人は歳を重ねると、次第に、消極的になり、何事に対しても
情熱を燃やす事が出来難くなる傾向にあります。
中高年が、盛んに様々な事にチャレンジするのは、そんな自分への
抵抗であり、未来に対する恐れであるのです。
若い頃、特別に身体を鍛えたり、健康に注意しないのは、
心の中に、自分の未来に対する不安や恐れが、高齢者に比べ
少ないからなのです。
もちろん、最近のマスコミやネットの情報が、健康や運動の重要性を訴え
それに影響されて、若い頃から、運動や食事に気を使う人も多いのですが
高齢者と違い、今のモチベーションを高める為であり、衰える自分を思い
不安の中で行っているのでは有りません。
しかしながら、誰もが、中年に達する頃から、様々な健康不安に襲われ
それをけし立てる様なマスコミの情報もあって、嫌でも、身体に付いての
関心が高まって来るものです。
でも、本当に、自分がどの程度健康なのかを判断できる人はいません。
それは、たとえ医者であっても、その時の基準値から言っているのであって、
その基準値に一喜一憂していた人々が、その後の新しい基準値を知って
愕然としてしまう事からして、非常に曖昧であることが解ります。
もちろん、健康であることは大切なのですが、健康と言う言葉に囚われ
あらゆるマスコミの情報を鵜呑みにする事は、非常に無駄であり、
経済的にも肉体的にも精神的にもマイナスと言っていいのです。
一番大切な事、それは、いつも自分の身体の状態に向き合って、
自分の中で、日々感じられる変化に敏感になる事です。
これは、人それぞれであり、この事が健康であるための大切な条件なのです。
健康には何がいいかと言う、医者や学者の見解は、あくまで、その食べ物や
運動などが、人の身体に及ぼす影響の統計学であり、誰にでも当てはまる
ものではない事を知っていなければなりません。
当然健康食品や流行の運動に飛びつく人は、それを訴える人々の懐を
豊かにすることは出来ても、自分の目的を達成できるとは言えないのです。
とは言っても、多くの方が自分の生活や健康状態を、他と比較する事で
判断しています。自分より健康に見える人の健康法を真似たり、メディアで
知った多くの健康になると言う物を手に入れる事で健康になると信じています。
今や、世界中で健康産業が盛んなのは、いかに、人々が自分自身を
しっかりと見つめていないかという事です。
本当は健康なのに、いつの間にか病人になったり、自分の生き方がつまらなく
成ったりするのは、ほとんどの場合、自分と世間の情報との比較から生まれ、
一番大切な自分に向き合っていないからとも言えます。
人は、誰しも完璧ではなく、いつも不安を抱えているのが普通です。
しかし、それは、悪い事でも、いけない事でもなく、生きて行くうえで
とても大切な事なのです。
完璧でなく不安だからこそ、自分はどうありたいと言いう先の道を見つけるのです。
その時、一番大切な事、それは、自身と勇気を持つ事です。
自分に対する自信は、自分自身を高める為であり、誰からの指図よりも
崇高で力強いものです。
さらに、勇気とは、新しい自分になる為の、自分のエネルギーです。
自信と勇気は、決して他人と比較するものではなく、自分から生まれるものです。
どんな考えも、行動も、自身と勇気が貴方の未来への道を作ります。
人からや社会からの情報は、その道を進むときのアドバイザーと成ります。
歳を重ねると、この自信と勇気が無くなっていくのです。これは、若くても
無くなると歳を取った事と同じです。
特に、中高年ともなると、健康的にも様々な不安が増えてきます。
しかし、それでも生きて行く、新しい道に進んで行かなければなりません。
この時大切な事は、地位や財産では有りません。
進むべき道を作る、自信と勇気です。
私達は、時に、社会的と自分との比較で、歩みを止めたり悩んだりしがちです。
しかし、自分がどんなに悩んでも、社会の人々にはほとんどと言っていいほど
影響はないのです。
大切な事、それは、前に進む勇気と自信です。
これは、死ぬまで続けなければなりません。それが生きて行く事なのです。
私達は、生まれてこの方、時の長さを自覚する事は有りません。
物心が付いたときから、20年経とうが50年経とうが、
中身はそんなに変わっているとは思っていないのです。
でも、目に見える周囲の環境が変わり、家族一人1人の様子や
自分を取り巻く人々を見ると、その変化に自分がも変わっていると
勘違いしてしまうのです。
もちろん、鏡を見れば、自分の風貌が変わって来るのも解ります。
しかし、これら全ては、見えた様に聞こえた様に感じられたから
実際に存在する事実として納得しているのに過ぎません。
更には、文明の進歩により、時の流れが具体的に数値化され
いかに、自分が生きた時間が長いものであるかを自覚させられます。
この様に、あらゆる事が、自分の存在と周囲の存在を確認させ
日常における、自分の存在を教えられているのです。
でも、私達の身体は、誰もが生まれてから死ぬまで、一様に変化し
周囲の環境に関わらず、一生を終えて行くものです。
つまり、周囲がどんなに変わろうと、自分の環境がどんなに変わろうと
自分自身の存在は、生まれてから死ぬまで、生物として刻々と
その命を繋いでいるに過ぎないのです。
私達は、いかなる環境にあっても、生き物としての存在価値は
差ほど変わるものではなく、自分が、置かれている環境に合わせて
自分の存在を決めているにすぎないのです。
苦しみも悲しみも、一様に感じるものであり、その程度によって多少
気持の持ち方は変わるものの、身体の中の変化は殆ど誰しも変わらず
人類の一人として存在しているにすぎないのです。
私達が生まれて、どんな環境で生きる事に成ろうと、
外見的に見れば様々見えるかもしれませんが、それは、洋服の様な物で
中身の人としての価値は差ほど変わらないのです。
それを変わっている様に感じるのは、環境を見て人を見るからなのです。
人間の価値を、その人の置かれている環境で判断すると、人として
一生物として、充実した一生は終えられないのです。
生きる為に、環境を選び、社会的地位を選んでいるのであって、
その人の中身は、生まれて差ほど変わっていないのです。
様々な鎧を身にまとい、外見で威嚇しているにすぎないのです。
殆ど変らない中身を基準にしていれば、いかなる環境にあっても
生きて行けるのが人間の性でもあるのです。
立って半畳、寝て一畳と言う諺がが有ります。
人間は、立って畳半畳で寝た時、畳一畳あれば生きていけると言う
しょせんそれだけの存在と言い、天下を取っても同じと、人を戒める
諺と知られていますが、要は、何をしても、中身は同じ一人の人間であり
あらゆる環境で生きて行けるようになっているとも言えるのです。
世の中の基準は、時に、自分を苦しめ、心の大きな負担と成ります。
しかし、望む基準に達したとしても、それで自分の価値が上がったと
言う訳では有りません。ただ、存在環境が変わっただけなのです。
つまり、いかなる時も、生まれて死ぬまで自分を失わなければ
人間として有意義な一生を終える事が出来るという事です。
私達は、生きている本当の自分をもっと大切にしなければならないのです。
昨年の夏は、代々木公園で蚊に刺された人がデング熱に罹り、
都内の公園や森は、デング熱を媒介する蚊の駆除に大変でした。
我が家の近くの公園も、連日、朝から、区の職員が、殺虫剤の入った
大きな噴霧器を持った仰々しい出で立ちが目に付きました。
しかしながら、今年は、猛暑のニュースで連日追われ、
昨年のデング熱の事は全く頭にありませんでした。
公園には、蚊に刺されない様に、注意書きの看板が有りましたが、
もう誰も気にする事も無かった様です。
近年、地球温暖化の為か、日本の自然も随分変わってきて、
熱帯地方にしかなかったと思われたデング熱の患者が都内に出たり、
南方性の動物や植物が次第に北上するなど、今や日本は
温帯地域と言うより、亜熱帯地域と言っても良いほどの変わりようです。
こんなニュースを聞くと、私達を取り巻く環境が著しく変わって来たと
誰もが思ってしまうのですが、もっと変わっているのが、私達自身の
身体であることを余り知りません。
戦後、日本人の食料事情がどんどん欧米化し、米や魚を主食とした
従来の食事が、肉や乳製品を主体とした、高カロリーの食品に変わり、
更には、食品の管理衛星の為に様々な添加物が食物に加わりました。
今や、何処のマーケットや食品売り場で売られている食品の表示を見ても
見るだけでうんざりする、一体何の添加物なのか解からない薬品が
記載されています。
この事に対し、表示してあると言う確認は出来ても、私達多くの消費者は
その添加物がいかに私達の身体を変えてきているかは知りません。
流通機構の発達により、より新鮮に遠くまで長い期間変質しない様、
次から次へと、見た事も聞いた事も無い薬品が登場します。
例え、これが、日本の辺境の地で採られた食品であろうと、流通すると
必ず、何だかの添加物が幾つも加えられ、新鮮で自然と思われる
様々な地域の産物にも、知らない内に、薬品が添加されているのです。
つまり、私達は、自らの手で食料を手に入れず、流通機構を通して
いる限り、誰でも、様々な添加物を毎日体内に取り込んでいるのです。
問題は、例え政府が安全宣言をしたとしても、これらの添加物は
私達の身体には必要のない物なのです。
極端に言えば、流通の為に必要であり、私達は、必要でない物を
いつも取り込んでいるのです。
本当に私達の食は安全なのか、日本人の食べる物は、日本人の身体を
健康にしてきたのか、実際は、どうだったのしょう?
医学的な見地からすると、日本人の体型は、戦後欧米並みに大きくなり、
先進国の一員として、健康な生活が出来るようになった、と表向きは
日本人の健康を説明しますが、実際のところ、中身はどうなったのかと
尋ねれば、途端に、難しい顔になるのが普通です。
一番の問題は、体質的に、多くの方の免疫が低く、ほんの少しの
環境変化で簡単に病に伏したり、生活能力が落ちたりするようになったのです。
一年を通して、様々なアレルギー障害に悩む人が多く、春夏秋冬の
日本の四季に馴染めず、季節変りに体調を落とす人が多くいる様になりました。
この事は、様々な原因が取りざたされ、断定はできないものの、日本人の
戦後の生活が大きく変わってきた事に由来する事は明らかです。
石油精製物質である、様々な食品添加物が、長く使われた後
発がん性が有る事が解り、使用禁止になった物が幾つもある中で、
今でも数えきれないほどの薬品が安全と言うお墨付きの元、毎日
私達の体内に取り込まれています。
日本人の体質が一様に弱体化し、同じようにアレルギー体質が生まれるのは
明らかに共通の食品が原因であることが最近解って来ました。
多くの添加物が、私達の身体の機能を変え、それまでにない病の原因と
解ってきながら、いまだ、食品として、ごく当たり前に使われている事実が、
将来の日本人の身体をいかに変えて行くか、本当に恐ろしい事です。
食べ物によるアレルギーは良く知られていますが、最近では、国民病と言われる
ガンや心筋梗塞、脳卒中ですら、食品が多く関係していると言われています。
更には、アルツハイマーやパーキンソン病と言った難病も、私達の生活で
摂取した様々な添加物の影響が有ると言う学者も増えています。
私達は、より文化的で機能的な生活を求め、様々な物を開発発明してきました。
しかし、その事が、私達の身体と心をむしばんでいる事に気が付きません。
世の中の栄華に目を奪われ、マスコミの誘いに疑いも無く、自分の健康な
身体を提供していく私達の生活は、決して、健康で、豊かな生活では有りません。
今や、ネットを通じ、世界の情報、流通は究極の発達を遂げています。
求めれば何でも手に入る世の中です。
そこに求める物を、他人や生産者に任せる時代は、もう、たくさんです!
何でも選択できるという事は、本当に自分にとって必要な物は何か、
何をしたら自分にとって一番良いかを選択できるという事です。
添加物表示を安全性と考える時代では有りません。
変わりゆく地球の変化を嘆くのではなく、生きる新しい術を見つける時代です。
1人1人が世の中に合わせて行くのではなく、自分が生きる為に、
世の中に合わせて行く事が大切です。
生きるという事は、自分を生かすために、自分の周りの物すべてを
しっかりと見据えて、自分の生きざまを見つけて行く事です。
かつて、大都会東京に住む事の孤独を伝えるドキュメンタリーが
有りました。
物凄い数の人々が集まる東京にあって、仕事に於いても街を歩いても
沢山の人に接しながらも、次第に孤立感を増す若者の番組でした。
この事は、現代においても、人々の心の闇として、大きな問題となって
解決されず、様々な世代の人々を苦しめています。
ネット社会になってからは、世界中の情報が瞬時に手に入り、
生活が便利になった半面、ネットの中でさえ孤立感を増し、現実の社会でも
ネットの社会に在っても、自分の居所を見つけられない方も多いです。
現実社会は増々巨大化し、どんどん機能の合理化が進んでいるにも関わらず
自分自身は全くついて行けず、蚊帳の外に居る様な孤独感を感じている若者も
少なくありません。
こんな人々に共通の感覚は、本当の自分の心を理解してくれる
身近な環境が存在していない事です。
共通の話題や仕事でやり取りできる人は多くとも、自分自身の
心の奥底を語れる人がいないのです。
出来るだけ、人との煩わしさを避けたり、トラブルを避けたりするために
当り障りの無い話題に終始する生活は、自分を見失いやすく
自分自身を癒す事が出来にくくなります。
確かに、人と付き合ったり、家族を持ったりすると、様々なトラブルが生じたり
思っても見ない人の気持ちに驚いたり心を痛めたりもします。
しかし、それは、人と関わることによって生じる当然の摩擦であり
それが無いという事は、より深い関係や喜びを得る事が出来ない事にも
なるのです。
問題は、そういったトラブルではなく、様々な思いがけない事や
自分と違う考えや意見が出た時、いかに上手く対処して理解できるか
という事です。
人は、あなたと同じく、トラブルに巻き込まれたくないし、傷付きたくないと
思っています。そして、同じく不安な気持ちで一杯なのです。
自分が思うと同じく人は傷つく自分を恐れているのです。
人と関わる事で大切な事は、その深い心の弱さが誰にもあり、
そのデリケートな部分を認めてくれることを望んでいるのです。
生きて行くには非常に不安定で外には見せたくない弱い部分が
誰にでもあります。
しかし、その部分を認めてくれたり癒してくれる事を誰もが望んでいます。
大切な事は、人に関わらない事ではなく、人それぞれが持つ
その人だけの気持ちを理解しようとする事です。
胸襟を開けない相手と人は一緒に居られません。
この事は、素晴らしい友を得る事、生涯の伴侶を見つける事と同じです。
本当の人の心は、一般論で簡単に語る事は出来ません。
1人1人全く違っているのが当たり前なのです。
その、心の奥底の非常に傷つきやすい部分を理解しようとする努力が
家族を作り、親友を作り、そして、自分の癒される場所を見つける事に
繋がって行くのです。
子供の頃から、テレビや映画のヒーローに憧れ、
その恰好を真似し、あたかも自分が憧れの人に
なったかのように遊んだものでした。
また、学生時代は、憧れのスポーツ選手を夢見て、
その選手の技術を真似し、同じような格好になるよう
自らの身体をトレーニングしたものです。
この憧れが無くなった時、私は歩みを止め
自らの過去を思う事が多くなりました。
私達は、生まれてこのかた、様々な事を体験し
多くの知識を得る為に学校に通いました。
しかし、いつの間にか知識を得る事が目的となり、
その知識量を競う事が将来を決定するかのように
頭の中は刷り込まれる様になりました。
その典型が受験勉強であり、子供たちの本分の様に
世の中に認識される様になったのです。
しかし、膨大な知識を得た事により、一体自分は
どれだけ進歩したのでしょうか。
誰もが歩む道を同じく進む事によって、学生としての
役割を果たしてきたのでしょうか。
知識の量は、本人の価値とは何だ関係が無いのです。
何故なら、今や、世界中からあらゆる知識が瞬時に手に入り
自分の頭に入れておく必要が無くなってしまったからです。
どんなに記憶力の良い人も、コンピューターから得られる
膨大な知識には敵いません。
私の部屋を見渡すと、少なくなったとはいえ、多くの書籍が
所狭しと積まれています。
しかし、中には何十年も開いた事も無いものも多くあります。
沢山の知識が詰まっているとは言っても、今の私にとって
見ない限り何の訳にも立ちません。
つまり、私達は、知識を自分の生活に生かした時、初めて
その価値を見出すことが出来るのです。
頭脳に収められた膨大なる経験や知識も、使われなければ
単なる過去の記憶に過ぎません。
子供の頃や学生の頃、憧れて自らがその存在に成ろうとした
あのエネルギーが未来を創るのです。
自分はこれから何をしたいのか、何になりたいのかの強い憧れが
年を重ねると急激に無くなって来るのです。
年齢相応身分相応の事は日常の習慣として誰でも気が付き
ただ時がどんどん過ぎて行く事を実感します。
ボーッ!と書棚を眺めても、そこから本を手にすることなく、
同じような毎日が続いていく事が一番の老化である様に思えます。
自分の思いや憧れに、純粋に飛び込める時は、幾つになっても
充実した日々が過ごせると、自分に言い聞かせる毎日です。