ベラルーシの部屋ブログ

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ゴシケーヴィチの木箱は存在しない?

2014-06-07 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 ゴシケーヴィチに関して書かれた文献で「白ロシアのオデッセイ」という歴史小説があります。
 グザノフというロシア人が作者なのですが、この本の図版の中に「ゴシケーヴィチの木箱」というものが戸田村立造船郷土資料博物館で保存されている、という説明とともに白黒の写真が掲載されているのです。
 添付画像をご覧ください。日本文化情報センターで所蔵しているのはベラルーシ語版なので少々分かりにくいのですが「戸田村の博物館で保存されているゴシケーヴィチの木箱」と説明があります。

 今年はゴシケーヴィチ生誕200年に当たり、生涯を紹介する映像作品の制作が現在ベラルーシで進められていますが、この木箱を画像資料の一つとして使えないものかとプロデューサーから頼まれました。つまり、本来ならば日本まで行って木箱の画像を撮影したいけれど、そんな予算がないので、博物館側にデジタル画像があれば貸してほしいという依頼を日本語に翻訳するよう頼まれたのです。
 そこで調べたところ、この博物館は現在、静岡県沼津市にある戸田造船郷土資料博物館であることが分かり、この件についてメールで私から連絡することにしました。

 しばらくして学芸員の方から丁寧な返信が届きました。
 それによると「ゴシケーヴィチの木箱」というものはないけれど、その写真に写っているのは通称「プチャーチンのトランク」と言われている展示品です、ということでした。

私は「ああ、やっぱり。」と思いました。この文献のために、ベラルーシやロシアでは「日本にゴシケーヴィチが残していった木箱が保存されている。」という認識が広まってしまっており、ゴシケーヴィチ関連のロシア語文献など読んでいると、たびたびそのような記述にお目にかかっていたのです。
 しかし日本発の文献や情報でそのような木箱が存在するという情報を見たことがなく、私自身は本当にこのような木箱があるとしても本当にゴシケーヴィチの所有物なのかなあと疑問に思っていたのです。

 学芸員の方のお話によると、これは「中国製のトランク」として台帳に記録されている展示品で、以前はヘダ号の設計を行った太田家にて「プチャーチン愛用のトランク」として保存されていたものだそうです。かつての太田家当主から博物館に寄贈されたそうですが、その方もすでに亡くなっており、詳細をたずねることができません。

 「プチャーチンって誰?」「ヘダ号って何?」と思われた方はぜひとも、この日露交流史の1ページであるこの史実についてお読みください。感動的です。

プチャーチンについてはこちら。

ヘダ号についてはこちら。

戸田造船郷土資料博物館のサイトはこちらです。


 さて、問題なのは「プチャーチン愛用のトランク」として太田家に代々保存されてきたこの中国製のトランクですが、本当にプチャーチンの所有物だったのかどうかというと、確たる証拠がありません。
 トランクの表面に「プチャーチン」と書かれているわけでもありません。
 しかも立派な錠前がついていますが、寄贈した太田家当主の話によると「鍵のほうは紛失した。」ということで、開けることができないのです。
 トランクを振ってみても、音はしないので、中身は空と推測されます。
 開けることができたら、もしかすると内部に「プチャーチン」とかかれているかもしれません。
 しかしどうやら100年ぐらいこのトランクは開けられていないようなのです。

 博物館に展示品を寄贈するとき、ふつうその大きさを測定したり、中を開けたり、材質や形状などを記録してカードにし、目録を作成します。
 しかしこの博物館では、「鍵がないから開けられない。」ということで、中身を確認をしたことがないらしいです。少なくとも目録に「中を開けたら、空だった。」「内容物はなし。しかし底部分にこのようなサインが残されていた。」といった記述や写真がありません。

 つまり本当にプチャーチンの所有物だったという証拠がありません。
 説明としては「伝 プチャーチン愛用のトランク。中国製」というのがより正しいです。

 ということは、もしかするとやっぱりゴシケーヴィチの所有物だった可能性もあります。
 なぜならヘダ号を設計した太田家には当時、プチャーチンだけではなくゴシケーヴィチもたびたび訪問しており(通訳ですから当然ですね。)太田家の人々と交流していたのです。

 トランクが中国製というのも、中国に10年近く暮らしていたゴシケーヴィチが持っていたとしてもおかしくありません。
 ただプチャーチンもロシア海軍の軍人ですから世界の海を航海していますので、中国製のトランクを入手していても不思議はないです。

 つまり分からないんですよね。せっかくなので、これを機会に錠を開けてみてはいかがでしょうか? と博物館側に提案してみました。でも昔の錠前なので、簡単に開けられないかもしれませんね。
 レントゲン写真を撮影する方法もあるけど、大変ですよね。所有者の氏名が判明するかどうかの確証もないし・・・。

 というわけで、結局なぞのままなのですが、つまりロシアやベラルーシでは信じられている「ゴシケーヴィチの木箱が日本に存在する」という事実もなくなってしまいました。
 
それにしてもゴシケーヴィチの木箱の存在について自分の著作で堂々と記述しているグザノフは、どうしてそんなことをしたのでしょうか?
 何らかの確証があったのでしょうか? それとも単なる勘違い?

 グザノフ氏も亡くなりましたので、質問することもできません。
 どちらにせよ、「日本にゴシケーヴィチの木箱が存在する」と言い切れなくなってしまったのが現状です。

 今年1年間はゴシケーヴィチ生誕200年の年で研究も進むし、その発表も盛んに行われていますが、木箱の存在については明確ではない、と言える機会がありましたら、私から発表します。


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