めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

高齢者たちの心の叫び

2016-12-19 10:52:07 | 日本人

私たちが、限りある命を持って生きている生物で
ある限り、生まれたからには、老いて命を全うする
運命にあります。

これは、地球上に生まれた生物の宿命であり、
例え、万物の霊長と言われた人間であっても
例外では有りません。

しかしながら、私たち人間は、知能が有るが故
己の命の短さ儚さを思い知らされるのです。
幼き頃は、ただ、毎日が当たり前に過ぎて行くも
周囲の環境や様々な人々と関わるにつれて、
自らの身体と心の移り変わりを感じるものです。

中でも、身体の成長に伴って、よりしっかりした意志と
体力を実感するものなのですが、それとて、成人と成れば、
その後は、徐々に衰えを感じざるを得ないのです。

特に、人生の半ばを過ぎるようになると、それまでの
自分の人生を振り返る事から、己の身体の衰えに、更なる
悲しさが増してくるのです。

高齢化社会となった日本に於いて、多くの高齢者が実感する
身体の衰えは、若い頃には、思いもしなかった様々な部分で
思い知らされ、未来への希望を次第にそいで行く事と成ります。

思っただけで無意識に動いていた手足が、一生懸命命令をしたり
他の部分も総動員して動かさなければならなくなる、そんな
体中から自らのごく普通の能力が消えて行く事の悲しさは、
年老いてみないと解らないものです。

こんな時、確かに、身体を助ける器具であったり、施設が有れば
高齢者にとっては憂いしいものなのですが、これとて、考えように
よっては、より一層、自分の老いを感じさせる要因ともなるのです。

世の中がますます便利になり、高齢者たちに対するケアが整うことで
高齢者たちは幸せになると思いがちですが、事はそのように簡単では無く、
もう少し心の深い所のケアが必要です。

つまり、高齢になって、心も身体も自由が効かなくなった時、
若い人達の様に、自分の身の回りのことを難なくこなせる方々から考えると
自分達の様に、楽に日常を熟せる道具や施設を増せば良いと思って
しまいます。

しかし、高齢者は、決して、若い人たちと同じように動ける事というよりも、
その前に、自分のその年齢の姿と心を認めて欲しいのです。

若い頃の様に動けることは嬉しいのですが、それは、何かの手助けを受けて
誰かのお陰で、仮に出来る事なのです。
つまり、元気な年寄りだけでなく、老いて萎えた実際の年寄りの存在を
同じ人間として認めて欲しいのです。
つまり、何もできなくなった高齢者も、若い人たちと同等に、人として
存在価値を認めてほしいのです。

しかしながら、社会は、元気な年寄りを求めています。
元気な年寄りであると、若い人に喜ばれ、社会に認められるのです。
その為、高齢者は、必至に、健康になり元気になる事を求めます。
これは、自分の為でもありますが、世間に対する年寄りの存在を
示す精一杯の努力でもあるのです。

健康であることは、高齢者にとって望ましいとは言え、いつも健康で
いられる訳ではなく、どちらかと言えば、身体のどこかが病んでいる
高齢者の方が圧倒的に多いのです。
つまり、高齢者の実態は、多くの病を抱えている心も身体も衰えた
死を間近に控えた人たちなのです。

若者たちにとっては、元気なお年寄りは頼もしく嬉しいものですが、
実際は、病に伏している事の方が多いという事を認めて欲しいのです。
そして、その上で、人として認めてほしいのです。
元気である時も、病んでいる時も、同じ人間であり、元気な高齢者だけを
求めないで欲しいのです。

人は誰しも、いつもベストな状態では有りません。
若くても病む時が有り、思い通りにならない時も少なくないのです。
そんな時、社会は、病んだ者、能力を発揮できないものを排斥する風潮が
有るのです。
その為、人は一生を通じて、健康である為の努力を求められるのです。

しかし、病んでいる時も、健康な時と同じ人間であることに変わりは

有りません。
誰かの役に立つ時しか、存在価値を認めない社会は、人々の心を苦しめ
お互いの気持ちを察する事もいたわる事も無くなってしまいます。
例え高齢者と言え、死ぬまで、一人の人間としての存在価値を認められ
周囲の人たちと対等に生きていたいのです。

今の日本社会は、国民誰しも、健康で働ける人しか価値を認めない傾向があり

多くの人々を苦しめる事と成っています。
高齢者、弱者に対する労りと言うのは、決して、立派な施設を作ったり、
自立できるように手助けするだけのものではなく、一人一人の存在を認め
社会の大切な一員として認める事がまず大切なのです。


日本人が消えて行く

2016-12-17 20:51:14 | 日本人

私たち日本人は、何をもって幸せを感じたら良いのでしょう。
どんなに豊かな生活を送っていても、充実した人生を送っていても
一瞬の天災で、全てを逸してしまう、その可能性が常に付きまとうのが
現代社会です。
年々きな臭さを増す日本周辺国との諍いは、何かのはずみで、またもや
地獄の日々を体験する時代へと突入してしまうかもしれません。
日本は、今や、平和と言われる時代から、次なる争い禍の時代に
知らず知らずの内に取り込まれているのかも知れません。

戦争体験の無いほとんどの国民にとって、心の中では、戦争という
イメージを抱くことは難しく、大震災の様に突然襲ってくることは
予想だにしていません。
しかし、そんな日を考えながら生活する事は、誰にとっても嬉しい事とは
考えられず、例えその日が明日であっても、その一時前までは、
楽しい人生であることを望みたいものです。

とは言うものの、今の世の中は、本当にこころから幸せを感じている人が
非常に少なくて、経済的に満たされる事を幸せと勘違いしている場合が
かなり多いのです。
世の中の仕組みも、子供から大人まで、如何に経済的に豊かになれるか
と言う命題の下で創られていて、子供たちの教育も、社会に適応する為の
準備段階に過ぎません。

幼い頃から勉強に明け暮れる日々は、その子の人格形成と言う為ではなく、

より社会に於いて経済的に豊かな生活を勝ち得る為の手段の様です。
その為、実力を持って人を蹴落とす能力は長けても、人と共に助け合い
協力し合って物事を成し遂げる能力に疎く、様々な世代の人々の考えを
受け入れる心の広さも持ちえません。

自分の頭の中で創られた正義の下に、多くの人々を苦しめたり傷つけたり

陥れたりするか、様々な考えに付いて行けず、自虐の道を辿るるか
どちらにしても、人として面倒な人たちが増えています。
人々の幸せの尺度は、より自分の欲求を満たせる財力を身に付ける事
他人より安心安全の生活を身に付ける事に終始している様です。

しかし、思ったような地位を築いたとしても、その足元で蹴落とされた

多くの人々の怨念は強く、安全のために、自分の家庭や仕事場を
まるで刑務所の折の様に守る事が必要と成ってしまいます。
この典型がアメリカ合衆国の有り方であり、富裕層と低所得者の争いは
多くのテロや暴動を頻繁に誘発し、社会全体の治安を脅かす事と成っています。

日本であっても、アメリカと同じような経済体制と取っている事から、同じように

世の中が殺伐となって、危険性を増していると言えるのです。
世界的に安全な国と言われていますが、国民の心の中は、いつも怯えていて
加害者になる事被害者になる事を最も恐れる民族となっています。

この事は、誰もが他人に領域に入る事も、自分の領域に入られる事も

ことごとく嫌う傾向からも良く解り、身も心も、他人と接触する事を
極端に嫌う民族となりつつあります。
その為、日本人の特性である、他人の心を気遣い察する能力が衰え、
平気で人の心を踏みにじったり、心のバリアーを張って、誰をも
受け付けない自分だけの生活圏だけで生きて行こうとする人が
多くなっています。

これらの傾向は、日本人にとって、非常に危機的な状況であり、

yesとNOでしか判断できない、本当に単純でつまらない、
長い歴史で培われた大切な心を失ったエセ日本人と成ってしまいます。
もちろん、東京オリンピックの標語、お・も・て・な・し、なんて
死語と言ってもよく、人間としても三流国と言わざるを得ません。

一番の問題は、子供たちの未来です。

単に、受験知識や大人びた行動や考えを持ったとしても、各年代で
感じる、自分以外の人に対する感性が育っていなければ、頭でっかちの
知識だけの大人と成ってしまいます。
小学校から大学まで、同じものを見ても、感じ方が各年代で違い、
人と関わっても、それぞれで相手に対する対処の仕方が違います。

その時代時代で、様々な人と関わった事に依る脳の発達は、その後

どの時代に生きようと、様々な世代の人の心を感じることが出来、
誰に対しても一番適切な思いやりや察しが出来るのです。
知識はどんなに多くとも、ほんの断片に過ぎず、自分自身が体験し
学んだ情報は、幾つになっても自分自身も周囲の人も、生かすことが
出来るのです。

私たち人間が一生生きる間に学ぶことは、その時代時代で感じ考え

積み重ねた自分だけの知識なのです。
書籍からやネットなどの情報は、どんなに豊富であっても、
自分にとっては、本当に断片的な参考知識に過ぎず、
自らが体験し、自分の心と身体で感じ取った物が、最も有効であり
社会に於いて大きな力と成るのです。

様々な体験を通して、人は成長し、社会や人を知ることが出来るのです。

それ故、日本人の生き方が、他人に対し隔たりを設けたり、お互いに
合い入れない生き方を行うと、人として成長が期待できず、独りよがりの
自分以外からの知識のみで満足する寂しい人生と成ってしまいます。

人が生きると言う事は、生物的に生命を維持して行く事ではなく、

どれだけ人と関わって、お互いの心を育てて行くかと言う事です。
心は、知識だけでは成長しません。
多くの考えを受け入れ、様々な人生を知る事に依り、より豊かな
人格形成が出来、充実した一生を終えることが出来るのです。
日本人が、人と接触する事に抵抗を感じる様に成り、より独善的に
物事を判断する事と成れば、人を育てる事も、誤った考えを
正すことも出来ず、お互いに傷つけあう事にもなりかねないのです。


閉ざされた日本社会に悩む若者

2016-12-16 16:13:57 | 日本人

現代に生きる子供たちは、生まれた時から
ネットの中で育ち、世界中の知識を手に入れられ、
何不自由なく生活している様に思われますが、
実際は、今の世の中は、決して、子供達にとって
素敵な社会とは言えない様です。

確かに、何不自由なく生活できる子供もいますが、
今の世相を反映して、大人の社会の厳しさが、
子供の世界まで大きく影響を与えています。
義務教育の中に在っても、子供たちの家庭環境は
確実に、子供同士の格差を生み、勉学の機会を
平等に与えられても、家庭環境の厳しさから、
友達同士対等に遊べない問題が起こっています。

持ち物から衣類、勉強道具まで、親の所得差が
直接子供の日常に影響を与え、中には、給食費すら
払えない子供たちも増えています。
この事は、義務教育を終えた後、進学をする時も
大きな格差となって、目的の学校に通えなかったり、
学費が払えず、進学を断念しなければならない学生が
次第に増えています。

そんな子供たちの為に、昔から奨学金制度が有り、
多くの苦学生が、そのシステムを利用して、勉学に
勤しむようにはなっているのですが、この事でさえ
若者たちを苦しめる原因と成っています。

苦労して大学を奨学金で卒業しても、就職してから
この返済に苦労している人がとても多く、中には
経済力が無くて、返済すらままならない場合も有り、
いつまで経っても苦しみ続ける人達が絶えません。

その為、若者たちは、夢を抱きながら仕事をする
というより、沢山の借金を抱え、返済のために
結婚すら考えられないという者も多いのです。
若者達の晩婚化が進み、少子化と共に、ますます
我が国は、超高齢社会へと向かっているのですが、
若い人たちを取り巻く環境が変わらない限り、
未来の日本は、経済も人々も委縮していかざるを
得ないと言えるのです。

自分自身の生活も安定しないのに、家族を養うまで
考えられないのが、今の多くの若者の思いであり、
悩みでもあるのです。
彼らは、決して、結婚したくないのではなく、
結婚して、幸せな生活が想像できないのです。

私達の若い頃は、結婚後の生活の事は殆ど考えず
感情に任せて異性とお付き合いしたり、結婚したり
したものでした。
今思えば、随分無茶な事をしたものだと思いますが、
当時の事を考えると、何とかなって行くように思え
それ程リスクを感じなかったものです。

この事は、今の社会と違って、多くの日本人が、
同じ方向を見ていて、努力が認められる時代だったかた
とも言えるのです。
頑張れば頑張っただけ夢が叶う時代だったと言えます。

確かに、今の様な富裕層も居て、所得格差も有ったのですが、
どの世代、どんな職業の人も、努力をすれば、しっかりと
階段を上れ、夢が叶う時代でもありました。

しかしながら、今の時代は、かなり社会傾向が変わって来て
頑張った人がすべて社会から需要が有ると言う訳でなく、
努力しても、いい大学を出たと言って、必ずしも、確実に
思い通りの生活が出来るとは言えず、むしろ、就職浪人の様に
最初から社会から弾かれる人たちが多くなったのです。

世の中が不景気になったからとも言えますが、社会が、
様々なタイプの人を受け入れられる力が無くなった事が
問題でもあります。
一部の優良企業の厳しい条件だけでなく、一般の企業も
人数的にも就職条件も、就職を望む人たちの思いを
現実化するように働いていない事が現状であり、
人件費を削減する為にも、就職させない方向にむいていると
言っても過言では有りません。

つまり、既成の会社においては、現状を維持する事は有っても
新たなる人員補充する気持ちは少なく、むしろリストラをしたり、
より低コストで雇える海外移住者で賄おうとする傾向が有ります。

今の若者たちが社会で生きて行ける条件は、新しい事業を生むか、
若者たちの新たなるコロニーを創り上げるしかないのです。
今の日本社会に多く存在する会社企業は、かつての豊富な需要と
豊かな人材で創られて来たものであり、いわば、社会的に豊かな
高度成長期を基盤にして作られて来たものです。

その為、今の社会の様に、経済が滞り、お金が流れない時代は、
リストラ、縮小経営と言った事に依って乗り切ることしか出来ず、
そんな中に、新たなる人件費支出の人員を入れる事は難しいのです。

今や、経済的に豊かにすることで潤うのは、これまでの社会で
豊かな資産を確保できた企業でしかなく、いわゆる富裕層が
潤うにすぎないのです。
オリンピックに関連した様々な事業は、国民を豊かにすると言うより
関連企業や富裕層の方々を豊かにするとしか言えないのです。

今の子供達、若者たちが、未来に於ける自分達の夢を抱く為には
既成の企業や社会システムでは無理が有るのです。
学校にいけない子供たちが増えていくのも、就職できない若者や
結婚できない人たちが増えていくのも、今の社会状況が、豊かで
生活に困らない人たちを基準にして作られているからです。

日本社会は、すでに、国民を豊かに出来る社会ではないのです。
どんなに経済的に豊かにしようと、貧しい人たちはいつまでも貧しく
裕福な人は、永久に裕福である様に作られているのです。
本当に、日本国民を幸せにしようと思うならば、苦しんでいる
若者達、子供達、そして多くの日々の暮らしすら悩む世帯の人々が
いったい何を望み、何をしたら本当に幸せに感じるのかを、
リーダーたちは理解しない限り、日本の未来はないと言えるのです。
彼らが、経済政策で日本を良くしようと考えている限り、
殆どの庶民は、今の生活から逃れる事は不可能なのです。


カジノが出来て、誰が潤うの!?

2016-12-15 15:10:12 | 日本人

ついに、カジノ法が成立しました。
果たして、日本に於いて、カジノが公的に認められて
人々は幸せになるのでしょうか。
これまで、国民が利用できる賭け事には、競馬、競輪、競艇
と言ったものが有りましたが、カジノが日本で定着すると
比べ物にならない程の莫大なるお金が動き、その結果、
政府の懐が一気に満たされると言う目論見でしょうが、
国民に与える影響は、悪い意味で、増えていくと思われます。

アメリカのラスベガスやマカオのカジノから生まれる莫大なる

流入流出資金は、国の経済を変える程とも言われます。
それこそ、日本政府は、カジノを作る事で一儲けを考えていると
言えるのでしょうが、経済的に豊かになったとしても、その見返りが
庶民に向かうとは考えられません。

当然、一獲千金を夢見る人が増え、中には散財して、路頭に迷う人も

一段と増え、社会の闇が一層深く広くなるとも考えられるのです。
何故、ここに来てカジノなのか、多くの方が疑問に思い、不安を感じ
異論を唱えているのですが、この理由は、考えるまでもなく、
これまでの、多くの巨大プロジェクト、国家レベル事業には、
そう、次期、東京オリンピックも同じく、莫大なるお金が動いていて
その甘い蜜を求めて、政治家の方々も前向きとならざるを得ないのです。

高度成長期から、日本における様々な大事業は、すべからく、政治家と

企業の癒着が繰り返され、国民は、利用されるだけだったのですから。
今や不況から抜けられないで喘いでいるのは一般の庶民であり、
カジノに関わったり、オリンピック事業に関わる人達は、
いわゆる、左ウチワであり、笑いが止まらないのです。

国民は、いつの世も、高い年貢、いや、税金を納めさせられ、

出来上がった様々な施設で散財を強いられ、貧乏から抜けられないで
一生苦しい生活から抜け出られないのが、日本の現状と言えるのです。

庶民の代表として選ばれた政治家たちも、いつの間にか、その地位に

胡坐をかき、棚から牡丹餅が落ちてくることしか考えていないのです。
素晴らしい弁舌は、自分達の言い訳には使われても、国民を幸せに
導くことは有りません。

いわゆる、勝ち組負け組と分けて考えられる様に、日本社会は、

経済的に豊かな生活を保障されている人が潤う様に作られています。
その為、人々は、周囲の人を蹴落としても、いやな思いをさせても、
自分だけはより豊かな生活を目指そうとします。

子供たちの教育も、そんな人間を育てる為のシステムとなり、
人を育てると言う、人間教育とは程遠いのが現実と言えるのです。
今や、政治家に、富裕層に、日本の多くの不景気を感じている人たちは
期待してはいけないのです。
彼らは、すでに、無能者であり、自分の事しか考えられない、我欲の塊
つまり、乳幼児となんだ変わりません。

自己弁護に関しては、天才的ですが、人々を幸せにする能力は有りません。

様々な天災に対する経済的な支援は有っても、精神的な配慮はないのです。
福島第一原発は、何十年どころか、何百年も、除染は不可能なのです。

私たちは、余りにも一部の人たちに期待しすぎていました。

彼らは、庶民の方を向いてはいません。いつでも、自分の方を向いて
美味しい蜜ばかりを探しているのです。
今こそ日本人は、心の自立を図らなければなりません。
自分自身が、自分が出来る事をしっかり見極め、周囲の人達とお互いの思いを
確認し合い、新たなる夢と未来を目指さなければなりません。

国は助けてくれません。勝ち組は、負け組の事は考えません。

心寂しい、人の気持ちを察する事が出来ない人たちなのですから。
まずは、目の前の人と、本心で話し合い、自分の思い相手の思いを知りましょう。
そして、二人で出来る一歩を進めましょう。

一人一人、そんな人たちを周囲に増やして行く事が、本来の日本人に戻れる

唯一の方法です。
経済的に豊かである事と幸せは同じでは有りません。
見た目の幻想に騙されて、つま先立ちの人生は、苦しくとも幸せでは有りません。
本当の幸せは、自分の足でしっかりと立って、自分の身の丈で世の中を見て、
他人の本当の思いを知る事です。


日本人の心が失われている

2016-12-13 21:13:08 | 日本人

最近、東日本大震災で故郷に帰れず、異郷の地で
生活する人達の悲鳴が聞こえてきます。
生まれた地を棄て、慣れない土地で生きて行く事は
単に、新たなる仕事を見つけて、食べて行く事と
言うだけでなく、その土地における先住者の方々と
トラブル無く、気持ちのやり取りをすると言う事です。

ただでさえ、知らない土地に来たことで、様々なストレスが
生まれるのに、日本各地に逃れた人たちに対する圧力が
イジメとなって、彼らの心を傷つけています。

特に、福島第一原発により汚染された地域から移り住んだ
子供たちに対する差別的態度と言動は、子供たちの心に
さらなる傷を生む事と成っています。

かつて、私が小学校の頃、ハーフの女の子が転校してきました。
今でこそ、ハーフであれば、もてはやされたりするのですが、
当時は、日本人に外国人の血が入っているというだけで、
子供達のイジメの対象となり、髪の色が違っていた事も有り
地域の人たちも奇異な目で見ていたものです。

私たち人間だけでなく、動物においても、自分達の群れに
違う動物が入ってきたり、少し形が変わっていたりすると
排除したりイジメたりする傾向が有ります。
これは、自分達の種を守る事として、動物界には多いのですが
人間においても、世界中で、あらゆる理由から、お互いに
敵対したり争ったりする傾向が、歴史を紐解いても
数多く見られます。

しかし、人間として、地球上に生きて行く為には、
様々な生き物に対して、理解を示さなければなりません。
増して、人間同士と成れば、顔かたちや境遇は違っていても
生きて行くには、お互いに助け合う事が重要です。

原発による被害を受けたこと以上に、被害の元凶の様な扱いは、
人として慎むべき事であり、自らの人としての価値を
失うものとなるのです。
人をさげすむことにより、自分の存在を高めようとする人は
いつの世にもいるものですが、誰かを苦しめたり陥れても
自分が幸せになる物でもなく、単なるエゴイズムに過ぎません。

今の世の中、自分の生活が豊かになれば幸せになると
思っている方が多く、地位や名誉、財産をより多く獲得し
人の上に立つことがステイタスと思っている人も少なく有りません。
しかし、誰かを蹴落としたり、不幸にしたり、いやな思いをさせて
自分の欲求を満たすようでは、いずれ、誰かに同じように
排除されるのが落ちと思えます。

人と集団で生きると言う事は、職場であっても、学校であっても
相手の存在が有ってこそ、自分の存在意味が有るのです。
人を否定すれば、己も否定されるされるのです。
そんな人生は、末路が見えているものです。

世の中が不景気になり、更には、数々の天災が各地を襲い、
多くの日本人が、路頭に迷っています。
彼らの思いは、災害を免れた人たちが想像し得ない程
深く辛いものです。
そんな人々の心をさらに痛めつける行為は、人として誰もが
蔑むものであるのです。

私たちは、苦しい立場に居る人たちに、経済的な援助の手を
差し伸べれば良いと言う訳ではないのです。
一番大切な事は、如何に傷ついた心を癒すことができるか
と言う事です。

日本は、昔から災害列島と言われ、豊かな自然が有るものの
様々な災害に見舞われてきました。
いつ何時、自分も被害者となり、路頭に迷う生活をしなければ
ならないかもしれないのです。
日本人は、そんな状況を踏まえて、誰もがお互いに協力し合い
気持ちを察しながら生きて来た民族です。

日本人の豊かな感性は、人を自然を思いやる心から生まれたのです。

どんなに経済的に豊かな生活をしていても、対人的な幸せがないと
日本人の心は安らがないのです。
何かの形で弱者に遭遇したとき、私達日本人は、何をしてあげれば
一番いいか考えられる民族です。
その日本人の心の根底が失われているのが、一番残念な事です。
単に、差別やいじめの問題と言うより、そんな人たちがいる事に
同じ日本人として、心から寂しく思うものです。