人の出会いと分かれは、人生に於いて
様々な道を教えてくれます。
今日が無事、いつもの様に終われば、
明日も同じように続いて行くと思い、
自分の未来に関して、日頃深く考える事は
少ないものです。
入学卒業就職と言った、社会的な節目は、
誰にでも予想が立ち、たとてドラマティックな
出来事であったしても、新たなる道への明るい
スタートとして考えられるため、心のダメージや
不安はないものです。
しかし、突如として起こる人との別れは、
それまで多くの関わり合いを持っているゆえに、
例えそれが仕方のない事としても、心の中が
納得するまで、息苦しさが残るものです。
出会いは、それまでの考え方生き方に
多くの選択が生まれ、自分の生き方に
何だかの影響を与える相手を受け入れる事です。
その為、それまで考えられなかった生き方や
考え方が新たに生まれ、新たなる人格形成に
大きな影響を与えます。
現代社会は、ネットの発展と共に、世の中が
非常に便利となり、世界中の殆どの物が
手に入る時代となりました。
画面の商品をクリックすれば、思いのままに
欲しいものが手に入れられます。
その為、居ながらにして欲求を満たすことが出来
社会は経済優先を個人の生活から生み出すことが
容易となったのです。
この事は、自分が欲する物を、途中に人を介せず
直接生産者や所有者から手に入れられ、究極の
個人主義を達成できる事でもあるのです。
しかし、この便利な社会は、一見理想的とも思える
未来社会を予想させそうですが、人が生きていくうえで
周囲の人々と関わらないと言う事は、ネットによる
便利な社会、つまり、コンピューターを中心とした
コンピューターに管理される生活となるのです。
あらゆる無駄をなくした、究極の便利社会は、果たして
私たち人類にとって夢なのでしょうか。
自分の考えすら最も優れた考えに置き換えられ、
常に与えられた模範解答の下に生きて行く事は
非常に恐ろしい事です。
多くの現代人は、このネット社会は、人間にとって
非常に都合の良い様に作られていくと考えがちですが、
その便利機能を発揮するネット自体が、私達に変わって
世界を動かしていく可能性はないのでしょうか。
いわゆる、人類の知能を遥かに超えた、人工頭脳が
支配する社会です。
私達人類は、何を行っても、必ず、何だかのミスを発し
失敗する事で様々な教訓を学び、文化を発展させて来ました。
しかし、人工頭脳は、ミスをせず、失敗をしないとしたら。
私たち人類の未完成な発展は、人工頭脳に、どの様に
判断されるのでしょうか。
映画の世界の様に、出来損ないの人類は抹殺されるのでしょうか。
そんなことは有り得ないと言うのが大方の考えでしょうが、
人類の歴史を見ても、想像し得ない事が実現してきているのです。
人は、未熟であり、何事においても失敗をするのが常です。
そんな時、誰かと考えを分かち合ったり、多くの人の意見を
持ち寄ったりしながら、より素晴らしい考えを生み出し、
人類の発展に寄与してきたのです。
この、様々な事を考え、試し、熟考しながら成長してきたのが
人類の証でもあるのです。
人生に於いて、最も相応しい選択を得られる方法が、多くの人と
関わり合って生きる事です。
お互いに未熟な部分、足りない部分を補い合いながら、
学びながら成長してきたのです。
それ故、別れは辛く悲しいのです。
コンピューターの考えとして、削除には感情はなく、
常に優れてると思われるものしか選択しません。
しかし、人間は、様々な判断を、その都度、お互いの心を知り
考えを確認しながら決めて来たのです。
人との別れを辛いと思う事に依って、人間としての成長を
確実なものとしてきたのです。
世界中を網羅するネットの勢いは、人類の英知を超えてしまう程の
スピードと正確さです。
いずれ、世界の情報は全て、ネットに組み込まれ、ネット自体が
一番的確な判断をした時、私たち人類は、地球との別れを強いられ
恐竜の世界が絶滅したように、この地上から消えるのかもしれません。
世の中のあらゆるものが便利になり、人と人の関係が薄れるにつれ
ネットに依る管理は益々強くなって行くと思われます。
それを、単に、便利で片づけて利用している時のリーダーたちは
やがて、ネット社会に捨てられる可能性すらあるのです。
人との別れを悲しむ人がいるうちは良いのですが、
自分の身の回りの人がどうなろうと関与しない人が増えて来るにつれ
いつの間にか、目に見えない力で私たちは管理されているのではと
人類の将来が、非常に不安で恐ろしく思えてしまいます。