音楽の大福帳

Yoko Nakamura, 作曲家・中村洋子から、音楽を愛する皆さまへ

■ミケランジェロ展、「階段の聖母」の緊密な構成、動物的母性がにじみ出る■

2013-10-20 01:41:20 | ■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■

■ミケランジェロ展、「階段の聖母」の緊密な構成、動物的母性がにじみ出る■
               2013.10.20 中村洋子



★紅葉の季節となりました。

このほど 「 Ries&Erler Berlin リース&エアラー社 ベルリン 」 から、

出版されました私の作品 「 Suite für Violoncello solo Nr.3

無伴奏チェロ組曲第 3番 」 の最終楽章タイトルは、

「 錦秋 」 です。

http://shop.rieserler.de/product_info.php?

info=2840&XTCsid=24e91095ba1fabd23887c811e5f68d73


http://shop.rieserler.de/index.php

http://shop.rieserler.de/index.php?manu=m729_Nakamura--Yoko.html&XTCsid=24e91095ba1fabd23887c811e5f68d73



★ ≪ 「 錦秋 」 は、お能の 「 紅葉狩り 」 の物語を表現しました。

全山が錦と化した紅葉の山に誘われ、迷い込んだ貴公子が、

絶世の美女に、お酒を振る舞われます。

眠り込んだ貴公子を、鬼の姿に戻った美女が襲いかかる怖いお話。

貴公子を秋、美女を万物が枯れる冬と、

とらえることも出来るでしょう ≫ CDに添付しました解説です。

Europeの音楽家、愛好家が、この曲をどのようにとらえるか、

どうお聴きになるか、反響が楽しみです。



★朗らかな秋の一日、

上野の国立西洋美術館で、「ミケランジェロ展」を観ました。

Michelangelo ミケランジェロ (1475年 - 1564)。

今回の見どころは

『 階段の聖母 』、 『 キリストの磔刑 』、

『 クレオパトラ 』、 『 レダの頭部 』 の 4点でした。


★『 階段の聖母 』 は、大理石の板に彫られた 56㎝×40㎝の、

小さなレリーフです。

驚くことに、1490年頃、ミケランジェロが15歳の作品ですが、

完璧なマスターピースでした。


★画集で見たのでは、全く分からない 「 鑿 ( のみ)」 の、

細かい彫り跡も、 まじかに見ることができました。

画面中央より、やや上に位置する幼子イエスの背中だけは、

すべすべに、磨き上げられており、

この背中が盛り上がり、迫ってきます。

見た瞬間、ここがまず、目に入ってきます。


★聖母マリアは、ショールのような大きな布でイエスを覆い、

彼を、何かから守ろうとしています。

イエスの顔は描かれず、後頭部が一部見えるだけです。

眼差しも、我が子を見ずに、

遠い将来の受難を、予見しているかのごとく、

厳しく、遠くを見つめています。


★子供が3人ほど、左上の階段上に描かれ、

手摺に、もたれかかっていたりします。

天使であるようにも、そうでない子供であるようにも見えます。

階段の段と手摺が、横と縦に交差して、十字架のようにも見えます。

キリストが磔になった十字架です。





★イエスを抱えるマリアの左手が、マリアの頭部と比べ、

随分と大きく、彫られています。

このレリーフに、対角線を2本引きますと、

ちょうど、マリアの大きな左手の手首が、

このレリーフの中央点に、なります。

蝸牛の渦の中心のように、見えます。

マリアは、左手で、イエスを抱きかかえています。


★マリアのもう一方の右手は、なだらかなカーブを帯び、

イエスの頭に、ショールを掛けようとしているかに、みえます。

この左手から右手、イエスの頭、不自然なねじれた形をしたイエスの右手、

そして、マリアの左手へと、円を描いて、丸くつながっています。

中心にある、イエスの滑らかな背中が、浮き上がっています。


★レリーフ上端にあるマリアの頭部には光輪、これも円です。

この二つの円に対し、マリアの座っている台座に垂れ下がる衣が、

大きな半円形で、どっしりとした安定感をもたせます。

半円から、対角線に沿って左上に上がっていきますと、

階段の子供たちの頭に、到達します。


★マリアの左手は、十字架を象徴するかのような階段の段と、

平行であるのに対し、背中を見せるイエスの右手は、

右上に行く対角線と平行して、斜め上を目指します。

この対角線は、マリアの左肩から、左足の先へと流れ、

レリーフの屋台骨を、成しています。







見る人の最後の視線は、マリアの顔に釘付けになります。

幼い子の、将来の受難を感知し、それに決然と対峙しようとしている母。

恐ろしいまでの眼差し。

子を思う母の強さ、動物的な母性が、にじみ出ています。

圧巻です。

これが、レリーフの主題であり、観る人の心の襞に、

深く強く、刻み込まれます。


★このように見ていきますと、まるで、Bach の作曲と同じように、

緊密な構成でできているのが、分かってきます。

Michelangelo ミケランジェロや Bach の音楽を、楽しむためには、

自分の頭で、積極的に構成を分析し、

味わう作業が不可欠であると、いえるでしょう。


★同室にありました、 『 キリストの磔刑 』 は、高さ26.5㎝、

本当に小さな、木彫です。

Michelangelo ミケランジェロが88歳の頃の作品。

死の前年です。


★ミケランジェロの木彫は、若い頃にもう一点あるだけです。

この木彫を見た瞬間、 “ まるで円空 ” と思いました。

ふんわりとしたイエスの頭髪、深い 「 掘り 」 による顔の輪郭。

この顔の表情は、Georges Rouault ジョルジュ・ルオー(1871 - 1958) の、

「 キリストの顔 」 にも、とてもよく似ています。







★最初に目に入るのは、イエスの左右の膝頭、次いで、局部です。

この3点が、盛り上がって輝き、力強い三角形を形成しています。

局部が、中心に位置します。

削げ落ちた腹部が、見事です。


展覧会の醍醐味は、この木彫を前からだけでなく、横、後からも、

じっくり、鑑賞できることです。

正面から顔を見ますと、やや分かりにくいイエスの表情が、

左横から見ますと、頬が削げ落ち、悲しい顔、

実に悲しい顔へと、変化するのです。

悲しみが、浮き上がってきます。

息絶えた直後の顔、かもしれません。


★15歳と 88歳の中間ともいえる、1535年、60歳の作品が、

黒石墨で、紙に描かれた 『 クレオパトラ 』 です。

自殺するクレオパトラが、左乳房を毒蛇に噛ませる場面です。

まるで、映画のお話のようですが、裏打ちの紙から、新たに、

別の素描が、出現したそうです。


★この素描の顔は、口を開け、歯も見え、苦悶にもだえています。

一方、 『 クレオパトラ 』 の顔は、苦しみ、悲しみを超越した、

達観の境地が、描かれています。

従容として死を受けいれる、静謐な、永遠の眼差しです。






★Beethoven ベートーヴェン(1770~ 1827) は、デッサンから、

作品をどう仕上げたか、

その過程を、私たちは、よく知ることができます。

それは、Beethoven がデッサンをたくさん、残していたからです。


★このミケランジェロ展では、ミケランジェロの素描を模写した作品も、

たくさん出品されていました。

それは、ミケランジェロの素描は、作品が完成後、焼却することが、

多かったためです。


★これは、作曲家にもよく見られ、

Claude  Debussy  クロード・ドビュッシー (1862~1918)や、

Maurice Ravel モーリス・ラヴェル(1875~1937) は、

注意深く、痕跡を消し去っています。

Johannes Brahms ブラームス (1833~1897) は、

晩年、手紙類まで焼却しています。


★それに対し、Johann Sebastian Bach  バッハ  ( 1685~1750 ) は、

自筆譜で、その秘密を隠すどころか、

なんとか、作曲の構成や意図を分かってもらおうと、懇切丁寧に、

分かる人には分かるように、ヒントをいろいろな手段で散りばめています。

これだけ親切な楽譜は、ないでしょう。


私の作品の 「 Suite für Violoncello solo Nr.1、Nr.3 

無伴奏チェロ組曲 第1番、第3番 」 には、

Wolfgang  Boettcher ヴォルフガング・ベッチャー先生が、

Einrichtung で、普通のチェリストならば隠すようなテクニックを、

すべてさらけ出し、懇切丁寧に、書き込んでくださいました。

演奏者が、困難を取り除き、すぐに弾けるよう、

Bach と同じ、親切心です。







★「 ミケランジェロ展 」  では、たくさんの方々が、

主催者が作成した、大スクリーンの解説ビデオに見入っていましたが、

名画の前は、数人だけ。

また、イアホンで解説を聴きながら、回っている方も、

多く、見受けられました。


本物の名画が眼前にありながら、イアホンを付けて見ることは、

自分で、名画と対決して楽しむことの、妨げになるのではないかと、

私は、思います。

学者的な、些末なことにこだわる説明に、耳を傾けるのは、かえって、

本当の理解に到達せず、もったいない。

本当の感動は、得られないのではないでしょうか。

自分で、名画と対決してはじめて、感動が湧き上がることでしょう。


音楽で申しますと、 Chopin の自筆譜を見ないで、

エキエル版だけを見る、あるいは、

Bach の自筆譜を現代ならば、誰でも見ることが可能であるのに、

編集者の恣意的な改竄が見られる 「 実用譜 」 だけを見て、

Bach を演奏しようとすることに、似ているような気がします。




★「 無伴奏チェロ組曲 」の楽譜とCDは

「 カワイ・表参道 」   http://shop.kawai.co.jp/omotesando/
「アカデミア・ミュージック 」 
https://www.academia-music.com/ で、販売中。 


※copyright © Yoko Nakamura    
             All Rights Reserved
▼▲▽△無断での転載、引用は固くお断りいたします▽△▼▲

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
«  Bach、Mozart へと、連綿と... | トップ | ■インヴェンションの、心に刻... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

■楽しいやら、悲しいやら色々なお話■」カテゴリの最新記事