僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

横田めぐみさんの拉致現場を見て

2020年06月07日 | 思い出すこと

北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお父さんの横田滋(しげる)さんが老衰で亡くなられたと、昨日のニュースで報じられました。奥様と共に、僕らには想像もできないほどの辛い人生を送ってこられたものと思います。

この横田めぐみさんの拉致事件に関する話を聞くと、必ず思い出すことがあります。今から12年前になりますが、2008年(平成20年)の10月。新潟へ出張に行った時のことです。

仕事を終えて大阪に帰ろうと、空港までタクシーに乗ったけれど、まだ時間に余裕があったので、新潟市内を適当にめぐってもらうことにした。しばらくして、タクシーは海に近づいて行き、人通りのない細い坂道を上がって行くと、右手に学校のような建物が見えてきた。

「この、右に見えるのは中学校なのですが」とタクシーの運転手さん。
「二葉中学校と言います」
「えっ? フタバ中学校?」と僕は聞き返した。
この中学校に、何か由来があるのだろうか
すると運転手さんは驚くべきことを言ったのです。

「二葉中学校は、拉致された横田めぐみさんが通っていた中学校なんです」
「えぇっ、何ですって?」と僕は聞き返した。
ここが? 横田めぐみさんが通っていた学校? 
いきなりのことだったので、本当に驚いた。

事件が起きたのは1977年(昭和52年)11月15日のこと。一人の少女が忽然と姿を消したのは、この中学校からの帰り道だったというのです。当時めぐみさんは中学1年生で13歳。まだあどけない年頃です。

「そうですか。ここがめぐみさんの通っていた中学校だったんですか
僕は身を乗り出して右手の窓から校舎を眺めながら、もう、それ以上の言葉は出てこなかった。

タクシーはめぐみさんの通学路だった海岸に沿った道を走り始めましたが、整備の行き届いた道路と公園の木々の緑は美しかった。しばらく行ったところで運転手さんが車を止め、再び口を開きました。

「このあたりでめぐみさんが拉致されたのだろう、と言われています」

ごく普通の道路と、ごく普通の歩道があり、海辺の方は木々が生い茂り、何とも穏やかな風景だった。こんなところで

この辺のどこかに悪魔が潜み、何の罪もない一人の純真無垢な少女を肉親から引き裂き、少女が育んできたすべてのものを奪い去ったのだ。その時、めぐみさんがどんな思いだったか。想像しただけでも身震いがする。

そんな思いを巡らすと、だんだんと気が重くなってきた。

運転手さんは前方を見つめながら、淡々とこう言いました。
「めぐみさんは絶対に生きていますよ。でももうこちらには戻って来ないんじゃないかと、思いますね。ご本人の意思としてもですね」

そんなことを途切れ途切れに、噛み締めるような口調で言ったのです。

そしてさらに運転手さんは、こう続けました。
「めぐみさんは結婚して、子どもさんもいるし。それに、あちら(北朝鮮)ではかなり優遇されているんだと思いますよ。もう何十年もあちらで暮らしているんですからね。もちろん、お父さんやお母さんに会いたいでしょうけど、今の自分の生活や家族も捨てられないのではないでしょうか」

地元の人たちはみんなそう言っている、とのことでした。
「それは、めぐみさんは元気で暮らしているんだという願いを込めた思いでもありますが」
と運転手さんは自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。

この言葉は、今も忘れられません。

「では、お時間ですから、このまま新潟空港に向かわせてもらいます」
車が動き始める。
「ええ、お願いします」
と返事をしたあとのことはほとんど覚えていない。視界から遠ざかる海辺の光景だけが、今も強烈にこの目の奥に焼き付いています。

 ………………………………………………………………………………………

めぐみさんが行方不明になったのが1977年。その後20年経った1997年に北朝鮮の拉致疑惑が表面化して、横田滋さんはその時結成された「拉致被害者家族の会」の代表に就任しました。それ以来、僕たちは20年以上、横田さんご夫妻の活動をニュースで見てきました。

滋さんのお人柄の良さそうな笑顔と、奥様である早紀江さんの優しくてかつ凛々しい表情に、逆に僕たちが勇気づけられることも多々あったほどです。

滋さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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