連日の熱戦に、世界中がロシアワールドカップに注目しています。
特に、母国の戦いとなると、そのボルテージはマックスと成り、
普段スポーツにあまり関心の無い人達でさえ、まるで熱病に罹った
かの様な熱狂ぶりです。
我が国に於いても、試合が深夜に及ぶも、様々な会場で映し出される
濃紺のユニフォームに、老いも若きも声を枯らして叫びます。
スポーツは、世代を超え、宗教、種族を超え、誰の心にも熱い思いを
溢れさせます。
誰もが、思いを一つに出来ると言う事は、共通の価値観を持つ事が出来
スポーツは、良きに有れ悪しきに有れ、政治にビジネスに利用されがちです。
世界中が注目する所で認められれば、多くの人から信頼を得る事が出来
政治を司る人や多くの商業的利益を得ようとする人達にとっては、
絶好のチャンスと言えます。
特に知名度が高い選手で有ったりチームであったりすると、彼らの商業価値は
格段に高く成り、企業の広告塔として多くのスポーツ選手が莫大なる利益を
得ている姿に驚くと共に、彼らに憧れる子供達にって夢の存在と成っています。
例えマイナースポーツであっても、オリンピックや世界選手権で有名に成れば
その競技に関する商業的価値は天井知らずと言え、スポーツに憧れる子供
だけでなく、世界中の企業がその行方に熱い視線を注ぐのです。
とは言うものの、スポーツが人々が平等に戦える素晴らしい祭典とは言え
子供達の置かれた環境によって、未来が大きく変わっていく事実も有ります。
サッカーは、世界中で親しまれるスポーツと言え、選手が育つ環境は
著しく違っていて、同じ舞台に立つまでに、国によって環境によって
選手が育つ条件が著しく違っているのが現実です。
戦火が絶えない地域から、経済的に厳しい国内事情の発展途上国が有れば
近代科学の粋を集めた理想的なスポーツ環境から出場する選手もいます。
戦いの中では、ルールの下で平等とは言え、彼らの育つ環境の差は
想像を絶する程の違いがあるのです。
しかしながら、それでも才能を見出され、世の中に認められる選手は
良いのですが、才能が有っても、どんなに努力をしても、道が閉ざされ
折角の才能を開花させる事が出来ない人も多いのです。
スポーツは、実際に戦う時以上に、育っていく環境に於いても平等で
有る事が望まれます。
スポーツの中には、一人前になるには、莫大なる資金が必要で有ったり
継続するには、個人負担があまりにも大きいものも少なくありません。
華やかな舞台に立つまでに、選手のみならず、周囲のサポートが無くして
素晴らしい才能は育たないのです。
その為、多くの選手は、企業の広告塔として資金を得ているのですが、
スポーツをする事が、純然たるスポーツを楽しみ人々にその魅力を
伝える事から如何に多くの利益を得るかという方に偏ってしまう事が
様々なスポーツの分野で見られ、スポーツが単なる金儲けの手段として
利用される傾向が見られます。
現に、プロスポーツ選手は、如何に稼ぐかという事が目的なのですが、
その為に、不正を行ったり、社会的トラブルを生んでしまう事に成れば
多くの批判を浴びる事と成り、そのスポーツに関わる人達や憧れる
子供達をも落胆させる結果と成ってしまうのです。
この様に、スポーツのみならず、社会の先端に立ったり、社会的な
知名度を持つように成れば、おのずと、その経済的社会的価値だけでなく
人間としての評価も受ける事となるのです。
しかしながら、現代社会の於いて、スポーツの世界のみならず、政界
経済界に於いても、個人的な利益の為に、多くのトラブルを起こしたり
周囲の人達に苦しみや悲しみを与える人が少なくありません。
しかも、周囲を取り巻く人達も、その弁護をしたり、忖度をしたりと
自分たちの利益を目論む対象に対しては、事の善悪を考えられない
極めて人間として恥ずかしい言動や行動を平気で取ったりします。
仕事であろうが、スポーツであろうが、人の上に立つと言う事は
単に、経済的な地位や名誉や利益を得ると言うのではなく、
人間として、その地位に相応しい振る舞いや言動が出来ると言う事
つまり、人々は、いかなる人であっても、自分達の上に立ったり
自分達が理想とする事を叶えてくれる人には、人としての
豊かな人間性と、それを目指したり憧れる人達に幸せを
与えなければならないのです。
今の世の中、人々の上に立つ人や人々を導く立場の人達の
我儘な行動や言動が目立ち、社会的にも、自分の欲望を主張し
結果さえ良ければ何をしても構わないとする傾向が有ります。
頻発するハラスメントも政治家たちの疑惑の行動も、実のところ
自分の欲望の事しか考えず、自分の地位や名誉に対する責任や
義務を果たせず、目先の欲望に流されてしまう、人間的に未熟で
無能である事を暴露しているに過ぎないのです。
スポーツに於いて、観衆の面前で、正々堂々とルールに則って戦う
と言う事は、自分達が、不正な手段を使って勝利を勝ち取るのではない
と言う事を示していると言えるのです。
たとえ苦しい戦いで有っても、その結果、敗戦の憂いを背負ったとしても
その様な態度は、観衆に喜びと勇気を与えるものなのです。
スポーツの本来の目的は、選手も観客も、人間としての価値を見出す為に有り
その評価は、経済的利益ではないのです。
選手としての素晴らしい活躍が有り、それから得られる多くの感動があるからこそ
その見返りとして高額な報酬が支払われるものなのです。
しかしながら、多くのスポーツ選手の価値が、彼らの得た収益の大小によって
評価される事に依り、人々の選手に対する価値観も選手自体の考え方も
全てお金が基準となる事に依って、様々なトラブルや不幸が生れるのです。
商業的価値が有る時は、多くの人達にもてはやされるも、一度、価値が見いだされなくなると
まるでぼろ布の様に捨てられる現実は、選手すらも消耗品に過ぎないと言う事です。
あくまで企業利益の為の存在であり、見捨てられれば、自分の大好きなスポーツさえ
続けられないという現実があるのです。
ほんの一部のスポーツ選手が華やかな選手生活を送れるものの、多くの選手の行く末は
余りにも悲惨で有り、スポーツ界の夢と現実の差が、経済的にも人間的にも、多くの
有力な選手に悲惨な人生を辿らせる事にも成っているのです。
スポーツで利益を得るだけでなく、スポーツに関わった事で、その後の人生を
見失っては成らないのです。
オリンピックや世界選手権でヒーローとなる選手も、それを目指していた多くの選手も
人生に於いて、スポーツは、一生を通じて心の金字塔と成らなければなりません。
その為にも、いかなる仕事に就こうと、人生を安心して進める保証が必要なのです。
莫大なる利益を得なければ幸せな人生を送れない様な国では、国民は、いつまで経っても
幸せに成れないのです。
地位や名誉を得た人達、人々の上に立って社会を動かしていく人達が、自分達の地位を
自分達を支えてくれている多くの人達の支えになる様にしなければなりません。
誰もが、人生に於いてヒーローと成らなければならず、一生を通じて、自分の足跡に
胸を張れる国が人々の望む理想郷と言えるのです。