私たちが、限りある命を持って生きている生物で
ある限り、生まれたからには、老いて命を全うする
運命にあります。
これは、地球上に生まれた生物の宿命であり、
例え、万物の霊長と言われた人間であっても
例外では有りません。
しかしながら、私たち人間は、知能が有るが故
己の命の短さ儚さを思い知らされるのです。
幼き頃は、ただ、毎日が当たり前に過ぎて行くも
周囲の環境や様々な人々と関わるにつれて、
自らの身体と心の移り変わりを感じるものです。
中でも、身体の成長に伴って、よりしっかりした意志と
体力を実感するものなのですが、それとて、成人と成れば、
その後は、徐々に衰えを感じざるを得ないのです。
特に、人生の半ばを過ぎるようになると、それまでの
自分の人生を振り返る事から、己の身体の衰えに、更なる
悲しさが増してくるのです。
高齢化社会となった日本に於いて、多くの高齢者が実感する
身体の衰えは、若い頃には、思いもしなかった様々な部分で
思い知らされ、未来への希望を次第にそいで行く事と成ります。
思っただけで無意識に動いていた手足が、一生懸命命令をしたり
他の部分も総動員して動かさなければならなくなる、そんな
体中から自らのごく普通の能力が消えて行く事の悲しさは、
年老いてみないと解らないものです。
こんな時、確かに、身体を助ける器具であったり、施設が有れば
高齢者にとっては憂いしいものなのですが、これとて、考えように
よっては、より一層、自分の老いを感じさせる要因ともなるのです。
世の中がますます便利になり、高齢者たちに対するケアが整うことで
高齢者たちは幸せになると思いがちですが、事はそのように簡単では無く、
もう少し心の深い所のケアが必要です。
つまり、高齢になって、心も身体も自由が効かなくなった時、
若い人達の様に、自分の身の回りのことを難なくこなせる方々から考えると
自分達の様に、楽に日常を熟せる道具や施設を増せば良いと思って
しまいます。
しかし、高齢者は、決して、若い人たちと同じように動ける事というよりも、
その前に、自分のその年齢の姿と心を認めて欲しいのです。
若い頃の様に動けることは嬉しいのですが、それは、何かの手助けを受けて
誰かのお陰で、仮に出来る事なのです。
つまり、元気な年寄りだけでなく、老いて萎えた実際の年寄りの存在を
同じ人間として認めて欲しいのです。
つまり、何もできなくなった高齢者も、若い人たちと同等に、人として
存在価値を認めてほしいのです。
しかしながら、社会は、元気な年寄りを求めています。
元気な年寄りであると、若い人に喜ばれ、社会に認められるのです。
その為、高齢者は、必至に、健康になり元気になる事を求めます。
これは、自分の為でもありますが、世間に対する年寄りの存在を
示す精一杯の努力でもあるのです。
健康であることは、高齢者にとって望ましいとは言え、いつも健康で
いられる訳ではなく、どちらかと言えば、身体のどこかが病んでいる
高齢者の方が圧倒的に多いのです。
つまり、高齢者の実態は、多くの病を抱えている心も身体も衰えた
死を間近に控えた人たちなのです。
若者たちにとっては、元気なお年寄りは頼もしく嬉しいものですが、
実際は、病に伏している事の方が多いという事を認めて欲しいのです。
そして、その上で、人として認めてほしいのです。
元気である時も、病んでいる時も、同じ人間であり、元気な高齢者だけを
求めないで欲しいのです。
人は誰しも、いつもベストな状態では有りません。
若くても病む時が有り、思い通りにならない時も少なくないのです。
そんな時、社会は、病んだ者、能力を発揮できないものを排斥する風潮が
有るのです。
その為、人は一生を通じて、健康である為の努力を求められるのです。
しかし、病んでいる時も、健康な時と同じ人間であることに変わりは
有りません。
誰かの役に立つ時しか、存在価値を認めない社会は、人々の心を苦しめ
お互いの気持ちを察する事もいたわる事も無くなってしまいます。
例え高齢者と言え、死ぬまで、一人の人間としての存在価値を認められ
周囲の人たちと対等に生きていたいのです。
今の日本社会は、国民誰しも、健康で働ける人しか価値を認めない傾向があり
多くの人々を苦しめる事と成っています。
高齢者、弱者に対する労りと言うのは、決して、立派な施設を作ったり、
自立できるように手助けするだけのものではなく、一人一人の存在を認め
社会の大切な一員として認める事がまず大切なのです。