僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

知床で会った人 ~胸のときめき~

2020年09月12日 | ウォーク・自転車

先日、テレビで北海道の知床半島が映し出されていたのを見て、忘れられない光景がよみがえってきました。もう50年も経つというのに、昨日のことのように覚えている風景と出来事。そして出会いと別れ。

20歳の時の自転車旅行中のことです。

日本最北端の宗谷岬へ到達したあと、オホーツク海沿いを走って数日後、網走へ着いた。網走市内に高校時代の恩師の奥さんの実家があり、そこで何泊かお世話になっていたときのことです。
「せっかくだから、知床を見に行きなさいよ」
と、家族の方に勧められたので、僕は一人で日帰りの知床見物に出かけたのだった。網走から列車に乗り、斜里まで行ってそこからウトロ行きのバスに乗り換えた。バスは満員で、補助席までぎっしりお客で埋まっていた。窓の外には馬鈴薯の花が真っ白に咲き乱れていた。

バスに揺られること1時間20分でウトロへ着いた。そこから僕が乗るのは遊覧船「はまなす号」。知床岬まで行って戻って来るコースだ。

  
 ウトロから知床岬の突端まで行って戻るコース。

船に乗る直前に、僕は一人の女の子と出会った。森繁久弥の「知床旅情」の歌碑の前で僕がじゃがいもの天ぷらを立ち食いしていたとき、
「それ、おいしいですか?」と彼女が聞いてきたのだ。
「はぁ、おいしいです」と僕。

 
 
「知床旅情」の歌碑の前で

それがきっかけで、彼女に頼んで歌碑をバックに写真を撮ってもらい、そのままいっしょに「はまなす号」に乗り込んだ。船では彼女と並んで座り、ほとんど黙ったまま知床半島の断崖と波しぶきの景観を眺めていた。勇壮で圧倒的な眺めだった。断崖の絶壁から滝がひゅーんという感じで流れ落ちている。野鳥の群れ、洞窟、ゴジラ岩、タコ岩、獅子岩

7月なのに風が冷たい。「はまなす号」は知床岬まで行き、Uターンしてまたウトロに向かった。「これからはもう、同じ景色だもんね」と、何か言い訳でもするように、僕はポツリポツリと彼女に話しかけ始めた。

彼女は神奈川県川崎市に住む大学2年生だという。僕より1学年下である。友だちと旅行していたが、今朝、連れの女性が先に帰り、自分1人が北海道に残って生まれて初めての1人旅がこれから始まるところだ、と言って目をキラキラと輝かせた。船がウトロに着くまでの間、僕らはず~っと、とりとめのない話に興じた。お互いの名前と住所も交換し合った。彼女は、和知律子さんといった。

 
僕が撮った律子さんの写真です。
向こうに知床半島が見えています。

ウトロに着いて船から下りると、今夜の泊まりはこのウトロに決めていると言う彼女だったけれど、「でも、まだ宿が決まっていないんですよ」と少し戸惑った表情を見せた。「ならいっしょに宿を探してあげる」と、2人で船着場近くの旅館案内所へ行き、女の子が一人でも安全そうな一軒の宿の予約をした。

そこで、ふと腕時計を見て僕は青ざめた。
「わっ、バスが出る時間や!」
このバスに乗り遅れると、網走にはまともな時間に戻れない。

バス停に向かって走り出した僕を、彼女があとから追いかけてくる。
ハァハァ、フーフー、と2人とも息切れ状態。

やがてバスが見えた。今にも出発しそうな気配だ。僕は短距離走の選手がゴールへ飛び込むような猛烈な勢いで突っ走り、バスに飛び乗った。
間一髪、セーフ! 
彼女も息を弾ませながらここまで走ってついてきてくれた。

さて、
ここでバスの扉が閉まり、僕は彼女に手を振り、彼女も僕に手を振りながら、映画のラストシーンのような粋な別れというはずだったが、なぜかバスはエンジンがかかったまま、扉も開いたままで、一向に出発する気配がない。

彼女は外。僕はバスの中の乗降口。お互いに見つめ合って立っている。バスには大勢のお客がいたが、みんなこちらを見ているような気がする。
何度も何度も、「じゃ」「気をつけて」とお互いに繰り返すが、バスはまだ出ない。あぁ、なんという間の悪さ。

「あのぉ」
いたたまれなくなった僕は、彼女に、もう見送りはいいから早く宿へ行くように、と言った。彼女も「はい」とうなずき、宿へ向かって歩き始めた。何回かこちらをふり返り、手を振る彼女の姿を見ながら、僕はいつの間にかボーっとしてしまい、いつバスが出たのかも気がつかなかった。

網走に戻ると、
「おかえり。どう、知床はよかったでしょ?」
と、ご家族が温かく迎えてくれた。

この日の夜、アポロ11号が人類で初めて月面着陸に成功した瞬間のテレビ中継を、その方たちといっしょに見た。
1969年(昭和44年)7月21日のことだった。

律子さんから、
「帰りはぜひ川崎市に寄ってくださいね」
と言われたのに、結局行かなかった。東京へは行ったのだが、いろいろな事情があって、東京から房総半島へまわり、そこからフェリーで三浦半島まで渡り、そのまま箱根の方へ向かうというコースをたどったのだ。だから律子さんとは、そのあと一度も会うことはなかった。

あれから50年余。

最近、コロナ禍で家にいる時間が長くなり、昔の日記や手紙を整理することが多くなったけれど、「自転車旅行」のファイルの中からその律子さんの手紙が出てきた時は驚いた。と同時に、胸がときめいた。

大きいめの原稿用紙に書かれた手紙。

無事帰阪とのこと、安心しました。川崎に寄ってくれると思っていました。知床では宿を捜していただきありがとうございました。客は私ひとりで、ちょっと寂しかったけれど、夕方、ウトロの丘に登ってすばらしい夕暮れをみて、ロマンチックな気分にひたることができました。

という書き出しから始まる手紙。

あぁやっぱりあの時、神奈川県川崎市の律子さんのおうちに寄っておいたらよかったなぁ、なんて今ごろ思った僕です(遅すぎるわ)。

さて、これは手紙の2枚目です。

 

私も男の子だったら、自転車で日本一周してやるのにな。
残念です。
また暇がありましたら、お便りください。
乱筆乱文にて、失礼します。
             律子


今も川崎市か、その近くにお住まいなのか。
この歳になっても、まだ胸がときめきます。

モミィが聞いたら、ゲラゲラ笑うでしょうけど。

 

 

 

 

コメント (10)
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