばっかりです。
そして、 Jasmin への好奇に満ちた刺すような眼差し。


★Ginger の彼は、とことん Ginger に惚れ込んでいます。
「早く一緒になりたい、子供も引き取りたい」。
そんな思いがヒシヒシ伝わってきます。
嘘のない単純な人なのです。

 

★そんな男たちに、辟易する Jasmin 。
いままで自分を取り巻いていたアッパークラスとの乖離に、
絶望的な気持ちにとらわれています。

 
画面には、フラッシュバックのように、Jasmin のかつての優雅な生活が現れます。
誕生祝いに宝石のブレスレットを貰うシーン。
真っ白な泡がこんもりと盛り上がるバスタブで、入浴中のジャスミン、
夫が宝石の包みを開け、腕に嵌めます。
名画の王侯貴族のような食卓、誕生日のディナーです。
揺らめく蝋燭の灯り、まばゆいばかりの銀食器、虹色に輝くクリスタルグラス、
高価なワイン、かしずく給仕・・・。

 


 
★画面は過去に遡ります。別れる前の妹夫婦が突然、ニューヨークの豪邸を、
訪れます。「観光」でした。Jasmin は、高級リムジンを提供して市内観光をしてもらいます。超ブランド店で、妹が目を丸くするような素敵なバックなどを買い与え、それなりに歓待します。
 観光も一段落、プールサイドでくつろいでいるシーン。
妹の夫、「実は、宝くじで2000万円当たった。これで自分の事業を始めたいが、どう思うか」。

Jasmin 「それを、夫に任せたら?。例のあのホテルの件に加えてあげたら」
Jasmin の夫「○○諸島のリゾートホテルへの投資の話だ。しかし、利子はあまりよくない、1、2割程度だが・・・」。 画面はそこで終わります。

 


★ここから、Jasmin の夫がどういう人物であるか、順々に解き明かしていきます。
山荘のテラスで、Jasmin 夫婦がくつろいでいます。夫の顧問弁護士が深刻な顔で、
なにやら、書類を持ってきました。「このままでは駄目だ。ヨーロッパの会社に付け替えろ。それなら大丈夫だ、違法にならないな」というようなことを指示しています。どうやら、危ない橋を渡っている人種のようです。
 Jasmin はといえば、その危なさを知っているようでもあり、それ以上に、知りたくもない、いまのままでいい、という微妙な深層心理を覗かせています。Jasmin の親友は「会計は、夫と別にしておかないと駄目よ」と忠告しています。

 

★妹がリムジンでNY観光中のことですが、偶然に Jasmin の夫が美しいモデルのような女性とビルから出てくるところを目撃、別れ際、キッスを交わしました。
夫の複雑な女性関係を暗示します。
これが、この映画の  Counter subject 対主題でもあります。

 Jasmin の夫には、前妻との間の男の子がいます。
ハーバードの優秀な学生です。
父親が、大学に多大な寄付をしたことが知れ渡り、
彼も、パパを誇らしげに思っている様子。

 

★サンフランシスコのJasmin は、好きな室内装飾の資格を取り、
それで、生計を立てようと考えています。
PCで通信教育を受けたい。
そのためにはPCを勉強しなくてはいけない。
その費用稼ぎに、嫌々ながら、歯科医の受付アルバイトを始めます。

 

 

 


★インテリ風の歯科医は、Jasmin を一目見た時から惚れ込んだ様子です。
懲りずに何度も何度も迫ってきます。
歯科医の指には結婚リングがキラリと光ります。

Jasmin は頑なに拒み続け、遂に荒々しく床に突き倒し、「もう二度と来ない」。
  
 この話は、本筋ではないサイドストーリーです。お金に本当に困っているJasmin にとって、歯科医の愛人となる選択肢も、現実には十分ありうる話です。

しかし、Woody Allennは、Jasmin に拒絶させます。
そのような妥協は、かつての誇り高きセレブにとって、
耐えがたい、許しがたい、という設定なのでしょう。こ
の挿入話は、 Fuga の中の「ディヴェルティメント 嬉遊部」にも似て、
物語を豊かにしてくれます。

 

★PC学校で知り合った女性からの誘い、「パーティーに行きましょう」。
Jasmin は妹と、久しぶりに華やかな宴会場に出かけます。
妹は、楽しく踊りまくり、中年の太った男と仲良くなってしまいます。

 Jasmin は、自分が主催者、女王のように振る舞っていたことのあるNYのパーティーを思い出してか、独り言をぶつぶつ。周りから不審に思われます。
風を浴びようと、テラスに出ました。

寂しそうに一人で座っていた男性と、目が合います。
インテリ風で柔和な眼差し、優しそう。

 
★「私は外交官、近くオーストリアに赴任します。2、3年の任期が終わったら、下院議員選挙に出るつもりです」。
「亡くなった妻はファッション雑誌の編集をしていました。貴女もその関係のお仕事のようですね。とってもセンスがいい」。

 初対面から、お互い引かれ合うものを感じています。
「私は インテリアデザイナー。脳外科医だった夫が急死しました。子供もいません」と、自己紹介をしてしまいます。
ここで本当のことは言えないでしょう。
それが普通の人間でしょう。

 「海の見える高台にやっと、気に入る家が見つかったところです。家具はまだ入っていません。一緒に見に行ってくれませんか」

 

 

★妹は、オーディオ業界の中年男が「独身」というのを単純に信じ、浮気だけでおさまらず、いまの彼から乗り換え、一緒になる気になってしまいます。
 だが、 Ginger の浮気を聴きつけた彼が、スーパーで働いている Ginger のもとに、血相を変え、乗り込んできます。「ダチ公がパーティーでバイトしていた。お前は男と楽しそうにしていたな。もう、夜も眠れないんだ。好きなんだよ、お前が」。買物客の驚いた顔も目に入らず、半狂乱で怒鳴る。よりを戻すよう迫ります。どうしても諦め切れないのです。

 

★彼は、さらに家にも押しかけ、復縁を迫ります。家具を倒す、電話を壊す、
当り散らします。
冷ややかな目で見ている Jasmin に、
「確かに、俺は貧乏だ。でもな、あんたたちのように、人を騙すようなことはしていないぜ」。

 

★しかし、 Ginger はまだ中年男に未練たっぷり。香水を浴びるように振りかけ、デートに出かけます。だが、男の職場に電話したことから、その中年が妻子持ち、騙されていたことに気付きます。
目が覚めたように、あっという間に元の鞘に収まってしまいます。
前より親密です。
なんともあっけらかんとした男女関係です。

 

 

★Jasmin は、外交官の両親にも会い、「趣味がいい、陶器や美術品の話もできる」と、大層気に入られます。
アンティーク家具のお店まで、黒の BMW でドライブ、
一緒に天蓋付きの大きなベッドを、楽しそうに選びます。
すべてが夢のよう。順調です。
「下院議員の選挙では、いつも僕の横で微笑んでいて欲しい」。

“ああ、元の生活に戻ることができる”。

 

★回想:Parisの高級ホテルから夫の忘れ物についての電話。
アメリカ国内の出張だったはずが・・・。
友人「今まで言わなかったけど、若い顧問弁護士、スポーツインストラクター、モデル、いろいろな人と彼がつき合っているのを知ってたわ。あえて、貴女には言わなかったけど」。

 

★帰宅した夫が唐突に、切り出します。
「今
度は本気なのだ。もう愛し合っている。若いフランス人の学生だ。あなたと別れたい。暫くホテルに住む」そのまま、家を去る夫。

 

★半狂乱の Jasmin 、突如、 FBI に電話を掛けます。
なにやら、告白している様子。

街を歩いている夫が、いきなり警察官に取り囲まれました。
逮捕状を見せられ、
車に押し込み、連行されてしまいます。

 

★自宅から、バッグを背負って家を出て行く息子。
父が詐欺師だったとは、もう、大学も行けない。跡
を追わないでくれ。

問わず語りに、夫が留置場で首を吊って自殺したこと。
窒息ではなく、首の骨が折れて死んだこと。
ロープは自分で手に入れたそうだ。

 

★財産は全部、没収されてしまった。
かろうじて隠すことができた宝石などは、売り払ったの。
私の名前が刻まれたヴィトンのスーツケースはただ同然よ、売れないわよ。

ニューヨークで、高級靴店の店員もしたわ。お客に靴を出すの。
昔のお友達が店に入ってきたけど、私に気付くと、
さりげなく静かに出て行ったわ。

 

 

ここから映画は密度を増してきます。
ほんの一日の出来事でクライマックスを迎えさせます。
ギリシャ悲劇のようです。  

★宝石店の前。
ショーウインドーには、大粒のダイアモンド指輪が輝いています。

まさに、店に入ろうとしている Jasmin と外交官。
男が声を掛けます。

「久しぶりだな。ここで会うとは。
この間偶然、息子さんと遭ったぜ。
場末のビルの地下で中古のギター屋をやっていた」。
妹の元夫でした。

 

★外交官の顔色が変わります。
Jasmin 「アラスカに仕事が見つかったんですって、よかったわね」
妹の元夫「誰が好きこのんで、そんな辺鄙なところへ行くか。
こうなったのもお前に金を全部取られ、無一文になったせいだぞ」。

「覚えておけ、人はな、許せないことは絶対に忘れないものだ」

 

★「息子?、どういうことだ」「婚約指輪、冗談じゃない」「説明してくれ」。
BMW の車内。厳しく詰問する外交官。
「そういうことじゃないの!」激しい口論。
車を急停車させ、飛び降りように出て行く Jasmin 。

 

★亡霊のように歩く Jasmin 。
地下への薄暗い階段を降り、中古ギター店に。

奥で息子が一人、パソコンに向かって仕事をしています。
「口止めしたのに、喋ってしまったのか」 
「FBIに密告したのは、あんただったんだな」 
「二度と顔を見せないでくれ。結婚した。
  彼女と一緒になったおかげで、ドラッグを止めることができた」

Jasmin 「FBIに電話してすぐに、後悔したの、本当に後悔したの」
  
「私には、あなたが必要なのよ」
息子「出てってくれ」

 


★憔悴し切った Jasmin 、とぼとぼ妹の家に戻ります。
家中に、明るい笑い声が響いています。
妹と彼は、最後の一切れになったピザを取り合いっこ。
じゃれています。
澱を落とすかのように、シャワーを、いつまでも浴び続ける Jasmin 。

まだ、妹たちは戯れています。

 

 

★その声を聞きながら、
「That's why you have never better life 
だから、あなたたちはいい生活ができないのよ」と、
呪詛のような言葉をつぶやき、家から出て行きます。

濡れ髪のままです。
亡霊のような顔。
白の Chanel スーツ。
冒頭の機内と同じ Chanel。
彼女のレゾンデトル、最後まで手放せないのです。
その白は気のせいか、くすんで見えます。
夢遊病者のよう。
道路際のベンチに腰を下ろす。
ブツブツ独り言。
隣に座っていた女性がさっと、逃げていきます。
映画は、ここで The END。
Woody Allennは、 Jasmin を見捨てたのです。

 

★以上は、シナリオ通りの、正確な筋、表現ではないかもしれませんが、
大筋では、
あまり間違っていないと思います。
映画館で販売している「パンフレット」は、腹立たしいのですが、歯の浮いたような常套的形容詞のオンパレードで、その映画が本当に伝えたかったことを、解説しているものは、稀なような気がします。
しかも、「シナリオ」を添付しているものはほとんど皆無です。
「自筆譜」と同様、「シナリオ」は映画理解のためには、必要なのです。
残念です。

パンフは、この映画について
≪虚栄とプライドで塗り固められたジャスミン≫と解説しています。
はたして、そうなのでしょうか。

 

 

★ Jasmin が、夫の投資詐欺を知っていたかどうか、
それはこの映画の重大なカギです。

プールサイドで、心地よい安楽椅子に座りながら、リゾートホテルへの投資を勧誘する手口を見て、「サブプライムローン」という言葉を思い出しました。
 アメリカで、お金持ちではない、その下の階層の人々に、マイホーム建設を薦めたあの「投資」です。失業者でも、あまり英語もできない移民の労働者にまで、このローンを組ませ、膨大な数の住宅を建てさせたのです。最初の数年間は、金利も安いのですが、その後、うんと高くなります。住宅の時価が上昇中は、それでも支払いは可能ですが、いったん時価が下落し始めますと、たちまち、ローンを払えなくなります。そして、その住宅は取り上げられてしまいます。
 その「サブプライムローン」を証券化して、高金利をうたい文句に、世界中に売ったのが、アメリカという国なのです。日本国もさぞかし、いい“カモ”だったことでしょう。プールサイドでの、リゾートホテルへの投資勧誘とそっくりです。

 
★しかし、「サブプライムローン」などの金融商品の結末がどうなったか、実は、分かっていない、といえそうです。それらの証券を売りまくった巨大な投資銀行などに対し、「 too big to fail 」 として、アメリカ政府は 「QE 金融緩和」 という分かったようで分からない用語を使い、膨大な資金供与、340兆円ものお札を刷り、延命措置、 “点滴“ を続けています。うやむやになっているだけかもしれません。そうした不良債権は、一説によれば、2000兆円ともいわれます。しかし、いずれ、清算の時がやってくるでしょう。逮捕された Jasmin の夫のように、その日は、突然訪れるかもしれません。

 

★不平等社会のアメリカは、最も豊かな1%の世帯が、国の金融資産の3分の1を所有し、上位20%の世帯が、95%を所有している歪な国です。「サブプライムローン」が、かなり詐欺っぽいものであったことは、富裕層のみならず、アメリカ全体がうすうす感づいていたかもしれません。 Jasmin の心理のように。何か変である、しかし、この甘い果実は捨てたくはない、本当はどうなっているか知りたくもない、知ると怖い。そうやって、ズルズルと流されてきた、というのが真相かもしれません。
 

 

 


★Woody Allennは、憐れな Jasmin の生き方を通して、
アメリカの実態を描いたのでしょう。
いずれ清算の時が来る。
その時、アメリカという国は、ジャスミンのようになる・・・。

 

★案外、この映画の主人公は、「妹 Ginger とその彼」かもしれません。
姉を批判しない、かばう。この優しさは、虐げられてきた者がもつ、優しさかもしれません。浮気しても直ぐに回復。新しいキャラクターです。

≪確かに、俺は貧乏だ。でもな、あんたたちのように、人を騙すようなことはしていないぜ≫という Ginger の彼の言葉。
これが、この映画の「核」であり、「救い」でしょう。
野卑でもいい、ジーンズで汗を流して働く人間のほうが、
Chanel を纏い、紳士やセレブのお面をかぶった詐欺師より、誠実である。
よほど、人間臭い。
こういう人たちが、アメリカを再建していく、と Allenn は言いたいのでしょう。

 

★Woody Allennは、決してアメリカを、見捨てはしていなかったのです。
「救い」はあったのです。
 そういえば、 Allenn はいつも「コットンパンツ」ですね。
「Chanel」より
「Blue jeans」です。

 

★Woody Allennの映画手法は、作曲技法によく似ています。
Subject 主題と Answer 応答、ディヴェルティメント 嬉遊部、
頂点の作り方・・・。
彼は、相当、クラシック音楽にも精通しているように見えます。 

 

 ■ Woody Allenn ウッディ・アレンの映画「 Midnight in Paris 」を見る

http://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/e/643877816a85ed0f39455e1899790aa7

 

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■銀座からまた、名店が消えました、 銀座日航ホテルが閉館■

2014-03-31 00:37:41 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■銀座からまた、名店が消えました、 銀座日航ホテルが閉館■
              2014.3.31    中村洋子

 

 

★銀座の名店がまた、姿を消しました。

銀座 8丁目の外堀通りに面した 「 銀座日航ホテル 」 が、

半世紀以上の歴史を 3月 31日で、閉じました。

数寄屋橋交差点から、歩いて数分、

建物は威容を誇らず、さりげなく落ち着いたたたずまい。

上品で丁寧、気配りのきいた質の高いサービス。

「 粋 」 でした。

しかし、決して格式張らず、銀座という街並に、静かに溶け込み、

なくてはならない存在でした。


★東海道新幹線が開通した1964年より 5年前の、1959年の開業。

昭和 34年です。

その年の 4月 10日 は、 皇太子殿下と美智子様の結婚式。

4月 20日には、東海道新幹線建設の最初の槌音が、鳴り響きました。

誰もが日本の明るい未来を信じ、羽ばたき始めた時代でした。

それから半世紀、 「 銀座日航ホテル 」 は、銀座の栄枯盛衰を、

ずっと黙って、見守ってきました。


★今回、建物の貸借契約が、終了したため、

営業を終えることに、なったそうです。

いまの建物は、取り壊されてしまいます。

日本の歴史を眺め続けた建物が、何を見てきたか・・・、

語って欲しいような気持ちです。








★ホテルのホームページに、

ホテルの皆さまの、最後の声が流れています。

フロントの皆さん、厨房のコックさん、客室係の女性たち、事務係、

ボイラー担当者など全員が、一言お礼を申されています。

長年、黙々と働き続けてきた、まだ現役の大きなボイラ-も、登場します。

縁の下の力持ちの 「 ボイラー 」君 にも感謝し、いたわる心、

全員が、和気あいあいと仲良く働く、その暖かさ、

それが、 「 銀座日航ホテル 」 の、真骨頂だったのです。

http://www.ginza-nikko-hotel.com/information/movie.html


★お部屋からは、ゆっくりとしたスピードで走る新幹線の姿。

その高架の先には、夜になりますと、

日比谷図書館の丸い大時計が、ぼんぼりのように現れます。

その奥には、ライトアップされた国会議事堂も、

浮かび上がります。

 

★作家の故向田邦子さんも、

このホテルで、執筆されていた
そうです。

創作に疲れた時、かつての優雅で粋な銀座の街が、

彼女を暖かく、包み込んだことでしょう。


ご好意で、私の作品 「 無伴奏チェロ組曲 4、5、6番 」 の音楽を、

ロビーで、流していただいておりました。

海外のお客様も多く、音楽は違和感なく、ホテルの雰囲気に、

馴染んでおりました。

惜別の念は、尽きません。

 


 

★もう一軒、銀座 6丁目の中央通り、

松坂屋の向かい側、 5階建て美しいビルの、

「 銀座大増 」 さんも、閉店されました。

創業九十余年、 銀座で七十余年、

元々は、お弁当仕出しのお店でしたが、

銀座では、色彩感と季節感に溢れる、

会席料理のお店として、有名でした。


★入口のウインドーに飾られた、お膳料理の洗練さは際立っており、

道行く人々が、うっとりとした表情でしばし眺め、そして、

満足そうな気持で、去っていかれます。

眺めることで、幸せな気持ちになります。

それがまさに、銀ブラなのです。


★私は、数回しか賞味したことがございませんでしたが、

女将のさりげなく、しかし、水際立った心配り、気配りに、

いつも、感嘆しておりました。

本当に、居心地がいいのです。


★これが、名店の条件なのです。

「 銀座大増 」 さんは、お弁当などは、継続されているようですので、

少しは、ほっといたしました。


 

 


★一見、丁寧そうですが、実はマニュアル化されただけの、

心のこもっていない、形だけの応対をするお店、

海外の観光客向けに、眉をひそめたくなるような、

原色の看板を掲げたお店が、本当に増えてきました。


★高級和服のお店として、双璧を成していました、

「 きしや 」 さんと、 「 ちた和 」 さんが倒産されてから、

かれこれ、十年は経つのでしょうか。

淡くやさしい色合、細かい刺繍の 「 きしや好み 」 の和服。

ネオンが瞬き始めるころ、そんな溜息の出るような、

高級な、趣味のいい和服を召されたホステスさんたちが、

優雅に、歩かれていました。


★私にとって、それを眺めるのも、実は、銀ブラの楽しみでした。

しかし、それも、いまや幻となりました。

最近のホステスさんは、ほとんどが、けばけばしい貸衣装で、

和服の歩き方すら、ご存じないような方が多いようです。

それでも、まだまだ名店は頑張っていらっしゃいます。

陰ながら、応援していきたいと、思います。





 

  ★私の作品の CD 「 無伴奏チェロ組曲 4、 5、 6番 」

Wolfgang  Boettcher ヴォルフガング・ベッチャー演奏は、

全国の主要CDショップや amazon でも、ご注文できます

 

 
 

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■ Rousseau ルソー の「 トラとバッファローの戦い」に見る「 対位法 」■

2014-02-18 15:53:04 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■Rousseau の「 Fight between a Tiger and a Buffalo 」 に見る
「 Couterpoint 」 
                                          2014.2.18  中村洋子





★上野の国立博物館で開催されています

The Cleveland Museum of Art クリーブランド美術館展 」 に、

行ってまいりました。

俵屋宗達の 「 伊勢物語図 住吉の浜 」 や、

曽我蕭白 「 蘭亭曲水図 」 の、
日本お里帰りを喜びますと同時に、

私のお目当ては、

Henri Rousseau アンリ・ルソー (1844~1910) の

「 Fight between a Tiger and a Buffalo トラとバッファローの戦い 」

(1908)でした。   

Rousseau ルソー 晩年の作品です。


★Rousseau の幻想を、私流の分析で楽しみ、

堪能してきました。

Rousseauは、外国旅行をしたことがなかった、と言われています。

おそらく、トラも見たことがなかったかもしれません。

この絵のトラも、現実の獰猛なトラとはどこかかけ離れ、

妙に人間臭い、顔つきをしています。

Rousseau アンリ・ルソーの分身なのかもしれませんね。


★トラに噛み付かれているバッファロー。

抵抗もせず、諦観とでもいうべき醒めた目で、

この絵画を見ている観客を、逆に、

静かに、眺めています。


★トラに目を凝らしてみますと、背中の縞々模様が、

トラの背後にある、バナナの木の大きな葉の葉脈と、

呼応しています。

一番上のやや小さい葉、その下の大きな葉、そして、

トラの縞々文様と、心地よいリズムを刻みながら、

降りてきます。


★バナナの木の上部から、視線を落としていきますと、

葉っぱの斜め下に、トラの大きな尻尾が上を向いています。

葉っぱと、同じ角度です。

そして、トラを通り過ぎますと、画面の一番下中央部分に、

三つのオレンジ色の果実らしきものが、間隔を置いて、

転がっています。

リズムは、それまでの上から下へのベクトルから、

このオレンジで一転、
横向きに変わります。

オレンジがクッションのように、そのベクトルを受け止めます。

鮮やかな転調です。

H-Dur (♯5つの調) から、Des-Dur ( ♭5つの調 ) への、

転調にも比すべき、
意外性と色彩感です。







★観客は、このオレンジで、しばしの間、

憩います。

そして、トラさんのお顔と、見比べるでしょう。

トラの額にも、縞々が。

目が、「 金色 」 に怪しく光っています。

獰猛さは感じられず、なんとも変な顔、 

scherzando スケルツァンド

老境なのかもしれません。


★ホッとして上を見ますと、薄い黄色の大きなバナナの房が、

画面のちょうど真ん中に、ぶら下がっています。

一番下の房は、トラの茶色背中のすぐ上、

そこから右斜め上方に、黄色の房が、順に上がっていきます。

Largo e con forza ( ラルゴ エ コン フォルツァ ) 、

力強い上昇です。


★視線は自然に、最後の房の左上へと、流れます。

葉っぱの後ろに隠れてた、黄色の小さい房が、

一、二、三・・・、円を描くように 7個、

星座のように、軽く漂っています。


★このように、画面の左側は、

Bach の 「 countepoint 対位法 」 のように、

文様と色彩が、二大要素として絡み合い、

濃密です。







★右側は、どうでしょうか?

右下の端に、Henri Rousseau 1908 の署名があります。

画集を見ているだけでは、分からないのですが、

実物を見ますと、署名の色は、実に鮮やかな 「 金色 」 です。

この 「 金色 」 が、

画面の中央右側にありますシダのような葉と、

全く、同じ色なのです。


トラの目も 「 金色 」 。

その目は、3つの 「 オレンジ 」 を見ています。

トラの 「 金色 」 の目、「 オレンジ 」 の実、 「 金色 」 の署名、

 「 金色 」 のシダ、そして、その左の、

大きな 「 黄色い 」バ
ナナの房へと、円環を描きます。

天空を巡る惑星のように、互いが遠心力で、

引っ張られている。

精緻で、完璧なミクロコスモスです。


★右中央の金色のシダの間には、無数の 「 オレンジ 」 の実。

画面の一番上に、この密林のムンムンとした、

凝縮空間から
抜け出た 「 青空 」、そして、

2つの 「 赤い 」 花。

下の3つの 「 オレンジ 」 と、中央の無数の 「 オレンジ 」 、

この三者が、大きな銀河のように、縦に流れています。


★トラの足は、右前足が 1本描かれているだけ。

残り 3本は、よく見えません。

無重力で、宙に浮いているようでもあります。

Salvador Dalí サルバドール・ダリ(1904 - 1989年)もきっと、

Rousseau から、学び尽したことでしょう。

Dalí の 「 Dream Caused by the Flight of a Bee

Around a Pomegranate a Second Before Awakening

目覚めの直前、柘榴のまわりを一匹の蜜蜂が飛んで生じた夢 」

の空飛ぶ Tiger は、Rousseau のこの絵から、

着想を得たのかもしれません。


★全体は、 「 緑 」 のジャングル。

そして、左下に位置する 「 トラ 」 が、

この絵画の 「 Theme テーマ 」 です。


トラの細部は、各々性格
の異なる 「 Motif 」 から成り立っています。

背中の縞模様、眉間の縞、尻尾の長さと模様と角度、

金の目と爪、髭・・・等々。

このトラの 「 Theme 」 に、 「 オレンジ 」 、 「 バナナ 」 、

「 花 」 、
「 緑の葉 」 という 「 Motifの集合体である Melody 」 が、

緻密な構図で、絡み合っていきます。


★「 構図 」 と 「 色彩 」 とで、

 「 Harmony 和声 」 と、 「 Counterpoint 対位法 」 を織り成している、

 ≪ 音楽 ≫ なのです

心地よい余韻が、残ります。

私は、このように楽しみました。







Rousseau のこの絵画が傑作であるのは、

“ Counterpoint 対位法 ” が、

縦横無尽に、張り巡らされているからです。

それは、音楽と変わることがありません

Europe の芸術 ( 音楽、文学、美術 ) の価値を判断するのは、

すべて同じメジャー ( 物差し ) で、可能です。


絵画は、いくら優れた画集を見ていましても、

本物を見て得られる情報の、

1000分の1も、ないでしょう。


実用譜(市販の楽譜)を、100年間眺めていても、

作曲家の直筆譜を、数時間学ぶのには、

かなわないのと同様、

絵画の真の魅力を味わうためには、美術館に、

足を運ぶしか、
ありません。


★Rousseau の 作品は 、ある種の 「 記憶 と 夢 」 を基に、

描かれているのかもしれません。

「 記憶 」 について申しますと、

音楽の「 暗譜 」 につながると言えます。

26日KAWAI名古屋で、 「暗譜 」 とは何か、

どのように 「 暗譜 」 するべきか、

についてお話いたします。

 
Bach を確実に記憶することは、

≪ 誰からも奪われることのない、

誰も奪うことができない宝物 ≫ を、

 Bach 先生から、直接にいただくことなのです。


★ 「 暗譜 」 のあと、私たちは Bach の音楽を基に、

その人の個性で、
自分の音楽を、

創造することができるのです。

Rousseau が「記憶と夢」を自由に羽ばたかせて、

描いたように。

 



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■“ 現代のBeethoven ”を批判する資格がありや?、Kripsの見事な Tchaikovsky■

2014-02-10 01:12:02 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■“現代のBeethoven ”を批判する資格がありや?、Kripsの見事な Tchaikovsky■

             2014.2.10   中村洋子




★“ 現代の Beethoven ” などと、マスコミがもち上げ、

こぞって大宣伝してきた人物の作品が、

本人ではなく、ゴーストライターが作曲していた、

「 聾 」 ではなく、耳が聴こえていた・・・と、

日本中が騒がしいです。


★今回の事件と同種のことは、当ブログで昨年 7月、

Valery Afanassiev ヴァレリー・アファナシエフ ( 1947~ ) の、

著作 「 ピアニストのノート 」 ( 講談社選書メチエ )を基に、

Anatol Ugorski  アナトール・ウゴルスキ (1942~)という

ピア二ストの話で、書きましたので、どうぞご覧ください。
http://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/m/201307


中山千夏さんが、2月 8日東京新聞夕刊のコラム 「 紙つぶて 」 で、

以下のような意見を述べられています。

『 代作事件 』
≪ 「 別れのサンバ 」 という曲で一世を風靡した長谷川きよしさんは
「 全盲の歌手 」 というレッテルを貼られることは拒否し続けた。
私も 「 元子役の 」 とか 「 女流の 」 とかを、よきにつけても
悪しきにつけても、私の小説の第一義にはされたくない。

どんな人が作曲しようが、演奏しようが、音楽はまず音楽で
評価すべきだ。作者や演奏者の特性は、付け足しである。

「 全盲の 」 音楽家に感動する心の裏には、そんな人間に
大したことはできない、という無意識の差別感がる。

そしてギョウカイには、障害でもなんでも
儲けのタネに利用する
風潮がある。きよしがマスコミに背を向けたのは、それもあったに
違いない。

 一作曲家の代作がバレた。代作事件にしてはえらい騒ぎだ。
大手マスコミが
軒並み謝っている。これまで代作に気づかず、
持て囃したことを反省すると。

的を外すな。よく考えろ。ただ作品をもてはやしたのではあるまい。
 「全聾」のレッテルでわれわれの差別感を助長し、
営業に資したことをこそ、
この際、深く反省し改めてほしいものだ 」

★≪ どんな人が作曲しようが、演奏しようが、音楽はまず音楽で
評価すべきだ。作者や演奏者の特性は、付け足しである ≫

その通りであると、思います。






★詐欺師に騙されないためには、本物を聴き、楽譜を読み込み、

勉強するしかありません。

きょうは、Josef Krips ヨーゼフ・クリップス指揮の

チャイコフスキー 交響曲第5番を、聴いていました。

Krips クリップス の指揮は、本物の演奏です。

DECCA UCCD-3826 1958年録音 Wiener Philharmoniker

( 毎度のことですが、CD の日本語解説には、

「 曲の最後のリタルダンドも洗練されたものとは言い難いが 」

など、意味不明なことが書かれていますが、無視。)


Pyotr  Tchaikovsky ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)

ほど、
現代日本における、指揮者の自己顕示の犠牲になった作曲家、

大仰に飾り立てた演奏で、その真価が誤解されている作曲家は、

いないかもしれません。


★本物の演奏を聴き、楽譜を読み込む、

そうしますと、オーケストレーションが、実にシンプルなのが分かります。

オーケストラが、一つの大きな楽器として、艶やかに鳴り響くのです。

そして、作品の中の ≪ counterpoint 対位法 ≫ を、

見つける努力をしましょう。


★この王道ともいうべき、勉強方法で対処すれば、

偽物が近づこうとしても、近寄ることはできないでしょう。

メフィストフェレスは、尻尾を巻いて逃げていくのです。






★スコアを見ていますと、 Bach の Brandenburg concerti

 ( original title: Six Concerts à plusieurs instruments)

ブランデンブルク協奏曲に似て、

室内楽のように、書かれている部分が大変に多いのです。

意外にも、 tutti 総奏 が、曲に対するイメージと比べ、少ないのです。

それだから、こそ、 ff  の tutti 総奏 が生きてくるのです。


★譜の読み込み方は、 Bach を読むのと変わりないのです。

そうしますと、第 2楽章 Andante cantabile

32小節目から始まります、Cello の甘く伸びやかな、

旋律が、どこから生まれてきたか、分かります。


★36小節目は、Cello としては、やや高い音域にありますが、

それが、逆に高貴な音色となって、forte の効果と相俟って、

この曲、独特の魅力となっています。

2拍目の  「 h1  1点ロ音 」 が、このフレーズの最高音となり、

一度はなだらかに、下降していきます。

その後、また、上昇に転じ、再度、41小節目で、

 「 h1  1点ロ音 」 の repeated notes が Cello により、

奏せられます。


★この repeated notes は、 41 ~ 43小節までの 3小節間、

何度も立ち現れ、ここが第 2楽章の白眉となります。

この第2楽章の 「 h1  1点ロ音 」 の repeated notes は、

実は、1楽章の 3小節目のクラリネットによって

奏される  「 h 」  の 3つの repeated notes から、

有機的に発展してきたものです。


★Krips クリップスは、それを、

見事に、巨視的に捉えています。

聴衆は、それが手に取るように分かります。

構造が分かるように演奏するのは、

至難の技でしょう。


★しかしながら、この分析方法は、 Bach の Wohltemperirte Clavier

平均律クラヴィーア曲集を、勉強していますと、

難なく、手に入ります。

Tchaikovsky のこの曲が傑作である、ということは、

Bach に立脚しているからに、他ならないからです。

Krips クリップスの見事なアプローチも、

西洋クラシック音楽の本筋に、則っているからです。


★ロシアものだからといって、重たく暗いリズムで、

ねっとりと歌い込むことは、Tchaikovsky が、

求めていなかったことは、自明の理です。





★Josef Krips ヨーゼフ・クリップス(1902-1974)は、In 1938, the Nazi annexation of Austria (or Anschluss) forced Krips to leave the country. (He was raised a Roman Catholic, but would have been excluded from musical activity because his father was born Jewish.)[1] Krips moved to Belgrade, where he worked for a year with the Belgrade Opera and Philharmonic, until Yugoslavia also became involved in World War II. For the rest of the war, he worked in a food factory.
 On his return to Austria at the end of the war in 1945 Krips was one of the few conductors allowed to perform, since he had not worked under the Nazi régime. He was the first to conduct the Vienna Philharmonic and the Salzburg Festival in the postwar period.


★Krips は、ユダヤ系であることから、ナチに迫害されました。
 
しかし、 Ugorski ウゴルスキのように、

“ 迫害 ”  を売物にはしていません。 

芸術家は、その作品だけで勝負するのです。


★指揮者がいくら、身振りたっぷり、ジェスチャーを見せましても、

出てきます音楽とは、関係ないことでしょう。

私は、 “ 現代の Beethoven ” に、全く興味もなく、知らないのですが、

聴くまでもなく、このような西洋クラシック音楽の、

本筋、王道である音楽ではないことは、間違いないと思います。


★ ” 現代の Beethoven ” が、ゴーストに依頼した “ 設計書 ”の写真 が、

新聞に出ていました。

そこに描かれているのは、
音の盛り上がり、音響効果だけで作る音楽、

図式として作っていく音楽です。

それでは、
対位法を基本として有機的な成長を 「 構造 」 にもつ音楽を、

決して、作れないからです。

ベートーヴェンのようなクラシック音楽ではない、といえます。


その場、その場のムードを、 「 悲しみ 」 やら、 「 祈り 」 などと名付け、

それらしく作ったとしても、その感情すら偽物と断言できましょう。

いま、世間を欺いた二人の男性が、ヒステリックに断罪されていますが、

それを持ち上げ、賛美し、売り込み、利益を上げたマスコミ、音楽家、

評論家、
音楽産業、そして、このまがい物に騙された人たちに、

彼らを批判する資格があるか、考える必要があります。


★「本当に苦悩を極めた人からしか生まれてこない音楽」
「孤高の作曲家が、凄絶な闘いを経てたどりついた世界、
深い闇の彼方に、
希望の曙光が降り注ぐ、奇跡の大シンフォニー.」
「中世以来の西洋音楽の歴史を包含し、人類のあらゆる苦しみと闇、
そして祈りと希望を描く、`現代に生まれた奇跡のシンフォニー」

「作曲者はベートーベン並みの才能の持ち主」
「現代で一人だけ天才芸術家をあげろと言われれば、それは佐村河内守だ」
http://www.youtube.com/watch?v=xmXnDBG8C7Q

このようなおどろおろしい形容詞で、

彼らをスターに、天才にすべく、

大宣伝を繰り返してきたマスコミこそ、二人を責める前に、

反省すべきではないでしょうか。

この作品を演奏した音楽家たちも、その胡散臭さに、

気付かなかった訳はないと、思います。






★余談ながら、私が愛読いたします 「 銀座百点 」 2014年 2月号で、

俳優の 名取裕子さんが、立派な意見を書かれています。

一部をご紹介いたします。

≪ 名取裕子のつれづれ日記 ≫
「 カラス天狗 」
 海外旅番組でベトナムへ。(略)

戦後、世界最貧国といわれたこの国(ベトナム)は、今、必死で発展しようと
もがいている。環境汚染などの問題意識まで及ばない、という感じだ。

 経済拡大に目が眩んでいるのは私たちも同じ。
平和に慣れた私たちは、大事なものをなくしてゆくことに
気づかないふりをしていないかしら。

 PM2.5は日本にまで飛来し、福島の放射能が流れた海は、世界に
つながっている。水と空気は貧富に関係なく、公平に天が与えてくれた
はずなのに、
今やだれかの利益のために奪われつつある。

 三回目の三・一一がもうすぐやってくるのに、
政府は再稼働に突き進む。

そのうち日本は、防護服を着ないと外出できない国になって、
カラス天狗どころか、「街じゅうが白い宇宙飛行士で溢れている」と
言われる日がこないことを
切に願う、海外帰国熟女の私である。


★私も同感です。

いまや、 『 パンドラの箱 』 が開けられ、ありとあらゆる悪徳が、

飛び出してきました。

しかし、パンドラの箱から、悪徳が出払った後、

箱の底に残り、、小さな声を上げたのは 「 希望 」 なのです。

絶望する前に、まだまだやるべきことがあります。

私は、まずは、Casals のように、明朝起きましたら、

Bach を勉強いたしましょう。





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■Turner ターナーの光、 Caillebotte カイユボットの伸びやかさ■

2013-12-15 03:28:45 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■Turner ターナーの光、 Caillebotte カイユボットの伸びやかさ■
                                  2013.12.15  中村洋子

 

 

★今月は、9日にKAWAI 「 横浜みなとみらい 」 で、

「 Bach 平均律第1巻17番 As-Dur 」、

11日は、グループレッスンで、 Chopin の 「 Etude Op.25-1 」

12日は、KAWAI 「 表参道 」 で、「 Bach 平均律第2巻10番 e-Moll 」 を、

アナリーゼいたしました。


★取り上げましたこの 3曲が、実は、1本の太い糸で繋がれていることが、

勉強するにつれ、明確に分かってきました。

Chopin の自筆譜を、詳細に分析していきますと、

「 Etude Op.25-1 As-Dur 」 は、

同じ As-Dur の  「 平均律 第 1巻 17番 」 と、全く瓜二つ。

motif モティーフ、 counterpoint カウンターポイントの展開が、

Bach そのものなのです。

「 Etude  Op.25-1 」 が、実は、  「 平均律 第 1巻 17番 」 から、

生まれていたことに、

私も、参加された皆さまも、驚きの連続でした。


★Frederic  Chopin ショパン(1810~1849)の 「 Etude 」 のうち、

「 Op.10 」 は、 1827年~32年にかけての作品で、33年に出版、

「 Op.25 」 は、1837年までに完成し、同年に出版されています。

つまり、 Chopin の 10代後半から 20代後半まで、約 10年間の作品です。

Chopin がいかに天才とはいえ、 二十歳前後で、

無からあれだけの傑作を、生み出すことはできません。

彼にとって、Bach という ≪ 理想 ≫ があったからこそ、

生まれたのです。

 


★アナリーゼ講座が終わり、東京都美術館で、楽しみにしていました、

≪ ターナー展  Turner from the Tate: the Making of a Master ≫ を、

見て参りました。


★ Chopinは、ジョルジュ・サンドと別れた後、1848年に、

英国の資産家姉妹に招待され、英国に行っておりましたので、

当然、同時代の芸術家の作品にも、接していたことでしょう。

Turner ターナー(1775 - 1851)の作品も、

きっと、目にしていたことと思います。


★Chopin が、  「 Etude 」 を書いた青年時代、

Turnerは、どんな絵画を描いていたのでしょうか。

1828年に、傑作の 『 Regulus レグルス 』 があり、

今回の展覧会に、出品されていました。

 

 


★『 Regulus レグルス 』 は、古代ローマの将軍の名前です。

Regulus将軍は、カルタゴとの戦争で、カルタゴの捕虜になりました。

真っ暗な地下牢に閉じ込められ、拷問により、まぶたを剥がされます。

そして、地上へと連行されます。

光のない暗闇の世界から、太陽が燦然と輝く世界へ。

陽光が眼球を射る。

光を遮るすべもなく、Regulus将軍は失明します。


この絵は、Regulus が失明する瞬間の地上です。

Regulusのまぶたに、脳裏に、焼き付いた光です。

画面中央奥から、洪水のように溢れ出る光の流れ。

両脇は、高い石造りの建物に、大きなマストの商船。

陸でもあり川でもあり、海でもあるかのようです。

水の流れに浮かぶ小舟に、こぼれそうに乗り込んでいる人々。

陸にも群衆。


★将軍Regulus が現実に見た、最後の光景ではないでしょう。

彼の一生が、フラッシュバックのように、

一つの光景として、瞬間に焼き付いたのかもしれません。

そして、未来を予見したのかもしれません。

Turner本人の、世界観かもしれません。

私たち鑑賞者は、失明するRegulus と同じ光景を見ているのです。

圧倒的な、明るさ。

見る人に、人類の未来の破局すら、想起させるような、

不気味な、黄色い光の塊です。


★西洋絵画で表現される光は、蝋燭の灯などが多く、

それが、暗示的に神の恩寵への導くような描き方が多いと思います。

Europe北方の英国で、Turnerが、ローマの残酷な史実を基に、

神とは関わりなく、このように 「 光 」 を描くその発想は、

とても斬新に、思えます。


★Tuner は、Regulus に先立ち 1798年には、

『 Buttermere Lake, with Part of Cromackwater, Cumberland, a Shower 

バターミア湖、クロマックウォーターの一部、カンバーランド、にわか雨 』  を、

描いています。

ここでは、光を 「 輪環 」 として描いています。

神秘的で、深い憂愁をたたえた、美しい光です。

魅入られるような美しさです

 


この 「 輪環 」 の光をおし進め、 「 光 」 を集合体として、

描くことに成功したのが、 『 Regulus 』  でしょう。

30年後です。


★ 『 Regulus 』 より、1年前1827年の作品 『 Three Seascapes

三つの海景 』 は、面白い作品です。

上端は、絶望的な黒の帯。

天空から、のしかかってくるかのようです。

中央には、荒波が白い波頭を見せています。

この海も、陰鬱です。

その下は、少し明るさが見える空間と、

穏やかな海。

眺めていますと、妙に、気持ちが落ち着きます。

不思議なリズムが、あります。

シベリア抑留を描いた画家・香月泰男の世界に、似ています。


★日を置かず、 「 ブリジストン美術館 」 で、

≪ カイユボット展 ≫ を、見てまいりました。

Gustave Caillebotte ギュスターヴ・カイユボット(1848 - 1894)。

Turner から約50年後のフランス、印象派の画家であると同時に、

モネやルノアールなどの画家を、経済的に支援した人でもあります。

 


★私のお気に入りは、≪Périssoires ペリソワール≫ 1877年作です。

一人乗りのカヌーを 「 ペリソワール 」 と呼ぶそうです。

実に、開放感溢れる、伸びやかで、心地いい作品です。


緑の川面。

両手で長い櫂を握った、帽子の若い男たちが、

気持ちよさそうに漕いで、近づいてきます。

鑑賞している私は、少し上空から、小鳥の目で、

その滑走を、楽しみます


中央の奥、川の上流に、長方形の光の塊が描かれています。

その光の塊が、この絵のすべての源であるかのように、

白く鋭い光を、放っています。

櫂の両端は、アーモンド形の大きな平面。

黄色く光るアーモンドが大小5面、微妙な均衡で、

陽光を反射しています。

ここにも、リズムを感じます。


★この絵を見ますと、まず白いシャツに視線が行きます。

ついで、その右の櫂、

さらに、左上の対角線上にある小さい櫂へと飛び、

そして、上流の長方形の光の塊へと、吸い寄せられます。

川の涼風を浴びながら、滑空していくような爽快さ。


★青年が握る長いオールは、十字架の横棒、

ボートが縦棒と、見ることができるかもしれません。

西洋絵画は、何百年も十字架を背中に負って、

描かれてきました。

この ≪ Périssoires  ペリソワール ≫ では、

見えない十字架を、背に負うのでなく、

現実に、手で握っています。

この時代になって、絵画が、十字架のくびきからは、

もう解き放されている、と暗喩しているのかもしれません。

 

 


★父から資産を受け継ぎ、裕福だった Caillebotteは、

モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、ドガ、セザンヌらの、

作品を買い上げ、モネの家賃を払い続け、ルノワールにお金を貸し、

それを帳消しにしたり、後に大家となる印象派の画家たちを、

経済的に、支援し続けた人でした

本人は、34歳の 1881年以降、絵画を発表せず、

1894年に 45歳で、死去しています。


ドガ、セザンヌ、マネ、モネ、ルノワール、シスレー、ピサロ、ミレーなどの、

作品 68点を、フランス政府に贈呈する遺言書を作成していました。

しかし、政府は乗り気でなく、遺贈は認めるものの、美術館での展示を

認めませんでした。


★ルノワールなどの奔走により、やっと 2年後に、

一部がリュクサンブール美術館で展示されることで、

決着が図られました。

現在は、 Musée d'Orsay オルセー美術館へ、

移管されています。


★当時のフランス政府は、全く、印象派の価値が分からなかった、

ということですね。

現在、世界からフランスを訪れる観光客のかなりの割合は、

印象派などの名画を、お目当てに来る、と言ってもいいでしょう。

最大の国家的資産を、 Caillebotteがたった一人で、

自分の資産を使って、築いていてくれたのです。

いつの時代でも、どの国でも、

お役人は、その時代の陳腐な権威にしか、

顔を向けず、真の芸術を創造しようとしている人たちを、

理解しようとしない、できない人たちのようですね。

 

 


私は、Bach の自筆譜を勉強し続けたおかげで、

絵画も、自分の方法で見るようになっているのに、

気付きました。

画集や美術書などの解説は、細部など枝葉末節にこだわり勝ちで、

絵画を楽しんで鑑賞するには、

あまり、役に立たないように思います。


★来年のアナリーゼ講座は、1月はお休みをいただき、

2月は、

6日(木)にKAWAI 「 表参道 」 で、Bach 平均律第 2巻 11番 F-Dur、

26日 (水 )に、KAWAI 「 名古屋 」 で、

 Inventio & Sinfonia 13番 a-Moll を、取り上げます。

これまでより、さらに深く、Bach を暗譜し、

真のBach を獲得することを、目指します。
 

★昨年4月にも、当ブログで、カイユボットの「ピアノを弾く若い男」

を、取り上げています。

http://blog.goo.ne.jp/nybach-yoko/m/201204

 

★私の作品の CD 「 無伴奏チェロ組曲 4、 5、 6番 」

Wolfgang  Boettcher ヴォルフガング・ベッチャー演奏は、

 全国の主要CDショップや amazon でも、ご注文できます。

 

 


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■ミケランジェロ展、「階段の聖母」の緊密な構成、動物的母性がにじみ出る■

2013-10-20 01:41:20 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■ミケランジェロ展、「階段の聖母」の緊密な構成、動物的母性がにじみ出る■
               2013.10.20 中村洋子



★紅葉の季節となりました。

このほど 「 Ries&Erler Berlin リース&エアラー社 ベルリン 」 から、

出版されました私の作品 「 Suite für Violoncello solo Nr.3

無伴奏チェロ組曲第 3番 」 の最終楽章タイトルは、

「 錦秋 」 です。

http://shop.rieserler.de/product_info.php?

info=2840&XTCsid=24e91095ba1fabd23887c811e5f68d73


http://shop.rieserler.de/index.php

http://shop.rieserler.de/index.php?manu=m729_Nakamura--Yoko.html&XTCsid=24e91095ba1fabd23887c811e5f68d73



★ ≪ 「 錦秋 」 は、お能の 「 紅葉狩り 」 の物語を表現しました。

全山が錦と化した紅葉の山に誘われ、迷い込んだ貴公子が、

絶世の美女に、お酒を振る舞われます。

眠り込んだ貴公子を、鬼の姿に戻った美女が襲いかかる怖いお話。

貴公子を秋、美女を万物が枯れる冬と、

とらえることも出来るでしょう ≫ CDに添付しました解説です。

Europeの音楽家、愛好家が、この曲をどのようにとらえるか、

どうお聴きになるか、反響が楽しみです。



★朗らかな秋の一日、

上野の国立西洋美術館で、「ミケランジェロ展」を観ました。

Michelangelo ミケランジェロ (1475年 - 1564)。

今回の見どころは

『 階段の聖母 』、 『 キリストの磔刑 』、

『 クレオパトラ 』、 『 レダの頭部 』 の 4点でした。


★『 階段の聖母 』 は、大理石の板に彫られた 56㎝×40㎝の、

小さなレリーフです。

驚くことに、1490年頃、ミケランジェロが15歳の作品ですが、

完璧なマスターピースでした。


★画集で見たのでは、全く分からない 「 鑿 ( のみ)」 の、

細かい彫り跡も、 まじかに見ることができました。

画面中央より、やや上に位置する幼子イエスの背中だけは、

すべすべに、磨き上げられており、

この背中が盛り上がり、迫ってきます。

見た瞬間、ここがまず、目に入ってきます。


★聖母マリアは、ショールのような大きな布でイエスを覆い、

彼を、何かから守ろうとしています。

イエスの顔は描かれず、後頭部が一部見えるだけです。

眼差しも、我が子を見ずに、

遠い将来の受難を、予見しているかのごとく、

厳しく、遠くを見つめています。


★子供が3人ほど、左上の階段上に描かれ、

手摺に、もたれかかっていたりします。

天使であるようにも、そうでない子供であるようにも見えます。

階段の段と手摺が、横と縦に交差して、十字架のようにも見えます。

キリストが磔になった十字架です。





★イエスを抱えるマリアの左手が、マリアの頭部と比べ、

随分と大きく、彫られています。

このレリーフに、対角線を2本引きますと、

ちょうど、マリアの大きな左手の手首が、

このレリーフの中央点に、なります。

蝸牛の渦の中心のように、見えます。

マリアは、左手で、イエスを抱きかかえています。


★マリアのもう一方の右手は、なだらかなカーブを帯び、

イエスの頭に、ショールを掛けようとしているかに、みえます。

この左手から右手、イエスの頭、不自然なねじれた形をしたイエスの右手、

そして、マリアの左手へと、円を描いて、丸くつながっています。

中心にある、イエスの滑らかな背中が、浮き上がっています。


★レリーフ上端にあるマリアの頭部には光輪、これも円です。

この二つの円に対し、マリアの座っている台座に垂れ下がる衣が、

大きな半円形で、どっしりとした安定感をもたせます。

半円から、対角線に沿って左上に上がっていきますと、

階段の子供たちの頭に、到達します。


★マリアの左手は、十字架を象徴するかのような階段の段と、

平行であるのに対し、背中を見せるイエスの右手は、

右上に行く対角線と平行して、斜め上を目指します。

この対角線は、マリアの左肩から、左足の先へと流れ、

レリーフの屋台骨を、成しています。







見る人の最後の視線は、マリアの顔に釘付けになります。

幼い子の、将来の受難を感知し、それに決然と対峙しようとしている母。

恐ろしいまでの眼差し。

子を思う母の強さ、動物的な母性が、にじみ出ています。

圧巻です。

これが、レリーフの主題であり、観る人の心の襞に、

深く強く、刻み込まれます。


★このように見ていきますと、まるで、Bach の作曲と同じように、

緊密な構成でできているのが、分かってきます。

Michelangelo ミケランジェロや Bach の音楽を、楽しむためには、

自分の頭で、積極的に構成を分析し、

味わう作業が不可欠であると、いえるでしょう。


★同室にありました、 『 キリストの磔刑 』 は、高さ26.5㎝、

本当に小さな、木彫です。

Michelangelo ミケランジェロが88歳の頃の作品。

死の前年です。


★ミケランジェロの木彫は、若い頃にもう一点あるだけです。

この木彫を見た瞬間、 “ まるで円空 ” と思いました。

ふんわりとしたイエスの頭髪、深い 「 掘り 」 による顔の輪郭。

この顔の表情は、Georges Rouault ジョルジュ・ルオー(1871 - 1958) の、

「 キリストの顔 」 にも、とてもよく似ています。







★最初に目に入るのは、イエスの左右の膝頭、次いで、局部です。

この3点が、盛り上がって輝き、力強い三角形を形成しています。

局部が、中心に位置します。

削げ落ちた腹部が、見事です。


展覧会の醍醐味は、この木彫を前からだけでなく、横、後からも、

じっくり、鑑賞できることです。

正面から顔を見ますと、やや分かりにくいイエスの表情が、

左横から見ますと、頬が削げ落ち、悲しい顔、

実に悲しい顔へと、変化するのです。

悲しみが、浮き上がってきます。

息絶えた直後の顔、かもしれません。


★15歳と 88歳の中間ともいえる、1535年、60歳の作品が、

黒石墨で、紙に描かれた 『 クレオパトラ 』 です。

自殺するクレオパトラが、左乳房を毒蛇に噛ませる場面です。

まるで、映画のお話のようですが、裏打ちの紙から、新たに、

別の素描が、出現したそうです。


★この素描の顔は、口を開け、歯も見え、苦悶にもだえています。

一方、 『 クレオパトラ 』 の顔は、苦しみ、悲しみを超越した、

達観の境地が、描かれています。

従容として死を受けいれる、静謐な、永遠の眼差しです。






★Beethoven ベートーヴェン(1770~ 1827) は、デッサンから、

作品をどう仕上げたか、

その過程を、私たちは、よく知ることができます。

それは、Beethoven がデッサンをたくさん、残していたからです。


★このミケランジェロ展では、ミケランジェロの素描を模写した作品も、

たくさん出品されていました。

それは、ミケランジェロの素描は、作品が完成後、焼却することが、

多かったためです。


★これは、作曲家にもよく見られ、

Claude  Debussy  クロード・ドビュッシー (1862~1918)や、

Maurice Ravel モーリス・ラヴェル(1875~1937) は、

注意深く、痕跡を消し去っています。

Johannes Brahms ブラームス (1833~1897) は、

晩年、手紙類まで焼却しています。


★それに対し、Johann Sebastian Bach  バッハ  ( 1685~1750 ) は、

自筆譜で、その秘密を隠すどころか、

なんとか、作曲の構成や意図を分かってもらおうと、懇切丁寧に、

分かる人には分かるように、ヒントをいろいろな手段で散りばめています。

これだけ親切な楽譜は、ないでしょう。


私の作品の 「 Suite für Violoncello solo Nr.1、Nr.3 

無伴奏チェロ組曲 第1番、第3番 」 には、

Wolfgang  Boettcher ヴォルフガング・ベッチャー先生が、

Einrichtung で、普通のチェリストならば隠すようなテクニックを、

すべてさらけ出し、懇切丁寧に、書き込んでくださいました。

演奏者が、困難を取り除き、すぐに弾けるよう、

Bach と同じ、親切心です。







★「 ミケランジェロ展 」  では、たくさんの方々が、

主催者が作成した、大スクリーンの解説ビデオに見入っていましたが、

名画の前は、数人だけ。

また、イアホンで解説を聴きながら、回っている方も、

多く、見受けられました。


本物の名画が眼前にありながら、イアホンを付けて見ることは、

自分で、名画と対決して楽しむことの、妨げになるのではないかと、

私は、思います。

学者的な、些末なことにこだわる説明に、耳を傾けるのは、かえって、

本当の理解に到達せず、もったいない。

本当の感動は、得られないのではないでしょうか。

自分で、名画と対決してはじめて、感動が湧き上がることでしょう。


音楽で申しますと、 Chopin の自筆譜を見ないで、

エキエル版だけを見る、あるいは、

Bach の自筆譜を現代ならば、誰でも見ることが可能であるのに、

編集者の恣意的な改竄が見られる 「 実用譜 」 だけを見て、

Bach を演奏しようとすることに、似ているような気がします。




★「 無伴奏チェロ組曲 」の楽譜とCDは

「 カワイ・表参道 」   http://shop.kawai.co.jp/omotesando/
「アカデミア・ミュージック 」 
https://www.academia-music.com/ で、販売中。 


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■世界で大人気の映画「最強のふたり Intouchables 」は、仏版“寅さん” その4■

2012-12-06 12:04:23 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■世界で大人気の映画「最強のふたり Intouchables 」は、仏版“寅さん” その4完■

                  2012.12.6   中村洋子

 

★原題は ≪ Intouchables ≫ 。

英語の ≪ Untouchables ≫ 。

仏語の Intouchables には、「 最下層民 」という意味よりも、

「 触れるべからざる、神聖な 」というニュアンスも強いようです。

複数形になっています。


★一文無し、家もなし、教養も知識もゼロ、名誉心も財産欲もなし。

さらに凄いことには、それらに思い悩むことも全くありません。

あらゆるしがらみから、完全に解き放たれている、完全自由人。

人間としての理想かもしれません。

いやらしい打算もなく、いつも、親切心で人に接し、おせっかいを焼く。

おせっかいを焼くということは、他人のことを我が身のことととらえる暖かさです。

そんな人は、寅さんしかいません。


★自家用ジェット、大邸宅、使い切れないほどの富をもつ人は、

きっと、たくさんいることでしょう。

しかし、 Philippe と Driss のように、

深いところで通じ合える、人間関係をもっている人は、

案外、少ないかもしれません。

寅さん Driss のような人しか、入り込めないかもしれません。


★この映画の主人公は、どちらかといえば、身障者の Philippe でしょう。

Driss は、脇役かもしれません。

日本の寅さんはいつも、すねる、自分を卑下する、いじける癖があります。

その結果、いつもふられ、シリーズが続くのです。

そこが、Driss と異なる点です。

明るく前向きな Drissは、新しいキャラクターの登場かもしれません。

さて、Driss は次ぎに、どこに出没するか?

ノルマンディーの寒村か、コルシカ島のリゾート地か・・・。

 

 

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■世界で大人気の映画「最強のふたり Intouchables」は、“仏版寅さん その3■

2012-12-06 11:55:40 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■世界で大人気の映画「 最強のふたり Intouchables 」は、“仏版寅さん” その3■

             2012.12.6      中村洋子

 

★さて、映画はここから面白くなります。

Driss は邸宅を去り、新たに職安に行きます。

面接の女性に、 Philippe 邸で仕入れたばかりの踏韻や、

サルバトール・ダリについて、知ったかぶりをひけらかします。

まるで、寅さんです。


★ Philippe は、また、介護士を新規募集します。

仏頂面の男を嫌々、雇います。

しかし、死ぬほどつまらなく退屈、どこにも心の触れ合いがありません。

髭も剃らせず、無精ひげに。

遂に深夜、また発作が起きます。

 Driss に緊急電話、飛んで駆けつける Driss 。

そこで、冒頭のスポーツカーの疾走シーンが、再び登場します。

Driss が運転免許を持っていないことも、ばらされます。

音楽の再現部のようです。


★清々しいお昼、海辺の美しいレストランへと、 Philippe を連れ出します。

Driss は、消えます。

美しく母性溢れる女性が、 Philippe のテーブルの前に姿を見せます。

ダンケルクの、あの文通友達でした。

Driss の、見事なおせっかいです。

窓の外から、Driss がニコニコ手を振っています。

このシーンも、寅さんではお馴染み、いつも出てきます。

自分はガラスの向こうの世界にまた、戻るという象徴です。

かくして、二人のハッピーエンドを仄めかし、めでたしで終わります。


★寅さんで必ず出てきます ≪ マドンナ ≫ はどうでしょうか。

Driss は  Philippe の美人秘書に、チョッカイを出し続けます。

彼女は、からかうだけで、はなから相手にしません。

残酷にも、彼女は最後に “ 恋人 ” を紹介します。

レスビアンだったのです。

これが、ヨーロッパの現実かもしれません。

監督も二人です。                     ( 続 )

 



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■世界で大人気の映画「 最強のふたり Intouchables 」は、“仏版寅さん  その2 ■

2012-12-05 23:16:47 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■


■世界で大人気の映画「 最強のふたり Intouchables 」は、“仏版寅さん  その2 ■

                           2012.12.5   中村洋子

 

 

★この映画では、 ≪ 音楽 ≫ も重要な役割を果たしています。
現在のヨーロッパにおける、音楽の位置について、いろいろな思いがよぎります。

 
★ Philippe と Driss は、豪華なオペラを見に行きます。
周囲は着飾った紳士淑女、最良のバルコニー席です。
緑色の面白い衣装の歌手を見て、 Driss は、「 木が歌っているみたいだ、おかしい 」、
「 4時間も見続けるのか 」と、想像を絶する世界であると、言わせます。


★ Philippe の誕生日には、室内弦楽アンサンブルを呼び、親族と一緒に、
名曲の数々を、生演奏で聴くのが恒例です。
演奏会終了後、 Philippe は、特別にいろいろと演奏を頼み、Driss に聴かせます。
≪ ヴィヴァルディの四季・夏 ≫、Driss 「 何も感じない 」。
≪ 別のヴィヴァルディ ≫ Driss 「 職安で流しているあれだ。
“ 順番にお並びください、仕事まで 2年間待ちます ”」。
≪ Bach 無伴奏チェロ組曲 1番プレリュード ≫、 Driss 「 あ! 、コーヒーの宣伝だ 」。
≪ リムスキー・コルサコフ ≫ 、Driss 「 トムとジェリーだ 」
これは、寅さん映画でよく出てくる、権威をけなすシーンに似ています。


★Driss 「 今度はオレの番だ 」、「 音楽は踊れなくちゃ!!! 」。
小さな i-pot を机の上に乗せます。
アース・ウィンド&ファイアーの 「 ブギー・ワンダーランド 」が流れます。
強烈なリズム。
Driss は、体を上下左右、弓のようにクネクネしならせ、踊りまくります。
爽快です。    
普段は能面のような顔をしている女性執事も、大きな腰を振り降り、
 “ もうたまらないわ ” とばかりに、踊り始めました。
黒いタキシード姿の老給仕も、スッテンコロリ転びそうになりながらも、
踊りを、止めようとしません。


★この映画の観客は、正直、Driss の「ブギー・ワンダーランド」のほうが、
格段に楽しい、と感じていたのは、間違いないでしょう。
裃を着て、かしこまってクラシックの名曲を聴く人たちが、
ヨーロッパでも、化石になりつつあることを、示しているのかもしれません。
クラシックの名曲を、おざなりの商業的な演奏ではなく、
真の名演により、絶えず聴く経験を積み重ねる場がない限り、
この傾向を押し留める術は、ないのかもしれません。


★この Driss の反応に対する Philippeの顔は、複雑でした。
にこやかに、微笑んで入るものの、
「 ブギー・ワンダーランド 」に、組している顔ではありません。
この映画で、最も美しく聴こえたのは、
 Philippe の大邸宅を紹介するシーンで流れた、
 Chopin Nocturne Op.9-1 b-Moll でした。
                                    (続)
 

 

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■世界で大人気の映画「 最強のふたり Intouchables 」は、“仏版寅さん その1■

2012-12-05 22:39:28 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■世界で大人気の映画「 最強のふたり Intouchables 」は、“仏版寅さん その1■

                               2012.12.5   中村洋子

 


★フランス映画「 最強のふたり Intouchables 」を、見てきました。

脊椎損傷で、首から下が完全麻痺になり、全く動けない白人の超大金持ち、

40代後半とおぼしき、この白人への介護人として、

偶然に雇われた、スラム街出身のアウトロー黒人青年。

この二人による、楽しく暖かい、心の通い合い物語です。


★弓のようにしなやかな肉体をもち、ビート音楽と美人へのちょっかいが楽しみ、

権威、地位、肩書き、教養、芸術、法、社会秩序には、一切無関心で無知、

何ものにも囚われず、気ままに生きることに徹している“ 完全自由人”の青年。

その打算のない “ 無垢のおせっかい ” により、二人の心が熱く通じ合います。

体は動かなくとも、大金持ちも、一緒に自由に羽ばたくことができた、

というハッピーエンドの物語です。


★≪ Intouchables  ≫   

Realisateur / Scenario : Eric Toledono  /  Olivier Nalache
  監督 / 脚本 : エリック・トレダノ / オリビエ・ナカシュ

Cast  Philippe : François Cluzet  Driss : Omar Sy
  キャスト フィリップ:フランソワ・クリュゼ、ドリス:オマール・シー、


★≪ フーテンの寅さん、こと車寅次郎 ≫ を、フランス版に焼直したら、

このような立派な作品が生まれた、という見本である、と思います。

これを作った二人の監督は、 決して“ 白状 ” しないとは思いますが、

≪ 寅さん ≫ を学び尽くしたのでしょう。

素晴らしい作品の手法を、徹底的に学ぶ、まさに作曲と同じですね。

この作品を、作曲のようにアナリーゼしてみました。


★ストーリーは、練りに練られています。

飽きさせず、最後まで一気に引っ張られ、

見終わると 「 幸福感 」 を、共有していました。


★冒頭のシーン

真っ黒、精悍なスポーツカーのハンドルを握る黒人 Driss ドリス、

助手席には、無精髭が伸び放題、憔悴気味の Philippe フィリップ。

ブンブーン、咆哮する狼のようにアクセルをふかす。

時速200㌔を越える猛速、高速道を走っている車たちを蹴散らすように、

追い抜き追い抜き、小気味よく疾走します。

しかし、遂にパトカーに挟み撃ちにされ、

Driss は短銃を突きつけられ、危うく逮捕されそう。

「 身障者が発作を起こしているんだ、早く病院に運ばないと死ぬぞ。

お前たちも、責任を問われるぞ!!! 」と、

Driss の恫喝 インプロビゼーション。

フィリップも、激しい咳き込みと涎ダラダラ、瀕死を装います。

二人とも、見事な役者です。

危機を脱したふたりは、明け方の海を目指し、軽やかに走り去ります。


★次のシーンは、Chopin の夜想曲が美しく流れる Philippe の大邸宅。

いままさに、介護士の面接をしています。

「 応募の動機は? 」と、尋ねる美人秘書。

「 お金・・・、人間に・・・、身障者の自立と社会参加に・・・ 」など、

もっともらしいことを言う、白人の応募者たち。

小役人に見えます。


★一人だけ安物のズック靴を履いたドリスが、順番を無視し、

「 不採用の印鑑を押してくれ、三件不採用なら、失業保険が下りるからだ 」と、

ずけずけ、面接室に入り込みます。

 Driss の言葉は、家族や親しい仲で使う、馴れ馴れしい言葉使い。

それまで、しかめっ面をして面接をしていた Philippe は、ニコニコ顔に。

「 明朝、9時に来てください。」と、紳士的に Vous を使います。


★それまで、ほとんどの介護士が気難しい Philippe と合わず、

2週間ともたずに辞めていった、と後になって分かるのですが、

あくまで契約として働き、他人行儀で間違いがないように、

事務的な介護に徹する人たちに、

Philippeは、吐き気がしていたのでしょう。

心の触れ合いが、なかったからです。


★自分勝手で、回りに配慮せず、言いたいことを臆面も無く言う、

地位も階級も肩書きも通用しない、そんな Driss の天衣無縫な人格に、

Philippe は直感的に、惚れたのだと思います。

実は、これは、寅さんの性格そのものでもあるのです。


★一ヶ月の試用期間を与えられた Driss は、

Philippe を、身障者とはみずに普通に接します。

Philippe の外出は、それまで、

車椅子を固定できるワゴン車を、使っていました。

まるで、囚人護送車。

Driss は、シートを被せられたままの車を、目敏く見つけます。

めくり上げると、真っ黒なスポーツカー、怪しく光るエンブレム。

すぐさま、Philippeを抱きかかえ、助手席に。

ホーホーと喜びの奇声を発して、走り出します。

電動車椅子も、マラソン並みにスピードが出るように、

改造してしまいます。


★この映画では、フランスの富豪のお金持ち具合が分かります。

道路に面した通用路を車で入りますと、

美しい中庭があり、園丁が働いています。

その奥に、広大な邸宅があります。

外側からでは、全く分かりません。

秘書だけでなく、50代の女性執事もいます。

コックもいます。

Driss 用の広い部屋も肖像画が飾られ、隣の浴室は、本当に一部屋あり、

真ん中に大きなバスタブが、据えられています。

salle de bain の由来が、納得できます。


★それはさておき、寅さん同様、Driss は汚い下品な言葉も頻繁に使います。

お下の世話もすることになるのですが、≪●●取りなんぞ出来ねーよ≫・・・。

Philippe の親戚が訪ね、

「 法務省に尋ねたら、Driss は、宝石強盗で6ヶ月も服役していた。危険だ 」と、

忠告に来ます。


★寅さんは、的屋とか香具師(やし)と呼ばれる大道露天商、

広義ではアウトローの仕事。

いつも文無し、財布には五百円札が一枚だけ。

家族は叔父さん家族と妹のみ、妻も家庭もなく、住所不定の放浪生活。

トランク一つの寅さんに対し、Driss はズタ袋一つ。

中身は、飛び出しナイフとヌンチャクだけ。

環境設定を、似せています。


★Philippeは、親類に「 Je ne veux aucune pitié いささかも同情されたくない

Driss はそのように自分を扱ってくれる 」と、忠告に取り合いません。

Driss の仕事の一つは、たくさん届く手紙類の仕分けです。

弁護士に渡すもの、ゴミ箱行き、親書など・・・。

ブルーの封筒、女性からの手紙に気付きます。

ペンパルのようです。


★風俗の宣伝レターを、ゴミ箱に捨てません。

Driss は早速、自室にいかがわしい女性を招き寄せています。

遠慮もなく、Philippeに「 あっちのほうは? 」と尋ねてしまいます。

Philippe は正直に「 首から上は感じることができる、特に耳が 」と、

恥ずかしそうに、打ち明けます。

次のシーンは、

東洋風の美女から、耳マッサージを受けている二人の、楽しそうな顔。

マリファナも、吸っています。

寅さん映画は、セックスについては厳格に、俎上にのせませんが、

ここは汚い言葉の延長線、発展型か、

ヨーロッパでは、映画の要素として、本質的に必要なのかもしれません。


★次々と、ブルジョワ階級の生活を見せてくれます。

画廊で、抽象絵画を1時間以上も眺める Philippe に、

「 鼻血ブーのように、赤いインキがこびりついているだけじゃないか 」と Driss 。

しかし、買い気を示す Philippe 。

敵もさるもの引っ掻くもの、「 先ほどお知らせしました価格は、間違っていました、

3万フランでなく 4万 1500フランでした 」。

意に介せず、 Philippe は購入します。


★「 芸術は何か 」 という Philippe の問いに、Driss は「 商売だ 」と一言。

「 自分の跡を残すことである 」 と、 Philippe 。


★雪が降ると、公園に Philippe を車椅子で連れ出し雪合戦、

「 お前も、オレに雪をぶつけてみろよ 」と Driss 。

未明に Philippe が激しい息づかい。

Driss は、車椅子で外に出し、早朝のパリ、河畔を散歩させます。

「 午前 4時に散歩するのは、本当に久しぶり、ああ気持ちいい !!! 」。

職業としての介護では、思いつかない、出来ない行為でしょう。


★ Philippe はどうやら、自家用小型ジェットも保有しているようです。

ある夜、突然、夜間飛行に誘います。

地上では勇猛な Driss ですが、ちょっとした騒音にも怯え、震え上ります。

ハングライダーが趣味だった Philippe は、その事故で麻痺になったのですが、

補助付きで、あえてまた、挑戦します。

 Driss はといえば、滑稽なほど怯えまくり、足をばたばた抵抗します。

これも、寅さんそっくり、以外に臆病なのです。


★ Philippe に「 最大の悲しみは何か?」と、 Driss が問いかけます。

「 最愛の妻を、病気でなくしたことである 」。

子供がいないため、 Philippe は女の子を養子にしています。

ティーンエイジャーの彼女には、 Driss は、最初からまるで、

親のようにズケズケと話し、ボーイフレンドのことで、

叱りつけたりもします。

使用人という意識は、まるでないのです。

 

★文学にも教養の深い  Philippe は、青の封筒の女性に、

詩について、薀蓄を傾けた抽象的な手紙を代筆させ、せっせと出します。

「 いつから出してんだい?、6ヶ月前からだって。手紙だけか。

あれ!、電話番号が書いてある。≪・・・≫ という印もあるぞ。

その気があるんだ 」。

 Driss は、強引に携帯電話を掛けます。

渋る Philippe も遂に、意を決して話し始めます。

「 絶対、体重を聴くんだぞ 」 と、横からチョッカイを出す寅さん Driss。

女性から「 写真が欲しい 」、「 近く、ダンケルクからパリに出かけます 」、

次々と、進行していきます。


★Driss は、ありのままの写真を出すべきだ、と主張して譲りません。

しかし、 Philippe  は最後のところで、元気な時代に写真にすり替えます。

そして、パリのレストランでのデートに、漕ぎ着けます。

しかし、執事と一緒の Philippe は、女性が現れる直前、

逃げ出してしまいました。

障害者であることを、知らせていなかったことに忸怩たる思いがあったのでしょう。


★ Driss は、画廊でみたような抽象絵画は「 オレでも描ける 」と、

ペンキを塗りたくり、それらしい作品に仕上げます。

「 ロンドンとベルリンで個展を開いた新進画家の絵だ 」 と、

 Philippe は、金持ちの親類に売り込みます。

「 有名になってからでは高くなっているかもしれないし・・・」と、

親類は迷った末、遂に 1万 2000フランで買ってしまいました。

 Philippe と Driss は、一緒に悪ふざけをする、対等の親友になっています。  


★しかし、破局が訪れます。

Driss の弟がやってきました。

顔に殴られた跡があり、やっかいなことに巻き込まれているようです。

Driss はやっと、身の上話をします。

本名は別、母親は実母でない、子供がいない叔母の養子になったが、

その後、叔母に子供がたくさんでき、いまでは家から追い出されていること。

「 弟たちのために、帰ったほうがいい。ここは一生の仕事ではない 」 と、

 Philippe は、自分から別れを告げます。                         ( 続 )

 

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■名古屋 「 亀末廣 」 が突然閉店、なんと悲しいことでしょう■

2012-11-05 23:55:05 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■名古屋 「 亀末廣 」 が突然閉店、なんと悲しいことでしょう■
                       2012.11.5  中村洋子

 

                        ( 亀末廣・茶三昧 )

★ことしは、夏から一気に初冬へと、滑り落ちたような気がします。

スリーブを風になびかせ、軽やかに心地よく歩く秋が、

とても短かかったように、感じます。

それでも、先週は橙色に輝く、大きな大きな満月を、

輪郭から溢れ出るような 「 秋の名月 」 を、楽しみました。


★10月 31日は、名古屋でのアナリーゼ講座でした。

名古屋へ行きますのは、講座以外に、

実は、密かな楽しみがあるからなのです。


★お笑い芸人によって、テレビなどで、

面白おかしく、誇張して語られる 「 名古屋弁 」 は、

本当の名古屋弁ではない、ようです。

旧城下町の老舗には、上品な、言葉遣いが、

まだまだ、残っているのです。

 

                                       ( 亀末廣・寒具 )


★私は、大の和菓子党なのです。

名古屋に行く度、中区錦にある 「 亀末廣 」 さんを訪ね、

存在感溢れるお干菓子や、生菓子を眺め、

その歴史の厚みが伝わる美しさに、感嘆の声を上げながら、

お店の奥様やご主人と、取りとめのないお話をするのが、

とっても、楽しみでした。

 
★そして、私用には “ これ ” 、あの人のためには “ これ ” 、

お世話になった方には “ あれ ” と、少しずつ、

美しく包装して頂きます。

それを初めてお召し上がりになる方の、喜び、感動されるお顔を、

想像しては、いつも、微笑んでいました。


★そんな思いで、KAWAI での講座を終え、いそいそと、

「 亀末廣 」 さんまで、たどり着きました。

硝子戸の貼紙を見て、衝撃をうけました。

 

                                                       ( 亀末廣・雛祭りのお菓子 )


★≪お客様各位  
お知らせ
日頃は格別のお引き立てを賜り厚くお礼申し上げます。
さて、突然ですが、
明治 29年 京都亀末廣より名古屋分家として独立以来
約 115年余にわたり、ひとかたならぬご愛顧を戴いて
まいりましたが、
この度、諸般の事情により本年 7月 31日(火)をもって
閉店し、京都本店に暖簾と看板をお返しすることに致しました。
お客様ならびに関係各位には大変ご迷惑をおかけすることを
謹んでお詫び申し上げますとともに、
これまでのご愛顧に対し、心より、お礼申し上げます。
           平成 24年 7月  
              名古屋亀末廣  敬白  ≫


★このお店は、ビルに挟まれ、外見は質素、

「 亀末廣 」 という、雄渾な字体の看板を見落としますと、

行き過ぎてしまうような店構えです。

しかし、一歩、足をお店に踏み入れますと、

見えない魂柱が屹立しているような、厳しさが伝わってきます。

最高の味を、粋を、知り尽くした茶人との、

“  真剣勝負の空間  ” だったのです。

  

 

 


★お味の素晴らしさについて、ここで書くのは、

野暮かもしれません。

しかし、かつて仄聞しました話を一つ、

不正確なところがあるかもしれませんが、

思い出しながら、記します。

 


★「 亀末廣 」 の、最も有名なお茶菓子が、「 茶三昧 」 です。

硬く固めた漉餡を、黍粉の焼物で上下に挟んだお菓子です。

軽く羽のような舌触りの焼物、餡はどっしりとした重い歯応え、

腐葉土色の餡を、淡い土色の衣で包みます。

変容する大地の色合いです。

まさに、名品です。


~四十年前のことだそうです。

「 黍の味が変わった 」 という、苦情が、

ご贔屓の方々から、寄せられたそうです。

「 黍に漂っていた仄かな苦味が消え、

味が、単調になった 」 。


★お店は、徹底的にお調べになったそうです。

直ぐに、その理由が判明しました。

それまでは、杵を使って、黍を手で搗いていたそうですが、

それを、機械搗きに変えた直後から、味に変化が・・・。

しかし、何故 「 仄かな苦味が消えた 」 のか。


★もう一度、杵で搗きましたところ、同じ苦味が蘇りました。

変わったのは、杵を使わなくなったことしかありません。

「 杵で搗くことにより、杵の木の成分が、ごくごく微量ながら、

黍に混じり、それが苦味という絶妙な風味を醸しだす 」 、

という結論に。

それ以来、手による杵搗きに、戻されたそうです。

 

★目で色彩を、舌で感触の変化を、

そして最後に、味わいを心ゆくまで楽しむ。

どこまでも奥ゆかしい甘み。

これが 「 雅 」 です。

伝統の味は、一朝一夕には出来ないようです。

 

                                                              

 ★このお話一つからでも、「 亀末廣 」 というお店と、

それを支え続けてきた茶人たちの、洗練度が分かります。

日本の伝統文化の粋とも、言えるでしょう。


★最近は、有名なお店でも、和菓子、洋菓子に限らず、

トレハロースなど食品添加物、保存料、旨み調味料などを、

平然と、混入しています。

添加物まみれ、と言っていいほどです。


★私は、過敏症気味ですので、そうした食品を摂取いたしますと、

半日は、体調が不良になってしまいます。

本物の嗜好品を、求めることが、

ますます、困難な時代になりつつあります。

「 苦味 」 が、美味の必須要素であることすら、

知らない方が、増えているかもしれません。


★京都 「 亀末廣  」 のお干菓子も、何度か味わいましたが、

私には、名古屋 「 亀末廣 」 のほうが、より洗練され、

妥協のない、凛とした味のように思われます。


★「 亀末廣 」 さんの閉店は、突然の訃報にも似ています。

私はこれまで、当たり前のように、 “ 綺麗、美味しい ” と、

無邪気に、味わってきましたが、

その最高の水準を維持されてきた陰には、さぞかし、

窺い知れないようなご努力、ご苦労が山のように、

おありになったことでしょう。

 

★「 暖簾と看板を返却 」 しての、突然の閉店は、

寸毫たりとも、質を落としたくない、

という 「 矜持 」 の、表れなのでしょう。

見事な、散り方です。

本当に、ご苦労さまでした。

掛け替えのない文化が消滅し、寂しく、

悲しい思いで、一杯です。

 

 

                                   ( 亀末廣・茶三昧 )


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■上野で、レンブラント、ルターの肖像画と 2枚のフェルメールを見る■

2012-09-12 22:37:01 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■上野で、レンブラント、ルターの肖像画と 2枚のフェルメールを見る■
                          2012.9.12  中村洋子

 

                           (国立西洋美術館)

 

★9月も半ばになりましたが、猛暑が続いております。

暑いさなか、上野の山へ、ルターとレンブラントの肖像画、

二枚の Vermeer フェルメールを見に行きました。


★Vermeer の一枚目は、オランダの Den Haag デン・ハーグにある、

The Royal Picture Gallery Mauritshuis 

マウリッツハウス美術館の、

Johannes Vermeer ヨハネス・フェルメール の、有名な

『 Girl with a Pearl Earring 真珠の耳飾りの少女 』。

青いターバンに、真珠のイアリングの少女です。

 

                                     (東京都美術館)


★もう一枚は、西洋美術館で開催中の、

Staatliche Museen zu Berlin ベルリン国立美術館の、

『 Woman with a Pearl Necklace  真珠の首飾りの女性 』。

「 ネックレスの女性 」は、初来日です。


★Vermeer フェルメールも、素晴らしかったのですが、

両展覧会に出品されている、いくつかの肖像画に、

深く、心を打たれました。


★「 青いターバンの少女 」 の隣室に、飾られていたのが、

Rembrandt Harmensz.van Rijn レンブラント・ファン・レイン

(1606~1669)の、亡くなった歳の作品、

最晩年の、自画像です。

 

 


★ Rembrandt レンブラント(1606~1669)。

J.S.Bach バッハ(1685 ~ 1750)に匹敵する芸術家。

堅実な家庭生活を送った Bach とは、対極的に、

劇的波乱万丈な生活、豪奢と無一文という両極端を経験。

天才レンブラントの、最後の顔とは、一体どういうものなのでしょうか。

興味が、尽きません。


★柔らかそうでありながら、鋭い眼光。

一部の隙も、ありません。

安易に眺める者を、射すくめるような強い眼光です。

一瞬にして、相手の本質を見抜く眼です。

だが、冷たい光ではありません。

一種の暖かみも、感じられます。

諦観、あるいは世俗への哀れみにも似た感情に、

裏打ちされているからでしょうか。

顔には、なによりも自信、

自分と自分の才能への自負に、満ちています。

“ まだまだ、やりたいことはたくさんある。

しかし、成すべきことはした、後悔はない ”

とでも、語っているようです。

 

会場には、Rubens ルーベンス(1577~1640)、

 Anthony van Dyck ヴァン・ダイク(1599~1641)、

 Frans Hals フランス・ハルス(1581~1666)など、

 同時代の巨匠の肖像画も、レンブラントと一緒に並べられています。

 卓越した技法によって描かれた顔、豪華な衣装などは、

 迫真的、生き写しです。

 まさに、注文主の希望どおり、 “ 写真のような ” 出来栄えです。

 権勢や富の頂点にある人物が、

“ 己の頂点の瞬間を、描いて欲しい ”、

 それに応えるのが、当時の肖像画です。

 
★しかし、それらの肖像画は、

 Rembrandt レンブラントを、知ってしまった私にとっては、

 残念ながら、物足りないのです。

 Rembrandt レンブラントの肖像画には、

人物の、その時点に至るまでの、

 人間としての歴史がすべて、塗り込められています。

 その人物の、生き方や生き様、哲学、

性格、癖、個性、長所、短所、欠点までも、

 すべて、Rembrandt レンブラントが、見抜き、

浮かび上がらせています。

 生身の人物より、 “ 生身 ” なのです。

 
★Rembrandt レンブラント自画像を、じっと、眺めていますと、

 レンブラントが、私に向かって、

 ≪ あなたは誰ですか?、どこにいますか?、

何を考えていますか?、 いま何をしていますか?、

これから何をしたいのですか?、幸せですか? ≫

 彼は、恐ろしい怖い質問を、優しく、次々と問いかけてきます。

つまり、レンブラントに、逆に、見られているのです。

レンブラントに、まるで、自分の肖像画を、

描いてもらっているような、体験をするのです。

絵画を見る醍醐味、真骨頂が、

ここに、あるのです。

 

Rubens ルーベンスなどの肖像画は、その人物の、

 その時点の瞬間を、切り取った断面であり、

 その人物の “  歴史 ” は、それほど感じられません。

 それゆえ、どの人物も同じように見えます。

逆に申しますと、Rubens に肖像画を依頼した人は、

大満足でしょう。

Rembrandt に頼んだ人は、  “ こんなはずではなかった ” と、

不満を、募らせたかもしれませんね。

 

★私にとって、Rembrandt レンブラント自画像との対話は、

 これから終生、止むことがないように思われます。

 J.S.Bach バッハ(1685 ~ 1750) の Mess h-Moll

ロ短調ミサ のような、存在になりそうです。

 


★『 Woman with a Pearl Necklace  真珠の首飾りの女性 』 と、

ちょうど対角線上の位置に、レンブラント派の作品とされる

『 Man in a Golden helmet 黄金の兜の男 』  が、

飾られていました。

 

 


★この 『 黄金の兜の男 』 のヘルメットの、燦然と輝く黄金色は圧巻です。

その下に、厳しさが結晶化しているような狷介な老人の顔。

『 真珠の首飾りの女性 』  の、優しい光との対比で、

人間の老いの残酷さが、強く迫ってきます。


★『 Woman with a Pearl Necklace  真珠の首飾りの女性 』 は、

ポスターや画集で見た限りでは、なんとなく、

ぼんやりとした絵、というイメージでした。


★しかし、実物は、全く異なります。

左側の窓に向かって、右側に若い女性が立ち、

手でネックレスを、引っ張っている構図です。

画面中央は、乳白色の壁、しかし、本物でこれを見ますと、

窓からの光が、“ 太陽の光とは、このような色だったのか ” と、

思わされます。

Vermeerは、太陽の光の色を、初めて描けた画家であると思います。

 


★柔らかく、神々しいその光の色は、

聖書の 「 Es werde Licht !  Und es ward Licht

光りあれ! 」 の世界、

神の恩寵を、表現しているのでしょう。


★印刷物では、はっきり分からなかった少女の顔も、

実物を見ますと、顔一杯に光を浴び、恍惚としているようです。

少女の左耳につけられている真珠のイアリングが、

星のように、きらめいています。

それが、少女がすっくと立ち上がった椅子の、

金色の鋲と、呼応しているのは言うまでもありません。

その鋲の数は、 3個を 一組とした 3組です。


★レンブラント派 『 Man in a Golden helmet 黄金の兜の男 』 の、

黄金が、現世的な光を怪しく、放っているのに対し、

フェルメールの光は、神の国の光。

それらが、美術館の一つの部屋に、

絶妙に好対照的をなして、配置されています。

 

 


★同じく、ベルリン国立美術館展での、私のお目当ては、

Martin Luther マルティン・ルター(1483年~1546)の肖像画でした。


Lucas Cranach ルーカス・クラーナハ(1472~1553)の描いた、

Martin Luther ルターの肖像画を、是非、見たいと思っておりました。

Bach が敬愛してやまなかった Martin Luther ルター。


★Cranach クラーナハの作風は、レンブラントの写実とは、

大いに異なり、この肖像画を見た瞬間、

日本の鎌倉時代の 『 源頼朝像 』 と、

大変に似ていると、直感しました。


★Martin Luther ルターほどの、人物の肖像は、

このような書き方しかないのか、とも思います。

両眼の方向が、現実にはありえない方向を向いています。

左目は左方向を、右目は右方向を見ています。

日本画では、竜や風神雷神などのように、

神性を帯びた性格を描く際、

まなこが違う方向を向いていることが、多いのです。

16世紀のドイツで、人並みはずれた偉大な人を描くのに、

同じ技法がつかわれていることは、

大きな、発見でした。

これにより、ルターは、世界を見据えているのです。

 


★ルターは、ドイツの歴史で最大の人物。

現代ドイツ語、文学、音楽のすべての基礎を築いた人。

ドイツ文化の源流を、どの分野から探っても、

必ずやルターに行き当たるのは、間違いないのです。


★このように、偉大な人の肖像を何点か見ましたが、

「 Bridgestone Museum of Art ブリジストン美術館 」 開館 60周年

「 Debussy、音楽と美術 」 展に、出品されている

Claude  Debussy クロード・ドビュッシー(1862~1918) の

肖像画も、見てきました。


★Marcel Baschet(1862~1941) による、

若いころのドビュッシー(1885年作) と、

Jacques = Emile Blanche(1861~1942)の、

1902年作の肖像画の 二点を見ました。

 

レンブラントや、クラーナハと比較するのは、

酷かもしれませんが、やはり、

ドビュッシーの天才には、位負け気味のようでした。

Debussy の人間を捉え切れていない、

一面しか、描けていない作品のようです。


★もう一つ、Pierre Louÿs ピエール・ルイス(1870~1925) 作の、

写真を合成して作った、ドビュッシーの肖像もあり、

こちらのほうが、作曲家 Debussy の素顔が、

読み取れるように、思いました。


★この展覧会には、ドビュッシーの自筆譜が、

何点か、展示されていました。

例えば、『 ImagesⅠ 映像第 1集 』 の

「 Reflets dans l'eau 水に映る影 」 、

『 Pelléas et Mélisande ぺリアスとメリザンド 』 の、

第 4幕 4場 の試作スコアなどですが、

1ページしか、眺めることができず、

あまり、参考にはなりません。


★曲は違いましても、私の所有する Debussy の、

他の自筆譜ファクシミリの鉛筆の色、筆の圧力を、

再確認する程度の参考にしか、なりませんでした。

 

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■ Woody Allenn ウッディ・アレンの映画「 Midnight in Paris 」を見る■

2012-08-12 00:47:50 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■ Woody Allenn ウッディ・アレンの映画「 Midnight in Paris 」を見る■
             2012.8.12 中村洋子

 

★虫が、鳴き始めました。
お盆が近づき、蝉の鳴き声は例年に比べ弱々しいのですが、
きょう初めて、虫の音を聴きました。
暑い暑いといっているうちにもう、秋がそこまで来ていました。

★8月は、27日 「 横浜みなとみらい 」 での
≪ 第 5回 Chopin の見た平均律クラヴィーア曲集・アナリーゼ講座 ≫と、
28日「表参道 Kawai」での≪ 第 2回イタリア協奏曲・アナリーゼ講座 ≫の
勉強で、気が抜けませんが、
映画の面白いパンフレットにつられ、映画館まで、足を運びました。

★パンフレットは、セーヌ川を何気なく散歩している青年の、
頭上の空が、ゴッホの名画 「 星月夜 」 の空です。
太陽のように大きな星の周りを、青や緑が渦巻いている空です。

★その映画は、Woody Allenn ウッディ・アレン監督の
「 Midnight in Paris 」。
キャッチコピーは 「 真夜中のパリに 魔法がかかる 」。

★アメリカは Hollywood ハリウッド、そこで売れっ子の脚本家 Gil ギルが、
フィアンセの Inez イネズと、彼女の両親ともども、
パリを、観光で訪れています。
彼は、どこか野暮ったくて、憎めない顔つきです。

★イネズは、美人で明るくチャーミング。
しかし、ブランドや権威を妄信しています。
よくあるタイプの女性です。
結婚式を挙げた後、Malibu マリブという超高級住宅街に、

豪邸を建てる夢に酔っています。
両親も実業家として成功、とてもとてもリッチな、
ステレオタイプな、アメリカ人。
100万円単位の骨董家具を、パリの店頭で見て、高いとも思いません。

★お金は、たくさん入ってくるものの、
退屈で常套的な脚本を、書き飛ばしていることに、飽き飽きし、
“ これでいいのだろうか ”と、疑問を抱いているギル。
“ 本当は、小説を書きたいのだ ” と、
パリにも、書きかけの小説を、持ってきています。

 

 

★売れるかどうか分からない小説に、時間を取られるより、
「 脚本を、書き続けて、お願い 」 と、頼むイネズ。

★ギルたちが、豪華なフレンチレストランで食事中、
「 Sorbonne ソルボンヌで講演するため、パリに来た 」という、
知り合いの批評家 Paul ポールが突然、顔を出します。
口先だけの知識を、これでもかと、ひけらかす典型的な snob。

★Paul は、ギルとは対極的な人物として、引き立て役として、

最後まで、楽しく絡みあっていきます。
自分の滑稽さに、気づかない人です。

★そうした彼らとの、通俗的パリ見物に、辟易し、
一人、石畳に靴音を響かせ、夜のパリをさまようギル。

★真夜中十二時の鐘が鳴ると、あら不思議、彼の前に、
1920年代の豪華な 黄色いプジョー( Peugeot Type 184 Landaulet) の、
ワゴン車が、現れます。

★「 さあ、さあ、お乗り、お乗り !!! 」 と誘われ、
つい、乗ってしまいます。
シンデレラの十二時の鐘と、カボチャの馬車のパロディーでしょう。

★シンデレラが、憧れの王宮にたどり着いたように、
ギルの最も憧れていた 1920年代のパリへと、
黄色い Peugeot が、彼をいざないました。

★ギルを誘った男が、自己紹介します。
キリリとネクタイを締め、パーマをかけたヘアーが、素敵です。
「私は、Scott  Fitzgerald スコット・フィッツジェラルド・・・」、
「 あの有名な Fitz、Fitz、Fitzgerald? 」 と、
驚くやら、喜ぶやら、目を丸くするギル。

★到着したのは、Jean Cocteau ジャン・コクトー主催のパーティー。
ピアノを弾きながら、哀愁を帯びた自分の曲を歌ってるのは、
Cole Porter コール・ポーター。
ワインの香り、踊る男女の揺れる肩、飛び交う笑い声、
一方では、談論風発のグループ。
観客も、酔いしれるようなパーティーです。

 

 

★Fitzgerald と妻のゼルダ Zelda は、彼を二次会へと誘います。
待ち受けていたのは、Hemingway ヘミングウェイ、Picaso ピカソ、
Matisse マティス・・・
クラクラとするような、世紀の芸術家たちです。

★そこは、Gertrude Stein ガートルード・スタインの館。
煌くような芸術家たちが集まる、サロンでした。
ギルは、夜な夜な、通い続けます。
ヘミングウェイの紹介で、遂に、ギルは自分の小説を、
著名な作家でもあるガートルード・スタインに、
見てもらうことになります。

★ヘミングウェイが、ギルの小説を自分では読まず、
スタインへと、振ったのは、
≪ つまらないものなら、腹がたつ。いい作品なら、嫉妬で腹が立つ ≫
という、理由です。
真の芸術家の在り方を表現する言葉として、至言かもしれません。
ヘミングウェイが、熱弁をふるうこの場面は、
この映画の最初のヤマ場と、私は思います。

 

 

★作家同士は、真剣勝負である。
馴れ合いではない、馴れ合ってはいけない。
ムラ社会で、群れてはいけない。
≪ 君は、死を賭すほどの情熱で、女を愛することができるか ? ≫
≪ 本当にお前は、婚約者を愛しているか ≫
ヘミングウェイは、ギルを挑発します。
仕事にも恋愛にも、生死を賭けるほどの情熱を注げ!

★イネズへの愛が、愛だったのだろうか?、
まやかしであったのではないか、と自問し始めるギル。

★この映画の隠れた主人公は、ヘミングウェイです。
サロンには、20年代の芸術家そっくりさんが、次々と登場してきます。
バーで出会ったSalvador Dalí サルバトール・ダリ、

Luis Bunuel ルイス・ブニュエル、
Man Ray マン・レイ・・・。

白目をむく Dalí  のそっくりさんは、本物のDalí 以上かもしれません。
これが、映画の醍醐味でもあります。

★20年代へと通いつめるうち、ギルは、
ピカソの愛人 Adoriana アドリアナと、恋に落ちます。
絶世の美女です。
ところが、その美女の理想とする時代は、
さらに遡って、1890年代パリだったのです。

★映画は、便利です。
二人で散歩中、今度は、美しい天蓋付き馬車が通りかかります。
「 on y va! さあ、行こう ! 」 と、誘い込まれます。
たちまち、1890年代の Montmartre モンマルトル へ。
Moulin Rouge ムーランルージュのダンスホールで、出会うのは、
Lautrec ロートレックと Gauguin ゴーギャン、Degas ドガ でした。

★アドリアナは、身にまとっている衣装の斬新さを買われ、
バレー衣装を創作するよう、依頼されてしまいます。
遂に、その憧れの Belle Époque ベルエポックに、住み着く決心をします。

★しかし、その偉大な画家たちが嘆いているのは、
その時代 Belle Époque ベルエポックの浅薄さだったのです。
≪ ミケランジェロの時代に生まれたかった ≫ と、
正直に、口にします。

いつの世でも、その時代に異議を唱えるのが、本物の芸術家なのでしょう。

★ギルが、絶世の美女 Adoriana と、訣別するときの会話。
「 歯を抜くにも、この時代は、麻酔もないし、抗生物質もないしなあ・・」
夢を語る美女に、ギルは即物的な話で混ぜ返します。

見事な科白。
ここが、この映画の最後のヤマ場です。

★“ いつの時代でも、理想郷はありはしない ”
その時代の愚かさ、軽薄さを憎み、俗物と戦い、
日々、命を削る思いで創作している芸術家だけが、
後世からみて、その時代を輝かせている・・・。
これが Woody Allenn のメッセージでしょう。

 

 

★前フランス大統領の Sarközy サルコジさんの、
美しい奥様 Carla Bruni カーラ・ブルーニも
観光ガイドの役で、出演しています。
例の俗物評論家 Paul を、やっつけます。
ロダンの妻が誰だったか、愛人が誰だったかという、本当に本当に
瑣末なつまらないこと、ロダンの芸術にはどうでもいいことで、
知識もどきの、知ったかぶりを、ひけらかしている批評家を、
「 それは違います 」 と、一言でやり込めます。

★この映画は、誰が見ても楽しく、時代考証やファッションも、
普通には入れないような、美術館の特別な倉庫に、
こっそりと、入れてもらったような、
不思議な、密かな楽しみに、満ちています。

★映像美を堪能しながら、観客は、
Woody Allenn が、本当に言いたかったこと、
大変に、毒のあることを、知らないうちに、飲み込まされています。
彼は恐ろしいことを、さらっと言ってのけています。
虚飾に満ちたハリウッドへの、ひいては、アメリカへの批判でもあります。

★NewYork に棲み、アメリカ映画の果実を最大限に享受しながら、
シレッと、“ Hollywood は俗物ばかり ”と、批判している
Woody Allenn の、したたかさ、老獪さ、懐の深さに、感服です。

★青年ギルのフィアンセは、Paul と浮気をしていました。
彼からプンプンと漂う俗物性が、彼女にとっては、
たまらない魅力だったからです。
映画の結末がどうなるかは、想像にお任せします。

雨に濡れながらのパリ散歩、いいですね。
ご自分でご覧になり、味わってください。

 

 

★音楽の分野に限って申しましても、ある作品を理解するのに、
いまだに、その作曲家の女性関係やら日常の身辺生活雑記などの、
逸話をこまごまと考証することが、あたかも学問であるかのごとく、
とらえる考え方が、大手を振ってまかり通っています。

★大作曲家の手紙や書き残したもの、例えば、
Beethoven ベートーヴェンや、Mozart モーツァルトの手紙、
Robert Schumann ロベルト・シューマンの著作、Debussy の手紙、
など見ましても、その誤った方向でお仕事をしている、
学者評論家が、欲しているようなお話やエピソードは、
ほとんど、ありません。

★それらの手紙は、ほとんどが、
妥協のない仕事をしているが故に陥る生活苦、
その結果としての、借金の申し込み、
俗物への激しい怒りなどの内容ばかりです。
ごくまれに現れる、甘美なロマンス話もどきを、
鬼のくびを取ったように、針小棒大に書き、

恋人の詮索に当てて、なんの意味があるのでしょうか。
それにより、音楽の理解が深まるわけではありません。
音楽は、音のみで、理解するしかないのです。

 

 

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