電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

帝国大学に初めて女子が受験、入学する

2016年10月10日 09時28分40秒 | 歴史技術科学
1907(明治40)年、分析化学の講義という職務のかたわらバイヤーやフィッシャーの論文を読破し、漆の有機化学を志していた東京帝国大学の眞島利行助教授でしたが、留学するにあたって上司の桜井錠二教授が命じたのは「無機化学の研究」でした。そのために、最初の留学先はチューリッヒのウェルナー教授の下となる予定でした。ところが、入学手続きもすまないうちに桜井教授から電報が届きます。それは、同年に仙台に新設されることとなった東北帝国大学に理科大学が設置され、そこで有機化学をやってよい、という内容でした。眞島はこれを「無上の幸せと思い」、ただちに漆の研究に不可欠な不飽和結合の位置決定のためにオゾン酸化法を開発したキール大学のハリエス教授のもとで研究することを決定し、留学生活を始めます(*1)。このあたりは、時の運と恩師のありがたさを感じたことと思われます。

明治44年9月12日付けの河北新報に掲載された沢柳政太郎の文章によれば、9月11日、東北帝国大学理科大学が数学、物理学、化学の三学科の授業を開始した、とあります。地質学科は準備が整わず、翌年開始の予定と付記されており、金百余万円を寄付した古河財閥ならびに土地および金十五万円を寄付した宮城県等に対して感謝の言葉を述べています(*2)。
化学科の初代教授は、

  • 眞島利行 有機化学
  • 小川正孝 無機化学  幻の元素「ニッポニウム」は、あともう少しで新元素発見につながる業績だった。
  • 片山正夫 物理化学  著書の『化学本論』は、宮沢賢治が法華経とともに机上に置いた愛読書であったとのこと。

の三名で、それぞれの研究室や学生実験室の他に、講義室、図書室、天秤室、封管爐室、製造室など、教育と研究のための設備を備えたものでした。

このように発足して間もない1913(大正2)年、文部省から東北帝国大学総長あて、一通の文書が舞い込みます。それは、同年に沢柳政太郎総長が女子の入学を受け入れることを表明したのに対して、東京女子高等師範学校でも化学を指導していた長井長義が勧める(*3)などにより三名の女子学生が受験することとなり、この新聞報道に対する一種の詰問状でした。現代風に直せば、次のようなものです。



発専八九
本年貴学理科大学入学志望者中数名の女子出願いたしおり候様(よう)聞き及び候(そうろう)ところ、右は試験の上選科・入学せしむる御見込みに候や。元来女子を帝国大学に入学せしむることは前例之無きことにて、すこぶる重大なる事件に之有り、大いに講究を要すところと存ぜられ候につき、右に関しご意見詳細に承知いたしたく、この段照会に及び候ところなり。
 大正二年八月九日
   文部省専門学校局長 松浦鎭二郎
東北帝国大学総長北條時敬殿

そして、この詰問状の欄外には「八月二九日、総長文部省へ出頭、次官へ面談済」という朱書きがあり、北條時敬総長がどのような約束をしたのかは不明ですが、当座の大学の意思を貫く形をとって決着したようです(*4)。

こうして入学したのが、次の三名でした(*5)。

  • 黒田チカ(*6) 東京女子高等師範学校、化学科
  • 牧田らく   東京女子高等師範学校、数学科
  • 丹下ウメ   日本女子大学校(香雪化学館)、化学科


(*1):櫻井英樹「眞島利行先生」,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.54,1992(平成4)年3月
(*2):沢柳政太郎「東北帝國大学」,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.8-9,1992(平成4)年3月
(*3):明治初期の留学生の行先~「電網郊外散歩道」2015年2月
(*4):女子学生受験についての文部省からの詰問状,『東北化学同窓会報・化学教室創立八十周年記念号』,p.13,1992(平成4)年3月
(*5):女子学生の歴史~東北大学女子学生入学百周年記念事業
(*6):去華就実と郷土の先覚者たち・第29回~黒田チカ


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