2011年4月11日にミンスクの地下鉄で起こった爆発事故からも1年経ちました。
(詳しくは過去ログをご覧ください。)
http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/29a41590f217ffdaade9b7ecabbd33cc
2008年7月にミンスクで起きた爆発事件についてなどはこちらのページを検索してください。
http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/244be54965ebd1e4ce48ab368dfdc13f
この1年日本のほうがよっぽど大変だったので、ミンスクの事件についての追加情報のようなものは更新してきませんでしたが、1年経ったのを機に書いてみようと思います。
事故後、重体だった人がその後数名病院で亡くなり、この事件の死亡者数は15人になりました。
関係者数名が逮捕されましたが、その後事件の関連が薄いとして、釈放された人もいて、実行犯である2人が裁判にかけられることになりました。
この2人はビテプスク出身の男性で、2011年の事件だけではなく、2005年9月にビテプスクで、2008年7月にミンスクで起きた爆発事件の容疑者でもあります。
時間の経過順に書きますね。
主犯であるドミトリー・コノバリョフ(26歳)は子どものとき「落ちこぼれ」だったそうですが、化学だけはいつもよい点を取っていました。(テレビ番組で中学生のときの通信簿が公開されていました。)
化学が得意だったのは、爆発物を作るのが趣味だったからです。爆発物を作っては森の中で爆発させて、そのようすを写真に撮って集めていました。
16歳だった2002年にはビテプスクの児童図書館の壁や自転車に乗っていた通行人に爆発物を仕掛け、爆発させたことが現在分かっています。
中学卒業後、専門高校に入学しますが、2005年(19歳)のとき中退しています。
もう1人の犯人であるウラジスラフ・カバリョフはその頃ドミトリー・コノバリョフと知り合い、いっしょに爆発物を作ったり、爆破実験をするようになりました。カバリョフのほうは自称テロリストだそうです。さらには2人で秘密の実験室を家の地下部分に作り、化学薬品などを集めて、研究していました。
コノバリョフが中退した後、2名が死亡するビテプスクの爆発事件を起こしています。
その前後と思われますが、コノバリョフは非常に生活が荒れており、ウオッカを大量に飲んだり、手首を切る自殺未遂を3回も起こしています。
ビテプスクの爆発事件で使われた爆発物には、被害を大きくするため、小さい金具がたくさん詰め込まれていましたが、その金具の多くが目覚まし時計の足に使われる部品であることが分かりました。
ビテプスクには時計工場があり、そこで製造されている目覚まし時計の部品がたくさん使われていたのです。
そこで捜査当局は犯人をビテプスク時計工場に何らかの関わりを持つ人物であると推定していましたが、犯人逮捕にはつながりませんでした。
後になって、コノバリョフの父親がこの時計工場で働いていたことが分かっています。
コノバリョフはトラックの部品を作る工場で働き始めましたが、カバリョフといっしょに爆弾を作ることは続けていました。
そして2008年のミンスクでの爆発事故を起こしました。当時重要参考人として写真が出回っていた「黒い袋を持っていた男性」はこの事件には無関係だったんですね。
そのときのニュースで、
「この事件はテロではない。フーリガン行為である。」
と報道されたのを知って、カバリョフは非常に不満を感じたそうです。
その後コノバリョフは軍隊に入りました。ベラルーシに徴兵義務があるからです。
そのとき指紋を採取されたのですが、2008年の事件のとき爆発物が入っていた袋から採取された指紋は不完全で、コノバリョフが犯人だったとは分からなかったそうです。
後になって、指紋が一致していることが分かった・・・とかベラルーシ捜査局、大丈夫かしら? と思いました。
徴兵義務が終わり、家に帰るとき、コノバリョフは軍施設にあった消火器2本を盗んだことが分かっています。(これも2011年の事故後明らかになりました。)
消化器を爆発物の材料にしたかったからだそうです。
そしてビテプスクに戻ったコノバリョフは自宅ではなく、アパートの一室を借りて1人暮らしを始めます。カバリョフと再会し、再び爆発物を作り始めたのが2011年3月ごろ。
4月10日、爆発物の入ったカバンを持ったコノバリョフはタクシーを呼んで、駅へと向かいました。
そのカバンをトランクに乗せたタクシー運転手は
「黒い大きいカバンで、重かった。重さは20キロぐらいだった。」
と証言しています。
先にミンスクへ行っていたカバリョフはミンスク市内のアパートの1室を数日間の契約で借りていました。
そして4月11日、知り合いの女の子に電話をして
「もうすぐ自分の友達がミンスクへ来る。いっしょに飲まないか。誰か女の子を1人連れてきて。」
と話しています。
その女の子(事件直後、関係者の1人として逮捕されましたが、その後釈放され、現在では証言者の1人となっています。)は自分の友だちの女の子を連れて、カバリョフに教えてもらったとおり、アパートにやってきました。
コノバリョフもビテプスクから到着して、事件当日の昼間には地下鉄の構内を下見していた様子が防犯カメラに写っていました。
アパートで4人が集まり、夕方までウオッカを飲んだりしていたそうです。爆発物はアパートの片隅に隠されていました。
女の子たちにコノバリョフは
「今日は大事な用事があるので、飲みすぎないようにする。」
と言って飲むウオッカの量を控えていたそうです。
そして夕方コノバリョフはカバンを持って、出て行きました。行き先は地下鉄・・・。
改札口を通過するコノバリョフが防犯カメラに写っていますが、その横で警官がタダ乗り防止のため改札脇に配置されている検札員のおばさんと談笑している様子も写っていました。二人とも改札口を通る乗客のほうをちゃんと見ていません。
(ベラルーシの地下鉄は各駅の改札口に警官が常時配置されています。1999年に地下鉄で将棋倒しの50名以上が死亡する事故が起きてからこうなりました。)
ちなみにこの爆破犯が改札を通過するのをちゃんと見ていなかった様子が防犯カメラに写っていた警官は、事件後、事件の犯人が現場に入るのを阻止しなかったということで3年間の禁固刑を言い渡されています。
(ちょっと酷なような・・・。いちいちカバンの中身を見せるような体制になっていなかったですよ、当時は。)
爆発が起きたのは17時55分。
そのとき、オクチャブリスカヤ駅構内には約1000人の乗客であふれかえっていました。
「爆発後、しばらく誰も口を聞けず、静まり返っていた。」という証言がありましたが、駅構内に設置されたたくさんの防犯カメラの映像を見た限りでは、とてもそんなふうには見えませんでした。
爆発そのものはかなり大規模で、構内は壊れたさまざまな物が飛び散り、パニック状態になった1000人の人たちが、車内から、あるいは地上へ逃げようと、必死になって走っているようすが写っていました。(涙、涙、涙です。)
爆発物を遠隔操作で作動させたコノバリョフは、自分自身も両頬に怪我をしましたが、現場を去りアパートへ帰っています。アパートで4人はテレビのニュースを見ていましたが、女の子の1人が
「コノバリョフとカバリョフは悲惨なニュースを見ながら笑っていた。」
と証言しています。
そして4人はアパートで酒盛りを始め、夜遅くにウオッカがなくなったので、店へ買い足しにまで行っています。
翌朝、特別捜査班がアパートに乗り込み、身柄拘束。そのときのようすがビデオ録画されていますが、
「氏名を言え!」
と言われて、二人ともろくに答えられないようすがテレビ放映されました。
テレビのアナウンサーは
「二日酔いでまともに話すこともできません。」
と言っていましたが、私からするとまさかこんなに早くばれるとは思っておらず、ショック状態になった2人に見えました。
その後裁判が始まりました。
裁判は通常の裁判所では行われず、法律関係の施設内にあるコンサートホールのような会場で行われました。
舞台の上に檻が設けられ、舞台下手から警官に小突かれるようにして、手錠を後ろ手にはめられた2人が檻の中に入れられます。ベラルーシでは裁判所の法廷に檻が置いてあって、殺人などの凶悪犯罪の被告は裁判中、檻の中に入れられた状態で、裁判を受けます。
今回はコンサート会場の舞台の上にその檻をわざわざ置いて、観客席が傍聴席になっていました。裁判官も舞台の中央に座っていました。
そして裁判のようすはテレビで放映されました。
普通は法廷内スケッチという絵を報道しますよね。しかし、今回の裁判ではスケッチどころか、裁判そのものを全国に生中継していました。
傍聴席には遺族のほかこの事件のせいで身体障害者になった人が車椅子でやってきたり(そのようすも全部放映。)1000人ぐらいの傍聴人や報道陣が会場に詰め掛けていました。
そしてその人たちの前で檻に入れられ、針のような矢のような視線にさらされた被告2人・・・。
どんな気持ちだったのでしょうか。
被告2人は容疑を認め、犯人でないと知っていないと思われる事件の詳細も語りました。
取調べ中、爆発物を作ってみろ、と言われたコノバリョフは30分で小型の爆弾を作ったそうです。
(こういう才能をもっと世のため人のために使うようになっていればよかったのに・・・。)
弁護人も(一応)つきましたが、死刑判決が出ました。
遺族感情も、また国民全体の感情も激しかったので、死刑は当然、という発言が多く、遺族の1人は「この判決を待ち望んでいました。」と話していました。
裁判中、コノバリョフの母親がテレビのインタビューを受けたこともありましたが、声も手もずっと震えっぱなしでした。
「息子は普通の子どもだった。」とか話していましたが、何を言っているのかよく分かりませんでした。
そして2012年3月、コノバリョフとカバリョフの死刑が執行されました。(やっぱり早い・・・。)
事件が起きて1年。ミンスク市内では追悼式典が行われました。その事件の犯人はもうこの世にはいません。
死刑は是か非か、という問題提起をここでするつもりは私はありません。
しかしやはり日本とはかなり異なる部分がベラルーシには多いと感じました。
そして死刑の時期が早すぎるとか遅すぎるとか議論する前に、この二人が逮捕されてよかったと思います。
もし今回の事件でも逮捕していなかったら、同じような爆発事件をこの2人は必ず繰り返していたと思うからです。
でもできたら2011年4月11日の前に逮捕しておいてほしかったです。
もう二度とこのような事件が起きませんように・・・。