電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

密航留学生を受け入れた英国側の事情

2014年07月15日 06時04分48秒 | 歴史技術科学
ジャーディン・マセソン商会とは、そもそもどんな会社なのか。Wikipedia(*1)によれば、1832年、スコットランド出身で、東インド会社の元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディン

とジェームス・マセソン

により、中国の広州に設立された貿易会社とのことです。当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出だったそうで、1840年頃、アヘンの流入と銀の流出を規制すべく、林則徐がアヘンを差し押さえた事件の際には、どうやら当事者側だったと言えそうです。ジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は、わずかに九票差という僅差でイギリス軍の派遣を決定し、アヘン戦争が起こったことになります。英国が行っていた、綿製品をインドへ、インドのアヘンを中国(清)へ、中国の茶をイギリスへ、という三角貿易の二つを扱うわけですから、いわば英国政府公認の

商売のためなら戦争をも辞さない政商

であった、ということでしょう。僅差だったというところに少し救われる思いはするものの、アヘン貿易を軍事力で強制した大英帝国の非情さを見ることができます。

では、長州藩の五人の青年が英国に密航留学を希望していると伝えられたとき、ジャーディン・マセソン商会横浜支店としては、どんな対応をしたのでしょう。考えられることは、

(1) そもそも英国政府は入国を許可するのか。
(2) いざというとき、例えば刀を振り回して死傷者が出た場合など、補償できるのか。
(3) 受け入れてくれる滞在先はあるのか。

などがありましょう。

(1) については、英国政府のアジア政策から見て、中国重視の姿勢は変わらないものの、日英関係は重視していますので、長州藩の中に親英勢力を育成するために許可すると見込めること。これは、横浜の英国領事とも打ち合わせ済でしょう。
(2) については、ガワーと山尾が個人的に面識があったとしても、金銭保証を含めて高額の費用を負担させる必要がありましょう。そのための一人千両でしょうか。
(3) 問題となる受入先については、当時ウィリアムソン博士の助手をつとめていたフォスターの回想の中に、マセソンに密航留学生の教育係としてウィリアムソン博士を推薦したのは、ユニヴァーシティ・カレッジの評議員であったプレヴォスト卿であった(*2)とされているそうです。おそらく、ウィリアムソン博士の人柄と見識を見込んでの推薦だったのでしょう。

当時、ジャーディン・マセソン商会のロンドン支店を取り仕切っていたのは、創業者ジェームス・マセソンの甥のヒュー・マセソンでした。そういえば、横浜支店長のウィリアム・ケズウィックも、創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子にあたるそうで、要するに強固な同族会社なのですね。ちなみに、長崎のグラバー商会は、ジャーディン・マセソン商会の代理店としてスタートしているそうです。


(*1):ジャーディン・マセソン~Wikipediaの解説
(*2):犬塚孝明『密航留学生たちの明治維新』(NHKブックス)

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