初代ロシア領事ゴシケーヴィチについて書かれている文献「白ロシアのオデッセイ」(グザノフ著)で紹介されているゴシケーヴィチの木箱がプチャーチンのトランクであることが判明したことについてすでにお知らせしました。
この本にはゴシケーヴィチが1860年代に撮影に使ったネガ(感光板)を手にした写真家の「クワジマヨウイチ」さんの写真も掲載されており、このクワジマさんをご存知の方は教えてください、とお願いしていました。
ほとんどあきらめていたのですが、親切な方がとても詳しく調べて教えてくれました。本当に感謝、感謝です!
その方からの情報によると、クワジマヨウイチさんは北海道の写真家、桑島洋一さんであることが分かりました。
桑島洋一さんはゴシケーヴィチの写真技術の弟子だった横山松三郎の研究もしていた方で、また北海道新聞にも関係があることが分かったため、北海道新聞に問い合わせました。
その結果、かつて北海道新聞社で働いていたカメラマンであったことが分かりました。
その後桑島さんに直接、問い合わせた結果、このようなことが判明しました。
まず「白ロシアのオデッセイ」に写真が載っている桑島さんですが、ご本人に間違いないそうです。
そして手に持っている感光版ですが、新島襄が写っているとのことでした。
この写真については桑島さんがご自分で調査されたことを、まとめて記事にしたものが1988年に同志社大学社史資料室(現在は社史センター)が発行している論文集「同志社談叢第8号」に掲載されていることが分かりました。
「新島襄の函館脱出時の写真について」という記事です。
それによると1864年6月13日に函館で写真の撮影会があり、そこで複数名の日本人が撮影してもらったのですが、その中に新島襄がおり、また撮影をゴシケーヴィチが担当したそうです。
もっともその感光板はゴシケーヴィチの撮影技術の問題のため、そのまま印刷すると、とても暗くて、何が写っているのか分かりにくい写真になってしまいました。
ちょんまげ姿の新島襄の写真も撮影会で写したほかの日本人の写真も不鮮明なできです。
新島襄に撮影会のときに写真を撮るようすすめたのは二コライ主教で、その写真を手紙とともに江戸の父宛に送ったのは新島襄本人です。
この手紙と写真は現在同志社大学で保管されています。
さて、感光板がどのような経緯で桑島さんの手に渡ったのか質問したかったのですが、ご高齢のため直接の回答を得られませんでした。
しかし桑島さんの話によると、感光板そのものは、グザノフ(「白ロシアのオデッセイ」の著者)がロシアへ持って行ってしまったようなのです。というのもその後その写真がロシアの雑誌「今日の日本」などで紹介されたからなのです。
桑島さんによるとグザノフはゴロブニンの生地にあるロシアの博物館に感光板を寄贈したらしいです。
それが本当なら今でもその博物館に保存されているはずですがはっきりしていません。
感光板がロシアのどこかで保管されていればいいのですが、ロシアではなくベラルーシに住んでいる外国人の私には探すのも難しい状態です。
感光板がロシアへ渡る前に紙焼きしたものが同志社大学に残っているのが、幸いです。
とにかくゴシケーヴィチが新島襄を撮影していたこと、そしてその写真が残っていたことが感動です。
撮影会では新島襄以外の日本人も撮影されており、林儀助と言う人が息子と写っている写真も、撮影した月が6月と同じ、撮影したのは外国人と箱書きがあり、また暗くて不鮮明な写真で、新島襄の写真と同じ「失敗」をしていることから、同一人物が撮影した可能性が高いのです。つまりゴシケーヴィチが撮影した写真の1枚と考えられます。
この写真は函館市立中央図書館のサイトで見ることができます。
ゴシケーヴィチが撮影した写真が日本で残されている事実はベラルーシでは知られていませんから、私としてはぜひベラルーシ人にこの事実を伝えようと思っています。
・・・・・・・・・・・・
追記です。(8月7日)
感光板がロシアへ渡る前に紙焼きしたものが同志社大学に残っている、と書きましたが、実際には紙焼きされた写真は残っていませんでした。
残っていたのは感光板そのものでした。
詳しくはこちらをご覧ください。
この本にはゴシケーヴィチが1860年代に撮影に使ったネガ(感光板)を手にした写真家の「クワジマヨウイチ」さんの写真も掲載されており、このクワジマさんをご存知の方は教えてください、とお願いしていました。
ほとんどあきらめていたのですが、親切な方がとても詳しく調べて教えてくれました。本当に感謝、感謝です!
その方からの情報によると、クワジマヨウイチさんは北海道の写真家、桑島洋一さんであることが分かりました。
桑島洋一さんはゴシケーヴィチの写真技術の弟子だった横山松三郎の研究もしていた方で、また北海道新聞にも関係があることが分かったため、北海道新聞に問い合わせました。
その結果、かつて北海道新聞社で働いていたカメラマンであったことが分かりました。
その後桑島さんに直接、問い合わせた結果、このようなことが判明しました。
まず「白ロシアのオデッセイ」に写真が載っている桑島さんですが、ご本人に間違いないそうです。
そして手に持っている感光版ですが、新島襄が写っているとのことでした。
この写真については桑島さんがご自分で調査されたことを、まとめて記事にしたものが1988年に同志社大学社史資料室(現在は社史センター)が発行している論文集「同志社談叢第8号」に掲載されていることが分かりました。
「新島襄の函館脱出時の写真について」という記事です。
それによると1864年6月13日に函館で写真の撮影会があり、そこで複数名の日本人が撮影してもらったのですが、その中に新島襄がおり、また撮影をゴシケーヴィチが担当したそうです。
もっともその感光板はゴシケーヴィチの撮影技術の問題のため、そのまま印刷すると、とても暗くて、何が写っているのか分かりにくい写真になってしまいました。
ちょんまげ姿の新島襄の写真も撮影会で写したほかの日本人の写真も不鮮明なできです。
新島襄に撮影会のときに写真を撮るようすすめたのは二コライ主教で、その写真を手紙とともに江戸の父宛に送ったのは新島襄本人です。
この手紙と写真は現在同志社大学で保管されています。
さて、感光板がどのような経緯で桑島さんの手に渡ったのか質問したかったのですが、ご高齢のため直接の回答を得られませんでした。
しかし桑島さんの話によると、感光板そのものは、グザノフ(「白ロシアのオデッセイ」の著者)がロシアへ持って行ってしまったようなのです。というのもその後その写真がロシアの雑誌「今日の日本」などで紹介されたからなのです。
桑島さんによるとグザノフはゴロブニンの生地にあるロシアの博物館に感光板を寄贈したらしいです。
それが本当なら今でもその博物館に保存されているはずですがはっきりしていません。
感光板がロシアのどこかで保管されていればいいのですが、ロシアではなくベラルーシに住んでいる外国人の私には探すのも難しい状態です。
感光板がロシアへ渡る前に紙焼きしたものが同志社大学に残っているのが、幸いです。
とにかくゴシケーヴィチが新島襄を撮影していたこと、そしてその写真が残っていたことが感動です。
撮影会では新島襄以外の日本人も撮影されており、林儀助と言う人が息子と写っている写真も、撮影した月が6月と同じ、撮影したのは外国人と箱書きがあり、また暗くて不鮮明な写真で、新島襄の写真と同じ「失敗」をしていることから、同一人物が撮影した可能性が高いのです。つまりゴシケーヴィチが撮影した写真の1枚と考えられます。
この写真は函館市立中央図書館のサイトで見ることができます。
ゴシケーヴィチが撮影した写真が日本で残されている事実はベラルーシでは知られていませんから、私としてはぜひベラルーシ人にこの事実を伝えようと思っています。
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追記です。(8月7日)
感光板がロシアへ渡る前に紙焼きしたものが同志社大学に残っている、と書きましたが、実際には紙焼きされた写真は残っていませんでした。
残っていたのは感光板そのものでした。
詳しくはこちらをご覧ください。