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ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

チェルノブイリ原発事故発生から26年ですが・・・

2012-04-26 | 放射能関連情報
こちらはチェルノブイリ原発事故発生から26年を迎えました。
 毎年恒例ですが、ベラルーシでは大統領が追悼式典に出席するためヘリコプターで飛び立ちます。

 それはいいとして・・・
 去年3月15日にベラルーシの大統領はロシアの大統領(当時)とベラルーシ国内に原発を建設することを合意しました。
 ロシアがベラルーシに原発を建設し、それにかかる費用のうち90%は原発から生み出される電気をロシアに輸出することにして(つまり現物払い)、残りは10年の分割払いにする、と言うことでした。
 しかも計画によると2017年に第1号炉、2018年に第2号炉を建設するらしいです。

 この話が進んでいると思っていたところへ、今年の2月20日にベラルーシの大統領が原田親仁駐ベラルーシ日本国特命全権大使と会談し、ベラルーシに原発を日本企業が建設してほしい、さらに軽自動車の工場もベラルーシに建てて、製造をする・・・という話があったそうです。
 日本側からの発表では原発を日本が建設する話はないです。(日本自動車企業の軽自動車工場の話もない・・・。) 

http://www.by.emb-japan.go.jp/j/info001_j.html


 しかしベラルーシの新聞には大統領が
「次に日本が原発をどこかに造るとしたら、ベラルーシを第1候補に挙げてほしい。日本人は美しくよい原発を建設することができる。(福島第1原発事故については)それは格の平和利用が不要になったということではない。」
と発言した、と掲載されました。
 さらには
「核エネルギーの利用なしに日本が今後発展することはおそらくない。」
と発言。

 どうなるんでしょうか? これを聞いてロシアとの話はもううまく行ってないのではないかと、私は思いました。
 チェルノブイリ原発事故と福島第1原発事故という共通項ができ、さらなる協力関係も生まれた日本とベラルーシ。助け合うのはいいけれど、原発の建設まで日本が助けるようになるのでしょうか?
 そして「原発と軽自動車」という組み合わせにも、変な気持ちになったのは私だけでしょうか?
 

ベラルーシで笙の演奏

2012-04-24 | ベラルーシ生活
 4月18日から20日の3日間、日本の伝統楽器、笙の演奏家である真鍋尚之さんがベラルーシを訪問されました。
 真鍋先生のHPはこちらです。
「笙って何?」
と思った方もぜひこちらをごらん下さい。

http://www2.odn.ne.jp/gagaku.manabe/index.html


 真鍋先生は1年前から文化庁文化交流大使としてドイツに滞在しており、コンサートやワークショップのためにヨーロッパ各国を訪問されています。昨年12月にはロシア・モスクワを訪問したのですが、そのときロシア人がメンバーなのですが、日本の伝統楽器を演奏しているグループ「WA-ON(和音)」と共演しました。
 それがきっかけで、ベラルーシのミンスクでもコンサートやワークショップを・・・という話が出て、今回実現したのですが・・・。
 
 実はこの「WA-ON」から私のところへ1ヶ月前電話があり、真鍋先生の通訳を頼まれたのです。
 「WA-ON」には日本外務省所管の国際交流基金のモスクワ支部の方から連絡が来て
「ミンスクで通訳がいるから適当な人を知らないか?」
という依頼がきたのです。
 最初は「同時通訳できる人」という条件だったので、断ったのですが「逐次訳」でもいいと言われて、承諾しました。

 それで私の氏名や電話番号、メールアドレス、HPのアドレスなどが全て、国際交流基金のモスクワ支部に伝えられ、通訳料も国際交流基金の予算として計上されることになりました。
 さらに「WA-ON」もモスクワからミンスクへ行って合流し、真鍋先生と共演することになったのですが、その往復交通費も国際交流基金から出ることになりました。
 
 ベラルーシへはめったに日本の演奏家が来ませんし、「WA-ON」もミンスクでの初めての演奏、ということで、期待に胸ふくらましていたわけです。
 ちなみに「WA-ON」のHPはこちらです。(英語バージョン)
 ロシア人ですが着物を着て、お琴に太鼓・・・すごいです。ベラルーシにはない・・・。そしてWA-ONのリーダーが真鍋先生のブログにも登場するモスクワ音楽院のカラティギナさんです。

http://www.worldmusiccenter.ru/en/wa


 ところが、ミンスクに全員集合する日から数えて5日前、別件でミンスクにある日本大使館から電話がかかってきました。
 別件というのはチェルノブイリ関係の日本人団体がベラルーシに来るけれど、頼んでいた通訳が急に行けなくなったので、代役として来週1週間ほどゴメリに行けないか? という問い合わせでした。
 でも私は真鍋先生の通訳が入っているので、ミンスクを離れられないので断ったのです。
 すると大使館員さんはびっくりして
「真鍋先生の通訳は大使館が見つけたベラルーシ人の学生がすることになっており、しかも通訳料は無料ということになっている。」ということでした。
「Tさんは誰から頼まれたのですか?」
ときかれたので、モスクワの「WA-ON」で、しかも「WA-ON」は共演することになっているでしょう? と尋ねると、大使館側は「共演なんて聞いていない。」
と言うのです。

 どうなってるの? 分かりやすく言えば、国際交流基金のモスクワ支部が立てたプラン(と予算)さらに、在ベラルーシ日本大使館が立てたプランの二つが存在している、という状態で、しかもお互いの連絡が全くなかったようなのです。

 しょうがないので、私は通訳を辞退し、そのことをモスクワの「WA-ON」に伝えました。
 「WA-ON」のほうも在ベラルーシ日本大使館が立てたプラン(共演のコンサートの予定なしのプラン。)について全く知りませんでした。

 私は在ベラルーシ日本大使館に「WA-ON」のほうにそちらの予定とか通訳は誰がするのか氏名など伝えてほしい、と頼みました。電話口では「分かりました。」と言っていましたが、その後、「WA-ON」メンバーに聞いたら
「在ベラルーシ日本大使館側からは何の連絡も受けていない。」
と言っていました。
 
 出発前の混乱ぶりは真鍋先生のブログでもうかがえます。

http://www2.odn.ne.jp/gagaku.manabe/manabe.html


 このブログですが、ちょっと分かりにくいので、HP目次の「戯言」をクリックして、ブログへ飛んでください。それから左側の過去記事「2012年4月」をクリックして、記事のタイトル
「4泊5回」「Minsk1」「ミンスク~カールスルーエ~ケルンまで・・・ 」
をご覧ください。

 宿泊先のホテル名も事前に連絡なかったんですね。
 18日お昼には「WA-ON」もモスクワからミンスクに到着したのに、その24時間後に私に電話があってきいたら
「真鍋先生もミンスクに着ているはずなのに、居所が分からない。宿泊先のホテルも分からない。在ベラルーシ日本大使館側の人間にも会っていない。」
と嘆いていました。
 結局3日間の滞在中、「WA-ON」メンバーと在ベラルーシ日本大使館側の人間は全く会うこともありませんでした。

 こうして二つの主催者による二つのプランが、ぐちゃぐちゃな状態で始まりました。真鍋先生のブログにある成功したワークショップ、というのは、「WA-ON」側がベラルーシ音楽院とセットしたものです。

 画像がこちらで見られます。

http://veleskevich.com/naoyuki-manabe-bgam


 私は同じ日の夕方にベラルーシ音楽院内で行われたコンサートに行ってきました。
 めったに聞けない楽器の演奏が目の前で聞けて、本当に運がよかったです。もう少し人が集まってほしかったのですが、何せ事前の準備がぐちゃぐちゃだったので、全く予定が早めに立てられず、「WA-ON」メンバーから最初は
「午後2時開始です。」
と言われていたのですが、当日の朝電話があって
「Tさん、5時になりました。」
昼には
「7時に変更になりました。」
と連絡が来たぐらいです。
 私ももっと知り合いに声をかけたかったのですが、時間も直前になるまで分からないので、宣伝もままならない状態でした。
「ミンスクに着いても、真鍋先生にはすぐ会えないし、日本大使館側は会おうともしてくれないから、こちらの予定が立てられない。」
とWA-ONメンバーはとても困っていました。

 でも笙の音色に感動して、(特に細い竹の筒なのに、とても大きい音が出るので驚きました。魔法みたい・・・。)これは娘にも聞かせたい、と思い、最終日にあった(今度は)日本大使館側がセットしたコンサートのほうに娘を連れて行きました。
 そのときのようす(さらには裏話)は真鍋先生のブログに詳しく書いてありますので、そちらをご覧ください。

 見ていて思ったんですが、会場になったバレエ学校側と大使館側の意思疎通も事前にちゃんとできていないようでした。
 バレエ学校の生徒さんが「来てくれたお礼」ということでバレエの演技を披露して、私などは今日はバレエも見られてよかった、と思ったのですが、それならそれで会の進行とか、段取りとかちゃんと考えないといけないところをしてなかった様子が見受けられました。
 しかも会場に来ていた人のうちバレエ学校の生徒がたくさん来ていたらしく、同級生がバレエの演技を披露すると、音楽には興味がないのか、帰ってしまう子どもが多かったです。
 バレエ学校の生徒ではなく、もっと音楽関係者のベラルーシ人をたくさん招待すればよかったのですが(しかも文化庁文化交流関係の演奏なので入場無料。)日本大使館側も自分たちがセットしたコンサートなのだから、もっと宣伝したり招待状を配ったりすればよかったのに、と残念に思いました。

 でも演奏が終わった後、知り合いに会ったのですが、みんな感動していましたよ。
 うちの娘も喜んでいて「吹いてみたーい!」とか「息継ぎはいつしてるの?」とか言っていました。(笙は吸っても吐いても音が出るのだそうです。私なんかハーモニカもうまく吹けないのですが、もしかしたら笙なら吹けるかも? と思ってしまいました。妄想。)
 真鍋先生の超絶技巧も見られたし、本当に運がよかったです。

 しかし通訳料のことだけが気になっていたので、コンサート終了後、日本大使館側に
「私の通訳料金は国際交流基金の予算に計上されているんですが、実際の通訳は私ではなく学生で、しかも無料なんですよね? そのことを国際交流基金モスクワ支部に大使館から伝えておいてください。国際交流基金のお金が宙に浮くことになりませんか?」(この基金の予算は国民の税金ですよ・・・。)
と話しておきました。
 そして「国際交流基金モスクワ支部の担当者の方の名前は○○さんと言うのですが、ご存知ですか?」
と尋ねると
「○○さん? そう言えばそういう名前を聞いたことがありますけど・・・。」
と言う返事でした。
 でも私からは通訳料金を予算に入れて申請しておきながら、実はボランティア学生が通訳で一銭ももらってない、ということが後で公になると問題になるので、
「○○さんという人に必ず連絡を入れてください。」
とお願いしておきました。

 その後、WA-ONメンバーにそのことを話すと
「在ベラルーシ日本大使館と○○さんは数年来の知り合いですよ。それにこのコンサートの2週間前に○○さんから日本大使館側に今回のコンサートの予定、予算、モスクワから来るメンバーのリスト、そのほか全ての情報をまとめて伝えてあるんですよ。」
と言っていました・・・。
 この時点で私は目が回ってしまいました。(@_@;)

 ミンスクでの共演もできず、WA-ONメンバーはミンスクを発ち、(しかも真鍋先生の滞在先を知らされないままだったので、お別れの挨拶もできなかったんだそうです。)モスクワへ帰って行きました。
 すごく不満だったと思いますが、
「ベラルーシのことを嫌いにならないで・・・。いつかミンスクでWA-ON単独コンサートをしてください。」
と祈りました。

 それにしても真鍋先生のブログを読んでいると、お食事もちゃんとできないときがあったり・・・もう少しベラルーシ側がちゃんと予定を立ててほしかったです。
 真鍋先生にも「ベラルーシのことを嫌いにならないで・・・。」と思いました。(涙)
 でも本当に企画する側の要領が悪いというか、段取りがめちゃくちゃな感じでした。

 どうしてこんなことになってしまったんでしょうね。
 将来、また日本の文化人がベラルーシへ来ることもあるとは思いますが、二度と同じ失敗は繰り返してほしくないです。ベラルーシなんて遠いところまでわざわざ来ているのに、申し訳ないです。 
 
  

ラゴイスクのてんとうむし

2012-04-23 | つれづれ写真
先日ラゴイスクの身体障害者の施設へ行ったときに敷地内に鎮座していたてんとうむし。
 丸い石に色を塗っただけなのですが、遠くから見てもすごい存在感がありました。(^^)

ベラルーシ文化研究所で講演

2012-04-18 | 日本文化情報センター
 4月17日に国立ベラルーシ文化研究所で講演をしました。
 ベラルーシ文化研究所のHPはこちらです。ただし全てベラルーシ語です。(いつか英語バージョンもできるかと思います。)

http://inbelkult.by/index.php/kultura/sec/Galonaya


 以前ベラルーシ文化研究所のメンバーのマラジスさんが日本文化情報センターを訪問してくださいました。そして2014年は帝政ロシアの初代日本領事だったヨシフ・ゴシケビッチ(生まれたのは現在のベラルーシ)の生誕200年に当たるため、2014年初頭から、ベラルーシ国内でさまざまな記念式典が行われる予定だそうです。それに日本文化情報センターからも参加してほしいというお話でした。

 イオシフ・ゴシケービッチについてはこちらをご覧ください。このページでは生誕地は「ミンスク郊外」となっていますが、グロドノ州の出身なので、ミンスクから見て「郊外」という距離ではないですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%82%B7%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81


 そして、ぜひベラルーシ文化研究所のほうへ訪問してください、マラジスさんに言われ、4月17日に行きます、と約束していたのです。私としては簡単に見学に行くような気持ちでいました。
 すると5日前にベラルーシ文化研究所の職員の方から電話がかかってきました。それによるとベラルーシ文化研究所はこれから世界中にベラルーシ文化を広めるために、いろんな国に研究所の分所施設を開設する予定なのだそうです。
 すごいですね。そのうち日本にもベラルーシ文化研究所日本支部がオープンするのではないでしょうか。

 そのため異国で自分の国の文化について紹介している施設(つまり日本文化情報センターもその一つ)の今までの運営に関する経験を話してもらえないか、ベラルーシ文化研究所の今後の計画の参考にしたいから、と頼まれました。

 このベラルーシ文化研究所は国立ですが、日本文化情報センターはミンスク市立の児童図書館の一コーナーにしかすぎないし、運営を特に経費面で支援しているチロ基金そのものも公的な団体ではありません。(草の根活動ですよ・・・。)

 国と民間・・・とレベルがちがうので、日本文化情報センターの過去の運営経験がどれほど参考になるか分からないまま承諾し、行ってきました。

 ベラルーシ文化研究所はもともと学校だった建物を改装した中にあり、いろんな部門があって、相当大勢の人が働いているようすでした。(それだけでも日本文化情報センターとはレベルがちがう・・・。) 
 会議室に案内されていくと、各部門の部長さんがずらっと座っていました。
 開口一番
「どれほど参考になるか分かりませんが・・・。」
と断っておいてから、まずチロ基金創立の話から始め、日本文化情報センターでの活動のようす、日本側からの協力者の方々のこと、チェルノブイリ関係の支援活動について画像を交えて話しました。
 
 文化関係の活動の話は少しは参考になったかもしれませんが、チェルノブイリ支援関係の話は参考にならないだろう、と思っていましたが、全ての話を熱心に聞いてくれました。
 質問もいろいろ出されましたが、一番印象的なのは
「ベラルーシと聞いて、日本人が連想する物や知っていることは何でしょうか?」
でした。
「やはり、チェルノブイリでしょう。」
と答えると
「純粋なベラルーシ文化で言うと?」
ときかれ
「残念ですが、ベラルーシのことはロシアの一部の地域と勘違いしている日本人が多く、ロシアの文化とベラルーシの文化の違いもよく分かっていないです。」
と答えると
「日本だけじゃなく、いろんな国でそう思われているんですよ。」
とがっかりしていました。
 でもこれからのベラルーシ文化研究所の各国での働きに期待しましょう。

「どうしたら日本でベラルーシのことを広めることができるのか?」
という質問には
「日本語でベラルーシのことを知ることができるような環境づくり(本でもネットでもいいと思います。)が一番で、文化の中でも特に歴史のことを広めないと・・・。そもそもベラルーシに文化というものが存在していることすら知らない人が多いので・・・。でもそれは日本人に責任があるのではなく、ただ情報が少ないだけだと思います。」
と答えておきました。

 チェルノブイリが第一歩としても、第二歩は歴史や文化につながっていけばいいと私は思います。
 それから日本人の中にも外国の文化に興味のある人がたくさんいるのだから、そういう人たちと連携していくのがいいと思います。そして日本文化情報センターもそうしていますが、ベラルーシ側(特に文化人やマスコミ)から、いっしょに何かしましょう! と言われたら、できるかぎり断らず、いろんな方法を試してみるのが大事なのでは・・・と言ったことを話しました。
(だから今日も断ったりせずにベラルーシ文化研究所へ訪問しているわけですよ。)(^^)

 講演会の最後には
「ベラルーシの子どもたちに多くの支援をありがとうございます。」
と感謝されました。私1人ではなく、多くの日本人の方からの協力が集まってできていることです、と話しておきました。
 ベラルーシ文化研究所は国立なんだから、もっといろんなことができますよ、とも話しました。

 この研究所には図書室があり、日本に関する文献(ほとんどロシア語でしたが、ベラルーシ語のも少しありました。日本語の本はありませんでした。)が集められています。
 こちらからも何か寄贈したいと思ったのですが、ベラルーシ語の文献はないので、拙訳書「自分と子どもを放射能から守るには」を寄贈しました。
 2014年のゴシケビッチ生誕200年記念式典もぜひ協力したいです。

・・・・・・・・・・・・・

 追加の内容です。ゴシケビッチの生誕地についてグロドノ州出身と書きましたが、間違いです。生誕地については諸説あってはっきりしていません。
 しかし人生最後の数年をグロドノ州にあるマリ村で過ごしていたことは間違いありません。
 
 

チロ基金の活動「ビタペクト2(セルロース)&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第132回」

2012-04-17 |   ビタペクト配布活動
 4月16日にビタペクトTと「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピー無料配布運動として、SOS子ども村への第132回目の配布を実施いたしましたので、ご報告いたします。

 まだ製造が再開されず、今回も子どもたちにビタペクトTを渡すことができませんでした。代わりにペクチン配合セルロースを配布しました。
 以前のこの活動でもセルロースをビタペクトTの代わりに子どもたちに渡したことがあります。
 詳しくはこちらの記事をご覧ください。
133回目に当たるチロ基金の活動「ビタペクト2無料配布」について。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c5c13bdc865c7071c69c29024464ff6d


チロ基金の活動「ビタペクト2(セルロース)『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第123回」

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/b70d590afa565bd909875ae3aae13527


 ペクチン配合セルロースについてはこちらです。
ペクチン配合セルロースについて (1)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/43f810eddd1efc451f5171ef3cd35a7a


ペクチン配合セルロースについて (2)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5d48a74eef693b9246d188dfa277d076


ペクチン配合セルロースについて (3)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/33089b7659d42b742cf36a33deba21ad



 ビタペクトTを製造しているベルラド研究所側の事情により、現在ビタペクトTの製造が休止しています。さらに現在のところ在庫もありません。
 しかしチロ基金としては子どもたちに何もあげないよりは、ペクチン配合セルロースを渡すほうがいいと考え、今回はビタペクトTの代わりに「ペクチン入りセルロース・ツルコケモモ」(250グラム入り)4個(8人分)をSOS子ども村にて保養滞在している家族に渡しましたのでご報告いたします。
 これでチロ基金が今までに子どもたちに渡したペクチン入りセルロースは合計13個になりました。
 ペクチン入りセルロースは250グラム入りで、ビタペクトTは152グラム入りです。そのためペクチン入りセルロースを子どもたちにあげるときには1個で2人分として渡しています。

 また「放射能と栄養」のコピーを10部渡しました。これで今までに配布した「チェルノブイリ:放射能と栄養」のコピーは1710部となりました。
  
 今回で通算142回目の配布となりました。延べ人数ですが、1710家族分の「放射能と栄養」のコピーを配布したことになります。

(これまでのビタペクト2配布運動について、詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/index.html


http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/e1e67d76a4796f3c95377bb7bdabd215


(またこの活動報告を読むにあたり、「チロ基金の活動『ビタペクト2無料配布』について追加のご説明」も併せてご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/67c3b73ea2f30e880c3d4eb8bedded13


(ビタペクト2とビタペクトTについてはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/5cab63b65562dd2f64a820a7e4298a0b


(「チェルノブイリ:放射能と栄養」について詳細はこちらをご覧ください。)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/chel/index.html


(SOS子ども村についてはこちらをご覧ください。) 

http://belapakoi.s1.xrea.com/jp/no2/2001/soschild.html


(WBCによる測定、ビタペクトTを開発、製造、販売しているベルラド放射能安全研究所の公式サイトはこちらです。)

http://www.belrad-institute.org/


(ベルラド研究所について日本語でご紹介している記事はこちらです。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/c382ef7eca8660531e895c8a646e7f2a



 今回はゴメリ州ルドニヤ・マリモノワ村(チェルノブイリ原発から約100キロ)とミンスク(チェルノブイリ原発から約350キロ)から一家族ずつ保養滞在に訪れていました。


(家族A)

 お母さんが6人の子どもを連れてきていました。この家族は2007年と2010年にも保養滞在しています。
 2007年の滞在のようすはこちらです。
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第57回」(家族B)

http://belapakoi.s1.xrea.com/chiro/katudou/bitapekt/2007/no57.html


 2010年の滞在のようすはこちらです。
チロ基金の活動「ビタペクト2&『放射能と栄養』無料配布・SOS子ども村 第99回」(家族B)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/9a9498a92b6f152a19fff7d4718dee18


 この家族には1個(2人分)のペクチン配合セルロースを渡しました。
 それぞれの放射能の測定結果は次の通りです。2007年、2010年、2012年の順に結果を並べてあります。
 ○印の子どもにビタペクト2、あるいはセルロースを渡しました。

母親(事故発生時14歳)28ベクレル ○ → 34ベクレル ○ → 20ベクレル
長男(16歳) 42ベクレル ○ → 59ベクレル ○ → 11ベクレル
次男(13歳) 33ベクレル ○ → 49ベクレル ○ → 35ベクレル ○
三男(10歳) 32ベクレル ○ → 30ベクレル ○ → 15ベクレル
長女 (7歳) 51ベクレル ○ → 40ベクレル ○ → 24ベクレル ○
四男 (5歳)            49ベクレル ○(今回測定していません。)
次女 (3歳)            32ベクレル  (今回測定していません。)

 四男と次女が測定していない理由ですが、四男は怖がって測定の間じっとしていることができず、測定をあきらめました。
 次女はちょうど風邪をひいて、SOS子ども村で留守番していたそうです。
 全体的に被曝量が減っていて、よかったと思いました。

 またこの一家の四男は水頭症ですが、この子に対する支援活動をチロ基金は2010年に行っています。詳しくはこちらをご覧ください。
チロ基金の活動「水頭症児童への支援活動」

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/818f0d1bbb13bc10b75e67d13cab161e


 この子以外の子どもたちは健康だそうです。
 5歳になった四男君は、すっかり大きくなっていました。そして、ちゃんと意味のある会話をしていました!
 ただ言いたいことを言うだけではなく、「これは何?」と質問するとその名前を答えていました。
 確かに発音が明瞭でない部分もあり、ときどきお母さんや兄弟の「通訳」がいるときもありましたが、この子、実はすごく頭がいいのでは・・・と思ったぐらいです。
 現在は普通の子どもが通う幼稚園の中にある「病弱児グループ」に入っているそうですが、言葉も増え、しかもすばしっこい!(サッカーしてましたよ。)すごく元気でした。
 頭の大きさは少々大きいのと、目がいつもびっくり目になっているのが、何も知らない人でも
「障害のある子?」
と気がつくかもしれませんが・・・。
 まぶたが上に引っぱられているように見えるので、
「頭が大きいから、顔の皮膚が頭のほうに引っぱられている?」
と私は思ったのですが、リリヤ先生によるとそうではなく
「まぶたを支える筋肉の異常だと思うから、一度検査を受けたほうがいい。」
とお母さんに話していました。
 それから両足の太さが違っていて足の大きさもちがうので靴を買うとき大変だとお母さんは話していました。
 両腕も曲がっているようなので、こちらの筋肉の検査を受けたいとも話していました。

 水頭症については水はもうたまっていません。現在も投薬治療を続けていますが、2年前にチロ基金が渡した薬を飲む期間は終わり、現在は別の薬(脳神経の働きを浴する薬)を飲んでいます。
 ところがこの薬はベラルーシでは売られておらず、ロシアなど近隣諸国にもないので、ドイツまで買いに行かないといけないそうです。
 仕方がないので、お父さんがときどきドイツまで列車に乗って、その薬を買いに行っているそうです。
 大変です・・・。でもこんな両親の元に生まれてきたから、こんなに賢い元気な子に育ったんだと、納得しました。

 
(家族B)
 ミンスクからお父さんとお母さん、8人の子どもと保養滞在していました。この家族には3個(6人分)のペクチン入りセルロースを渡しました。
 それぞれの放射能の測定結果は次の通りです。○印の子どもにセルロースを渡しました。

父親(事故発生時10歳)6ベクレル
母親(事故発生時17歳)11ベクレル
長女(13歳)39ベクレル ○
次女(12歳)20ベクレル ○
三女(10歳)30ベクレル ○
長男 (8歳)34ベクレル ○
次男 (6歳)28ベクレル ○
三男 (5歳)32ベクレル ○
四男 (3歳)35ベクレル 
五男 (1歳)(今回測定していません。)

 五男が測定していない理由ですが、この子も怖がって測定の間じっとしていることができずあきらめました。
 今回は珍しくお父さんも保養滞在に来ています。

 残念なことに今回この一家と会って話をすることができませんでした。
 普段は私がSOS子ども村へ行くのは午前中が多いのですが、この日朝電話があって
「室内遊園地に行くことになったので、それから帰ってからの午後に来てほしい。」
とSOS子ども村側に予定の変更を頼まれました。
 子どもたちはバスに乗ってミンスク市内の遊園施設へ。その帰り道、家族Bの両親が突然
「ミンスク市内にある言語聴覚士のところへ寄りたい。予約してたから。」
と言い出しました。
「でももうすぐチロ基金の人が来るのに。」(ちなみにSOS子ども村はミンスクではない別の市にあります。)
とSOS子ども村の職員さんは言ったのですが、
「いつも定期的に行っているので、ミンスクに出てきたこの機会に行かないと・・・。」
と言って言語聴覚施設のほうへ行ってしまいました。
 
 この一家、8人兄弟のうちの4人、長男、次男、三男、四男に言語障害があるのです。そのため専門の治療を受けているのだそうです。
 女の兄弟にはそのようなことはありません。どうして男の兄弟にだけそろってこんなことになっているのか・・・
 まだ1歳の五男はまだ言葉自体がうまくしゃべれなくて当たり前ですが、もう数年すると兄たちと同じような言語の遅れが出てくる可能性があるので、注意が必要、早めの対策をしないといけないと思いました。

 ミンスク生まれミンスク育ちなのに、測定した兄弟全員高い値が出ていて、チェルノブイリ原発からの距離や汚染地域に指定されているかどうかは被曝には関係ないと改めて実感しました。

 この家族ともお会いしたかったので、しばらく待っていたのですが、帰ってこなかったのであきらめて、セルロースや子どもたちへのプレゼントはSOS子ども村の職員さんから渡すように預けてきました。
 お母さんにはアクリルたわしと裁縫セットを渡しました。子どもたちには折り紙用の紙、折鶴、カードのカレンダー(これはベラルーシの出版社からの寄贈品)をプレゼントしました。

 画像は記念撮影の様子です。家族Aのお母さんと子どもたちのうち4人しか写っていません。後の2人は写真撮影のとき不在でした。  
 
 最後になりましたが、ペクチン配合セルロースの購入費、そして「放射能と栄養」をコピーするために必要な経費を寄付してくださった方々、折り紙や手作りのアクリルたわし、裁縫セットなどプレゼントを寄贈してくださった方、また日本ユーラシア協会大阪府連主催のバザーなどでSOS子ども村への交通費を捻出してくださった多くの日本人の皆様に、この場を借りて深くお礼申し上げます。
 多くの方々に支えられて、この活動が続いています。
 ベラルーシの子どもたちもお母さんたちもSOS子ども村の職員の方々も皆様に大変感謝しております。本当にありがとうございました。

日本文化情報センターの活動 リューバニに出張講演

2012-04-14 | 日本文化情報センター
 4月11日リューバニと言う町へ出張講演へ行ってきました。
 リューバニはミンスクから約150キロ南へ行ったところにある小さな町です。
 人口は1万1000人。鉄道は通っておらず、行くのはバスか乗り合いタクシーか自家用車で、というところです。
 去年リューバニ郷土史博物館から連絡が来て、今回の講演を頼まれたのですが、最初聞いたとき
「リューバニ? それはどこにあるのだろう?」
と思いました。
 今回一番便利だという乗り合いタクシーで片道2時間半の道のりを超えてやってきましたが、ベラルーシの秘境(^^;)というほど謎めいた場所ではなく、この国によくある小ぢんまりしてきれいな町の一つでした。
 しかし交通の便が悪く、マイカーで行き来するならまだしも、乗り合いタクシーの時間の関係で、私はリューバニには3時間ほどしか滞在できませんでした。しかし収穫はありましたよ。

 リューバニ郷土史博物館は大小の展示ホールと資料室しかない小さい博物館でした。それによるとリューバニは1566年には年代記に登場する古い町で、ラジビル一族の領土の一つに入っていました。
(HPベラ部屋の往年ファン(^^;)はよくご存知でしょうが、「ラジビル一族? 誰だそりゃ。」と思われる日本人も多いと思います。分かりやすく言えば、ラジビル氏という大名が昔いて、リューバニ一帯の領地を治めていました、という感じです。) 
 
 中世に栄えたスルーツク公国から約50キロと近く、中世には交易中継地点として栄えていた場所でした。しかし農業が盛んでどちらかと言うと軍事面での重要地域ではなかったため、第二次世界大戦時代に大きな被害は受けていません。
 戦争中はソ連のパルチザン部隊の本部があったそうで、やはり隠れ家的な地理関係にあるようです。

 1968年には市に昇格し、一帯はリューバニ地区となりました。市名の由来は「愛」だそうで、しかも農民が多かったことからベラルーシでは珍しい「働き者が多い」お国柄なんだそうです。
 政府から「労働者英雄」に認定された人がたくさんいて、その人たちの肖像画が町の真ん中にずらっと並べられていました。
 いただいた絵葉書セットを見ると、(これまたベラルーシによくある)ロシア正教とカトリックの教会の葉書が入っていて、それは分かるのですが、なぜか学校や銀行まで絵葉書になっていました。銀行の絵葉書は2種類も入っていました。
(他に絵葉書に選びたくなるような場所は市内にないのであろうか? と思ったぐらいです。)

 ところが、町の中心部にある芸術学校を案内されてびっくりしました。この学校では音楽、美術、演劇、舞踊を教えている学校ですが、生徒数は200人ぐらいとは思えないほど、それはそれは立派な学校でした。
 2年前にできたばかりで、全ての施設、楽器、コンサートホールがピカピカに輝いていました。
 美術作品の展覧室や室内管弦楽専用の小ホールまでありました。
 校長先生はどこから見ても30代の男の先生で「専門はバヤン(ロシアのアコーディオン)です。」と言っていました。(校長先生に全然見えない人でした・・・。)
 このような学校で芸術を学べる子どもたちは運がいいですよ・・・。

 さらにリューバニはベラルーシの伝統工芸品を作る技術を継承するための専門学校もあり、私が行ったときはスラブ正教の復活祭前ということで、学校の前でバザーをしていました。(イースターエッグがたくさん売られていました。)
 そして郷土史博物館の裏手には、リューバニ伝統工芸博物館もあり、展示品を見学させてもらいましたが、ベラルーシ滞在暦が長いほうの私でも、大変興味深かったです。

 実際の講演は第1ギムナジア(ベラルーシにある学校の1種類で、公立ですが入学試験があります。)で行われました。
 教室に集まったのは11年生(日本の高校2年生)の皆さん50人ほどと教師の皆さんでした。
 日本と違って高校は2年生で終わりで、しかも入学式は9月、卒業式は6月なので、あと2ヶ月でこの学校を卒業するのだそうです。

 高校生だけあって、震災のことなど少々固い話をしても理解してくれました。最初この話が博物館側から出たときは、博物館内で講演するのだろうと思っていたので、
「日本の話をしてもいいのですが、もう少しテーマを絞ったほうがいいような気がします。どんなことが特に知りたいですか? 日本美術史などはどうでしょうか?」
と質問していたのですが、なぜかモロジェチナでも頼まれた「日本の庭園の話がいい。」と言われました。
 ベラルーシ人って庭園と言うか、自然が好きなんだなあ、と改めて思いました。

 一見地味な石庭の話なども画像を交えてお話しましたが、とてもよく耳を傾けてくれていました。
 質問コーナーでは
「日本人は縦書きで字を書いているのですか。それとも横書きですか。」
「リューバニから日本へ行くとしたら、どういうルートが一番早いですか。」
といった質問が出ました。
 そして案の定
「日本の詩を朗読してください。」
と頼まれました。ベラルーシ人って文学と言うか、詩が好きなんだなあ、と改めて思いました。(^^;)
 季節柄、松尾芭蕉の「古池や」とそのロシア語訳を話しましたが、「どうしてこんなに短いの?」という反応でした。
(「石庭も俳句も見る側、読む側の想像力が重要。」と応戦・・・。)(^^;)

 講演会の最後には菊のお花をいただきました。とてもうれしかったです。
 そして学校の校門前で乗り合いタクシーに乗って帰宅しました。
 
 もう少しゆっくり町のようすを見学してみたかったです。リューバニ郷土史博物館からはぜひまた来てほしいと頼まれました。
 機会があればまた行ってみたい町の一つとなりました。
 今回の交通費はチロ基金からです。(昨年冬に行われたユーラシアバザー売上金の一部です。)
 お声がかかればベラルーシの各地へ行って日本のことを紹介したいですが、やはりチロ基金がないと何もできないですよ・・・。
 チロ基金協力者の皆様、ありがとうございました!

 画像はリューバニ市立第1ギムナジアの校内で記念撮影したものです。ベラルーシ人の高校生の皆さんに囲まれていると、私のほうが子どもみたいですけど。(笑)
 今回の講演会(と言うより特別授業)が学校生活の思い出の一つになればなあ、と思いました。
 
 
 
 

 
 
 
 

 

 
  
 
 

日本文化情報センターの活動 ラゴイスクへ出張

2012-04-12 | 日本文化情報センター
4月10日、ラゴイスクという町へ出張に行って来ました。
 ラゴイスクにある身体障害者が暮らす施設へ見学のため行って来たのですが、この障害者の方々は以前日本文化情報センターがあるミンスク市立第5児童図書館内で、さまざまな手工芸の作品の展示会を行ったことがあります。
 今回は珍しくミンスク市役所から車が出る、ということで同乗させてもらいました。
 市役所の職員もいましたが、このほかミンスク市立第5児童図書館長、さらにはMTCという携帯電話会社の人が10名ばかり行きました。
 この施設で暮らす障害者の人たちの多くがこの携帯電話会社とまとめて契約して、携帯電話を持つことになったので、大口契約ができたMTC側がスポンサーとなり、今回訪問することになった、ということです。
 
 この施設には身体障害者(18歳以上)のほか、いわゆる老人ホームも兼ねており、さらに寝たきりの人(老人介護施設ですが、このほか年齢は若いけれど障害が理由で寝たきり、という人もいます。)も収容している施設も敷地内にあります。
 1958年にオープンした施設ですが、行ってみて広さに驚きました。
 1階には食堂、厨房、暖房施設、事務局、会議室、ランドリー、作品展示室のほか、ハーブバー(ハーブから作った飲み物が飲める)、散髪室(専属の美容師さんが働いています。)、図書室(蔵書数は9000冊。もちろん専属司書がいます。)もあります。
 敷地内には広大な畑があり、そこで野菜を作って、入居者の食事に使っています。
「去年はキュウリのピクルスを7トン作りました。」
と施設長さんが話していましたが、7トンですか・・・。瓶の重さも入れたとしてもすごい生産量です。
 イノシシも飼育していて、お昼ご飯にイノシシ肉の焼肉が出ました。
 1階にはピクルスを作る部屋やイノシシを捌く専用の作業室まであります。

 さらには保健室、歯医者、マッサージ室などがあります。
 担架ごと出入りできる緊急出入り口があり、その横に応急処理室があります。また街中の病院へ出かけていくのが大変な人のために施設内で血液検査と尿検査ができるようになっています。
 またインフルエンザなど感染症にかかった人が他の入居者にうつすのを防ぐための隔離室があり、専用のベッドや食器、トイレ、シャワーがそれぞれについていました。
 そしてちゃんと常勤で働いている看護士や検査員がそれぞれの部屋にいました。
 
 各階にはエレベーターホールにテレビとソファー。2階にはさまざまな手工芸をする専用の工作室がありました。
 入居者は2人ずつ、あるいは個室に入って生活しています。
 下のほうの階はお年寄りが暮らしていて、上のほうの階には身体障害者が暮らしていました。
 約230人の入居者に対し、100人の職員が働いているそうです。
 そして畑では協力し合って自分たちが作る野菜を育てているそうです。また敷地内には池や広々とした花壇もありました。

 これは国立の施設ですが、最近は経済の悪化とともに予算が十分に下りず、食べ物は自分たちで作るようにしているそうです。さらに作った手工芸品をチャリティーバザーに出品して、衣服類を購入するように工夫しているとのことでした。
 図書館内で展示会をしたときも最終日に、展示販売会を行いました。
 これで服を買う、とか次の作品の材料が買える、と作者の皆さんは話していました。

 さて、招待された工作室では、携帯電話会社からケーキが手工芸を作るグループ(その名も「才能の花輪」)のメンバー(障害者の方20名ほど)に振舞われました。
 さらに携帯電話の歴史やシステムについてのレクチャーもされました。(これ、とてもおもしろかったです。)
 私のほうからは折り紙を作っているメンバーもいるので、折り紙の作り方の本、きれいな紙を寄贈しました。もしかしたらおもしろいかも、と思ってお手玉も渡しましたが、遊び方の説明をするときに私がお手玉を投げたら、長続きしないまま、落ちそうになり、少々恥ずかしかったです。
 また日本のお花と帆船のポスター(実はカレンダー)も渡してきました。この施設内で貼ってほしいな、と思いました。(とても広い施設なので貼る場所はたくさんありそう。)
 
 才能の花輪グループの皆さんはとても器用で、普段は編み物や刺繍、ビーズ細工などを作っていますが、折り紙などにも興味津々でした。
 とにかく何か作るのが楽しいのだそうです。施設内にも作品があちこちに飾られていました。生きがいなのでしょうねえ。
 作品展示室に案内された私たちですが、その場で手編みのマットやビーズでできた木の置物など買っている人もいました。
 折り紙の作品もありましたよ。でも立体折り紙の作品が多かったです。
 
 作品が誰かに気に入られ、売れた人はとてもうれしそうにしていました。
 最初は「障害の度合いが重くて、刺繍なんてとても無理。」と思われていた人が3ヵ月後ちゃんと作品を完成させたそうです。

 この施設に入っている人の身の上を聞きましたが、生まれたときにすでに障害を持っていることが分かり、産院ですぐに実の親から
「障害児を育てるのは大変だから。」
と親権放棄された人がほとんどでした。
 その後、身体障害児で身寄りのない子供ばかりを集めた施設に入り、そこで18歳(ベラルーシの成人年齢)まで過ごしています。
 その間就職できるように、指導が行われ就職して自立できる人もいます。
 しかし自立できなかったひと、自立はとても難しい人のうち、ミンスク州出身の人がこのラゴイスクの施設に集められるそうです。
「私は18歳までに塗装の仕事ができるよう指導を受けたし、資格も得たが、雇ってくれる企業はどこにもなく、就職をあきらめ、この施設に入り12年になります。」
と言う30代の女性もいました。

「8人兄弟の末っ子として生まれ、生家が貧しく、先天性異常があったので、産院から施設へ。この施設には4年間暮らしています。ときどき実の兄が面接に来てくれるのでそれが楽しみ。インターネットをやってみたい。」
と語る20代の男性もいました。
 社会ももう少し身体障害者の就職を受け入れてほしいものです。
 工夫すればこの人たちは相当ちゃんとした労働力になると感じました。

(日本でも少子化が進んでいるから、子どもを産め産め、と言う前に若者世代障害者の労働力を生かして、普通に就職、気持ちよく働ける職場環境づくりをしたらいいのに、といつも思っています。)

 私はこの施設の運営や図書室のようすなども教えてもらえて、本当によかったです。支援活動や日本文化紹介の機会をもうけることができたら、と思いました。
 ラゴイスクはミンスクから近いので、また改めて訪問したいと思っています。
 今回「才能の花束グループ」の皆さんに寄贈した折り紙やお手玉、ポスターはチロ基金協力者の皆様からの寄贈品です。また購入した折り紙の本もチロ基金の寄付金からです。
 ご協力くださった協力者の皆様、本当にありがとうございました。(^^) 

 画像左端の女性はミンスク市内にある刺繍クラブの人で、このラゴイスクの「才能の花束グループ」の皆さんに刺繍を教えている人です。
 右端の女性は「才能の花束グループ」の生徒代表さん。部活の部長さんに当たる人ですね。 
 

ミンスクの地下鉄駅爆発事件から1年

2012-04-11 | ベラルーシ旅行・長期滞在・留学注意情報
 2011年4月11日にミンスクの地下鉄で起こった爆発事故からも1年経ちました。
(詳しくは過去ログをご覧ください。) 

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/29a41590f217ffdaade9b7ecabbd33cc

 2008年7月にミンスクで起きた爆発事件についてなどはこちらのページを検索してください。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/c/244be54965ebd1e4ce48ab368dfdc13f


 この1年日本のほうがよっぽど大変だったので、ミンスクの事件についての追加情報のようなものは更新してきませんでしたが、1年経ったのを機に書いてみようと思います。

 事故後、重体だった人がその後数名病院で亡くなり、この事件の死亡者数は15人になりました。
 関係者数名が逮捕されましたが、その後事件の関連が薄いとして、釈放された人もいて、実行犯である2人が裁判にかけられることになりました。

 この2人はビテプスク出身の男性で、2011年の事件だけではなく、2005年9月にビテプスクで、2008年7月にミンスクで起きた爆発事件の容疑者でもあります。

 時間の経過順に書きますね。
 主犯であるドミトリー・コノバリョフ(26歳)は子どものとき「落ちこぼれ」だったそうですが、化学だけはいつもよい点を取っていました。(テレビ番組で中学生のときの通信簿が公開されていました。)
 化学が得意だったのは、爆発物を作るのが趣味だったからです。爆発物を作っては森の中で爆発させて、そのようすを写真に撮って集めていました。
 16歳だった2002年にはビテプスクの児童図書館の壁や自転車に乗っていた通行人に爆発物を仕掛け、爆発させたことが現在分かっています。
 中学卒業後、専門高校に入学しますが、2005年(19歳)のとき中退しています。
 
 もう1人の犯人であるウラジスラフ・カバリョフはその頃ドミトリー・コノバリョフと知り合い、いっしょに爆発物を作ったり、爆破実験をするようになりました。カバリョフのほうは自称テロリストだそうです。さらには2人で秘密の実験室を家の地下部分に作り、化学薬品などを集めて、研究していました。
 
 コノバリョフが中退した後、2名が死亡するビテプスクの爆発事件を起こしています。
 その前後と思われますが、コノバリョフは非常に生活が荒れており、ウオッカを大量に飲んだり、手首を切る自殺未遂を3回も起こしています。
 ビテプスクの爆発事件で使われた爆発物には、被害を大きくするため、小さい金具がたくさん詰め込まれていましたが、その金具の多くが目覚まし時計の足に使われる部品であることが分かりました。
 ビテプスクには時計工場があり、そこで製造されている目覚まし時計の部品がたくさん使われていたのです。
 そこで捜査当局は犯人をビテプスク時計工場に何らかの関わりを持つ人物であると推定していましたが、犯人逮捕にはつながりませんでした。
 後になって、コノバリョフの父親がこの時計工場で働いていたことが分かっています。
 
 コノバリョフはトラックの部品を作る工場で働き始めましたが、カバリョフといっしょに爆弾を作ることは続けていました。
 そして2008年のミンスクでの爆発事故を起こしました。当時重要参考人として写真が出回っていた「黒い袋を持っていた男性」はこの事件には無関係だったんですね。
 そのときのニュースで、
「この事件はテロではない。フーリガン行為である。」
と報道されたのを知って、カバリョフは非常に不満を感じたそうです。

 その後コノバリョフは軍隊に入りました。ベラルーシに徴兵義務があるからです。
 そのとき指紋を採取されたのですが、2008年の事件のとき爆発物が入っていた袋から採取された指紋は不完全で、コノバリョフが犯人だったとは分からなかったそうです。
 後になって、指紋が一致していることが分かった・・・とかベラルーシ捜査局、大丈夫かしら? と思いました。

 徴兵義務が終わり、家に帰るとき、コノバリョフは軍施設にあった消火器2本を盗んだことが分かっています。(これも2011年の事故後明らかになりました。)
 消化器を爆発物の材料にしたかったからだそうです。

 そしてビテプスクに戻ったコノバリョフは自宅ではなく、アパートの一室を借りて1人暮らしを始めます。カバリョフと再会し、再び爆発物を作り始めたのが2011年3月ごろ。
 4月10日、爆発物の入ったカバンを持ったコノバリョフはタクシーを呼んで、駅へと向かいました。
 そのカバンをトランクに乗せたタクシー運転手は
「黒い大きいカバンで、重かった。重さは20キロぐらいだった。」
と証言しています。
 先にミンスクへ行っていたカバリョフはミンスク市内のアパートの1室を数日間の契約で借りていました。
 そして4月11日、知り合いの女の子に電話をして
「もうすぐ自分の友達がミンスクへ来る。いっしょに飲まないか。誰か女の子を1人連れてきて。」
と話しています。
 その女の子(事件直後、関係者の1人として逮捕されましたが、その後釈放され、現在では証言者の1人となっています。)は自分の友だちの女の子を連れて、カバリョフに教えてもらったとおり、アパートにやってきました。
 コノバリョフもビテプスクから到着して、事件当日の昼間には地下鉄の構内を下見していた様子が防犯カメラに写っていました。

 アパートで4人が集まり、夕方までウオッカを飲んだりしていたそうです。爆発物はアパートの片隅に隠されていました。
 女の子たちにコノバリョフは
「今日は大事な用事があるので、飲みすぎないようにする。」
と言って飲むウオッカの量を控えていたそうです。

 そして夕方コノバリョフはカバンを持って、出て行きました。行き先は地下鉄・・・。
 改札口を通過するコノバリョフが防犯カメラに写っていますが、その横で警官がタダ乗り防止のため改札脇に配置されている検札員のおばさんと談笑している様子も写っていました。二人とも改札口を通る乗客のほうをちゃんと見ていません。
(ベラルーシの地下鉄は各駅の改札口に警官が常時配置されています。1999年に地下鉄で将棋倒しの50名以上が死亡する事故が起きてからこうなりました。) 

 ちなみにこの爆破犯が改札を通過するのをちゃんと見ていなかった様子が防犯カメラに写っていた警官は、事件後、事件の犯人が現場に入るのを阻止しなかったということで3年間の禁固刑を言い渡されています。
(ちょっと酷なような・・・。いちいちカバンの中身を見せるような体制になっていなかったですよ、当時は。)

 爆発が起きたのは17時55分。
 そのとき、オクチャブリスカヤ駅構内には約1000人の乗客であふれかえっていました。
 「爆発後、しばらく誰も口を聞けず、静まり返っていた。」という証言がありましたが、駅構内に設置されたたくさんの防犯カメラの映像を見た限りでは、とてもそんなふうには見えませんでした。
 爆発そのものはかなり大規模で、構内は壊れたさまざまな物が飛び散り、パニック状態になった1000人の人たちが、車内から、あるいは地上へ逃げようと、必死になって走っているようすが写っていました。(涙、涙、涙です。)

 爆発物を遠隔操作で作動させたコノバリョフは、自分自身も両頬に怪我をしましたが、現場を去りアパートへ帰っています。アパートで4人はテレビのニュースを見ていましたが、女の子の1人が
「コノバリョフとカバリョフは悲惨なニュースを見ながら笑っていた。」
と証言しています。
 そして4人はアパートで酒盛りを始め、夜遅くにウオッカがなくなったので、店へ買い足しにまで行っています。
 
 翌朝、特別捜査班がアパートに乗り込み、身柄拘束。そのときのようすがビデオ録画されていますが、
「氏名を言え!」
と言われて、二人ともろくに答えられないようすがテレビ放映されました。
 テレビのアナウンサーは
「二日酔いでまともに話すこともできません。」
と言っていましたが、私からするとまさかこんなに早くばれるとは思っておらず、ショック状態になった2人に見えました。

 その後裁判が始まりました。
 裁判は通常の裁判所では行われず、法律関係の施設内にあるコンサートホールのような会場で行われました。
 舞台の上に檻が設けられ、舞台下手から警官に小突かれるようにして、手錠を後ろ手にはめられた2人が檻の中に入れられます。ベラルーシでは裁判所の法廷に檻が置いてあって、殺人などの凶悪犯罪の被告は裁判中、檻の中に入れられた状態で、裁判を受けます。
 今回はコンサート会場の舞台の上にその檻をわざわざ置いて、観客席が傍聴席になっていました。裁判官も舞台の中央に座っていました。
 そして裁判のようすはテレビで放映されました。
 普通は法廷内スケッチという絵を報道しますよね。しかし、今回の裁判ではスケッチどころか、裁判そのものを全国に生中継していました。
 傍聴席には遺族のほかこの事件のせいで身体障害者になった人が車椅子でやってきたり(そのようすも全部放映。)1000人ぐらいの傍聴人や報道陣が会場に詰め掛けていました。
 そしてその人たちの前で檻に入れられ、針のような矢のような視線にさらされた被告2人・・・。
 どんな気持ちだったのでしょうか。
 
 被告2人は容疑を認め、犯人でないと知っていないと思われる事件の詳細も語りました。
 取調べ中、爆発物を作ってみろ、と言われたコノバリョフは30分で小型の爆弾を作ったそうです。
(こういう才能をもっと世のため人のために使うようになっていればよかったのに・・・。)

 弁護人も(一応)つきましたが、死刑判決が出ました。
 遺族感情も、また国民全体の感情も激しかったので、死刑は当然、という発言が多く、遺族の1人は「この判決を待ち望んでいました。」と話していました。
 裁判中、コノバリョフの母親がテレビのインタビューを受けたこともありましたが、声も手もずっと震えっぱなしでした。
「息子は普通の子どもだった。」とか話していましたが、何を言っているのかよく分かりませんでした。

 そして2012年3月、コノバリョフとカバリョフの死刑が執行されました。(やっぱり早い・・・。)
 事件が起きて1年。ミンスク市内では追悼式典が行われました。その事件の犯人はもうこの世にはいません。

 死刑は是か非か、という問題提起をここでするつもりは私はありません。
 しかしやはり日本とはかなり異なる部分がベラルーシには多いと感じました。
 そして死刑の時期が早すぎるとか遅すぎるとか議論する前に、この二人が逮捕されてよかったと思います。
 もし今回の事件でも逮捕していなかったら、同じような爆発事件をこの2人は必ず繰り返していたと思うからです。
 でもできたら2011年4月11日の前に逮捕しておいてほしかったです。
 
 もう二度とこのような事件が起きませんように・・・。 

ベラルーシ滞在中にぜひ内部被ばくの測定を!

2012-04-07 | ベラルーシ旅行・長期滞在・留学注意情報
 ようやくベラルーシも暖かくなってきました。日本からベラルーシへ来る人も増えてくると思います。
 旅行、出張、留学、あるいはチェルノブイリ関係でベラルーシへ来られる日本人の方、この機会に内部被爆を測定することをお勧めします。
 日本だといまだ気軽に測定できる環境にありませんので・・・。
 ベルラド研究所の場合、非常に安い料金でセシウム134と137、カリウム40の測定をしてくれます。

 繰り返しになりますが、私はベルラド研究所の職員ではありませんし、また研究所から日本人向けに日本語で宣伝をするように頼まれているわけでも、お金をもらっているわけでもありません。
 ただ、日本人で今は自分が被曝したのかどうか心配している人が増え、また私のところへ問い合わせてくる方も増えたので、改めてこのブログ上でお知らせするものです。
 
 ベルラド研究所では平日午前10時から午後5時まで希望者に対し、ホールボディカウンタを使った内部被爆の測定を行っています。
 国籍などは問いません。またパスポートなど身分証明書の提示も不要です。

 血液検査や尿検査などは行いません。また甲状腺のみ、といった一つの内臓などを特定して測定することはできません。
 
 測定の最低検出限界は体重1キロ当たり5ベクレルです。つまり5ベクレル以下の数値だと、0ベクレル(不検出と同じ意味。)として表示されることがあります。

 料金は大人も子どもも16000ベラルーシ・ルーブルです。(現在のレートで換算して160円。)
 測定にかかる時間は約3分。結果はその場でプリントアウトして、本人に直接手渡してくれます。旅行など限られた時間でベラルーシに滞在する方でも大丈夫です。

 できたら事前に予約を入れておいてください。ときどき子どもの団体測定の予約が入っているときがあります。それと重なると長い時間待たされます。
 予約はメールかお電話で。英語またはロシア語でお願いします。
 ベルラド研究所のサイトはこちらです。

http://www.belrad-institute.org/


 わざわざ検査のためだけにベラルーシへ行くのは大変ですが、日本ではほとんど測定の機会がありませんから、旅行や出張などでベラルーシへ訪れる方で、ご自分の内部被爆が気になる方は、せっかくですのでベルラド研究所まで足を伸ばされてはいかがでしょうか?


 

日本文化情報センターの活動 「第9回 着物展」 その3

2012-04-06 | 日本文化情報センター
 会場にお越しいただいた皆さんはご覧のように撮影大会となります。
 着物展の入場は無料。写真撮影、ビデオ撮影も無料です。(こういう場が最近のベラルーシでは少なくなってきているので、みんな大喜びです。)
 市立の図書館内だから無料にできます。(今のところ・・・)

 ベラルーシ人の皆さんが笑顔で日本の着物と記念撮影しているのを見るのはとてもうれしいことです。
 また日本文化情報センター内でも着物の歴史の移り変わりや、帯のさまざまな結び方を紹介する展示も同時に行いました。

「日本に来たみたい!」
と言ってくれ多ベラルーシ人もいましたが、少しでも日本を身近に感じてくれれば、と思っています。
 また来年につなげて行きます。
 ご協力してくださった皆様、本当にありがとうございました。
 
 
  

日本文化情報センターの活動 「第9回 着物展」 その2

2012-04-06 | 日本文化情報センター
 今回は展示室が会場でしたので、展示そのものもしやすかったです。
 一方で改善点も見えてきましたので、来年以降の着物展ではさらに見やすくなる工夫をしようと思いました。 

 会場では着物の着付けの仕方を説明するビデオも上映しました。
「どうしてこんなに帯が長いの? どうやって巻くの?」
とみんなに質問されるのですが、言葉ではうまく説明できないのでビデオ映像で説明しています。


日本文化情報センターの活動 「第9回 着物展」 その1

2012-04-06 | 日本文化情報センター
 3月9日から4月2日にかけて第9回着物展を開催しました。
 来展者数は494人。今年は会場が変わり、開催期間が長くなったので、たくさんの人に来ていただきました。
 会場はミンスク市立第5児童図書館の2階に内装工事後、完成した展示室。着物展以外にも絵画展などを行っています。
 今回展示したのは・・・
留袖 2点
振袖 4点
打掛 1点
羽織 1点
袴 1点
お初着 1点
浴衣 4点
襦袢 2点
帯 12点
帯揚げ 4点
伊達締め 1点
半襟 2点
伊達襟 1点
帯締め 6点
草履 3点
下駄 4点

 展示品を寄贈してくださった日本の皆様、本当にありがとうございました。今年もベラルーシでお披露目できました。

 昨年は震災が起こった日が初日だったため、どうしても日本に悲しいイメージがベラルーシ人の心の中に起こってしまい、訪れる人も少なかったのですが、今年はたくさんのベラルーシ人が来てくれました。
 また11日に訪れた人は
「今日本はどうなっていますか? 大丈夫ですか?」
と心配する声をかけてくれる方が多かったです。

第8回着物展はこちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/16a3f7cf29eec3ea257572c1b07f5e2b


第7回着物展についてはこちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/6eaa3b3e727871cfb573e10da790460a


第6回着物展についてはこちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/1a079bad2c6f9867de48f2a48a200e81


第5回着物展についてはこちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/7d25e34c25192f19586306c9c53cb47e


第4回着物展については HP「ベラルーシの部屋」の「チロ基金創立10周年記念式典(4)「第4回着物展」をご覧ください。

http://belapakoi.s1.xrea.com/x/repo/hobby_book.cgi




日本文化情報センターの活動 剣道体験会 その7

2012-04-05 | 日本文化情報センター
 無事に剣道体験会が終了。お疲れ様でした! そして本当にありがとうございました。
 会場が何と言っても図書館で、体育館でもないような場所で、狭くてやりにくい部分もあったかもしれません。でもいろいろ工夫してくだって、助かりました。
 またぜひ子どもたちに剣道を教えてあげてください。よろしくお願いします。
 日本文化の紹介をベラルーシですると言っても私1人では限界があるので・・・。
 これからも日本文化情報センターの活動を盛り上げようと思っています。

日本文化情報センターの活動 剣道体験会 その6

2012-04-05 | 日本文化情報センター
 さらには子どもたちに防具もつけさせてくれました。
 でもやっぱりぶかぶかですね。(^^;)
 しかしこんな姿のベラルーシ人の小学生を見るのは初めてです。
 
 子どもたちは貴重な体験ができました。たぶん今日の剣道会のことは一生覚えていると思いますよ。
 みんなこれで日本のことが好きになったにちがいない・・・(でも剣道を見せたのは日本人ではなくてベラルーシ人なんですよね。)
 かく言う日本人の私は、興奮しすぎて空手ごっこを始めた少年たちを
「空手はしちゃだめ!」「けんかはだめでしょー! これ以上やったら証拠写真を撮って、校長先生に見せちゃいますよ。」「剣道は防具をつけているから叩いてもいいんですよ。傘でお友だちを突っつくのはいけません。」と言って回っていました。
 家に帰ってから物まねをして怪我してもらうと困るので、釘をさしておかないと・・・

 礼儀を重んじる武道の心もちゃんと話しましたが、このへんは腕白坊主には伝わってないと思います。(^^;)
 でも分かってくれた子どももいると思いますし、これを機会に日本のことや、世界について目を開いてもらえたらな、と願います。

 
 

日本文化情報センターの活動 剣道体験会 その5

2012-04-05 | 日本文化情報センター
 竹刀の握り方、足さばきなども教えてもらいましたが、そんなに簡単にできるようにはならないですよね。
 しかし
「大きな声を出して!」
と言われた子どもたちはとてもがんばっていました。
 最初はびっくりしたり、怖がっていた子どもも最後には自分もやりたい! と手を上げていました。
 それにしても50人ぐらいから面を受けていたマルガリータさん、頭が痛くならないのか、心配しましたが
「防具があるから平気です。」
と笑っていました。