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ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

マリへの旅 7

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 マリ村のバス停です。これもゴシケーヴィチの記念碑のすぐそばにありました。
 マリ村についにやってきたなあ、と思いました。そしてこんなに日本とゆかりのある場所がベラルーシにあったとは、ととてもうれしくなりました。
 またゆっくり訪問したいです。
 日本文化情報センターとしてもこれから協力していきたいと考えています。

マリへの旅 6

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 そしていよいよマリ学校のすぐ裏手にあるゴシケーヴィチの記念碑へ・・・!
 本当に学校のすぐそばにありました。
 これが高田嘉七さんが除幕式に参列したというマリ村にあるゴシケーヴィチの記念碑です。
 ゴシケーヴィチの横顔のレリーフが岩に組み込まれています。
 両脇のも石がありますが、左側の石には
「マリ村に生き、そしてこの世を去ったロシア初代日本領事であり、学者であり、啓蒙家であったヨシフ・ゴシケーヴィチ」とあります。
 右側の石には彫刻家の名前。
「R.グルーシャ。マリ村に寄贈。」
とあります。

 この記念碑を毎日見ながら登下校する子どももいるのですね。
 ゴシケーヴィチが余生を過ごした家は現在は残っていませんが、その基礎部分は残っていることが最近の研究で分かりました。
 またゴシケーヴィチが「日本語の起源」を執筆していたことを考えると、日本語に関する資料文献を持っていたのは間違いありません。
 その貴重な資料は息子が譲り受けたのですが、その後ロシア科学アカデミー東洋学研究所が息子から買い取り、現在もペテルブルグの書庫で保管されています。

 

マリへの旅 5

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 記念室には「マリ村の七不思議」という展示もありました。
 その3番目がゴシケヴィチでした・・・。
 お話をしてくれた先生は、数年前調査団がマリ村に来てゴシケーヴィチの墓を調べに来たそうです。
 ウイキペディアなどではリトアニアのビリニュスに埋葬された、ということになっていますが、これもはっきりしていません。
 ゴシケーヴィチはマリ村で亡くなったのは間違いなく、この村の教会墓地に埋葬されたのですが、その後息子が当時自分が住んでいたビリニュスへお墓を変えたそうです。
 どうしてお墓を移したのかと言うと、「自分が住んでいる町にお墓があるほうが墓参りしやすい。」と思ったか、あるいは
「父はロシアの初代日本領事にまでなったのに、死後村の人と同じ墓地に眠るのは、かわいそうだ。ビリニュスに身分の高い人たちの墓地があるから立派な墓を建てよう。」と思ったか・・・でしょう。
 
 江戸時代の日本のようにロシアにも身分制度があったのです。ゴシケーヴィチとその妻は日本からの帰国後、功績が認められ、身分が上がりました。
 以前は無名の神父の息子、ということで、身分が低かったのですが、日本での働きにより、貴族の身分になったのです。
 それが小さい村の墓地に他の村人といっしょに葬られている、ということが息子はいやだったのかもしれません。

 この息子(名前は同じヨシフ)も学者となり、リトアニアで本を出版しています。父親の「日本語の起源」を出版するために尽力したのも息子でしょう。

 ではビリニュスのどこにゴシケーヴィチの墓はあるのでしょうか?
 息子の墓は今でもリトアニアのリポフカというところにあるロシア正教徒が眠る墓地にあります。ということは父親の墓も同じ墓地内にあるのではないか、と思われます。
 しかし、今のところどこにもありません。

 ということは、もしかすると息子は墓を移したかったができず、今でもゴシケーヴィチの墓はマリ村にあるのではないか? という推測もできます。
 そこで数年前、ベラルーシの調査団がマリ村にやってきて発掘調査をしました。
 ゴシケーヴィチのものと思われる墓を開けたのです。
 すると中身は空っぽ・・・。お棺すらありませんでした。
 
 マリ村の住民が自分のご先祖の墓を開けて、中身をどこかへ持っていく、ということは考えにくいので、やはりこの墓はゴシケーヴィチの墓であり、息子がビリニュスへ墓を移した、というのも真実であろう・・・という結論に達しました。

 というお話をマリ学校の先生から伺いました。
 やっぱりゴシケーヴィチは今ビリニュスのどこかに眠っているはず・・・それはどこなのか、とスモリク先生は考えてしまいました。
 スモリク先生はリトアニアまで探しに行きたいと話していましたが、なぜかベラルーシ人はリトアニアの入国にビザが必要なのです。それに闇雲にリトアニア中の墓地を探し回るわけにもいかないので、リトアニア人の強力も必要です。
 でももし見つかったら、リトアニアまで行ってみたいです。(私は日本人なので、リトアニアのビザはいりません。何だか変な感じですよね。)

マリへの旅 4

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 そしてこの学校の中にも狭いのですが、記念室がありました。学校の歴史や第二次世界大戦下のマリ村などの展示がありました。そしてやはりここにもゴシケーヴィチがいました!

マリへの旅 3

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 このようにスライドでゴシケーヴィチのことを紹介しています。
 地元の人たちの誇りなのですね。
 そして学校へお客さんが来るとこのスライドを見せて、一生懸命語っているわけです。
 生徒さんたちへの教育としてもすばらしいですよね。

マリへの旅 2

2012-07-23 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 やはりこの学校でも生徒さんが学校の紹介などをしてくれるのです。そしてとても慣れています。
 もちろんゴシケーヴィチのことも紹介してくれました。 
 日本人だからというだけでこんなに歓迎してくれて、かえって恐縮です。でもいつかまたこの学校へ行きたいです。

マリへの旅 1

2012-07-22 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 次はいよいよマリ村へ行きます。
 オストロベツ市からマリ村へは車で5分ぐらいで到着しました。
 人口600人の村だそうです。ここには学校が一つあります。学校と幼稚園が併設されており、園児、小中高生合わせて100人の子どもが通っているそうです。
 まずその学校へ行くことになったのですが、ここでも夏休み中であるにもかかわらず、生徒さんが大歓迎してくれました。
 画像は伝統的なお客様を迎える儀式「パンと塩」です。
 とてもうれしかったです。
 こちらはこの学校のHPです。

http://mali-sch.narod.ru/


 珍しく校長先生が男性でしかも若い。(後ろに写っているオレンジ色の服の人。)
 こんな人が校長先生だったらみんな大喜びで毎日学校に通いそうですね。

オストロベツへの旅 9

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 さらにこの胸像の後ろの部分にはリトアニア語の表記もありました。
 でもこの胸像を作った彫刻家の名前「ヴァレリアン・ヤヌシュケヴィチ」と「1993年」「ブロンズ」というところしか分かりませんでした。
 明らかにベラルーシ語と日本語の文のリトアニア語訳ではありません。
 
 ゴシケーヴィチがこの地に住んでいたころ、このあたり一帯はベラルーシ領ではなく、リトアニア領でした。
 そのため現在でもリトアニア系の住民が多く住んでいます。
 学校でもリトアニア系の子弟が通う学校があり、ほとんどの科目をリトアニア語で教えているそうです。
 このような背景があるため、ゴシケーヴィチの胸像にもリトアニア語が刻まれているのでしょう。

オストロベツへの旅 8

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ゴシケーヴィチの胸像を近くで見るとこんな感じです。
 当然気になるのが、胸像の下の部分にある日本語の文章!
 何が書いてあるのでしょうか?
 首を伸ばして読もうとしたのですが、私は背が低いのでうまく読めず、手を伸ばしてカメラで撮影して、後から画像で読みました。
 ベラルーシ語とその日本語訳である文が胸像の下の部分をぐるっと取り囲むように、2列に並んでいます。
 その日本語部分はこうなっていました。
「ベラルーシが生んだ偉大なる息子、学者であり、日本研究者であり、一番最初の日本駐在ロシア総領事。イオシフ・ゴシュケーヴィチ」
 そして生年と没年も刻んでありました。
 胸像の土台の部分にも生没年が刻んでありましたが、生年は1815年になっていました。

 生まれた年は1814年説と1815年説があるのですが、後者のほうはゴシケーヴィチ没後に息子が書類に父親の生年をこのように記載しており、その書類が残っている、というのが根拠です。
 どちらが正しいのかはっきりしていません。

オストロベツへの旅 7

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これがオストロベツ市内にあるゴシケーヴィチの胸像です。
 1994年に建てられました。
 オストロベツ市の中心にあり、後ろにある赤レンガの建物は地元の新聞社「オストロベツ・プラウダ」の編集部が入っています。
 すぐ近くに映画館、結婚登録所があります。私が行ったときはちょうど土曜日だったので、新婚さんが周りにたくさんいて、みんな記念撮影をしていました。
 こんなはなやかな場所にゴシケーヴィチの胸像があるんですねえ。

オストロベツへの旅 6

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これが学校の中で飾られていた、高田嘉七さんがマリ村にあるゴシケーヴィチの記念碑除幕式に参列したときの写真です。
(写真の表面が汚れていますが・・・。それと私の写真の撮影の仕方も悪く、見づらくてすみません。)
 函館からはるばるマリ村まで来てくださってありがたいことですね。 
 しかしこのオストロベツあるいはマリ村はベラルーシで一番親日家が多いところではないか、と思いました。
 
 マリ村の記念碑を見る前にオストロベツ市にあるゴシケーヴィチの胸像をご覧ください。(次の記事です。)
 

オストロベツへの旅 5

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 オストロベツの学校の記念室には、函館のパンフレットや絵葉書などが寄贈されており、それも飾ってありました。
(ゴシケーヴィチには関係なさそうな平安神宮の絵葉書もありました。でもまあ、ゴシケーヴィチをきっかけに日本文化のことも勉強しましょう、という学校側の意図は分かりますね。将来、日本文化情報センターからも日本のことが勉強になるようなものを寄贈することにしました。) 

 その中に高田嘉七さんがこの学校を以前訪問していたことが分かりました!
 高田嘉七さんは高田屋嘉兵衛から数えて7代目に当たる子孫です。
 高田屋嘉兵衛についてはこちらです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B


 高田嘉七さんがオストロベツを訪問した理由はちょうどそのときマリ村にゴシケーヴィチの記念碑が建つことになり、その除幕式に招待されたからなのです。
 この学校に展示されている日本の物も高田嘉七さんが寄贈したものが多いと思われます。
 残念なことに高田嘉七さんは昨年11月に亡くなられています。しかし今でもそして末永くこの学校で高田嘉七さんのオストロベツ、マリ村訪問のことが記憶に残ることと思います。
 

オストロベツへの旅 4

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これもやはり学校の記念室に展示してあったゴシケービッチが自分の人生の中で移動した航路などを地図で示したものです。
 地名の表記がベラルーシ語になっていますが、日本人でも理解できると思います。
 生誕地ははっきりしていませんが、ミンスクの父親がロシア正教の神父であったため、ミンスクの神学校に入学。成績優秀であったため、卒業生のうち2名しか枠がなかったロシア、サンクトペテルブルグの神学校への入学ができました。
 その後ロシア宣教師団の一員に指名され、陸路で北京へ。北京滞在中は中国語を勉強しましたが、このほかのアジア各国の言葉もかじっていたそうです。
 中国でのミッション終了後、ペテルブルグ(当時はロシア帝国の首都)に戻り、中国語ができる、ということでロシア外務省アジア局に入り、次は日本派遣使節団に中国語通訳として日本へ。
 アフリカの喜望峰を回るルートだったので、出発してから10ヶ月後にやっと日本へ到着したそうです。
 しかもゴシケーヴィチは船酔いになり、長期間の船旅にも関わらず、船の揺れに体が慣れることはなかったそうです。
 つまり船に乗るたびずっと船酔いに苦しんでいたということです。

 このときの日本への航海のようすは同乗していた作家のイワン・ゴンチャロフが紀行文『フリゲート艦パルラダ号』に記録しています。(日本語訳では『ゴンチャローフ日本渡航記』)
 そこにゴシケーヴィチも登場しますが、ゴンチャロフとゴシケーヴィチでは身分に差があったためか、ゴシケーヴィチが船酔いでいつも気分が悪かったせいか、この2人は10ヶ月の長旅にもかかわらず、あまり会話をしていません。
 しかもゴンチャロフはゴシケーヴィチのことをウクライナ人と誤解しており、紀行文『フリゲート艦パルラダ号』ではゴシケーヴィチの名前をヨシフではなく「オシプ」としています。
 オシプというのはヨシフのウクライナ表記です。
 そのため、オシプ・ゴシケーヴィチと思っている人もいるのですが、これはゴンチャロフの勘違いです。

 やっと日本に着いたと思ったら、地震による津波で載っていた船が大破したり、苦労続きの日本派遣使節団・・・。
 (詳しくはこちらをご覧ください。「戸田村(静岡県)」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E6%9D%91_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)


 戸田村の人は本当にすばらしい! 地震の被災者であったにも関わらず、沈没しかかったロシア船から乗組員を救助。さらには協力し合って船を建造するのだから、感動です。)

 この後もゴシケーヴィチはロシアへの帰路、イギリス船に拿捕され、9ヶ月も橘耕斎と船中に抑留されます。
 これはゴシケーヴィチが犯罪を犯した、ということではなく、当時、クリミア戦争が進行しており、イギリスはロシアと敵対関係にあったため、海上でロシア人を発見すると、イギリス船が捕虜にしていました。
 橘耕斎はロシア人ではなく日本人だったのですが、密航者だったので、怪しいということでイギリス船に乗せられたのです。
 しかし転んでもただでは起きないこの2人。
 ゴシケーヴィチと橘は言葉を教え合い、さらには和露事典までいっしょに作ってしまうのです。

 イギリスのせいで大変な目に合いましたが、やっとロシアに戻ってくると、今度は初代日本領事に任命されます。今回はシベリア経由で函館へ。
 任務終了後もシベリア経由でペテルブルグへ戻ります。

 しばらくペテルブルグで働いていましたが、慢性肺炎となり、気温が低く日照時間も短いペテルブルグでの生活が健康によくないから、という理由で退官。
 故郷のベラルーシへ戻ります。しかし生まれ故郷ではなく、なぜか(縁もゆかりもなさそうな)現在のオストロベツのマリ村で土地を購入し、家を建てて余生を過ごすことになります。
 どうしてゴシケーヴィチがマリ村を人生最後の場所に選んだのかはよく分かっていませんが、ゴシケーヴィチの妻がこの村の出身だったようです。
 ちなみにゴシケーヴィチの最初の妻、エリザベータは函館で亡くなっており、その墓が今でも残っています。
 マリ出身の妻というのは2番目の妻、エカテリーナです。
 
 とにかく60年の人生の中でどれだけの距離を移動しているのか・・・この地図を見ていると目が回りそうです。
 この行程を全部つなぐと、地球3周の距離になるそうです。
 
 静かなマリ村でゴシケーヴィチは「日本語の起源」という本を執筆しています。(しかし出版されたのは1899年になってから。死後24年も経っています。しかも出版されたの場所はロシアでもベラルーシでもなくリトアニア。この本はベラルーシ国立図書館で大切に保存されています。)

 それにしてもすごい人だと思います。私もゴシケーヴィチみたいな人になりたいよ・・・。(でも無理・・・。だいたい脳みそがちがうし、私にはこれだけの旅をする気力も体力もない・・・。)

 

オストロベツへの旅 3

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 これも記念室のようすです。ゴシケーヴィチとともに日本へ航海したプチャーチンの写真や、橘耕斎と表した歴史初の本格的和露事典「和魯通言比考」の写真などが展示されています。
 今回スモリク先生といっしょにゴシケーヴィチの記事を書いて雑誌に掲載される予定です。共同執筆、ということになっていますが、私は日本人の氏名や地名のチェックをした程度で大したことはしていません。
 でもやはり調べて勉強しないといけないことがたくさんあったので、日本文化情報センター所属の文献を引っ張り出したり、ネットで探したりして、だいぶゴシケーヴィチのことがよく理解できるようになりました。
 
 前述のウイキペディアでもゴシケーヴィチのことを知ることができますが、私がすごいなあと思ったのは・・・
 初のロシア領事として日本へやってきて、ロシア領事館を建てた・・・というのは当然、と思うのですが、病院を作ってしかも日本人を無料で診察したり、ロシア語学校を作ったりしたことです。
 さらには子ども向けのロシア語の教科書「ロシアのいろは」の作成をバックアップして、400部(500部という説もあります)印刷して、日本人の子どもに配っています。
 また写真技術も伝え、洋服の作り方、パンの焼き方も日本人に教えています。
 昆虫の研究もしていて、サトキマダラヒカゲという蝶の学名はゴシケーヴィチに由来しています。
 さらに日本で最初(1858年)にクリスマスツリーを立てたのもゴシケーヴィチなのだそうです!

 こんなにさまざまなことを幕末の日本でしていたとは・・・!
 幕末の日本史と言うと、激動の時代でしたが、そんな中、どちらかと言うと外交面以外の分野でこのような活動をしていたベラルーシ人がいたんですね。
 もう少し日本史の勉強の中でゴシケーヴィチのことを日本の子どもにも教えてほしいものです。
(ペリーなどとちがってゴシケーヴィチのことは学校の教科書には載っていないし・・・。)
 
 確かにゴシケーヴィチは政治家でもないし、領事に選ばれたのも、言葉が分かっているからということで選ばれた(言葉の知識以外にも人柄により推薦された、という記録もありますが)ということですが、日本に来てから行ったことは、政治や外交の世界ではなく、一般人の中に溶け込むことばかりですね。
 だから一見地味に見えるのですが、ゴシケーヴィチが日本に与えた影響は実は大きいのではないでしょうか。
 日本人にももっと多くの人にゴシケーヴィチのことを知ってもらいたいです。

 そういうベラルーシでもゴシケーヴィチのことはあまり知られておらず(これも教科書に載っていない、あるいはロシアの歴史の範囲に入れられてしまうため)今回記事が掲載されるのも教育関連雑誌なのですが、これを通してまずベラルーシの教育関係者にゴシケーヴィッチの足跡を知ってもらいたいです。
 ベラルーシ出身で、しかもお金持ちの家庭に生まれたのではなく、自分の頭脳によって国際的な役割を担うことをした人がいたのだということをもっとベラルーシ人にも知ってほしいです。

 もっともこのオストロベツの学校で学んでいる子どもたちはゴシケーヴィチのことをよく知っているわけですから安心ですね。
 ゴシケーヴィチのような人がこの地からうまれてほしいです。

 (あ、ウイキペディアのゴシケーヴィチのページで「1862年9月20日(文久2年閏8月9日)にはロシア人としては初めて将軍徳川家茂に謁見を許される。」とありますが、ゴシケーヴィチはベラルーシ人なので、この表現はおかしいですね。)




 

オストロベツへの旅 2

2012-07-15 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 オストロベツ地区にはいくつかの市と村があります。
 その中で中心地なのはオストロベツ市。そこにある学校「オストロベツ第1ギムナジア」の2階にゴシケーヴィッチ記念室がありました。
 実際には同じ部屋の中に「ゴシケーヴィッチ記念コーナー」「第二次世界大戦下のオストロベツ」「私たちの学校の歴史」といったいろいろなコーナーがありましたが、やはり一番目立っていたのはゴシケーヴィッチのコーナー。
 夏休み中にも関わらず、日本人が来ると言うのでわざわざ生徒さんが案内役をしてくれました。
 普段はベラルーシ語で展示物の説明をしてくれるのですが、私のためにロシア語でしてくれました。
 すらすらとゴシケーヴィチの生涯について話していて、とても慣れているなあと思いました。
 そしてゴシケーヴィチゆかりの地に住んでいることを誇りに思っているようでした。すばらしい!