めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

故郷に故郷は無し

2016-11-19 14:30:19 | 日本人

仕事が忙しく、滅多に、故郷に帰る事が出来ませんが、
時たま帰ると、年月と共に、次第に街も人も変わって行くのが、
寂しくもあり、これが日本の現実なのかと、考えてしまいます。

私の故郷は、私の幼い頃に襲って来た巨大台風の影響で、全てが
変貌してしまったのですが、その後、復興して、立派な街になったか
と言えば、本当に寂れた、日本のどこにでも在るような田舎町に
なってしまいました。

美しい城下町は、ほとんどが新興住宅地となり、もともと住んでいた
何代も続く家系の家は殆ど消えました。
美しい水郷と田畑の街は、似つかわしくない幾つもの県外資本による
高層建築や高速道路が建設され、人々でにぎわう店は、ほとんどが、
大手企業による店舗となっています。

東京にあるスーパーやコンビニがそのままの内装設備で作られ、

殆どの地元の人たちは、そこで用をなします。
町内を流れる、かつて水遊びをした川は、一日中澱んだどぶ川となり、
メタンガスが泡となて浮いて来る川面を見ても、生命反応は感じられません。

そこには、都会で手に入らないものは全くなく、幾つかの店舗を覗いていると

一瞬、田舎にいるのか都会にいるのかが解らなくなってしまいます。
人々の情報も、テレビやメディアの影響が大きく、話題となる事は、
都会とほとんど変わりません。

私たちは、故郷に帰って、いったい、何を求めればいいのでしょうか。

故郷に住む人たちの望みも、都会に住む人達となんだ変わりません。
巨大な経済資本によって網羅された日本は、例え、田舎であっても、
人々の心は何だ変わらず、求めるものも経済的な欲求が殆どです。

いったい何を求めて生活しているのか、都会においても田舎においても

経済的な欲求を満たすように作られた日本社会は、人も自然も、全てが
消費をする事、経済力を増すことに終始し、人と人、人と自然の繋がり
心の成長が置き去りにされている様に感じます。

生命の躍動、息吹、感動が消え去り、無機質な環境の中で、与えられた

様々な消費物資を買い求める事で満足を得ようとする人々に、心からの
安らぎも思いやりも生まれて来ません。
日本中の自然の命、そして日本国民の思いやり安らぎを、経済力と言う
巨大資本でふみにじった現代社会に住む国民は、さらなる資本を投資しても
誰も幸せにはならないのです。

田舎に行っても、大手資本に牛耳られた街でもてなされるのは、その関連

店舗であったりとするのは、珍しい事では有りません。
地元の人達にとっては、一番のお気に入りかもしれませんが、都会でも
田舎でも、同じような大手資本で作られた店でもてなされても、
あまり嬉しいとはいえないのです。

日本中から、巨大資本を使って人々の懐から集金するシステムは、

便利で経済的という謳い文句で、国民の生活費を常に特定企業に集めると言う
日本経済の仕組みを作っているのです。
一部の大手企業が潤い、中小の企業は次第に疲弊していくのが、いつまで経っても
国民が豊かな生活を送れない原因でもあるのです。

しかしながら、この問題を解決する為にある私達の代表である政治家たちが

この、大手企業と密接なに結びついているのも、日本の現状でもあるのです。
他山の石である様に思える韓国の現状と何だ変わらないのが日本なのです。
人々は、メディアによってもたらされる都会の魅力に魅かれ、益々中央に
集まる事に依り、地方都市はさらなる経済危機を迎えるのです。

メディアを通して、一部の企業を益々強調し、人々の関心は、地元ではなく

コマーシャルに映し出される企業へと洗脳されて行きます。
この、一部大手企業を優遇する日本社会の構造は、戦後全く変わることなく、
日本社会は、ますます富裕層と貧民層に分かれていくのは明らかなのです。

所得の少ない国民から、広く確実に集金する事で国を潤そうとする

我が国の国策は、殆どの国民の生活を豊かにすることなく、さらには
幸せにすることは有り得ないのです。
日本のリーダーたちが、大多数の国民の代表でなく、一部のリーダーたちの
懐を肥やす人達の代表である限り、日本人は永久に幸せには成れないのです。