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 僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

ウダウダ会 宇治・伏見へ

2014年07月30日 | ウォーク・自転車

僕は昔からうっかり行動が多い人間だったが、最近特にひどくなってきている。家で何かの用事を思いつき、階段を上がり、ふと別のものが目に入るとそれを手にしてそのまま階下へ降りていく。あれ? これじゃなかった。僕はいったい何をしに上がって行ったのだろう…と懸命に記憶をたぐる。で、ようやく本来の目的を思い出し、また上に行く。…という、そんなことが日常茶飯事なのだ。


また、いま手に持っていたものが、気がつくと無くなっている。無意識のうちにどこかに置いたのだ。あちこちを探す。すると目の前にあったり、思いも寄らぬところにポンと置きっ放していたりする。だから1日に何回も「え~っと、何しにここへ来たんだろ?」とか「あれはどこに置いたんだろ?」とブツブツ言いながら立ち尽くしたり、家の中をうろついたりしている。とほほ。


一昨日は朝から徳〇会病院に定期検査に行き、その帰りにスポーツクラブのコスパへ寄ってひと泳ぎして家に帰った後、荷物を整理していると、コスパの会員証が見当たらない。財布の中、リュックの中、ズボンのポケットなど、どこを探してもない。向こうで落としたのかと、コスパに電話したけれど、「ございませんねぇ」との答え。また再発行してもらうことになった。あぁ~、物忘れがどんどんひどくなっていく。えらいこっちゃ。


  ………………………………………………………………………………


忘れる…と言えば、このブログに「日本ウダウダ会」で京都の宇治へ行ったことを書こうと思っていたのに、これもすっかり忘れていた。この間、「水と歴史のまち宇治・伏見」というパンフレットが出てきたので、あ、そうそう、このことを書かなくっちゃ…と思い出したのである。あれからもう1ヵ月が経っている。まだ梅雨の時期だったし、サッカ・ワールドカップの真っ最中でもあった。今日は遅ればせながらその「ウダウダ会、宇治でウジウジ…の巻」をご紹介します。


京都にはやたら詳しい深ピー先輩が、今回の集合場所・淀屋橋駅で「宇治・伏見1dayチケット」を買って、全員に配ってくれた。



  

 

このチケットを持って、淀屋橋から京阪電車に乗り、
途中で宇治線に乗り換えて京阪宇治駅で下車した。
これが、今回まず行った宇治の周辺マップです。



    


宇治駅では雨がまだ少し残っていた。
しかしその時だけで、あとはずっと曇り空だった。

この日の行程を言えば、京阪宇治駅から歩き、
宇治橋を渡って、平等院の方向へまず歩いた。
それから宇治川を左に見ながら天ヶ瀬ダムへ。
ダムで弁当を食べ、また宇治駅にターンした。
それが前半の「宇治歩き」のコースだった。 


  

  宇治駅前から宇治川(右)に沿って歩き始める。


 


 

宇治橋を渡る。何と言っても京都は僕の生まれ故郷である。
他の都道府県以上の親しみが、京都を歩く度に湧いてくる。


僕たち一行がまず目指したのはあの有名な平等院である。
小学校だったか、中学校だったかの遠足で来たところだ。


平等院が間近に迫ってきたら修学旅行生で溢れていた。
道端の看板を見ると「平等院の拝観の待ち時間2時間」
…と書かれていた。「げぇっ、2時間も待つの」と僕。
「別に入らんでもええがな。10円玉見てたらええねん」
メンバーのその一声で、僕たちは平等院をあとにした。
(確かに10円玉の裏側に刻まれている建物は平等院だ)


そのあと、宇治川に沿ってトコトコ歩いた。
途中、ところどころに鵜飼の舟が浮いていた。
宇治川は鵜飼の名所だったんだ。知らなんだ。


  
 
 鵜飼舟が並んでいる。ここが乗り場らしい。

 
人影が少なくなり車しか通らない道の歩道を、
宇治川の景観を眺めながら、僕たちは歩いた。
川沿いを歩き着いたところが、天ヶ瀬ダムだ。

 

 


 

ダムからさらに上流を眺める。
「深山幽谷」そのものの感じだ。


ちなみに、いつもこのブログにコメントを下さるジンさんの、娘さんの、
ご主人の実家が、このダムを越えた宇治田原というところにあるそうです。
さらに、平等院に近い宇治上神社というところも、ジンさんにご縁があり、
その娘さんのお子さんが、その神社でお宮参りのご祈祷をしていただいた、
…とのことです。以前教えていただきました。ジンさんゆかりの地ですね。


宇治はお茶で有名なところですが、どうもウダウダ会の連中は、
「お茶よりやっぱりおちゃけがええなぁ」と相変わらずである。
そうして、天ヶ瀬ダムを後にして、宇治駅へと戻った次第です。


次の行く先は伏見。酒蔵で有名ですね。
伏見の町周辺のマップをご紹介します。


 


  宇治川の支流に浮かぶ十石船が遠くに見えます 

 
  

 

この近くに「月桂冠大倉記念館」という情緒溢れる建物があります。
月桂冠発祥の地として「酒どころ伏見」のシンボルとなっています。

 


 


 

 

ウダウダ会一行は、ここでお酒の試飲をし、ちょっといい気持ちに。
「あぁ、もっと飲みたくなってきた。打ち上げ宴会に行きまひょか」
まだ天ヶ瀬ダムで弁当を食べてから、1時間少ししか経っていない。
打ち上げの宴会は午後5時から淀屋橋のビアホールを予約している。
まだ早すぎるやろ~という声が出て、次の名所「寺田屋」へ行った。



 

坂本龍馬が襲撃されたことで有名な寺田屋。
「あぁ、新撰組が乗り込んできた、あの寺田屋か」
あのなぁ。それは寺田屋ではなく「池田屋」やがな。


ウダウダ言いながら、結局まだ時間は早過ぎるけれど、
大阪へ戻ってビアホールで宴会をすることに決まった。


京阪電車に乗って淀屋橋に戻り、
ビアホールのドアを開けたのは、
なんと、午後3時前であった。
予約時間より2時間も早いぞ。
店の人があわてて準備をする。


「ごめん。ビールさえあったらいいから」
と、席につきながら早くも喉を鳴らす面々。


それにしても好きですねぇ、僕を含めたみ~んな。
飲みながら、僕がサッカーワールドカップの話題を出すと、
「ワールドカップ…? それよりワンカップのほうがええわ」


お茶よりおちゃけ、ワールドカップよりワンカップ…
これがわがウダウダ会の真髄でございます。だはは~


 

追伸 → 明日から2泊3日で、伊勢志摩の鳥羽へ行って来ま~す。

 

 

 

 

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ウダウダ会、舞鶴へ

2013年12月05日 | ウォーク・自転車

本年最後のウダウダ会の例会が、12月3日、盛大(?)にとり行われた。出席者は13名(男性11名、女性2名)だった。この13という数字は、イエス・キリストの13人目の使徒ユダの裏切りによって不吉な数字とされているが、ウダウダ会はキリスト教よりも、ビール教、清酒教、焼酎教、ワイン教などの信者がいっぱいいるので、そんなことはいっこうに意に介しない。それよりギリシャ神話に出てくる酒の神・バッカスの信者ばかりなのだ(笑)。 

 
今回の行く先は京都府の舞鶴だった。大阪とは反対側の日本海に面しているが、便利な高速道路の発達で、マイクロバスに乗せてもらって2時間少し経ったらもう到着である。舞鶴湾に臨むこの街は、東舞鶴と西舞鶴とに分れている。(行政区域としては今は舞鶴市である)。地図をご覧になればおわかりのように、舞鶴湾は東湾と西湾とに、二股のようになって分かれている。東湾はかつては軍港、西湾は商港だったそうだ。僕らがバスから降りたのは東湾のほうで、地図で大きく「現在地」と書かれている場所で、そこには引揚記念館というのがあった。 

 

    
  バスは「現在地」と書かれている引揚記念館の前に止まった。


 

舞鶴といえば第二次世界大戦後の「引揚げ」で有名である。ソ連などに抑留されていた人々を乗せた引揚船が着く港だった。船が着くたびに、岸壁に立ってわが子の帰還を待ちわびていたという「岸壁の母」の舞台でもある。バスを降りたところがその引揚記念館の駐車場で、周辺には菊池章子や二葉百合子が歌った「岸壁の母」の曲が、ずっと流れ続けていた。

 

  
    引揚記念館

 

その記念館の下の方が、苦難に耐えて国外から戻った人たちが、祖国への第一歩をしるした引揚桟橋があったところだ。ウダウダ会一行は、見晴らしのいい場所に出て、その引揚船が到着したであろう場所をじっと見つめていた。

 

  

  

 
 

 

  
舞鶴といえば大阪が好天に恵まれていても、雨や強風や雪が降り、同じ近畿地方でもかなり天候の違う場所のイメージが強い。今回も、みんな寒さに備えて重装備をし、むろん傘や合羽もリュックに詰めてきた。しかし、空一面に青空が広がり、柔らかな日差しの中、風もなく絶好のウオーキング日和となった。澄み切った空気が、舞鶴湾一帯の風景を見事なものにしてくれていた。


この東湾は、かつては軍関係の諸施設がおかれ、軍都として栄えた名残りで、今でも遠くに軍艦のような船も見えたし、海上自衛隊もあり、「海軍ゆかりのみなとめぐり遊覧船」というのも出ていた。今は軍関係施設は民間の工場に転用されて、造船、車両、板ガラス、繊維などの工場が並んでいたが、かつての「軍都」などといわれても、昭和24年生まれの団塊世代の自分にはわからないはずだが、でも、何となくそういう雰囲気が漂っているような気はした。それにしても美しい海の風景だった。

 

 

 


途中、待機していたマイクロバスに乗り、次は西舞鶴の方向へ行き、道の駅で降ろしてもらい、そこから今度は城下町として栄えた西舞鶴の街並みを散策した。先ほどの広々とした元軍港の光景から一転して、古都の街並みのような風情のある道を歩いた。赤れんが博物館へ行き(庭で休憩しただけで入っていません)、そのあと、田辺城址まで歩いた。お城はないが、面影は残っていた。


敷地に立っていた説明パネルによると、田辺城は舞鶴城とも称され、16世紀、織田信長から丹後国をあてがわれた細川幽斎とその子・忠興によって築城された。その後、細川氏の後を受け、京極氏、牧野氏が城の拡張、改修をおこなったとのことである。


小さな資料館の中に入ると、細川幽斎の坐像があり、諸々の資料が展示されていた。細川幽斎といえば、その子・忠興は明智光秀の娘の玉を妻にした戦国武将である。本能寺の変のあと、明智光秀から味方についてくれと頼まれたが、忠興は父とともにきっぱりと断り、妻の玉(洗礼名・細川ガラシャ)の悲劇はそこから始まった。その細川親子が、この舞鶴に築城したのが田辺城だったという。


田辺城址の周囲はきれいに整備された公園になっており、母子連れが数組、ブランコや滑り台で遊んでいた。今は平和な世の中で本当によかったです。



  
     田辺城址

 


時計を見ると間もなく午後1時になろうとしていた。
「あぁ、腹が減ったなぁ」
「早くビール飲みたいなぁ」
という声がチラホラと聞こえ始める。


「では、皆さん。これから料亭へ案内します。すでにそこへ下見に来ていますが、素敵なおかみさんがおられる料亭です。お楽しみに!」


しかし会長のその言葉を信用するものは誰もいなかった。前回、比叡山を歩いた帰り、坂本駅の「料亭」を予約しているという触れ込みだったが、行ってみると小さなお好み焼き屋さんであった。だいたい、この会はそういう会なのである。場末の小さな食堂で手を叩くのが慣例なのだ。またそれが、このメンバーによく似合っているしね~


JR西舞鶴駅に近い商店街の一角に「料亭」はあった。「ごめん!」と暖簾をくぐって入ると、狭いスペースに細長いテーブルが並べられてあり、そこへ向かい合わせでぎっしりと椅子が並べられている。入り口に近いところから、奥の壁まで、いっぱいいっぱいである。そこへ鍋が4つ置かれていた。店にはあとはカウンタがあるだけで、そこで一人、ご老人がビールを飲みながらテレビを見ておられた。10人ちょっとのお客が入れる程度のお店である。


「とりあえず、ビールちょ~だい」と世話役が叫ぶ。は~い、とビンビールをどんどん運んできたのは、とても美人のお姉さんであった。う~ん、会長が口走っていた「素敵なおかみさん」と言ったのも、まんざらウソではなかったようだ。そのお姉さんの言葉遣いがまたよかった。「4つの鍋は、みんな違う味付けになっとるで、よろしく~」。それを受けてみんなが、「これは何の鍋?」「こっちは~?」などと言うと、お姉さんはてきぱきと、「これはポンズになっとるし、こっちは塩鍋になっとるで、間違わんように」と説明をされたのである。


若くてきれいな女性が「なっとるで(なっていますので…の意)」と歯切れよく応えてくれ、動作もてきぱきしていたので、場の雰囲気は一層盛り上がる。ではでは乾杯~! の声とともに、グイっと飲み干すビールの味は、もう、これは、いつものことながら、たまりませんでしたね~。


そこで約2時間、酒の神バッカスの信者たちの宴会が続いた。例によってタガが外れたようにくつろぎ、笑い転げ、飲んでしゃべって食べて、ダジャレを連発し、それをまた突っ込んで…と、それぞれの得意分野の能力を遺憾なく発揮し、早朝から今まで溜まっていたものをウダウダと晴らしたのである。もっとも…何が溜まっていたのか、よくわかりませんけど…

 

 


 

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比叡山・延暦寺 半日回峰!

2013年10月21日 | ウォーク・自転車


先日、歩く会の「日本ウダウダ会」で比叡山・延暦寺へ行った。


「日本ウダウダ会」もメンバーが増えて、15人になった。6、7人で近畿の山々や野辺を歩いていた頃からみると倍以上の人数に増えた。人格高潔にして慈愛に満ち、大酒を飲んでウダウダ言う…というたぐい稀なる人物だけが会員となれる「狭き門」ではあるが、その門がどんどん突破され、会員が増える一方であるのはまことに慶賀すべきことである。この勢いではやがて「維新の会」も凌ぐのではないか、とまことしやかに囁かれているほどである(ウソつけ!)。


また今回は、現役で公職に就かれている女性の方の姿もあった。その方とは以前から仲良しだったけれど、ここ1、2年はご無沙汰していた。前回、僕は体調が悪く欠席したが、この方はその時から参加し、今回が2度目。ウダウダ会では僕と初めて一緒になった。その方はウダウダ会についてこんな感想を漏らした。


「のんちゃん(…と、僕のことをこう呼んでくれる)、この会は酒盛りだけの会かと思ってたら、山登りとかするんやね~。私、びっくりしたわ」


なるほど~。たしかに1時間だけ歩いて5時間ぐらい酒を飲むときもあるけれど(なんだ、それは?)、それはまあ、ごくたまに…のことである。いちおうウダウダ会は、野山も巡るし、崖っぷちも歩くし、シカやイノシシの死骸を横目に鬱蒼たる山中をうろついたりもする。酒盛りはそれが終わってからである。つまり歩く修行と酒の修行の両方ですね~(どちらが主かは想像にお任せ…です)。


さて、この日は14名の参加で、待ち合わせ場所からマイクロバスに乗って一路比叡山へ。登山口から登るのではなく、山の上の方までバスで行って、横川(よかわ)というところから西塔、東塔へと尾根歩きをしたのである。

 

 
   比叡山の尾根を歩く。


比叡山の延暦寺というと一つのお寺と思うかもしれないけれど(いや、一つの寺には違いないのだが)実際には横川、西塔、東塔の3つのエリアに分れており、それがさらに細かく分かれていて、お堂の数は数えきれないほどあるという。


この日僕たちが歩いた横川~西塔~東塔が、まあ最もポピュラーなコースには違いない。そこはあの千日回峰行でも通る道だ。千日回峰といえば、20数年前にテレビで紹介されて一躍有名になったわけだけれど、その時の行者であった酒井雄哉(ゆうさい)師が、先日亡くなられた。僕もウルトラマラソンなどに興味を持ちかけていた頃に千日回峰のテレビを見て、こういう荒行が生身の人間にできるのか…と大変な衝撃を受けただけに、酒井師が亡くなられた記事を見て、思わず新聞の写真に向かって手を合わせたものだ。


横川から西塔へ歩く間に「玉体杉」という見晴らしのよいところへ出た。道端に大きな杉の木があり、説明の立て札があった。それによると、千日回峰の行者はここで止まって、京都の御所に向かい、玉体加持(天皇のご安泰をお祈りする)をするそうである。同時に、ここが行者の唯一の休憩場所だという。

 

 
  「玉体杉」の立て札を読む。



眼下に京都の街が見える。少し曇っていたが、うっすらと御所の緑が見えた。御所は、僕が生まれ育った場所の近くにあり、幼児の頃、歩いて母によく連れられて遊びに行ったようで、御所の中で菓子袋を握って立っている写真もある。しかし最近は、もう何年も、御所には行っていないなぁ。


また歩き続けると、やがて尾根道からやや広い道になり、西塔の釈迦堂へ出た。立派な建物である。ここでしばらく休憩し、また歩き始めると、読経らしき声が響いてきた。傍らに「ただいま常行堂・法華堂において修行中ですので、お静かにお願いいたします」との大きな看板が立っていた。何か、別世界に来たような感じだった。

 

  
    釈迦堂。

 

  
   修行中です。お静かに…

 


東塔が近づくと人の数も多くなる。東塔の本堂は根本中堂だ。そこへ来ると、これまでの道中がウソのように観光客で賑わっていた。むろん、皆さん、車に乗って来られているのである。まあ「比叡山の延暦寺へ行こうか」といえば、たいていこの場所を指している。僕もかつて息子と車で来たのはこの根本中堂だった。当時、延暦寺といえば、このお寺だけを指すのだと思っていたもんね。

 

   
    根本中堂に到着。 この日の「修行」は終わり~

 


千日回峰ならぬ「半日回峰」をしたあと、ウダウダ会一行はぞろぞろと根本中堂の駐車場へ行った。そこで横川で降りたマイクロバスが待ってくれていた。時計は12時過ぎ。「あぁ、お腹が減ったなぁ」とみんながつぶやく時間である。


ひと月ほど前に会長から送られてきた今回の案内には、「登山中の食事は不要にしておいてください。おやつ程度まで」と書かれていた。昼過ぎにはバスでJR坂本駅の前へ着く。そこの「料亭」を予約しているから、弁当は持ってこなくてよい…ということであった。さあ、これから「料亭」でビールを飲んで、ご馳走を食べるのだ。待ってましたぁ! の瞬間が迫ってきた。


全員が乗り込んだバスは、スイスイと道路を下って行った。JR坂本駅が見えてきた。「料亭はどこですかいな?」とみんなで言っているうちに、バスは止まり、ゆっくりバックし始めて、一件の店の前に横付けした。


「はい皆さん、本日はお疲れ様でした。お待ちかねの料亭に着きましたよ」


と会長のあいさつを受け、みんな貴重品だけを持ってバスを降りた。「料亭」にしては小さな店だった。いや、あまりに小さすぎる店だ。そして…

入り口にかかっていた暖簾には「お好み焼き」と書かれていた。 じぇじぇじぇ~ 

 

 

 

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鳴門海峡春景色

2013年04月25日 | ウォーク・自転車

  ~ ウダウダ会、鳴門へ ~

 

先週の中ごろ、午後から突如クシャミが出て止まらなくなった。僕は元々アレルギー性鼻炎で、2年前の3月に鼻が詰まり、ひと月ほどクシャミが出続けて収まらなかった時、初めてアレルギーの検査を受けた。すると医師が「これほど高いとは…」と驚くほど高い数値を示すほどのアレルギー体質だったことがわかった。そのうえ、それまで縁のなかった花粉症までも指摘された。


あれから2年。去年はそうでもなかったが、今年、またその症状が出たようだ。翌々日には8度近い熱まで出た。アレルギー性鼻炎に鼻風邪まで重なるという好ましくない状態を抱えながら、21日の日曜日には「日本ウダウダ会」の定期ハイキングに出向いたのである。


今回のウダウダ会の行く先は、淡路島と徳島県鳴門市の間にある鳴門海峡だった。そこの名物「うずしお」を眺めつつ、酒を飲むのが今回の目的であったが、まず歩くコースが設定されていた。それが2~3時間ぐらいの距離だということだったので、その程度なら大丈夫だろうと思って参加したのである。


ウダウダ会も徐々にメンバーが増えてきて、この日の参加者は13名であった。これまでは、フルメンバーで11人だったけれど、今回3名の「新人」が参加した。ひとり前市長さんのみ欠席だったが、それでも13名が集まったのである。これぐらいの人数になると、バスをチャーターして行く方が安くて楽チンだということで、行き帰りはずっとバスに揺られっぱなしであった。


 

 
       スタートはJRの鳴門駅


ということで、バスが神戸淡路鳴門自動車道の大鳴門橋を渡り始めたとき、眼下に大きく渦巻く「うずしお」が見えた。そしてJR鳴門駅までバスに乗って行った。そこから僕たちは、主に海沿いの道を歩いて大鳴門橋まで戻るコースを歩き始めたのである。


最初は街の中の平坦な道を歩いて行った。鼻炎と風邪とで、3日間ほど外出しなかったせいか体は重かったが、ウダウダ仲間と交わす口は軽かった(笑)。

 

 

 


鳴門海峡へ向かって歩いていると、道が途切れ、目の前に海が広がった。つまりここは、渡し船で向こう岸まで行かなければならないのだ。船の本数がきわめて少なかったが、それほど待たなくて済んだのは幸いだった。

 

 
   渡船の待合所。船は無料だった。


一行が船に乗り込んだところへ、ひとり暗い表情で自転車を引いて乗ってきた男性がいた。自転車を見ると黙っていられない僕はその男性に「どちらへ行かれるのですか…?」と尋ねた。しかし男性はムッとした表情でしばらく沈黙の後、「ムニャムニャ、ペニャポニャ、ムニャ~」…と、何かを言って、プイと横を向いた。すみません。外国の方だったんですね。たぶん、「わしゃ日本語わからんのじゃ。話しかけんといてくれ」と言われたのではないかと推測するばかりです。

  
   
 

 
  渡し舟に乗り込むウダウダ会の一行。



さて、僕たちが船に乗り込んだのは岡崎というところで、下船した向こう岸は土佐泊というところだった。僕たちは土佐泊の村の中を歩き、やがて海沿いの道に出た。ウダウダの面々は砂浜に降りて、波打ち際を歩き始めた。はるかかなたに大鳴門橋を望む美しい景色である。


しかし…


強い風がまともに前から吹き付けてくる。風とともに白い砂が混じってこちらへ襲いかかってくるので、砂が目に入る。風が強くて、なかなか前に進めない。おまけに僕は体調を崩しているので、体に力が入らない。足元は砂浜なので一歩一歩右足と左足を代わる代わる前に進めるのが大変つらい。いつもはウダウダ会でも健脚を誇る(?)僕だけれど、今回は本当につらかった。風と砂の抵抗を受けながら懸命に歩くのだが、仲間たちはどんどん遠く離れて行く。ようやく浜辺の道から堤防へ上がって、ちょっとした休憩所のような場所で待っていてくれたみんなと合流したときは、もうフラフラになっていた。

 

 
  風邪気味の体でこのコースはきつかった。
  メンバーは徐々に豆粒のように小さくなって行く。
  右のほうに大鳴門橋が見える。景色は最高だったのだが…


 

バスが待っている場所はまだ先であったが、メンバーはその場所でレジャーシートを敷いてそろそろ「くつろぎ態勢」に入っていた。もうここで宴会をしよう…という声も多く、僕などは真っ先にその意見に賛成した。


これ以上歩けない。あとは酒を飲んで気勢だけでも上げなければ、ここまで来た甲斐がない…な~んて言いながら、メンバーの一人がリュックに入れていた日本酒をみんなで飲み、そのうち、連絡を受けたバスが近くまで来てくれて、積み込んでいた缶ビールやチューハイ、それにアテなどの食べ物がレジャーシートにばらまかれ、ここで大宴会となったのである。(あぁ、また酔った~)


おかげで翌22日は、二日酔いと鼻炎と風邪の三重苦に、四苦八苦した。

 


 

 

 

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ウダウダ会 早春の丹波路

2013年02月27日 | ウォーク・自転車


今回のウダウダ会は「早春の丹波路」を歩き回った。

場所は兵庫県の篠山市周辺である。篠山といえば、初めてフルマラソンに参加して完走したのが篠山マラソンだった。…懐かしいなぁ。

さて、事前に会長さんが送ってくれた案内状に同封されていたハイキングマップには…

「ぶらり丹波路ハイキング。丹波焼の里こんだ、懐かしの風景と器のぬくもり探訪コース」…とあった。「こんだ」というのは「今田」と書く。「いまた」ではなく「こんだ」と読むのだそうだ。

地図で見るコースはだいたい平坦で、険しい山道に迷い込んだりする心配は、今回はなさそうである。ウダウダ会は、よく道に迷うんだもんね。

2月24日(日)。善良なる人々から選び抜かれた善良中の善良(?)10名が、大阪近鉄あべの橋改札前へ集結し、「ほな、行きまひょか」とJR環状線で京橋まで行って、そこから福知山方面行きの普通列車に乗り込んだ。

大阪には青空が広がっていた。絶好のハイキング日和である。「ええ天気で、よかったなぁ」と、前市長のタカちゃんが空を見上げて言った。ウダウダ会では「豪雨決行」がうたい文句でもあるゆえ、雨であろうが嵐であろうが、そういう「しゃらくさい」ものにはお構いなく行くので、元々雨が大嫌いな僕などはいつも天候が気になるのだ。でも、今日は天気の心配のない快調なスタートだった。

ところが…

各駅停車に揺られて内陸部の丹波篠山方面に向かっていると、晴れていた空が曇りはじめ、その雲はどんどん分厚くなって暗雲と化し、やがてチラチラと雪が舞い出すと、窓の外はすっかりと雪景色になり、草野という無人駅で列車を降りた頃には一面が雪に覆われ、舞い散る粉雪が目に入って痛いくらいだった。

暦の上では「早春」とはいえ、現実は厳しい。

 

 

  
      雪のJR草野駅に降りて…

 

大阪に住んでいると、雪にはほとんど無縁である。数センチでも積もる雪が降るのは、何年かに一度であり、わが家のモミィはいつもテレビニュースで雪景色が映し出されると、なんで自分たちのところには雪が積もらないのか…と不満げに言っているぐらいだ。

だから僕も、雪が目の中に飛び込んで来るような経験は滅多にない。

「えらい雪やなぁ…」と、それぞれが出鼻をくじかれた恰好で、雪の中を歩き出した。

メンバーの一人のハラちゃんが傘を差すと、会長さんが「そんなビンボーくさいこと、やめとき」と顔をしかめて見せた。するとハラちゃんはニタ~ッと笑い「この頭に直接雪がかかりますねん。冷たいですがな」と、ツルリと自分の頭をなでた。ハラちゃんは帽子を被らない人であり、また毛髪が滅びつつある人でもあるので、雪が頭皮を直撃するとそれだけ他の人よりも「冷た~い!」ということなのだ。

と言いながらも、雪は小降りになり、やがて止んだ。日も差してきた。足元が雪ですべりそうなので、そこに注意しながら、あとはいつものウダウダ会の雰囲気が戻ってきた。

メンバーの中には、事前に送られてきた地図や資料をロクに読みもせず、自分がどこへ行くのかほとんどわからない人間もいる。かく言う僕もその一人である。

「…で、これから、どこへ行きまんねん?」と僕たち無頓着組。
「資料、送ってるやろ。読んでへんのか?」と世話人のモトさん。

毎回、たいていこんな調子である。

特にクラちゃんのように、行くときに奥さんから「今日はどこへ行くの…?」と聞かれても「さあ…? 7時×分に〇〇駅に集合や。それしか知らん」と言い、帰ってきて奥さんに「どこへ行ってきたの…?」と聞かれたら、「え~っと、電車に乗って、どこぞで降りて、歩いて来た」しか言わない人もいる。前回行った平城京めぐりのことも、クラちゃんは「この前の平安京では沢山歩いたなぁ」と言った。しかしこの場合「平城京」を「平安京」と一字間違えただけというのは、クラちゃんとしてはきわめて優秀だと言わなければならない。

さて…

雪も止み、日も照り出してまぶしくなった野辺の路をテクテクテク。

 

  

 

最初に行ったのは、和田寺(わでんじ)という、この辺では有名だというお寺である。僕たちの喧騒を聞きつけたか、お寺の中から女性が飛び出してきて、「これはこれは、こんな大変なお天気のときによくお越しくださいました」と、この周辺のハイキングマップと、和田寺のパンフレットを配ってくれた。

そのあと、ほとんど舗装され、車も通るごく普通の道を歩いて行くと、あちらにも、こちらにも「窯元」という看板が見え始めた。

 


  

 

       ↑ 和田寺(わでんじ)

 

       道端にはあちらこちらに窯元の看板が… ↓    

 

 

 

  

 

 

この周辺一帯が「丹波焼の郷」と呼ばれるところである。案内チラシによると、丹波焼は、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前とともにに「日本六古窯(ろくこよう)の一つ」に数えられているという。

昼近くまでテクテク歩くと、本日の目的地である丹波伝統工芸公園「立杭陶(すえ)の郷」というところに着いた。丹波焼きを見たり、体験したり、購入したりする総合施設ということだ。↓

http://kitakinki.gr.jp/modules/spot/index.php?sid=40


時間は12時を過ぎていた。みんな空腹である。丹波焼よりも、すき焼、たこ焼、お好み焼きが恋しい。

施設内に獅子銀というレストランがあったので、そこへ直行した。

「とりあえず生ビールを10人分持ってきてチョーダイ」

…とまず、モトさんの第一声。しかし運ばれてきた生ビールは、ジョッキーの3分の1近くが泡であり、中身が少ない。これにはガッカリである。特にこういうことにうるさい「毎日が二日酔い」のエノさんは、「こんな入れ方、あきまへんなぁ」と残念そうな口調。すると隣にいたクラちゃんが「なにせ一度に10杯も頼んだから、店の人もアワててジョッキーに注いで、それでアワだらけになったんとちゃう…?」とダジャレを飛ばし、一同、ガハハハ~と笑ってアワだらけのビールをグイ~と飲み干した。ウダウダ会は、無邪気である。

食べるものは…といえば、ここは丹波であり、猪肉が名物である。しかし昼からシシ鍋みたいなものを食べるとここで宴会が始まってしまう。「何かカンタンなものないの…?」と聞けば、ジャンボなうどんがお勧めだと店の人が言ったので、言われるまま「こんだうどん」つまりここの地名「今田」をとった名前のうどんを注文した。運ばれてきたのはでかい鉢に大量のうどん、そして切らずにそのままの形の大きさの揚げが、2枚入っていた。

アワばっかりの生ビールと「こんだうどん」をお腹に詰め込み、丹波焼の作品を眺め、30分ほど館内をうろついたあと、僕たちは再び歩き始めたのである。

篠山市から三田市に入った。

のどかな田園風景が広がる。時折、雪が舞い散って顔にぷちぷちと当たる。

相野という駅に着き、そこで本日のウオーキングは終了した。

万歩計を持っているメンバーによると、今日歩いたのは2万2千~3千歩だとのこと。万歩計などつけたことのない僕は、それが何キロくらいあるのか、さっぱり見当がつかない。前回の平城宮を歩いたときは、誰かが3万歩だと言っていたので、それよりも今回は短かったようである。

また1時間、列車に揺られて大阪へ着き、環状線で天王寺まで戻って、「あべのキューズモール」というショッピングセンターの4階に足を運んだ。ここにある主に魚料理が美味しいと言われる店に入ったのである。いよいよお楽しみの大宴会がはじまるのだ。むふふ~。

 

  
     あべのキューズモール(資料写真)
  

ところで、その近くでは異様な雰囲気が漂っていた。野外ステージのようなものがあり、そこに若者たちがわんさと押しかけて、ギュウギュウ詰めになりながらキャアキャアと騒いでいる。僕はいったん入った店から出て、4階の柵からその光景を見下ろし、どんな有名人が来ているのかと身を乗り出した。

ガードマンがあちらこちらに立っていたので、その一人に「誰が来ているの?」と尋ねたら、「イーガールズです」との返事であった。

イーガールズ…??? 知らんなぁ。

…と、そのうちに、そのイーガールズが姿を現したらしく、観客群は悲鳴に近い歓声を挙げ始めた。ものすごい地響きのような大歓声である。しかし、僕の場所からは、観衆しか見えず、イーガールズとやらは、「はーい、みなさん!」という声が聞こえるだけで姿は見えないままである。

仕方なく店の中に戻ったら、もうメンバーはみんな席について「何してたん?」と僕に聞いた。「そこにイーガールズというのが来ているらしくて、ファンが沢山集まってますわ」と僕が言うと、「イーガールズ?」…と、全員がポカンとした。つまり、誰もその名を知らなかった。

「なんやねん、そのイーガールズて…?」みんなが口々に言うので、注文を取りに来たお店の若いお姉さんに「イーガールズって何?」と聞いた。お姉さんは、

「あ、イーガールズ(←E-girls)ですか…?」と言いながら、「う~ん、そのぉ、エグザイル(←EXILE)の妹分のような…女の子たちのグループなんですけど、今日はそのキャンペーンに来ているんですよね」

…と、説明してくれた。 →  http://e-girls-ldh.jp/


「ふ~ん。ぜんぜん知らんわ。だいたい、エグザイルて、なんやねん?」

…と、こういうふうな会話がひとしきり交わされたあと、

「まあ、そんなことはええがな。…ではみなさん、今日はお疲れさまでした。かんぱ~い!」と言う声に、がぜん活気づくウダウダ会の面々だった。

…早春の丹波路と陶の郷を散策したあと、新鮮な魚介や唐揚げなどをアテにいただくビール、日本酒、焼酎は、まことに至福の味わいでありました。

 

 

 

 

 

 

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ウダウダ・奈良巡礼記

2012年12月29日 | ウォーク・自転車

23日(日)、日本ウダウダ会の面々が寄り集まって今年最後の「歩こう会」を決行した。今回の行く先は、奈良の西寄りにある西大寺、平城宮跡、法華寺、唐招提寺、薬師寺などを巡るという、まことに知性と教養が溢れ出て、ぐしょぐしょになるかと思われるほどの行程であった。 

     

 

 

僕は、これらのお寺や遺構は、チラリと見たことはあってもゆっくり訪れたことはなかったので、今回のウォーキングは大いに楽しみだった。おまけに前日は雨模様だった天気も、この日はすっきりと晴れて快適なコンディションとなった。


今回の出席者9名、近鉄線の大阪難波駅に集合し、奈良線に乗って西大寺駅で降りた。本日のスタートは、まず駅名にもなっている西大寺だったけれど、僕らにとってはお寺より駅名、あるいは地名としてのほうが西大寺は有名だった。それどころか西大寺というお寺そのものがあることにすら気付かなかった始末だ。そんなことをしゃべっていると、「ウダウダの阿闍梨(あじゃり)様」と呼ばれるFさんが、「東の東大寺に対する西の西大寺や。東大寺を建てた聖武天皇の娘のナントカ天皇が西大寺を建てはったんや」と、解説をしてくれた。「な~るほど」と一同、深く納得。



 
   西大寺

 

西大寺の次は平城宮跡へ向かった。

2年前の2010年(平成22年)に平城遷都1300年を迎え、奈良市全域において数々の記念事業が行われたのは記憶に新しい。そのメイン会場になったのがこの平城宮であった。地上の構造物はないけれど、地下の遺構は良好な状態で保存されているという。しかしまぁ、この発掘というのがひどく大変な作業なんですよね。

 

 
   朱雀門

  

   

     平城宮中心部の配置図


それにしても広い。東西が約1.3km、南北が約1kmにも及ぶという。僕たちはその南門である朱雀門へまず行った。この朱雀門は1998年に復元されたもので、色鮮やかであった。門の前にボランティアの解説員さんがおられ、いろいろと説明をしてくれた。「平城宮というのは、いわばお役所です」「ここを囲む平城京に、そのお役人たちは住んでいました」などなど。

朱雀門でひとしきり説明を受けた僕たちは、そこから、真正面に小さく見えていた第一次大極殿の方へ歩いて行った。こちらは2年前の遷都1300年の時に復元されたというから、これまたピカピカの建物である。

 

 
   第一次大極殿へ向かうウダウダ仲間たち



 そのあと、遺構展示館に入り、そこにもまたボランティア解説員の方がおられたので、詳しいお話を聞かせてもらった。

平城宮の見学には思いのほか、長い時間がかかった。とにかく広いところだから、中を歩くだけでも相当かかる。そのあと、法華寺へ行き、お参りだけして出た。「尼寺」と門のところに書かれてあった。



 
   法華寺


 

お昼を過ぎたので道端の食堂で昼食をとり、次のコースである唐招提寺と薬師寺に向かった。

  ………………………………………………………………………………

僕の好きな作家の一人、五木寛之氏に「百寺巡礼」という著書がある。10年前に、当時70歳だった五木氏が2年間で日本全国100の寺を巡る旅をしたときの記録で、1冊に10箇所のお寺が掲載され、全10巻のライフワークとなっている。(ちなみに五木寛之氏と「暴走老人」こと石原慎太郎氏は、生年月日がまったく同じである。分野は違うがお2人とも80歳で、実にお元気なことである)

さてその「百寺巡礼」の第一巻が「奈良」である。そこに、唐招提寺も薬師寺も載っている。

僕たちはまず唐招提寺へ行った。ここは鑑真和上のお寺である。

高校生の頃、井上靖の「天平の甍」を読み、唐から何度も日本への渡航を試みるが暴風に妨げられて挫折を繰り返し、しかも失明までして、それでもついに来日を果たす鑑真の物語は今も忘れ得ない読書体験として心の中に刻まれている。その鑑真が奈良に来たのちに建立したのが唐招提寺だった。


 

 
  唐招提寺の奥にある鑑真和上の墓所



五木寛之氏は「百寺巡礼」の中でこう記している。

「唐招提寺は私が大好きな寺の一つだ。これまでも何度か訪れたことがあるが、境内の自然の美しさや堂宇の魅力とともに、独特の風格のようなものを感じさせるお寺だ」

そして、お寺の中を奥へ歩いて行くと、広くて立派な鑑真和上の墓所がある。またその途中に、北原白秋の歌碑もあった。五木寛之氏はこの本で、白秋についても詳しく書いている。白秋は、唐招提寺を訪れて数多くの歌を詠んだという。

白秋は晩年、病気と失明の危機に襲われ、残り少ない自分の人生と向き合いながら創作への努力を続けるのだが、その支えとなったのが、唐招提寺で出会った両目を閉じた鑑真の像だったそうだ。

白秋の歌碑は、

水楢(なら)の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ

というものであった。

 


 
  北原白秋の歌碑



唐招提寺といえば、まず金堂が有名である。お寺の入り口でもらったパンフレットにはこう書かれている。

南大門を入り、参道の玉砂利を踏み締めて進むと、誰もが眼前に迫る金堂の威容に圧倒されます。豊かな量感と簡素な美しさを兼ね備えた天平様式、正面に並ぶ八本のエンタシス列柱の吹き放ちは、遠くギリシャの神殿建築技法がシルクロードを越え、日本まで伝来したかのように感じさせます。


 
  唐招提寺金堂


ところで五木寛之氏の「百寺巡礼」では、唐招提寺拝観の中心でもあるこの金堂が解体大修理の最中で、「南大門に立つと見えるはずの金堂の代わりに、巨大な銀色の建物が目に飛び込んでくる。まるでジャンボジェット機の格納庫のようだ。金堂はすっぽりその建物に覆われている」と描写されていた。

これは唐招提寺が建って1200年ぶりの大修理だったという。「百寺巡礼」は今から10年前のことだから、その中で五木氏は「すべての解体修理が終り、金堂が私たちの前にふたたび美しい姿を現すのは平成21年の予定である」と書かれていた。あぁ、よかった。今日は当然のように見えている金堂も、数年前までは見られなかったわけで、これはなかなか幸運だった。

…とそこまではよかったのだが、このあと、薬師寺へ行って、今度はこれと正反対の現象に出くわすことになるとは…

薬師寺の魅力は2つの塔である…と五木氏は書いている。「この光景を見ると、薬師寺に来たという感じがする。2つの塔のコントラストと調和が、この寺のいちばんの見どころかもしれない」

この時は「新しく華麗な西塔と、古びて貫禄のある東塔」という描写がされていたけれど、なんとまあ、僕らが薬師寺にむかって歩いている途中で、前方にその塔の風景が見えてきた時、塔はひとつだけで、もうひとつは「巨大な銀色の建物」にすっぽりと覆われていたのである。どうやら、「百寺巡礼」で書かれていた「古びて貫禄のある東塔」が、ただいま修理中なのであった。とほほ。


 

  
   薬師寺の前。見えるのは西塔だけ…

 

薬師寺の前まで行ったものの塔が工事中では弾む心もしぼんでしまい、中に入るのは次の機会にしようということになった。ただ、薬師寺といえば必ずといっていいほど出てくる写真が、大きな池からの美しい遠望である。仲間のSさんが「池の向こう側からぜひ薬師寺の姿を見たい」と言うのでそれに付き合うことにした。道に迷いながら、かなり歩き、ようやくその池の対岸にたどり着いた。そこにはパンフレット等に載っているとおりの薬師寺の遠望があった。

しかし…


 
  本来の薬師寺の遠望(資料写真より)。

           ↓


  
  
ところが、今はこうである。なんだかねぇ…


やっぱりこれではどうしようもない。
「東塔が修復されたらもう一度、この場所に来よう」
その言葉を最後に、僕たちは帰途についた。

で、いつ東塔の工事が完成するのかというと…2018年だという。

…忘れてしまいそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ウダウダ会と耳鳴りと

2012年11月17日 | ウォーク・自転車


モミィのキックベースの応援に河内長野まで自転車で行った翌日は、

仲間と和歌山県の生石(おいし)高原というところへ山歩きに出かけた。

僕たちの山歩きのグループは「日本ウダウダ会」という。

椎名誠ふうに言えば 「わしらはあやしいウダウダ会」 って感じだけど。

ウダウダ会でのウオーキングの話はこのブログでも何度か書いた。
ひとつ例をあげると… 

http://blog.goo.ne.jp/non-ap/e/6571ded61dac04700d9b89342ea68f0a


…というようなものです。

で、今回はススキが生い茂る和歌山県の生石高原へ行ったのである。

ウダウダ会は野山を歩き回ったあと、必ず酒盛りをする。
…というか、最初からそれが目当てなのであるが。

この生石高原は、車でほぼ頂上まで登れる道があるというので、
歩かずに 「そこまで車で行ってしまえ~」 ということになった。

総勢11人が、2台の車でほぼ頂上まで上がり、見事なススキの群生と、
山々の壮大な風景を満喫したあと、その場で弁当を広げ、酒を飲んだ。

運転役の2人はいずれも酒好きであったが、むろんその場では禁酒だ。
なにせ前の市長・副市長や現市議会議員たちがメンバーの中枢である。
ウダウダ会などという名はついているが、僕を除き、謹厳実直の人が多い。


 
  こういう場所で弁当を広げ、酒を飲むと、天下を取ったような気分である(笑)


酒を飲んだ後、しばらく歩いた。

途中、道の横の渓流で、猟師たちが、今撃ち殺したばかりの2頭のイノシシの、
内臓をとり出して大きなバケツに入れ、川の水でジャブジャブと洗っていた。
その横に、お腹をザックリとえぐり取られたイノシシの死骸が転がっていた。

こんな光景を見るのは 「都会生まれの都会育ち」(?) の僕は初めてである。
しばらく立ち止まり、猟師たちの慣れた手つきを、息を呑んで見つめた。



 
   2頭のイノシシの内臓を取り出し、渓流で洗う猟師の人たち。


1時間ほど歩いただろうか。
駐車場に戻って来た僕たちは、ドカドカ~っと車に乗り込んだ。
あとは大阪へ帰り、予約している店へ行き本格的に酒を飲むだけだ。

帰り道、細く険しい山道を下って行くと、対向車が上ってきた。
車1台通るのがギリギリの細い道で、しかも一方は崖である。
ひとつ運転を誤れば奈落の底へ転落する恐ろしい道だ。
助手席にいた僕はぞ~っとして、酒の酔いも醒めた。
相手の車がよろよろとバックして行く。 危なっかしい運転だ。

両者がすれ違える場所まで来るのに、かなりの時間を要した。

そんなことで、長い間、車に揺られながら大阪へ戻り、
レンタカーを返して3台のタクシーに分乗し、お店へ…

お待ちかねの宴会本番がはじまった。

 ………………………………………………………………………

…とまあ、今月初旬の楽しかった日のことを書いたわけだが、
それから数日経って、心身に、思いも寄らぬ異変が起きた。

耳鳴りの音が、びっくりするほど大きくなってきたのだ。
「キーン」 という鋭い音が脳の中から噴出してくる感じである。

これには参った。
5年間、耳鳴りに耐えてきて、ようやく慣れてきたかな~と思ったのに。

そのせいか気分が塞ぎ、このブログも10日間ほど休んでしまった。

なんとか気を紛らわせようと、改めて生活改善に取り組もうとした…
…けれど、むしろ悶え苦しんでいたという表現に近い10日間だった。

今もそれは続いているけれど、少~しばかり落ち着いたかな…と思う。
しかし耳鳴りの音がマシになってきたわけではない。 
「仕方ない。どうにもならないんだから…」
諦めの気持ちしか湧いてこない。

まったくねぇ。
こんなことに煩わされないだけの「耳鳴り経験」を積んできたはずなのに…

困ったもんだわ、ほんとに。 …ぶつぶつ。

 

 

 

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自転車も走れば友に当たる

2012年11月07日 | ウォーク・自転車

僕が住んでいる近くに20数キロ続く川沿いサイクルロードの起点となる場所がある。
距離表示もあり、自転車と歩行者しか通れないコースなので、ジョギングに最適だ。
もう30年ほど前から、マラソンの練習で長距離を走る時、このコースを使ってきた。
終点までがちょうどハーフマラソンの距離で、往復してフルマラソンの距離になる。

僕たちはここを、石川サイクルロードと呼んでいるけれど、
大阪・南河内サイクルラインとも呼ばれているようである。

http://homepage3.nifty.com/itsuji/tabi-1.htm


10年くらい前までは、練習でフルマラソンの距離を走ったりしていたけれど、

今はさすがにそんな元気はなく、終点の河内長野まで行くことはなくなった。

11月3日の祝日、モミィのキックベースの試合会場がその河内長野だった。

早朝、モミィを集合場所の小学校前に送って行き、大人の人たちに、
「僕はあとから試合の応援に行きますので、よろしくお願いします」
と言って、モミィたちが乗った車を見送った。

久しぶりにサイクルラインを通って河内長野まで自転車で行くことにしたのだ。

モミィの試合会場は、サイクルラインの終点よりまだ先にあり、
距離にすれば25キロ足らずという程度である。往復で50キロ弱。 
まあ、それくらいなら自転車で大丈夫だろう。

いったん家に帰って、リュックを背負い、自転車に乗ってまた家を出た。

久しぶりに走るサイクルラインは、祝日ということもあって、
歩く人、走る人、自転車で走る人たちの姿が多く見られた。

そして4・5キロ行ったところで、向こうからランニングをしてくる男性が目についた。
黒いジャージの上下姿でサングラスをかけ、軽快な足取りでこちらに向かって来る。
すれ違う直前、お互いに顔を見合わせて「あっ」と声を出した。
「あ、のんさん!」
「お~、北〇ちゃん!」
僕の元職場の後輩に当たる北〇君だった。
彼は今も現役で仕事をしている。
つい先日も、2人でお酒を飲んだ親しい間柄である。

かつて職場でランナーズという同好会を作り、そこで長年一緒に走ってきた。

北〇君はマラソンでかなりの実力者であり、別大マラソンにも出場して、
2時間30分台という市民ランナーとしてトップクラスの記録も持っている。

その北〇君と、その場で10分間ほど、あれやこれやの立ち話をした。

今月中に、昔のランナーズの仲間を集めて飲み会をしよう…
そんなことまで決めて、僕たちは反対方向に別れて行った。

やはりこういうコースに出ると、ランニング仲間と出会うもんだな~
と、何となく気分も高揚し始め、ペダルも軽くなってきた。

さらに5キロ余り走った時、前方に、一人の男性の走る姿が見えた。
後姿ではあるが、その体型と独特のランニングフォームを見て、
「もしや東〇君では…」と思い、自転車のスピードを上げた。

すぐ後ろまで追いついて斜め後方から見ると、やはり東〇君だった。
先ほど会った北〇君同様、元職場の後輩で、一緒に走る仲間だった。

自転車で「チーン」と鳴らすと、振り向いた東〇君は驚きと笑顔で、
「あれ? のんさん。 久しぶりですね。どこへ行かはるんですか…?」
と、汗で濡れた額をキラキラと光らせながら尋ねた。
「モミィのキックベースの試合が河内長野であるから、その応援に…」
「モミィちゃんはもう小学校に行ってるんですか…へぇ、早いですね」

自転車の速度を東〇君の走るペースに合わせた。

「…で、河内長野のどこでキックベースの試合があるんですか?」
と聞かれたので、
「赤〇運動広場というところであるみたい。初めて行く場所だけど」
と言ったら、東〇君は、
「あ、それは警察署のところを右折して坂道を上がって行くんですよね」
と走りながらも息ひとつ乱さず、そう言ったあと、
「それなら今日は僕も警察署のところまで一緒に行ってよろしいか?」
話しながら走ると楽しいので、もし時間がありましたらそうしたいです
…ということを言ったので、モミィの試合が何時からなのか知らないけれど、
どうせ丸1日かけて何試合もするのだろうから、別に急ぐ必要もない。
僕は「いいよ」と答えた。 ジョギングと自転車との併走である。

2人並んで進みながら、お互いの近況や、昔話に花を咲かせた。

東〇君とは、一緒に河口湖マラソンや茨城県の勝田マラソン、
香川県の小豆島マラソンなど、いろんなところに行っている。

それと、東〇君の弟さんが大工さんだったので、その弟さんに、
今の僕たちの家を建て替えてもらったこともあり、縁は深い。

1年以上会っていなかったので、積もる話は尽きなかった。

警察署まではかなり長い距離があったけれど、
話をしているうちに、サイクルラインの終点も過ぎ、
道路の歩道を2人で走りながら、やがて警察署まで来た。
「ここを右折してまっすぐ上がっていけば広場があります」
と、この辺の地理に詳しい東〇君が教えてくれた。

「じゃぁね。 あ、そうそう。さっき北〇君に会った時、11月中に、一度走る仲間が集まって飲み会をすることになっているので、また北〇君から連絡が行くと思うよ」

僕はそう言って、東〇君と別れた。

東〇君はUターンして、いま来た道を戻って行った。

僕は警察署を右折して運動広場に向かったけれど、

どこでどう間違ったのか、工業団地に迷い込んで、
なかなかその運動広場が見つからず、何人かの人に道を尋ねながら、
ようやくモミィたちのキックベース試合会場に到着できたのは11時だった。

10時前には着くはずだったけれど、まあそんなことで1時間以上遅くなった。
最後は急な上り坂だったので、ゼイゼイ息が切れてしまった。

広いグラウンドで、何組もキックベースの試合が同時に行われていた。
モミィのチームはどこだ~? 
…と目で追うと、見慣れたユニフォームが、観覧席に固まっているのが見えた。

そこへたどり着くと、選手のママたちが僕の姿を見て、
「あっ? お疲れさまで~す。 単車か何かで来られたのですか?」
と尋ねたので、「自転車です」と答えると、「えぇっ?」とびっくりされた。

子どもたちは、観覧席の上の方に座っており、モミィの姿も見えた。

「そうですかぁ。自転車でねぇ…。大変だったでしょう?」
そう言いながら、一人のママが冷たいお茶を運んできてくれた。
「ありがとうございます。…ところで、次の試合は何時からです?」
僕がそう聞いたとき、
「それがぁ…」
ママの顔が一瞬曇った。
「試合は、今終わったところなんです。負けちゃいました」

今日はトーナメント戦だが、いつもある敗者復活戦もないという。
つまり、今の試合に負けて、それでおしまい、ということである。
「じゃ、もう今日はこのあと、試合はないんですか…?」
「ええ、そういうことで、お昼のお弁当を食べたら帰ると思います」
つまり、今はお昼ご飯の時間が来るのを待っているだけの状態なんだ。

が~~~~ん

「じゃあ、僕はもう帰りますので」
と、皆さんに伝え、いま来たばかりの自転車置場に戻るのであった。

「大丈夫ですかぁ。 お気をつけて~」

後ろから、ママさんたちの心配そうな声が聞こえてきた。

でも…、モミィの試合は見られなかったけれど、
2人の友人に出会えたことは、大きな収穫だった。

やはり自転車でちょっと遠出してみるのも楽しいものだ。

その夜、巨人が日ハムを破り日本一になったことも嬉しかったけど…

 

 

 

 

 

 

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ウダウダ会 天野の里へ

2012年04月20日 | ウォーク・自転車

4月に入って最初の土曜日、わが日本ウダウダ会は、
高野山のふもと、天野の里 (和歌山県かつらぎ町) を歩いた。

日本ウダウダ会については今さら説明の必要はないだろう。
知る人は知っている。 たぶん、日本中で15人くらいだけど。

で、この天野の里であるが、いくらウダウダ会だからといっても、
ウダウダと拙文を並べるより、これを見ていただいたほうが早い。

http://www.katsuragi-kanko.jp/amanonosato.html


ここにも書かれているが、白州正子さんがその著書 「かくれ里」 で、

「天野の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原」 

と書き、さらに、

「ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑で
 うっとりするような山村を
 私は知らない」

「できることならここに隠居したい。
 桃源郷とは正にこういう所をいうのだろう」

…と、天野の里への感動ぶりを伝えている。

さて…
僕たち10名余りのウダウダ会一行は、電車を乗り継ぎ、

J R 和歌山線の笠田 (かせだ) という駅に降りた。

そこから、かつらぎ町のコミュニティバスに乗った。

乗客は僕たち一行のほか、年配の女性が1人だけであった。
「いつもこのバス、乗るのはほとんど私ひとりだけなんですよ」
と、女性が僕たちに話しかけてきた。
そして 「皆さん、どういう方々のお集まりなのですか?」
と尋ねたので、ウダウダ会で唯一の女性会員Aちゃんが、
「ウダウダですわ」 と笑顔で答えると、年配の女性は、
「あ、そうですか…」 と、なぜか納得の様子であった ???

バスはぐんぐんと山間部へ上って行き、30分足らずで、
「丹生都比売神社前」 という終点に到着した。

丹生都比売神社は 「にうつひめ神社」 と読む。
天照大御神 (あまてらすおおみかみ) の妹神である、
丹生都比売大神 (にうつひめおおかみ) を祀っている…
とのことである。

空海や高野山との関わりが深く、この神社の本殿や楼門は、
2005年に高野参詣町石道とともに、世界遺産登録された。

 

 

 



 
  丹生都比売神社

 

  
   いざ、ウオーキングの出発。

 

ウダウダ会一行の本日の行程は、この山々に点在する史跡を巡り、
そのあと山を下って紀ノ川に出て、川沿いの公園の桜の下で、
例によって酒盛りをしようという算段である。

たいていは、山を歩いている時間より、酒盛りの時間のほうが長い。

それにしても、この山深いところに、いろいろな史跡がある。

僕たちが細い山道を登ったり降りたりして巡ったのは、
二つ鳥居、西行堂、院の墓…などなどであるが、
びっくりしたのは、院の墓であった。

坂道を登っていると、突然 「待賢門院の墓」 の標識が現れたのだ。

 

 



待賢門院といえば、NHK大河ドラマ 「平清盛」 で、
僕の好きな女優・檀れいが演じている鳥羽天皇の皇后である。

http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/cast/imperial.html#i_tamako

「まさか、こんなところに墓が…?」 と腑に落ちない思いだったので、
翌日、ネットで調べてみたら…

待賢門院の墓と伝えられていますが、
院に仕えた中納言の局の墓と考えられます。

…とあったので、納得した。
それにしても、まぎらわしい標識である。

西行堂は、西行が出家した時、妻も尼になって住んだ場所だそうである。
西行の妻とともに、娘も尼になり、この庵で読経の生活を送ったという。
母娘とも、この地で生涯を終えた…とされている。



 
  西行堂。

 

時々道に迷いながらも、ウダウダ会一行は史跡めぐりを堪能した。

山の上から見た天野の里は、絵に描いたような美しい風景だった。

 

 

 

しかし現実はきびしい。

きつい下り坂をどれほどの長い時間、歩いたことだろう。
下りても下りても下界が見えない。 膝がガクガクしてきた。

それだけに、やっと眼下に紀ノ川が見えた時は歓声が出た。

 


  
   ようやく、紀ノ川が見えてきた。

 
史跡めぐりを堪能したあとは、お酒を堪能したい…

頭の中はすでに、そちらのほうに切り替わっていた。

山道を下りきったところが 「酒殿神社」 という神社だった。
お酒の神様が、「お帰り~」 と出迎えてくれたようなものである。

実際に、メンバーの一人 (実は会長) が午前中は所要のため参加できず、
この酒殿神社で、車に弁当や酒やバーナー (酒の燗用) などを積んで、
僕たち一行と合流したのであるから、まさにお酒が出迎えてくれたわけだ。



  
  酒殿神社。 
  ここへ会長が、弁当、酒、ビールなどを車に積んで来てくれた。

 

「あぁ、お疲れさ~ん。きつい下り道やったね~」
と、互いに言葉を交わしながら、紀ノ川を渡った。
時計を見ると、午後1時半であった。

紀ノ川沿いに桜が満開の公園があり、そこへ、
「花見弁当」 と酒類を積んだ車が先に到着していた。

桜の樹の下に大きなシートを敷いて、全員、車座になった。

本日ウダウダ会の第二章、「花見酒の部」 が始まった。

春爛漫の、のどかな1日であった。

 

  
   打ち上げは桜の樹の下で…

 

 

 * 日本ウダウダ会に関する過去ブログのいくつかをご紹介しておきます。

    http://blog.goo.ne.jp/non-ap/m/201111

   http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20100412

     http://blog.goo.ne.jp/non-ap/d/20100415



  

 

 

 

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選手宣誓も…

2012年03月15日 | ウォーク・自転車

きょう、春のセンバツ高校野球の組み合わせ抽選が行われた。

そして開会式の選手宣誓は、抽選で、石巻工業高校の選手と決まった。

よかったね~

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20120315-00000247-fnn-soci

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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石巻工業高校の思い出

2012年03月13日 | ウォーク・自転車

3月21日から始まる春のセンバツ高校野球大会に、
被災地・宮城県から、初出場の石巻工業高校が選ばれた。

大震災から1年。
大きな被害を受けた石巻から出場する球児たちに、心から声援を送りたい。

http://www.city.ishinomaki.lg.jp/hishokoho/koushien.jsp


石巻工業には、行きずりの縁だが、忘れ難い思い出がある。
半分夢になりかけているような大昔の出来事だけれど…

20歳の頃の、北海道往復自転車旅行中のことである。

1969年(昭和44年)8月9日。
僕は自転車で東北地方を北から南へと走っていた。
岩手県盛岡から平泉、一関を経て、宮城県に入った。

石巻駅へ寄ると、大勢の人で賑わっていた。

祝 石巻 川開まつり 8月8日~8月10日

…という大きな看板が、ド~ンと立っていた。

 

 

 

混雑する石巻駅前の食堂に入って、焼きそばを食べた。

それから隣のマーケットに入って缶詰などの食料品を買い、
店のおばさんに「にぎやかですね~」と話しかけると、
「ああ、日本全国から人がやって来るんだよ。
 なにしろ、ここの花火は日本一なんだから」
と、誇らしげに言った。

駅を出て石巻市内をゆっくり走っているうちに夕方になってきた。
泊まる場所の当てはなく、どこかにテントを張って野宿をするつもりだった。

そこへ通りがかったのが網の張られた学校らしき庭の裏であった。
表へ回ると「石巻工業高校」と刻まれた門があり、扉が開いていた。
夏休み中だったけれど、そろりと中へ入っていくと教諭らしき男性がいた。

「すみません。大阪から自転車旅行をしている者ですが」と僕は帽子を脱ぎ、
「今夜、泊まるところがないので、校庭にテントを張ってもいいですか?」
と言うと、教諭らしき男性は、「いいよ~」と簡単に許可してくれた。

僕は門の前に置いていた自転車を押して、校庭の端っこへ行った。

この日は北上川の川開きだったというので、まだ明るかったが、
どどどどど~ん、という花火の音が、この校庭まで響いてきた。

テントを張り終えた頃、男女の子どもたち5人ぐらいがかたまって、
好奇心を顔いっぱいに浮かべながら、僕のテントに近づいてきた。
なんだか宇宙人でも見るような不思議そうな目で、僕を見ている。

そのうちの一人で、いちばんしっかりしていそうな男の子が、
「兄ちゃん、どこから来たの?」と、僕に聞いた。
僕はテントの外であぐらを組み、缶詰を食べていた。

「大阪からや。モグモグ…」
「大阪からずっとこの自転車で走っているの?」
「そうや。北海道まで走って、いま帰るところや、モグモグ」

すると、その小学生の男の子は、僕が缶詰をパクついているのを見て、
「大阪のお母さんやお父さんたち、兄ちゃんのこと心配しているだろうね」
と言って、僕の様子をしげしげと眺めていた。

さすがに僕はほろりとしてしまった。
子どもだと思って適当にあしらっていた自分が恥ずかしくなった。

「さぁ、心配してるかなぁ。僕ももう大人やからね」
そう言って、僕はその男の子を見た。
ほかの男の子たちや女の子たちも、
じ~っと僕を見つめていた。

「写真でも、撮ろうか…?」 と言うと、みんな 「うん」 と言った。

僕は、カメラを自動シャッターモードにセットし、
5人の子どもたちと一緒に「記念撮影」をした。


 

  
   石巻工業高校の近所に住む子どもたちは、やや緊張気味。
   写真右端の男の子が、しっかり者の小学生だった。


あれから、42年7ヵ月という、長い長い歳月が流れた。
あの頃子どもだったみんなも、今では50歳ぐらいかそれ以上になる。

今でも石巻に住んでいる子も、たぶんいるのだろうな。

今回の大きな災害を、無事に乗り切れたのだろうか…

テレビで繰り返し放映される石巻の被害状況を目にするたびに、
あの子たちは、今頃、どこでどうしているのだろうか…と思う。


 

 

 

 

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明石大橋を眺めながら

2012年01月07日 | ウォーク・自転車

 


5日~6日と家族3人で神戸の舞子へ行ってきた。
昨年11月に行ったばかりの所だが、とても印象がよかったので、
また同じホテルに泊まり、明石大橋を望む景色やバイキングを楽しんだ。

昨年末の千里への1泊旅行をわが家の忘年会とすれば、
今回の舞子は、さしづめ新年会旅行みたいなものである。

ところで、明石大橋と言えば、その記憶は、
6年前に参加した100キロウォーキング大会につながっていく。

大阪城前からスタートして、西へ西へと歩き、
神戸市内を通過して、須磨を過ぎ、明石大橋の手前で折り返す。

ここまででちょうど50キロである。
朝の10時にスタートして、ここへ着いたのは夜だ。
よ~し…と体に鞭打ちながら、再び大阪城に向かって歩き出す。
そして、徹夜で歩き、ようやくゴールしたのは翌日の午前である。
ほぼ24時間、歩いた。

この時の折り返し地点が、今から思えば舞子のすぐ近くだった。

一昨日、JR大阪駅から新快速に乗って三宮まで行き、
そこで各停に乗り換えて舞子まで電車に揺られたのだが、
車窓の移り変わる風景を眺めながら、その距離を実感した。

あのとき…
こんなところまで歩いて来て、また大阪まで歩いて戻ったのだ。

その大会に出た同じ月に、モミィが生まれた。
そのモミィも6歳になり、今春から小学生である。
いま、舞子に来ていっしょに明石大橋を見ている…
…というのも、なんとなく不思議な感じがするけれど。

一方ではわずか6年前…とも思うのだが、もうそんな体力はどこへやら。
そういうことをやろうという気力も、今はなくなったように思える。

このまま、どんどん体力も気力も衰えていくのだろうか…

昨日の朝、舞子のホテルの部屋から明石大橋を眺めながら、
バイキング料理を食べまくって膨らんだお腹をさすりつつ、
少~しばかり物寂しい気分に捉われた僕なのでありました。

 

 

 

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奈良町(ならまち)を歩く

2011年11月30日 | ウォーク・自転車

  

何度か書いたことがあるが、「日本ウダウダ会」という会がある。
高潔なる人格者が集まり、野山や町を歩き回った後、
大酒を飲んで、うだうだと騒ぐ会である。

その「ウダウダ会」で、今月中旬、奈良の「奈良町(ならまち)」を歩いた。

発足当初は数人しかいなかったメンバーも、少しずつ増えてきて、
この日は、11名の人格高潔の士たちが、うだうだと集まってきた。
この勢いなら、やがてあの「大阪維新の会」をしのぎ、
「ウダウダ会」が覇権を握る日も遠くないだろうと思われる。

しかし、実は…まことに残念で悔しいことがある。
ブログに載せようとせっせと撮影した写真が、消えてしまったのだ。

奈良町(ならまち)のあちらこちらで写真を撮りまくっていたら、
デジカメのディスプレイに突然「カードエラーです」と出て、撮影不能になった。
帰宅してから、SDカードをパソコンに差し込んだけれど、何の反応もない。
とほほ。何かの拍子に、カードの中のデータが、全部壊れてしまったのだ。

お読みくださっている皆さんに、ぜひ写真をお見せしたかったのになぁ。
行ってから半月以上も経つのに、今ごろブログに書くというのも、
写真が無くなってガッカリした気持ちを引きずっていたからである。

文章だけで奈良町(ならまち)の魅力を伝えるのは難しい。
それに、僕は金魚のフンのように皆について行っただけで、
いま、イラストマップを広げても、訪れた場所はわかるが、
どういう順序でどう歩いたのかは、よくわからない始末だ。

「ならまちフォト紀行」を考えていたのに、本当に残念無念。

代わりに奈良町(ならまち)を紹介しているネットのひとつを上げておきます。

http://www.sanga-kurumaza.com/map.htm

ところで、奈良町(ならまち)と言っても、
そういう正式な地名があるわけではない。

奈良市の市制が施行される以前の旧市街地で、
元興寺の旧境内を中心とした界隈を「奈良町(ならまち)」と呼んでいる。

江戸や明治期の町家が今も残っていて、当時の面影を伝えている。

その日は日曜日だったが、観光客は意外に少なく、落ち着いた雰囲気だった。
江戸時代の町家を再現した「ならまち格子の家」や、「ならまち振興館」など、
散策の途中に立ち寄って見学したのだけれど、ほとんどが無料である。

「ほお~、何かといえば金を取る京都と、えらい違いやなぁ」
と、メンバーの一人がうだうだとつぶやいていたが、そのとおりだろう。
僕は自分が京都生まれなので、どちらかといえば「京都派」ではあるが、
観光客でごった返す京都に比べ、奈良の素朴な雰囲気には心が静まる。

僕の家からは、京都より奈良の方がずっと近いというのに、
春日大社や若草山、東大寺ぐらいしか行かないんだもんね。
ここはひとつ、奈良を見直して、もっともっと出かけなければ…

ならまちを歩いた後、その東大寺やお水取りで有名な二月堂、
それから、小学校の遠足を思い出す懐かしい猿沢の池なども通り、
最後は大阪に戻って例のごとく大酒を飲み、うだうだ言い合う僕たちであった。

いつか作家の車谷長吉さんが、
「心が塞いだときは、奈良を歩くと、気持ちが晴れてきます」
と書かれていたことを思い出す。

たしかに、奈良にはそんな不思議な魅力があるようだ。

今回のウォーキングは、奈良の魅力再発見…といったところでしょうか。

近いうちにもう一度、ゆっくり歩いてみようと思っています。
今度は写真が消えて無くならないようにしなければ… 
 

 

 

 

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京都・大文字山へ

2011年10月29日 | ウォーク・自転車

京都の大文字の思い出を、8月17日のブログに書いた。
幼児の頃まで京都に住んでいた僕は、大阪へ行ってからも、
夏休みになれば必ず京都の実家に遊びに戻ってきた。
8月16日の「大文字」を眺めるのが一番の楽しみだった。

ところが今年は、3月の東日本大震災の津波で倒れた、
岩手県陸前高田市の松の薪を送り火で燃やす計画が出たが、
放射性物質が検出されたのされなかったのという大騒ぎがあり、
燃やす、燃やさない、と実行本部の二転三転の優柔不断の処置に、
日本中の人たちの大きな怒りと顰蹙を買ってしまった。

大文字を愛していた一人として、まことに遺憾な出来事であった。

で、2ヵ月後、その大文字山に登ることになるとは思いもしなかった。

  ………………………………………………………………………………

市役所時代にお世話になった山好きの先輩からメールが来た。
「久しぶりに、京都の山を歩きませんか?
 今回は、山科から大文字山へ行き、銀閣寺を通るコースです」

ここのところ半年以上も会っていない先輩である。
山歩きは長い間ブランクがある。脚力も最近は鍛えていない。
少し不安はあったが「行きます。楽しみです」と返事した。

…ということで先週の土曜日、夜明けまで雨が降っていたがそれも止み、
予定通り、天王寺から環状線で大阪まで行き、そこで新快速に乗り換えた。
JR京都駅の次の駅、山科で降りた。

メンバーは、他に誰か来るのかと思ったが、先輩と僕の2人だけだった。
久しぶりに会ったので、お互いの近況を報告し合い、会話が途切れなかった。

さて大文字山にはいくつかの登山ルートがあるが、
山科から歩くと距離も長いので運動量が増える…
という先輩の「少しでも長く歩きたがる」傾向がここでも出ていた。

たしかに、大文字山は標高500メートルにも満たない低い山だけど、
山科から歩くと、休憩を入れると頂上まで1時間半ほどかかった。
反対側の銀閣寺側から歩くとそこまで1時間もかからない。
その距離は、地図を見ればよくおわかりかと思う。



  
   黄色が大文字山を歩いたコース。山科、大文字山の山頂、銀閣寺。
   黄緑色が京都大学。
   水色が京阪出町柳駅。

 


そろそろ山に差しかかる時、3人の中高年の女性が歩いておられたので、
その方のお一人に、僕らの写真を撮ってもらうようお願いした。
写真が終った後「どちらまで行かれるのですか?」と、先輩。
「大文字山まで上がって、銀閣寺に下りようと思っています」
「あ、それじゃぁ、私たちと同じですね」と先輩が言うと、
「まあ、よかった。ついて行きますわ~」と女性たちは笑った。

僕は内心ホッとした。
だいたいこの先輩はハードなコースが好きなのである。
何回も山歩きに誘われているが、「大丈夫、大したことないよ」
と言うわりには、実際に行ってみると険しい山だったりする。

今日はまあ、低い大文字山だから大丈夫だろうとは思っていたが、
普通の人が通らないような変なコースの好きな先輩だから、まだ少し不安だった。
最近、運動といえば、ほとんどプールばかりで、長い距離を歩いていないしなぁ…。

でも、この女性たちは、わりに軽装である。
お年もかなり召しておられる。
その人たちと同じコースなんだから、まあ、今日は心配あるまい…
ということでホッとした、というわけである。

山に入ると、雨上がりでしっとりとした森の空気がおいしい。

僕も1時間ぐらいは登り道でも息は乱れなかったが、それが過ぎると、
だんだんと心拍数が上がり、話しても言葉が途切れがちになってきた。

長い間山を歩いていないし、最近はジョギングやウオーキングも量が落ちた。
明らかに下半身の筋力が衰えているのが自分でもよくわかった。

いつもなら、先に先輩の息づかいが荒くなるのに、今回は逆だ。

頂上に着いて、京都の街を一望できるベンチに座ったときは、
あぁ、やれやれ…という気分だった。おなかもペコペコだった。

山科の駅のコンビニで買った助六弁当の美味しかったこと。
しかも、目の前に絶景が広がる。

いなり寿司も巻き寿司も、つるつるとのどに入る。あぁ、うまい!

 

 
   大文字山の頂上から見た京都の街並み。雨上がりでもあり、空気が澄んでいた。
 

やがて3人組みの女性たちが着き、続いて数組の人たちが来て、
それぞれお弁当を広げ始めたので、まわりは賑やかになってきた。

頂上から少し降りると、大文字の送り火を燃やす「火床」へ出た。

街の中でこの山を見上げると、「大」の字がはっきり見えるけれど、
ここでは一つひとつの「火床」がポーンポーンと離れて置かれているので、
それが「大」の字のどの部分にあたるのか、よくわからない。
しかし、「火床」に沿って登山道を下っていくと、だんだんわかってくる。
これが「大」の字の「ノ」の部分なのだなぁ、という感じで…。

 

 
  これが大文字の火を燃やす 「火床」 。 これだけでは全体像はわかりませんが…

 

  
    出ました、おじゃまムシ。 火床の前で記念撮影。

 

ここから、わりに急な坂をどど~っと下って行くと、
普通の狭い道路に出て、登山道はこれでおしまい、ということになる。

その普通の狭い道路をほんの10秒ほど歩くと、
いきなり左右に道が現れ、驚くほどの人が歩いている。

ここがすでに銀閣寺だったのである。

大文字山を下りたところにいきなり銀閣寺があるとは…知らなんだ。


  
   このすぐ横が大文字山の登山口になっていたとは。
   京都には詳しい僕であったはずなのにぃ…

 

下り道でまた両足の筋肉を酷使し、かなり疲れた。それが表情に出たのか、
先輩は「もうちょっと、歩くで」と、僕に気を遣うように言うので、
「ここから出町柳まで歩いて京阪電車に乗りましょう。
 そこは始発駅だから、大阪まで座って帰れますもんね」
と僕が言うと、
「ピンポーン。そうやで、ここから出町柳まで歩くんや」

京都大学の前を通り、出町柳駅へ着いた。

駅の前をそのまま通り過ぎて、加茂川の橋を渡った。

この橋から、今登って来た大文字山の写真を撮るためである。

 
  加茂川から大文字を。今行ってきたばかりなので、親しみを感じる。

 

写真撮影を終えて、出町柳駅へ戻り、帰途に着いた。

帰りの電車の中で先輩が、
「今日は、本当の計画は、銀閣寺で終わりではなくて…」
と話し始めた。
「銀閣寺から比叡山の方へ歩いて行く予定だったんやけどなぁ」
「えっ? このコースだけでもクタクタなのに…」と僕はうんざり…という気で聞く。

実は、明け方まで雨が残っていたので、今日は決行するのかどうか、
今朝の6時の時点で連絡をもらうことになっていた。
前日までの予定では、午前7時半に阿倍野で待ち合わせることになっていたが、
この日の午前6時にかかってきた先輩からの電話では、、
「こんな天気やから、コースを一部変更するわ。待ち合わせ時間も9時にしよう」
と、7時半から急きょ9時に変わったのである。

帰りの電車で先輩が漏らした言葉には、そういう背景があった。

先輩の計画では、大阪を早い時間に出て、山科から大文字山へ登り、
銀閣寺に下りて、さらに比叡山の方へ歩いて行く…

という計画をしていたそうなのである。
久しぶりの登山でバテバテだったのに、もし天気が良くて、
計画通りのコースを歩くことになっていたら…と、考えただけでも恐ろしい。

僕と先輩は、かつて大阪~明石大橋往復100キロウオーク大会を一緒に完歩した。
先輩は、僕の今の体調を知らないので、僕がどこまでも歩けると踏んでいたようだ。
だからこの日、他の人を誘わず、「タフなはず」だった僕だけに声をかけたのだろう。
それだけハードなコースを、この恐ろしい山好き、歩き好きの先輩は計画していたのだ。

やっぱりなぁ。 そうだったんだ。
朝まで雨が降ってくれたことで、僕は救われたのだ。
今日のコースは、どちらかと言えば初心者向きである。
でも、最近脚力が弱くなっている僕には、これが精一杯だったもんね。

それにしても、銀閣寺に着いてやれやれ、と思ったところへ、
さあ、これから比叡山へ行くで~と言われたら、これはもう…

げぇっ、ヒエイザン! ヒエー」 と悲鳴を上げるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

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箱根駅伝で思い出すこと

2011年01月03日 | ウォーク・自転車

お正月のテレビの一番の楽しみは、箱根駅伝を観戦することである。

毎年、1月2日は、長男の高校時代の友人たちがわが家に集まってワイワイとにぎやかに宴会をするのが恒例になっているので、みんながやって来る昼頃まで、僕はキッチンに立ちっぱなしで、料理を作りながら駅伝を見る。 それがいつも1月2日の過ごし方である。

今年も朝からスタートした箱根駅伝を見ながら、焼き鳥を焼いたり、オーブンで焼き豚や肉団子を作ったり、ウィンナーを炒めたり、玉子焼きを焼いたり、かまぼこを切ったり、ポテトサラダを作ったり、市販のイカ一夜干しや肉の燻製を皿に並べたり、野菜を盛り付けたりして、せっせと働いた。 

眼も耳も頭も箱根駅伝に気を取られていたが、手だけは料理を作っている。 息子の友人たちはみんな僕と同じようなビール好きなので、献立を考えるとき、僕だったら何を出されたらうれしいか…だけを基準にして、おつまみを考えたらいいので、楽チンである。 

さて、今年の箱根駅伝の注目は、出雲、全日本に続き、この箱根で大学駅伝三冠をめざす早稲田大学が優勝するか…? ということと、過去2年、往路の山登りで驚異的な走りを見せた 「山の神」 と呼ばれる柏原の走りっぷりはどうか…? という2つが最大の焦点だ。

その早稲田は1区から、ひときわスリムな1年生選手が積極果敢に飛び出して、2区、3区、4区、そして最終5区まで先頭でタスキをつないだ。

その5区で、東洋大学の 「山の神」 柏原は、3位でタスキを受けた。
先頭との差は2分54秒差だ。 今年の箱根駅伝の最大の見どころが訪れた。

  ………………………………………………………………………………………

箱根駅伝は、東京の大手町をスタートして、2区鶴見、3区戸塚、4区平塚、そして5区が小田原から箱根山頂・芦ノ湖までの山登り。 片道合計110キロ近くの距離を、5人の選手が5時間半そこそこで走り抜く。 5区の箱根の山登りは、標高差約800mを、一気に駆け登る。  

むかしむかしに自転車旅行をした時、このコースを走行したことがある。 

たとえば、4区の平塚から小田原まで、僕はかなりのスピードでペダルをこいだのだけれど、それでも1時間を要した。 なのに、昨日の4区の区間最高記録を出した選手は、54分34秒で走った。 僕が若い頃に精一杯のスピードで走った自転車でのタイムよりも、この選手たちははるかに速く2本の脚で走るのである。 いやまぁ、すごい、のひと言につきる。

僕の自転車旅行は、そのあと小田原から箱根を越えて静岡県に入り、愛知から三重、京都、大阪へと、数日かけて走ったわけだけれど、小田原~箱根間は、この駅伝と同じコースを自転車で走った。 いや、走ったというより、自転車を押して歩いた、というほうが、正確か。 

小田原駅から箱根湯本までは、上り坂もなんとか自転車から降りずにペダルをこげたが、その先はもうダメだった。 どんどん勾配がきつくなり、僕の脚力ではとてもではないが乗っていられない。 仕方なしに、自転車から降りて、押して歩いた。 小涌谷を通り、クネクネと曲がる上り坂をハアハアと息を切らせて登った。

汗びっしょりになって自転車を押し続け、ようやく芦ノ湖が姿を現した。

ここから下りになり、芦ノ湖が展望できる絶景の場所に着いて、一段落した。

そこに、「箱根公園」 という看板がかかっていた。
正確なことはわからないが、たぶん、その公園の手前くらいに、駅伝の往路のゴール地点がある
のではないかと思う。



  
     道路が箱根の山中に入ると、勾配がどんどんきつくなってくる。


 
      芦ノ湖の見える公園に着き、ホッと一息



時計を見ると、小田原を出てから、この箱根公園に到着するまで、約4時間かかっていた。

そのコースを、「山の神」 は、昨日、1時間17分53秒で走り抜いたのである。

あの箱根の上りは、まことにえげつない急坂が続く。
歩いて上るだけでも大変である。 それを、あれだけスイスイと走るのだから…

…やっぱり、人間業とは思えない。

箱根駅伝が、どの駅伝よりもスゴいと思うのは、この山登りがあるからだろう。
さらに、見ているうちに、自分の自転車旅行への懐旧の情に浸れる…ということもある。
そんなことで、毎年、箱根駅伝は見逃せないのである。

レースは 「山の神」 柏原が早稲田を抜き、東洋大が3年連続で往路を制した。
2位に早稲田が入り、東海大、明治大、駒沢大と次々にゴールし、初日は終わった。

今日は復路で熱戦が繰り広げられる。
トップの東洋大と、2番目の早稲田の差は27秒である。
この差なら、早稲田が断然有利…との見方が強い。
しかし、駅伝は何が起こるかわからない。

さぁ、まだ朝の6時半だし、駅伝のスタートまで、1時間半ほどある。

元日は次男の家族が来て、2日は長男の友達が来た。 が、今日は誰も来ない。

よ~っしゃ。 思いっきり箱根駅伝を楽しみまっせ~。

 

 

 

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