めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

思い描く人生を生きるために

2017-01-25 16:48:22 | 新生活

久し振りに風邪を引いたみたいで、喉は痛いし、鼻水は出るし
頭の中は、ボーッとして考えがまとまらない。
食べ物の味もおかしい、見ているものに長く集中できず、更には
音楽を聴いても、耳の外で流れている様で、心から遠く感じる。

これらの思いは、当然風邪の兆候なのでしょうが、一番の問題は、
ただ同じ所に座っているだけで、見える物に何も心が動かない。
何だかの理由で買い求めた物、生活必需品が至る所にあるが、
目に映るだけで、そこにあり続けるのを見ているだけな事です。

世の中には、分刻みでスケジュールが決まっていて、一日中
有無を言わさず、専念しなければならない人も多くいる中で、
何の拘束も無く、ただ、時が経つのを、目の届く範囲で眺めている
これこそ病と言えるのでしょう。

風邪なのだからしょうがないと言われればそれまでなのですが、例え
回復していつもの生活を取り戻したとして、果たして、どれだけ
自分の行動が変わったかと言えば、第三者的に見れば、具合が
悪かろうがよかろうが、殆ど同じと言っても良いのです。

世の中にとって、一人の人間が、何をしようと、どんな考えを持とうと
自分に関わらなければ、まるで空気の様なもの、ただ時と共に流れる
風景の様なものです。
誰もが、この風景となって流れて行くのですが、本人にしてみれば
何とか、自分の現状を変えたいとか、もっと豊かな生活をしたいとか
少なからず思っているのです。

しかし、思っていても、現実には、ほとんど変えられず、ただ時が経ち
年を重ねて行くのが、殆どの方の人生ともいえるのです。
自分にとって、風邪を引くと言う事は、一大事であるのですが、
身内にとっては、心配をする事は有っても、しばらくすれば治り
やはり、一過性のものぐらいにしか感じられないのです。

つまり、殆どの人達にとって、日頃の生活も、病に伏した日々も、単に
人生の1ページに過ぎず、その事で、自分の生活は変わるものではなく
風邪を引いた私の人生も変わるものではないのです。

多くの人達にとって、自分の人生は、如何に幸せで変化に富んだもので
在りたいと望ものの、殆どの人は、思いとはかけ離れた、ごく当たり前の
一生を送るものなのです。
何故、望むような人生を送れないのか、後悔は有っても、満足とする人生は
中々送れないのでしょうか。

より優れた学校に通うのも、有名企業就職を目指すのも、根底には、
豊かな人生を歩むためという思いが有るのです。
では、そんなエリートの人生ともいえる路線を辿った人たちは、自らの人生に
満足できたかと言えば、中々自覚する事は難しく、あえて言うなら、その歩みを
認めて湛えてくれる人がいると納得するぐらいです。

私達の人生は、何事においても自己判断が難しく、常に比較対照でしか
良し悪しが決められないのです。
自分が生きている喜びは、何かと比較する事に依って自覚するのであって、
その対照物によって、幸せにも不幸にもなりやすいのです。

その為、比較するものが無くなると、途端に、自分の心は不安定となり、
ただ、時が過ぎるのを傍観するのみとなってしまうのです。
つまり、風邪を引いて、五感が感じづらくなった状態とおなじであり、
心が躍動しなくなってしまうのです。

この比較対象物が、自分の置かれている立場や地位を、どの様に変えるかを
決定し、人生の有り方を決めて行くのです。
風邪を引いたときの様に、感覚が鈍くなってくると、自分が何をすべきか、
判断する事が難しくなってしまうのです。

人生が豊かになるか、幸せな毎日を送れるかは、自分自身のメンタルが
如何に敏感に周囲に対して反応できるかにかかっているのです。
置かれている環境から、自らを動かすためにには、あらゆるものに対する
豊かなセンスが有って初めて具体性が出てくるものであり、どんなに
道具がそろっても、地位や財産が有ったとしても、反応する力を失うと
それらの道具は何の価値もなくなり、自らも動きを止めてしまうのです。

どん底の生活を送ろうが、何でも手に入る豊かな生活をしようが、

自分の周囲に対する反応が無くなった時、自分の人生は滞り、生きる意味や
自分の存在価値を見失ってしまうのです。
年齢、環境に関係なく、本人の身体から五感が消え失せて行くと、人生は終わり
それ以上の新たなる道は開けないのです。