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ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

ゴシケーヴィチ関連情報 シンケイ丸について 

2014-11-19 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 以前からこのブログ上で、今年生誕200年を迎えたゴシケーヴィチ情報を探していました。
 おかげさまで、いろいろなことが判明しました。

 そんな中で、ゴシケーヴィチが寄贈したという常夜灯とバロメータ(晴雨計)のことが気になっていたのですが、日本に住んでいないので、私自身が調べることができないままでいました。

 しかし日本に住んでいる方が代わりにちゃんと詳しく図書館で調べて下さって、教えてくださいました。本当に感謝しています!

 そもそも私は常夜灯のことはロシア側のゴシケーヴィチに関する文献や論文の「参考文献」のところに
 阿部正己著「歴史地理」(1920年発行)の141-146ページにある「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」
 ・・・という文献が表記されているところから知ったのですが、ベラルーシ人のゴシケーヴィチ研究家から
「このバロメータは今でも日本のどこかにあるの? シンケイ丸って漢字でどう書くの?」
ときかれても答えられず、「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」という本が読みたいなあ、でもネット上では読めないし、困ったなと思っていたのです。

 今回代わりに読んできてくださった形となったのですが、この文献にちゃんとゴシケーヴィチが常夜灯を寄贈した、と記述されていたのです。

 さらに詳しく引用された文献をご紹介すると「歴史地理」36巻4号 凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ――(下) / 阿部正巳(大正9年、1920年)であり、この「凾館駐剳露國領事ゴスケウヰッチ」上中下とシリーズになっています。
 上中下はすべて36巻に書かれていて、上は2号、中は3号、下は4号に収録されていました。

 それを分かりやすく要約すると・・・
 
 アメリカ領事ライスによって水先案内が設置されたが、ゴシケーヴィチがこれは不便なので、1861年常夜灯を寄贈することを約束した。
 1862年8月常夜灯が到着したので、ゴシケーヴィチは函館奉行所に持って行った。
 それを初め陸上に設置したが、1865年8月信敬丸と言う船に取り付けて、弁天岬沖の港口に停泊させるようにした。
 同年10月23日に常夜灯に点火し、その後水先案内人は廃止した。

 ・・・上記のうち、陸上とあるのは弁天台のことですね。
 
 ちなみにこの常夜灯のことは函館市史通説編第1巻 3編5章4節にも記述があります。
 
 それによると・・・

「外国船の水先案内については、去る安政5年2月ライスからの申出により、水夫11人を常雇として昼夜遠見番所に詰めさせておいたが(案内料は5月までは7ドル、6月以降は5ドルの定め)、万延元年になってライスおよびロシア領事ゴスケウィッチから、日本の水先案内は役に立たないといって外国人を推薦してきた。
しかし奉行津田正路は常夜灯を設置中だから、それができあがれば水先案内は不必要だろうといってこれを拒絶した。
箱館港口の常夜灯は、安政3年5月弁天町の庄蔵なる者の願いにより弁天岬に設置されたが、翌4年台場建築のために移転を命じられ、文久元年新しい箇所に竣工した。」

 ・・・となっており、ゴシケーヴィチが常夜灯を寄贈した、とはっきり書いていないのです。
 
 阿部正己の著書にしろ、函館市史にしろ、こういう情報の元ネタ(^^;)は函館奉行所のが残した公文書だと思うのですが、結局どっちが正しい(あるいは詳しい)の? ということになります。
 
 次に亀田丸という船にゴシケーヴィチが寄贈した晴雨計のことは、元木省吾著「北方渡来」(1961年発行)の59-61ページに記述かあるとして、ロシア人研究者は自分の論文の参考文献に記しているのですが、これについても上記阿部正己の論文に記述があったそうです。

 それによると・・・

 1859年11月、函館奉行の竹内奉行と津田奉行は新しく製造した船、亀田丸に晴雨計を設置しようと思った。
 その購入方法をゴシケーヴィチに相談したところ、函館港に停泊していた軍艦ジキット号に設置されていた晴雨計を寄贈してくれた。

 ちなみにジキット号というのはロシア帝国の軍艦で、ゴシケーヴィチが領事として函館に赴任してきたときもこの船に乗って函館に入港しています。

 よく考えたら、自分の船でもないのに、軍人たちと交渉して、一つ晴雨計を譲ってもらい、
「晴雨計っていくらぐらいするのかなあ。高いのかなあ。」
なんて心配していた函館のお役人に
「あげますよ。これで買わなくてもいいでしょ。よかったね。日露友好!」
と言う感じでゴシケーヴィチはプレゼントしたんだろうなあと想像できます。

 こうして晴雨計は亀田丸に設置され、使用されていたはずですが、その後のこの晴雨計の行方は分かりません。

 さらに船としての信敬丸と亀田丸についても調べたことを教えていただきました。

 「函館市史」通説編1 3編5章8節-1~5によると、どちらも函館奉行所の備船で、信敬丸は君沢形というタイプの船で、亀田丸はスクーネル型という船なのだそうです。
 と言っても船に明るくない私には違いが分からないのですが、どちらも西洋タイプの船だけれど、建造されたのは日本国内という船で、亀田丸はロシアとの貿易に使われていたそうです。

 信敬丸は「函館市史」通説編2 4編7章1節5-2 - 函館市中央図書館によると、1872年小林重吉と言う人物が信敬丸の払い下げを運上所に出願し1873年3月許可を得て、修繕、改造をして虎久丸と改名したそうです。
 虎久丸は74トン、安政元(1854)年製造のもので・・・とあるので、信敬丸は1854年に建造された船だったと分かります。

 信敬丸が虎久丸に改造された時点(1873年)には、常夜灯は取り外されてしまったものと思われます。
 やはりその後の常夜灯の行方は分かりません。

 函館のどこかに常夜灯も晴雨計も保管されているかもしれませんが・・・


 ともかくこんなに詳しくゴシケーヴィチ情報が集まるとは今年の初めには思ってもいませんでした。
 天国にいるゴシケーヴィチに言いたいぐらいですよ。(^^;)

 調べてくださった方、本当にありがとうございます!
 

 

 


ベラルーシの新聞紙上でゴシケーヴィチが撮影した湿板について掲載

2014-10-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 大変お待たせいたしました。ようやくベラルーシの新聞「ゴラス・ラジムィ」にゴシケーヴィチが撮影したガラス湿板が同志社大学で保管されていたことが記事になりました。
 このガラス湿板には同志社大学の創立者である新島襄が写っています。

 この新聞は現在ネット上で閲覧できます。詳しくはこちらをご覧ください。

 ベラルーシの新聞紙上で大きく取り上げられたこと、大変うれしく思っています。
 150年前にベラルーシ人が日本で撮影した湿板が大切に保存されていることを新聞を通じてベラルーシ人にも知ってほしいです。
 記事の内容ですが、このブログで書いてきたことと内容はほぼ同じです。湿板に行きつくまでのいきさつ、さらにベラルーシではあまり知られていない新島襄についてもきちんと説明してあります。

 新島襄が写っているガラス湿板ですが、現在同志社大学社史センター内で、新島襄が父親に宛てた手紙とともに保管されています。ガラス湿板そのものをデジタル撮影した画像を今回の記事に掲載する予定で、社史センターから許可をいただいていたのですが、結局掲載されませんでした。
 この湿板のデジタル画像を私は拝見したのですが、表面がかなり暗くて、確かに人物が写っているのが分かる程度なのです。
 これを新聞紙上で印刷しても、「何が写っているのか分からない。」と購読者から言われそう・・・と編集部のほうで判断されたらしく、掲載許可を出してもらったにも関わらず、掲載されませんでした。
 私個人の感想としてはこの点が少し残念でもあり、また一方で仕方ないという気持ちの両方です。
 1988年に同志社大学社史センターが発行した論文集「同志社談叢第8号」に掲載された桑島洋一さんの寄稿「新島襄の函館脱出時の写真について」のコピーのほうが結局掲載写真として選ばれましたが、考え方によってはこっちのほうが新聞読者にとって分かりやすいかもしれません。

 それからこの記事に人物が撮影されたガラス湿板の画像が掲載されていますが、これは林儀助という人で、これもゴシケーヴィチが撮影したとされている湿板です。

 1865年6月の撮影会でゴシケーヴィチが撮影した写真のうち現存しているのは3枚ですが、全てかなり暗く写っており、(要するにゴシケーヴィチは撮影に失敗しています。)林儀助さんの湿板も暗かったのですが、ご本人がその後、湿板を複製しており、そのときに露出を明るくするよう調整したのです。
 それが今回新聞に載った写真ですが、3枚あるうち一番きれいな写真なので、掲載採用されたようです。

 ご報告が大変遅くなってしまいましたが、この記事が出るために、同志社大学でコピーをしてくださったり、ベラルーシまで届けてくれたり、日本国内で調べてくださった方々に感謝しています。
 多くの方のご協力とご理解がなかったら、この記事は発表できませんでした。
 撮影したゴシケーヴィチ、撮影を勧めたニコライ主教、被写体となった新島襄の3人を結び付けたガラス湿板が現在を生きる私たちも結び付けてくれたことに感慨を覚えます。  


ゴシケーヴィチの胸像は函館市地域交流まちづくりセンターに設置されています

2014-10-11 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 北方歴史資料館で展示されていたゴシケーヴィチの胸像
 資料館の閉館にともない、胸像はどこへ行くのか心配していましたが、館長だった高田菜々様より、函館市地域交流まちづくりセンターにて展示されることを教えていただきました。
 函館市民の皆様、そして函館を訪れる方々にこれでゴシケーヴィチの胸像を見てもらえますね!
 
 9月29日から10月18日まで函館市地域交流まちづくりセンター内で、ゴシケーヴィチ生誕記念200年の記念パネル展も行われています。
 詳しくはこちらこちらです。

 これをきっかけに日本でも広くゴシケーヴィチの業績を知ってもらえたらと思います。
 
 この画像は高田様よりいただきました。どうもありがとうございます!

 生誕200年の節目の年にこのような形でゴシケーヴィチの胸像が移設されたのも、運命を感じます。

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 追加情報です。
 現在函館街づくりセンター内にあるゴシケーヴィチの胸像は10月18日以降、函館にある旧ロシア領事館の中に設置されるそうです。
 時期はまだはっきりしませんが、これでもう移転はしないようです。
 末永く函館で展示されてほしいですね。

 函館の旧ロシア領事館についてはこちらです。 

 (残念なことにゴシケーヴィチが建てたロシア領事館の建物は消失してしまったので、現在残っている建物は、ゴシケーヴィチが帰国してから再建されたものです。)

ゴシケーヴィチの感光板は同志社大学で保管されていました! (追加情報あります)

2014-08-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 今年はゴシケーヴィチ生誕200年の年で、日本文化情報センターとしてもゴシケーヴィチのことを調べていたのですが、多くの方々のご協力により、ゴシケーヴィチが撮影のため使っていた感光板が同志社大学で保管されていたことが分かりました。
 写っているのは同志社大学創立者である新島襄(当時21歳)です。
 
 以前「ゴシケーヴィチ関連情報をありがとうございました!感光板について」という投稿記事で、新島襄をゴシケーヴィチが撮影した写真が、同志社大学に保存されており、その感光板は北海道の写真家、桑島洋一さんからロシアの作家グザノフの手に渡り、さらにロシアの博物館に寄贈されたらしい、とご報告しました。

 その後同志社大学社史センターに問い合わせたところ、紙焼きした写真はないという回答でした。
 保存されていたのは感光板そのものだったのです!
 当時の感光板はガラス板(ガラス湿版)を使用していましたから、割れないようにしっかりした木枠にはまっていますが、そのとおりの保存状況でした。

 このことはベラルーシでは知られていませんので、ベラルーシの新聞紙上で発表されることになりました。同社社社史センターは感光板そのものをデジタルカメラで撮影したカラー画像の使用許可を出してくれました。
 この画像とともに新聞に記事が載ります。掲載されましたら、このブログ上でもお知らせしますね。

 さて、ここで気になるのは、ロシアへ渡ってしまったという感光板のほうです。
 
 同社社社史センターが保管している感光板と、グザノフ著「白ロシアのオデッセイ」の中で桑島さんが手にしている「新島襄が写っている感光板」なのですが、形や入っている木枠の形状が異なります。
 
 新島襄が写っている、しかも全く同一の写真をそこから起こすことのできる感光板が2枚存在するのはおかしいです。

 他に分かったのは、新島襄が父宛に送った手紙の内容などから推測すると、1864年6月11日に函館のロシア領事館で写真撮影会が行われ、写真を撮ったのは、ゴシケーヴィチ本人だった。しかし当時の日本では印画紙などもなかったので、写真を紙焼きすることが困難だった。なので、ゴシケーヴィチは撮影会終了後、感光板そのものを被写体になった人々に手渡した。
 3日後の6月14日に新島襄はもらった感光板に手紙を添えて、江戸の父宛に郵送した。
 父は大切に保管。死後同志社大学で保管されることとなる。そして現在に至る。

 ・・・と考えるのが常識的だと思います。
 なのに、どうして1枚しかないはずの感光板がもう1枚存在し、北海道在住の写真家、桑島さんが所有していたのでしょう???
 このあたりのいきさつをおききしたかったのですが、ご本人がご高齢で回答は得られませんでした。

 桑島さんには申し訳ないし、あくまで私の予想ですが・・・桑島さんが手にしていた感光板には新島襄ではない人が写っていたのではないでしょうか。
 
 そして同志社大学で保管されていた感光板は本物のゴシケーヴィチ撮影の新島襄だと思います。
 ともかくゴシケーヴィチゆかりの物が日本で大切に保存されていたこと、ベラルーシ人にとっては大変うれしいニュースだと思います。

 ベラルーシの新聞紙上で紹介されること、今から楽しみにしています。  

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 以上は8月7日の投稿内容ですが、ここからは8月23日投稿の追加情報です。

 ゴシケーヴィチ撮影の写真について同志社大学社史センターから、詳しい情報を教えてもらいました。
 カメラマンの桑島さんはご高齢で、「白ロシアのオデッセイ」の著者はグザノフは亡くなっていますので、確認が難しいため、あくまで私の仮説なのですが、真相はこういうことだったのだと思います。

 やはり、ゴシケーヴィチが新島襄を撮影した感光板は1枚しか存在しない、と考えるのが妥当です。

 1864年6月、このガラス湿版である感光板を新島襄は手紙とともに父親に郵送しましたた。
 その後やがて同志社大学社史センターで手紙とともに感光板は保管されることになり、現在に至ります。
 1980年代、北海道の写真家桑島洋一さんがこのセンターを訪れ、ガラス湿板そのもののカラー写真を撮影を希望し、撮影許可を得てその場で撮影したことが、社史センターの記録に残っています。
 そのカラー写真を紙焼きして、ゴシケーヴィッチ関連の講演会で、手に持って紹介した桑島さん。
 さらにその様子が撮影され、「白ロシアのオデッセイ」に白黒写真で掲載されました。
 こちらを参照してください。
 これが白黒の写真であるため、手に持っている写真がカラー写真であることが私は分からなかったのです。

 この写真を自分の著作でグザノフ氏は説明を正しくは
「ゴシケーヴィチが撮影に使ったガラス湿板をさらにカラー写真で撮影し、紙焼きしたものを手にして語る写真家の桑島洋一氏」
と記述しないといけないところを、
「ゴシケーヴィチが撮影に使った湿板を見せている写真家の桑島洋一氏」としたために、今回のような誤解が起こったのです。

 グザノフは桑島さんから感光板ではなく、カラー写真をもらい受け、ロシアへ持って帰りました。
 桑島さんの手元にはこのカラー写真のネガが残っているので、いくらでも焼き増しができますから、ロシアへ写真を持っていかれても、困らなかったのです。
 グザノフはさらにそれをロシアの博物館に寄贈した・・・と桑島さんは私に言いました。

 一応私のほうからこの博物館に管轄である役場を通して問い合わせをしましたが、今のところ返事がありません。
 問い合わせの内容が「ガラス湿板はありますか?」だったので、「湿板? そんなのない。」と学芸員に思われているのかもしれません。
「ガラス湿板を撮影したカラー写真はありませんか?」だったらより正確だったと思います。
 
 今から質問し直してもいいですが、桑島さんが1980年代に撮影したカラー写真がロシアの博物館で見つかってもニュースにはならないですし、保存状態がどうなっているのか疑問です。
 
 以上が私の仮説ですが、たぶんこのような経緯があって、誤解していたのだと思います。

 真相は100%解明されたわけではありませんが、ともかくゴシケーヴィチが撮影に使った感光板、しかも新島襄が写っているものが日本で保管されていたのは、ベラルーシにとって大きなニュースです。

 ご丁寧に回答してくださった同志社大学社史センターの担当者様、日本国内で情報収集してくださった皆様に深く感謝申し上げます。
 (私はすごくすっきりしました!)
 

ゴシケーヴィチ情報をありがとうございました! 弁天崎、亀田丸について

2014-07-27 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 先ほどの「ゴシケーヴィチが撮影した新島襄の写真」という記事に引き続き、ご報告です。
 感光板のこと以外にも調べていたことがありました
 ゴシケーヴィチが寄贈した球状の明かりのことと、バロメーターをプレゼントした亀田丸についてです。
 この明かりは常夜灯、バロメーターは晴雨計のようです。

 これについても詳しく調べて教えてくださった方がいて、本当に助かりました。メールをいただいたときは大変うれしかったです!

 まず明かりが設置されていたという「ベンテンザキ」ですが、弁天崎のことで函館市にあった弁天台または弁天台場のことだろうと思われます。ここには19世紀、砲台の台場が建設されており、プチャーチンが日本に寄贈した大砲の一部も設置されていました。詳しくはこちらをご覧ください。

 函館戦争のとき戦場にもなった弁天台ですが、1899年に解体され消失し、現在は函館市弁天町になっています。
 つまり弁天岬はもうないということです。
 ここに砲台があったのははっきりしており、写真も残っているのですが、これを見た限りでは、明かりのようなものはぶら下がっていません。
 足元に置いて使うようなものだったのかもしれませんが・・・

 この写真は明かりがその後「シンケイマル」という船に移された後に撮影されたものであるかもしれません。だから写っていないのかも。
 弁天台場が完成したのは1854年ですから、これも時間的にはゴシケーヴィチが函館にいた時期に当たります。明かりを寄贈しても不思議はありません。

 シンケイマルについてはまだ分かりません。ロシア人にとって日本語の名前や名称は聞き取りづらいものですから、船の名前も誤表記してしまった可能性もあります。
 もともとベンテンザキとシンケイマルの明かりのことはロシア側の文献はこの情報を日本の文献、阿部正己著「歴史地理」(1920年発行)の141-146ページにある「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」から引用しています。
 このときに漢字を読み間違えて、ロシア語表記にしているので、そのとき誤記してしまい、現在になってもともとの船の名前が分からなくなってしまっている可能性があります。

 またカメダマルのバロメータのことは元木省吾著「北方渡来」(1961年発行)の59-61ページに記述かあるとして、論文の参考文献に記しているのです。 次にゴシケーヴィチがバロメータを寄贈した船「カメダマル」は亀田丸と考えると、同じ名前の船があったことが分かりました。
 こちらをご覧ください。
 同じ名前で別の船、という可能性もありますが・・・。もっともバロメーターの行方は分かりませんし、これだけでは本当にゴシケーヴィチがバロメーターを寄贈したのかどうかも確証はありません。
 安政6年に完成したそうですが、これは西暦で言うと1859年です。ゴシケーヴィチは1858年から1865年まで函館領事を務めていましたから、やはり時間的には不自然なことはありません。

 それにしてもここまで詳しく知ることができるとは思いませんでした。
 調べてくださった方、本当にありがとうございました。

 ゴシケーヴィチの謎はいろいろありますが、また少し解明されたと思います。
 生誕200年の年に不確かな部分ははっきりさせるほうがいいと私は思っているので、これからもできるだけ分かったことをまとめて、ベラルーシ側に伝えようと思っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 追記です。
 シンケイ丸、晴雨計、常夜灯について詳しく分かりました。
 こちらをご覧ください。

ゴシケーヴィチ関連情報をありがとうございました!感光板について

2014-07-27 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 初代ロシア領事ゴシケーヴィチについて書かれている文献「白ロシアのオデッセイ」(グザノフ著)で紹介されているゴシケーヴィチの木箱がプチャーチンのトランクであることが判明したことについてすでにお知らせしました。

 この本にはゴシケーヴィチが1860年代に撮影に使ったネガ(感光板)を手にした写真家の「クワジマヨウイチ」さんの写真も掲載されており、このクワジマさんをご存知の方は教えてください、とお願いしていました。
 ほとんどあきらめていたのですが、親切な方がとても詳しく調べて教えてくれました。本当に感謝、感謝です!

 その方からの情報によると、クワジマヨウイチさんは北海道の写真家、桑島洋一さんであることが分かりました。
 桑島洋一さんはゴシケーヴィチの写真技術の弟子だった横山松三郎の研究もしていた方で、また北海道新聞にも関係があることが分かったため、北海道新聞に問い合わせました。
 その結果、かつて北海道新聞社で働いていたカメラマンであったことが分かりました。
 その後桑島さんに直接、問い合わせた結果、このようなことが判明しました。

 まず「白ロシアのオデッセイ」に写真が載っている桑島さんですが、ご本人に間違いないそうです。
 そして手に持っている感光版ですが、新島襄が写っているとのことでした。
 この写真については桑島さんがご自分で調査されたことを、まとめて記事にしたものが1988年に同志社大学社史資料室(現在は社史センター)が発行している論文集「同志社談叢第8号」に掲載されていることが分かりました。
 「新島襄の函館脱出時の写真について」という記事です。
 
 それによると1864年6月13日に函館で写真の撮影会があり、そこで複数名の日本人が撮影してもらったのですが、その中に新島襄がおり、また撮影をゴシケーヴィチが担当したそうです。

 もっともその感光板はゴシケーヴィチの撮影技術の問題のため、そのまま印刷すると、とても暗くて、何が写っているのか分かりにくい写真になってしまいました。
 ちょんまげ姿の新島襄の写真も撮影会で写したほかの日本人の写真も不鮮明なできです。

 新島襄に撮影会のときに写真を撮るようすすめたのは二コライ主教で、その写真を手紙とともに江戸の父宛に送ったのは新島襄本人です。
 この手紙と写真は現在同志社大学で保管されています。

 さて、感光板がどのような経緯で桑島さんの手に渡ったのか質問したかったのですが、ご高齢のため直接の回答を得られませんでした。
 しかし桑島さんの話によると、感光板そのものは、グザノフ(「白ロシアのオデッセイ」の著者)がロシアへ持って行ってしまったようなのです。というのもその後その写真がロシアの雑誌「今日の日本」などで紹介されたからなのです。

 桑島さんによるとグザノフはゴロブニンの生地にあるロシアの博物館に感光板を寄贈したらしいです。
 それが本当なら今でもその博物館に保存されているはずですがはっきりしていません。

 感光板がロシアのどこかで保管されていればいいのですが、ロシアではなくベラルーシに住んでいる外国人の私には探すのも難しい状態です。

 感光板がロシアへ渡る前に紙焼きしたものが同志社大学に残っているのが、幸いです。

 とにかくゴシケーヴィチが新島襄を撮影していたこと、そしてその写真が残っていたことが感動です。

 撮影会では新島襄以外の日本人も撮影されており、林儀助と言う人が息子と写っている写真も、撮影した月が6月と同じ、撮影したのは外国人と箱書きがあり、また暗くて不鮮明な写真で、新島襄の写真と同じ「失敗」をしていることから、同一人物が撮影した可能性が高いのです。つまりゴシケーヴィチが撮影した写真の1枚と考えられます。
 この写真は函館市立中央図書館のサイトで見ることができます。

 ゴシケーヴィチが撮影した写真が日本で残されている事実はベラルーシでは知られていませんから、私としてはぜひベラルーシ人にこの事実を伝えようと思っています。

・・・・・・・・・・・・

 追記です。(8月7日)
 感光板がロシアへ渡る前に紙焼きしたものが同志社大学に残っている、と書きましたが、実際には紙焼きされた写真は残っていませんでした。
 残っていたのは感光板そのものでした。
 詳しくはこちらをご覧ください。
 
  

ゴシケーヴィチ関連情報を探しています

2014-06-08 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 「ゴシケーヴィチの木箱」以外にも「白ロシアのオデッセイ」にはゴシケーヴィチが写真撮影したときのネガ(感光版)を手にした日本人の写真家、「クワジマ ヨウイチ」さんの写真も掲載されています。
 添付した画像をご覧ください。  

 今でもゴシケーヴィチが撮影したネガが日本で保存されているのでしょうか?
 クワジマ ヨウイチさんとは誰なのか調べてみましたが、ベラルーシに住んでいる私には調べること自体が難しくて分かりませんでした。
 この写真家について、ご存知の方はどうか教えてください。

nbjc19990909☆yahoo.co.jp(☆を@に変更してください。)
 
 今ゴシケーヴィチのネガはどこにあるのでしょう?
 クワジマさんの個人蔵なのでしょうか?
 おそらく調べても「分からない」という結果になりそうなのですが、ゴシケーヴィチ生誕200年の今年、もう少しはっきりさせておきたいと思います。

 他にもゴシケーヴィチは函館領事時代、球状の明かり(ちょうちん?ランプ?)を日本人に寄贈し、それが「ベンテンザキ」(弁天崎?)という岬で灯されていた。その後この岬の反対側に停泊していた「シンケイ丸」という名の船で使われた。

 さらに「カメダ丸」という新しい船が造られたとき、その船長にゴシケーヴィチはバロメーターをプレゼントした。

 ・・・ということになっており、ロシア側の文献ではそのように紹介されていますが、日本語の文献では少なくとも私は目にしたことがありません。
 ベラルーシ人に「この船の名前を漢字で書くとどうなるのか?」ときかれたことがありますが、カメダ丸は「亀田丸」かなあ、と予測がつくものの、「シンケイ丸」は予測できません。

 弁天崎についてもはっきりどこなのか分かりませんでした。函館市に弁天町というところがあるのは分かったのですが・・・

 この船の漢字での名称をご存知の方がいれば、教えてください。
 この明かりやバロメーターは函館のどこかで保存されているんでしょうか?

(正直言ってあまり期待してませんが・・・)

 ゴシケーヴィチに関しては「伝説」が一人歩きしている部分もあるのですが、後世の研究のためには生誕200年の節目の年に当たる今、どれが真実で、どれが詳細不明事項なのか、もう少しきちんと示すことが現在の研究者の仕事だと思います。
 しかし実際には、とにかくゴシケーヴィチに関することをかき集めている段階にあり、真偽のほどが分からないし、明確にしようとする作業も後回しになっている・・・というのが現状だと感じています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 追記です。
 あまり期待していなかったにもかかわらず、多くのことが分かりました!
 情報提供してくださった方々に感謝しています!
 
 クワジマ ヨウイチさんについてはこちら、ベンテンザキ、カメダ丸についてはこちらをご覧ください。
 

ゴシケーヴィチの木箱は存在しない?

2014-06-07 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ゴシケーヴィチに関して書かれた文献で「白ロシアのオデッセイ」という歴史小説があります。
 グザノフというロシア人が作者なのですが、この本の図版の中に「ゴシケーヴィチの木箱」というものが戸田村立造船郷土資料博物館で保存されている、という説明とともに白黒の写真が掲載されているのです。
 添付画像をご覧ください。日本文化情報センターで所蔵しているのはベラルーシ語版なので少々分かりにくいのですが「戸田村の博物館で保存されているゴシケーヴィチの木箱」と説明があります。

 今年はゴシケーヴィチ生誕200年に当たり、生涯を紹介する映像作品の制作が現在ベラルーシで進められていますが、この木箱を画像資料の一つとして使えないものかとプロデューサーから頼まれました。つまり、本来ならば日本まで行って木箱の画像を撮影したいけれど、そんな予算がないので、博物館側にデジタル画像があれば貸してほしいという依頼を日本語に翻訳するよう頼まれたのです。
 そこで調べたところ、この博物館は現在、静岡県沼津市にある戸田造船郷土資料博物館であることが分かり、この件についてメールで私から連絡することにしました。

 しばらくして学芸員の方から丁寧な返信が届きました。
 それによると「ゴシケーヴィチの木箱」というものはないけれど、その写真に写っているのは通称「プチャーチンのトランク」と言われている展示品です、ということでした。

私は「ああ、やっぱり。」と思いました。この文献のために、ベラルーシやロシアでは「日本にゴシケーヴィチが残していった木箱が保存されている。」という認識が広まってしまっており、ゴシケーヴィチ関連のロシア語文献など読んでいると、たびたびそのような記述にお目にかかっていたのです。
 しかし日本発の文献や情報でそのような木箱が存在するという情報を見たことがなく、私自身は本当にこのような木箱があるとしても本当にゴシケーヴィチの所有物なのかなあと疑問に思っていたのです。

 学芸員の方のお話によると、これは「中国製のトランク」として台帳に記録されている展示品で、以前はヘダ号の設計を行った太田家にて「プチャーチン愛用のトランク」として保存されていたものだそうです。かつての太田家当主から博物館に寄贈されたそうですが、その方もすでに亡くなっており、詳細をたずねることができません。

 「プチャーチンって誰?」「ヘダ号って何?」と思われた方はぜひとも、この日露交流史の1ページであるこの史実についてお読みください。感動的です。

プチャーチンについてはこちら。

ヘダ号についてはこちら。

戸田造船郷土資料博物館のサイトはこちらです。


 さて、問題なのは「プチャーチン愛用のトランク」として太田家に代々保存されてきたこの中国製のトランクですが、本当にプチャーチンの所有物だったのかどうかというと、確たる証拠がありません。
 トランクの表面に「プチャーチン」と書かれているわけでもありません。
 しかも立派な錠前がついていますが、寄贈した太田家当主の話によると「鍵のほうは紛失した。」ということで、開けることができないのです。
 トランクを振ってみても、音はしないので、中身は空と推測されます。
 開けることができたら、もしかすると内部に「プチャーチン」とかかれているかもしれません。
 しかしどうやら100年ぐらいこのトランクは開けられていないようなのです。

 博物館に展示品を寄贈するとき、ふつうその大きさを測定したり、中を開けたり、材質や形状などを記録してカードにし、目録を作成します。
 しかしこの博物館では、「鍵がないから開けられない。」ということで、中身を確認をしたことがないらしいです。少なくとも目録に「中を開けたら、空だった。」「内容物はなし。しかし底部分にこのようなサインが残されていた。」といった記述や写真がありません。

 つまり本当にプチャーチンの所有物だったという証拠がありません。
 説明としては「伝 プチャーチン愛用のトランク。中国製」というのがより正しいです。

 ということは、もしかするとやっぱりゴシケーヴィチの所有物だった可能性もあります。
 なぜならヘダ号を設計した太田家には当時、プチャーチンだけではなくゴシケーヴィチもたびたび訪問しており(通訳ですから当然ですね。)太田家の人々と交流していたのです。

 トランクが中国製というのも、中国に10年近く暮らしていたゴシケーヴィチが持っていたとしてもおかしくありません。
 ただプチャーチンもロシア海軍の軍人ですから世界の海を航海していますので、中国製のトランクを入手していても不思議はないです。

 つまり分からないんですよね。せっかくなので、これを機会に錠を開けてみてはいかがでしょうか? と博物館側に提案してみました。でも昔の錠前なので、簡単に開けられないかもしれませんね。
 レントゲン写真を撮影する方法もあるけど、大変ですよね。所有者の氏名が判明するかどうかの確証もないし・・・。

 というわけで、結局なぞのままなのですが、つまりロシアやベラルーシでは信じられている「ゴシケーヴィチの木箱が日本に存在する」という事実もなくなってしまいました。
 
それにしてもゴシケーヴィチの木箱の存在について自分の著作で堂々と記述しているグザノフは、どうしてそんなことをしたのでしょうか?
 何らかの確証があったのでしょうか? それとも単なる勘違い?

 グザノフ氏も亡くなりましたので、質問することもできません。
 どちらにせよ、「日本にゴシケーヴィチの木箱が存在する」と言い切れなくなってしまったのが現状です。

 今年1年間はゴシケーヴィチ生誕200年の年で研究も進むし、その発表も盛んに行われていますが、木箱の存在については明確ではない、と言える機会がありましたら、私から発表します。


ゴシケーヴィチ生誕200年記念学術会議で発表しました

2014-04-06 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ゴシケーヴィチ生誕200年を記念した学術会議が4月5日ミンスク州にあるウズダ市内で行われました。
 ウズダはミンスクから車で南に1時間半ほど行ったところにある街です。学校が3校しかないという小さな街ですが、その中の学校でゴシケーヴィチを子どもたちが熱心に勉強しているということで、今回の会場になりました。
 この学校ではゴシケーヴィチをテーマにした展示が開催されていますが、その様子を学校のHPで見ることができます。
 生徒さん自身がゴシケーヴィチのことを調べて発表したそうで、先生方の指導の熱意が伝わってきます。

 ゴシケーヴィチの誕生日については3月16日説と4月4日説があるのですが、ベラルーシ大学歴史学部では4月4日説が有力ということで、4月にこの会議を企画しました。共同主催はミンスク州学習メソッドセンターです。

 このセンターでゴシケーヴィチの北京滞在時代のことを研究しているオブホワ先生のお誘いを受けて、私も参加することになりました。
 3月21日のベラルーシ大学国際関係学部主催のほうの学術会議で発表したのと内容はほとんど同じですが、もう少し詳しく新島襄について話をしました。ベラルーシでは新島襄のことはほとんど知られていないのですが、ニコライ大主教と20代のころ友達で、日本語を教えていたという関係だったことはベラルーシでは新鮮な驚きだったようです。

 ミンスクにはニコライ大主教の名を冠した教会があり、東日本大震災のときは犠牲者慰霊のための祈祷をしてくださったり、日本とベラルーシをつないでいます。

 その教会の神父であるパーヴェル神父も会議で日本の正教会について話してくださいました。パーヴェル神父はニコライ大主教について非常に詳しいはずなのですが、新島襄がニコライ大主教に日本語を教えていたことや、ニコライが新島襄に英語を教えてもらっていたことなどは知りませんでした。

 会場になった学校の展示の中に、「ニコライ大主教の日記」第1巻と第2巻があったので、興奮して手に取ってみたのですが、新島襄が函館に滞在していた頃(アメリカへの密航直前の頃)の時期に書かれた日記は収録されていませんでした。
 現在まで伝えられているニコライ大主教の日記は膨大で、それでも紛失・焼失した部分があるそうです。新島襄のことを書いていないのか気になるところです。

 新島襄の写真を撮影したのがゴシケーヴィチである可能性についてもお話しましたが、何と言っても昔の話で、関係者全員亡くなっているので確認のしようがありません。
 でもこういう歴史の中の「よく分かりません」の部分にいわゆる歴史ロマンがあるんですよね。

 今回はイワン・マホフの「ろしあやのいろは」のほか伊藤一哉著「ロシア人の見た幕末日本」も持参して展示してもらいました。両方とも現在日本文化情報センターで開催されているテーマ展示で紹介しています。
 後者は日本語の本なので、ベラルーシ人は読めないのですが、取材に来たカメラマンは、あちこちのページをめくってばちばち撮影していました。

 この本はゴシケーヴィチの函館領事時代のことを詳しく日本語で読みたい、という日本人にはお勧めの1冊です。
 しかし、著者によるゴシケーヴィチへの辛口批判もあるので、ベラルーシでは偉人扱いされつつある状況では、この本をベラルーシ人に薦める気持ちにはなりませんね・・・。(翻訳しないとベラルーシ人は読めないけど・・・。)
 もちろんいたずらにゴシケーヴィチを神格化したり、聖人扱いするのはよくないと思うのですが、他の国からヨーロッパの田舎扱いされているベラルーシですから、視野が狭くならないように、特に若い世代のベラルーシ人に、こんな国際人がベラルーシにいたのですよ、という感じで教育現場で周知していけばいいのに・・・といつも思います。
 
 会議の発表者の論文は後ほどまとめて論文集になるそうなので、楽しみにしています。個人的にはあまり知られていない(研究者が少ない)ゴシケーヴィチの中国滞在時代のことが気になっています。

 会議の最後にはこの学校の敷地内に白樺の記念植樹をしました。100年後のゴシケーヴィチ生誕300年のときには大木になっているでしょう。(私は見られないのが残念ですが。)(笑)

 また日本から立体折り紙の丹頂鶴を日本の方からお預かりしていたので、それをこの学校に寄贈しました。
 しかしこの学校の子ども達はすでに立体折り紙で白鳥を作って展示していたので、丹頂鶴を見ても新鮮な驚きはなかったかも・・・
 でもベラルーシ生まれの白鳥の群れの中に日本の丹頂鶴も飾っていただき、うれしかったです。

 ゴシケーヴィチ生誕200年関連の会議やイベントは今年1年各地で続きますが、今のところもう私が発表のため参加する予定はありません。
 でも今年が終わってもゴシケーヴィチのことを深く調べることは、日本文化情報センターの活動の一つとしても継続しようと思っています。

 

ゴシケーヴィチ生誕200年

2014-03-16 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 2014年3月16日はゴシケーヴィチ生誕200年に当たります。(2015年生まれ説や4月4日が誕生日という説もありますが・・・。)
 ベラルーシを初め、ロシアや函館などゆかりの地で、さまざまな記念行事が予定されています。

 ゴシケーヴィチについて詳しくはこのブログ内の記事をご覧ください。
 カテゴリ「ゴシケーヴィチ

 このようなわけで今年はゴシケーヴィチ関連の行事が1年かけて行われます。
 すでに3月16日にはミンスク市立第1図書館内で、研究者が集まり第1回発表会を行いました。私も出席し、帝政ロシア領事館が創った通称「ロシア病院」について調べたことを発表しました。
 これはロシア領事館が函館に入港してきていたロシア海軍の軍人のために開いた病院なのですが、日本人の患者にも解放されており、人種に関係なく、診察料、入院費、薬代、全て無料だったのです。
 医者はロシア人だったため、患者との問診の際にはゴシケーヴィチ領事自らが通訳をしていました。
 予算がロシア帝国から出ていたとは言え、幕末に日本人がただでロシアの医療を受けていたなんて、信じられないですよね。

 さらにおもしろいのはこの病院に新島襄が通院していたことがあり、また新島襄の写真をゴシケーヴィチが撮影していたかもしれない、という説がある、ということです。
 新島襄はアメリカに密航して、その後プロテスタントになりますが、正教の影響が強いベラルーシでは新島襄のことはほとんど知られていません。でもベラルーシ人のゴシケーヴィチと同志社大学創立者が函館で結びつきがあったかもしれない、と想像するだけで楽しいですよね。

 さて、3月21日には在ベラルーシ日本大使館とベラルーシ大学国際関係学部共催の学術会議が行われました。ベラルーシ、日本、ロシアから参加者が集まりました。私も出席し主にゴシケーヴィチの領事時代、函館で行ったさまざまな活動について話したかったのですが、あまりに範囲が広いので、ロシア病院と当時領事館で働いていたイワン・マホフが作成したロシア語の子供向け教科書「ろしあのいろは」について調べたことを中心に発表しました。

 「ろしあのいろは」は1861年に函館で発行されたのですが、その後何度か復刻版が出ており、そのうちの1972年度復刻版が1部、日本文化情報センターの所蔵文献として保管されているのです。
 「ろしあのいろは」1861年オリジナル版は日本国内、ロシア国内の歴史資料館などで保管されています。しかし私が知っている限りではベラルーシにはないようで、復刻版も弊センターにあるのが現時点ではベラルーシ国内唯一みたいなのです。
 「ろしあのいろは」は本当におもしろいですよ。和とじの本で150年前の人がこれを手に取ったら、「わあ、何だろう、この本!」と興味津々だったろうなあ、と思います。子どものときにこんな本をもらったら、宝物にしていますよ。ロシア語と日本語が入り混じった本は当時とても珍しかったと思います。

  3月20日からはミンスク市内の歴史文化博物館で、ゴシケーヴィチの生涯と日本文化を紹介する展示が行われており、ミンスクのあとはロシアのサンクト・ペテルブルグ(6-7月)、パリ(9月)、函館(10月)などに巡回展示される予定です。
 函館の会場は、函館市地域交流まちづくりセンターです。

 4月5日にはベラルーシ大学歴史学部とミンスク州学習メソッドセンター共催の学術会議が予定されており、これにも私は出席予定です。
 また秋にはベラルーシ科学アカデミー主催の円卓会議もあるそうです。

 日本文化情報センターでもゴシケーヴィチ生誕200年記念テーマ展示を開催中で、「ろしあのいろは」も公開しています。

 このような関連行事を通じて、ベラルーシでも日本でももっとゴシケーヴィチの業績が広く知られるようになればいいと思います。

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 追記です。

 2014年3月21日に行われたゴシケーヴィチ生誕200年記念学術会議に出席したとき、発表した論文が、10月28日、ベラルーシ大学国際関係学部発行の「国際法と国際関係」誌2014年第3号に掲載されました。
 その後、ネット上で閲覧できるようになりましたので、ここでもご紹介いたします。
「函館でのイオシフ・ゴシケーヴィチの活動」(ロシア語)
 会議にはたくさんの発表者がいましたが、論文が掲載されたのは私を含め2人だけでした。
 内容が掲載に値すると認められたようで、とてもうれしいです。

ゴシケーヴィチの胸像について新聞記事の日本語訳

2013-01-30 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 昨年12月に日本にあるゴシケーヴィチの胸像についてベラルーシの新聞で紹介されました。
 詳しくはこちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/52f494ad24154397d2ac125b22522858


 この新聞記事を日本語に翻訳しましたので、このブログ上でご紹介します。

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2012年12月6日付 ゴーラス・ラジームィ紙 No.46 (3310)

遠い海のもと出会った友人たち

 今夏すでに本誌で最初のベラルーシ人外交官イオシフ・ゴシケーヴィチについての記事が掲載された。ゴシケーヴィチはロシア帝国最初の日本領事として1858年から65年まで赴任していた。ベラルーシ出身のゴシケーヴィチのおかげでベラルーシと日本の交流が始まったと言ってよい。ロシア帝国の命を受けた「白い髪の領事」の人生物語は北海道の街、函館が舞台だとミンク在住の日本人辰巳雅子さんは語る。

「この夏ベラルーシ人の友人の招きを受けてグロドノ州にあるオストロベツ市とマリ村を訪問しました。そこでイオシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチが余生を送ったことが知られています。訪問記については本紙33号に掲載されました。」
 ミンスク市ルシヤノワ通りにある第5児童図書館内に辰巳さんは日本文化情報センターを開設、両国民をつなぐ活動を行っている。辰巳さんはマクシム・バグダノビッチやヤンカ・クパーラの詩をいくつか日本語に翻訳した。また日本人がベラルーシを訪問したときには通訳として同行しているが、二国間の交流は福島の原発事故発生後、増えた。ベラルーシが経験してきたチェルノブイリという名の敵に対抗する術について日本人は大きな関心を寄せている。

 本紙の依頼により辰巳さんを通じて函館にある資料館館長、高田菜々さんに取材することができた。菜々さんは旧家高田家に生まれた地元の名士であり、その先祖は日露交流史に金字塔を建てている。このような背景があったからこそゴシケーヴィチ領事の使命もうまくいったのだろうと予想される。菜々さんは父である高田嘉七さん亡き後その人文学的、文化的活動を引き継ぎ、父が創立した北方歴史資料館の仕事を託された。

 ミンスク市在住の辰巳さんを通じて菜々さんが語ってくれた。
「私は一度もベラルーシへ行ったことがありません。ベラルーシについて知っていることはわずかです。ただ冬はとても寒い国というイメージです。あとテニスプレイヤーのビクトリヤ・アザレンカさんは強くてきれいな方だと思います。ロンドンオリンピックを見ての感想ですが、ベラルーシの方は背が高くて、美人が多いのではないかと思いました。」

 資料館内に展示されているゴシケーヴィチの胸像について菜々さんは設置されたいきさつを知らなかったが、嘉七さんが除幕式に参列したことは分かっている。胸像の側面には日本の文字で「コモフ ’89」と彫られており、またゴシケーヴィチを紹介する展示もある。彫刻家コモフの作品は資料館を訪れた人に親しまれており、また胸像の小さいレプリカも展示されている。さらにゴシケーヴィチから写真の手ほどきを受けた横山松三郎という写真家の作品も館内で見ることができる。
「父は高田屋嘉兵衛の7代目の子孫です。(嘉兵衛はゴシケーヴィチと知己だったのではないだろうか。編集部註)父はベラルーシやロシアへよく行っておりました。11月27日は命日にあたります。父が滞在中にお世話になりましたベラルーシ人関係者の皆様に感謝しています。ベラルーシと日本の距離は遠いですが、一方で人と人の友好関係に距離や時間は妨げにならないと思っています。ベラルーシの友人の皆様のご健康と益々のご発展を心よりお祈りしております。ありがとうございました。」

(編集部より)
 1994年イオシフ・ゴシケーヴィチ基金により地元協力者の下、ベラルーシ国内に「ベラルーシ日本友好協会」が設立された。その後グロドノ州オストロベツ市に外交官であり学者でもあり、この地に縁のあったゴシケーヴィチの像が建てられた。(銅像製作者はワレリヤン・ヤヌシュケヴィチ)
 函館市は日本で最初のロシア領事が住んでいたことを忘れなかった。その返礼のように1989年5月からソ連人民芸術家オレグ・コモフの手による胸像が函館市内で見ることができるようになった。

(写真)函館市内、北方歴史資料館内で展示されているイオシフ・ゴシケーヴィチの胸像のそばに立つ高田菜々さん。
(記事本文作成 イワン・ジュダノヴィチ)
(日本語訳 辰巳雅子)

 原文記事はネット上で読むことができます。(ベラルーシ語) 

http://www.golas.by/index.php?subaction=showfull&id=1355992427&archive=1356075309&start_from=&ucat=13&

  
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 この記事内に(嘉兵衛はゴシケーヴィチと知己だったのではないだろうか。編集部註)とありますが、高田屋嘉兵衛とゴシケーヴィチは生きていた時代などが違いますので、知り合いだったとは考えられません。
 もっともゴシケーヴィチは高田屋嘉兵衛より後の時代の人間なので、領事として当然知識として高田屋嘉兵衛のことは知っていたはずです。

 来年はゴシケーヴィチ生誕200年に当たり、記念行事の準備が今年から始まっています。ベラルーシ文化研究所の調査により、ようやく生誕地がほぼ確定されたそうで、今は埋葬地の確定作業が進んでいます。
 またゴシケーヴィチ関連についての記事をこのブログでご紹介しますね。


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 追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。  

日本にあるゴシケーヴィチの胸像についてベラルーシの新聞で紹介されました

2012-12-08 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 このブログでもご紹介しましたゴシケーヴィチ。
(詳しくはこちらをご覧ください。)

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/4ed105b05be0a81613377a10150b5d7a


 胸像が函館の北方歴史資料館に展示されていることが分かり、ベラルーシ関係者は喜び、そのことが12月6日付のベラルーシの新聞「ゴーラス・ラジームィ」紙に記事となりました。
 現館長様から故高田嘉七さんを知るベラルーシの人々へのメッセージも掲載されています。
 
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 追記です。この記事がサイト上で閲覧できるようになりました。


http://www.golas.by/index.php?subaction=showfull&id=1355992427&archive=1356075309&start_from=&ucat=13&


 全部ベラルーシ語なのですが、ぜひご覧ください。写真もあります。


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 追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。  

ゴシケーヴィチの胸像は北方歴史資料館にあります!

2012-09-21 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 7月に以下の記事を投稿しました。
「函館のゴシケーヴィチの胸像はどこにあるの?」

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/890a01b6c44a2ac0ff3b5f1140625de2


「函館のゴシケーヴィチの胸像についてマラジス先生にききました」

http://blog.goo.ne.jp/nbjc/e/a217e78e6ecf18761826f5e5f612b262


 その後、箱館高田屋嘉兵衛資料館に質問しようと思っていたのですが、HPがどうしても文字化けしてしまったり、メールアドレスが分からなかったりで、調べることができませんでした。高田嘉七さんが運営していたと思われるブログのほうにも問い合わせしたのですが、ご本人が亡くなられているので、回答はこないだろうとあきらめていました。
 
 ところが、高田嘉七さんが館長を務めていた北方歴史資料館の新館長(高田屋嘉兵衛の8代目子孫)の方が、ベラルーシの部屋ブログの記事を見つけてくださり、先日ゴシケーヴィチの胸像が北方歴史資料館内にあることを、連絡してくれました。
 本当にありがとうございます!!!

 ご丁寧に胸像の画像も送ってくださいました。
 ちゃんと函館にゴシケーヴィチの胸像があると分かり、大変うれしかったです。このことはベラルーシの関係者にも伝えなくては・・・!
 2014年にはゴシケーヴィチ生誕200年シンポジウムが開催されますが、そのときにも函館のゴシケーヴィチの胸像について発表したいと思っています。
 
 北方歴史資料館について、このような記事があります。  

http://www.ehako.com/news/news2011a/4919_index_msg.shtml


 高田嘉七さんが亡くなられた後、閉館していたのですね・・・。知りませんでした。このような事情があったにも関わらず、ご丁寧に新館長様から、ご連絡いただき恐縮です。
 現時点では来年3月までの予定だそうですが、皆様もぜひ北方歴史資料館ご訪問の際は、ゴシケーヴィチの胸像を見てくださいね。
 そして北方歴史資料館が存続してほしいです。北方歴史資料館のフェイスブックはこちらです。(ここにもちゃんとゴシケーヴィチの胸像の画像がありますね・・・。新館長さんは「銅像を動かしたい」とおしゃってますが、もしかしたらゴシケーヴィチのコーナーが別の場所に移動するかもしれませんね。)

http://www.facebook.com/pages/北方歴史資料館/394759183878826


 函館市民でなくても高田屋嘉兵衛について、もっと日本人は知ってほしいです。
 こういう人物が今の日本にいたらなあ、といつも思います。


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 追加です。北方歴史資料館がHPを開設しました。

http://takadayakahei.com/


 このHP内に「彫像・塑像」のページがあり、ゴシケーヴィチの胸像の紹介もされています。

http://takadayakahei.com/takadayakahei/cat7/


 製作年月日、製作者氏名など詳しくは上記の弊ブログ内記事「函館のゴシケーヴィチの胸像はどこにあるの?」をご覧ください。

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 追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。  


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 2014年10月の追記です。
 ゴシケーヴィチの胸像は函館市地域交流まちづくりセンターに移設されました。
 よかったです!
 詳しくはこちら
 

函館のゴシケーヴィチの胸像についてマリジス先生にききました

2012-07-26 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 「函館のゴシケーヴィチの胸像はどこにあるの?」という記事を公開しましたが、翌日知り合いのフォトジャーナリストのところへ用事があって出かけたら、そこでベラルーシ文化研究所のマリジス先生にお会いしました!
 何というタイミング・・・!
 そこでマリジス先生に函館を訪問したときのお話を伺いました。

 それによると高田嘉七さんに案内された資料館の2階にゴシケーヴィチの胸像があったそうです。
 でも高田屋嘉兵衛の子孫が運営している私立博物館は「北方歴史資料館」と「箱館高田屋嘉兵衛資料館」の二つあるので、どちらですか? と質問したのですが、訪問したのが2001年なので、はっきり覚えていないようでした。
 でもその資料館の壁は白壁だった、というお話でしたので、箱館高田屋嘉兵衛資料館のほうらしい、と分かってきました。

 その2階に胸像があったのですが、マリジス先生はわざわざゴシケーヴィチが住んでいたオストロベツで職人さんが手作りした刺繍入りの長い布を持参して、胸像の肩に斜めがけしてきたそうです。

 今でもそのような状態で胸像が設置されているのかどうか分かりません。
 高田嘉七さんはマラジス先生に
「将来は全身像をつくり、函館市内の屋外に設置したい。銅像の傍らにはゴシケーヴィチが乗ってきた船の像も設置する予定です。」
と話したそうです。しかしこれは実現していません。

 とにかく胸像がどこにあるのかだけでも確認したいと思っています。
 近いうちに箱館高田屋嘉兵衛資料館に連絡を取りたいと思っていますので、無事函館のゴシケーヴィチの胸像が見つかりましたら、このブログ上でご報告いたします。
 

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 追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。  
 

函館のゴシケーヴィチの胸像はどこにあるの?

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ここまでベラルーシにあるゴシケーヴィチの記念碑を見てきましたが、日本にもあるのです。
 それは1989年5月に函館に建てられました。(ロシアの彫刻家オレグ・コモフ製作)
 画像はロシアで発行された雑誌「今日の日本 Япония сегодня」1998年6月号の写真です。
 盛大に除幕式が行われたようです。参列したのは当時のソ連大使や彫刻家、高田嘉七さんも参列した(はずです。)
 
 今回スモリク先生とゴシケーヴィチの記事を書くことになり、できたら函館にあるほうのゴシケーヴィチの胸像の写真も掲載したい、ベラルーシの読者は感動するだろう・・・ということで、函館のゴシケーヴィチの胸像がどこにあるのか調べてみました。
 しかし、ネットで検索しても全く見つかりません・・・(土方歳三の銅像はすぐにヒットするけど。)
 
 この除幕式の写真ではきれいに掲載されないだろうし、だいたいロシアの雑誌に掲載された写真を使用するのもよくないので、何とかして自力で探し出して、函館側の協力を仰ごうと思っていたのですが、どこにあるかも分かりませんでした・・・。

 その後、この胸像は函館市内の広場にどーんと飾られているのではなく、高田屋嘉兵衛の子孫が運営している私立博物館の内部にある、ということがマラジス先生の記事を読んでいて気がつきました。
 ベラルーシ文化研究所のマラジス先生は2001年に来日していて、高田嘉七さんにもお会いしており、そのときゴシケーヴィチの胸像を見せてもらった、とあります。

 ということは、「北方歴史資料館」か「箱館高田屋嘉兵衛資料館」の中にゴシケーヴィチの胸像がある、ということになります。
 どなたか、ご存知の方はいませんか?
(それにしても高田嘉七さんが亡くなられたのが非常に残念です。) 

 函館のブログなども検索したのですが分かりませんでした。もし私の友達や親戚が函館に住んでいたら、ちょっと見に行ってもらうところなのですが、そのような知人がおりません・・・。

 結局、記事の締め切りは過ぎてしまったので、今回函館のゴシケーヴィチの胸像の写真掲載は見送りました。
 でも2年後には生誕200年ということで、来年からさまざまなプロジェクトが発進すると思います。出生地とお墓の場所を確定するための学術的調査も始まるでしょうし、当然函館の胸像のことも話題になると思うのですが、日本人の私が今ある場所も分からないのです。

 もし、このブログをご覧になった方で、ゴシケーヴィチの函館の胸像について、設置している場所などをご存知の方、ベラルーシのTまでどうかご一報ください。



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 私も近いうちに上記の資料館に何とか問い合わせしてみようと思っています。
 (私が今日本に住んでいたら、もっと簡単に事が進むのですが、1万キロも離れたベラルーシに住んでいるので、なかなか大変です。)


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 追記です。残念ながら2013年3月北方歴史資料館は閉館しました。ゴシケーヴィチの胸像は函館市役所の管理に置かれるそうです。