電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

岡田暁生『西洋音楽史~「クラシック」の黄昏』を読む

2011年03月03日 06時03分13秒 | クラシック音楽
中公新書で、岡田暁生著『西洋音楽史~「クラシック」の黄昏』を読みました。ちょうど一年前に、同氏の『音楽の聴き方』(*1)を読んでおりますが、前半は興味深く読んだものの、後半はギブアップと言うか、論旨に違和感を感じて、総体的には、残念ながらあまり感心しませんでした。では、今回はどうか。結論から言えば、たいへん興味深く読みました。

本書の構成は、次のようになっています。

まえがき
第1章 謎めいた中世音楽
第2章 ルネサンスと「音楽」の始まり
第3章 バロック~既視感と違和感
第4章 ウィーン古典派と啓蒙のユートピア
第5章 ロマン派音楽の偉大さと矛盾
第6章 爛熟と崩壊~世紀転換期から第一次世界大戦へ
第7章 二〇世紀に何が起きたのか
あとがき

このように、軽装の新書判ながら、西洋音楽の通史となっています。日本の場合、西洋クラシック音楽が「真っ昼間」だった時期はなさそうですので、クラシックの「黄昏」と言われてもぴんと来ないのですが、ヨーロッパの宮廷時代や市民社会が成長する時代のような尊敬を受ける状況ではなくなった、という点では、そうも言えるかもしれません。果たして黄昏に向かっているのかどうか、という点は保留するとしても、本文中の記述は興味深いものがあります。いくつかを、断片的に抜粋してみます。

古典派音楽の作曲技法の特徴は対位法と通奏低音の廃止にあることは承知しておりましたが、本書ではそれを「旋律と和音伴奏だけでできたシンプルな音楽」「低音ではなく旋律がリードする」「(旋律が)自由に躍動する」(p102)などとと表現しており、たいへんわかりやすい。

ハイドンの弦楽四重奏曲Op.33、いわゆる「ロシア四重奏曲」は、仕えている「宮廷からの注文ではなく、当初から出版を目的として書かれていた」という指摘(p110)に、驚きました。良識の人・ハイドン、という印象があるだけに、宮仕えをしながら、楽譜出版を通じて自らを広く世に問うという、新しい時代のやり方を試しているとのこと。これは、けっこう新鮮な驚きです。

さらに、社会的に「音楽における公共空間が成立」(p104)したために、「公的な晴れがましさ」と「私的な親しさ」との均衡を図った音楽が(p112)魅力的に登場し、「対立を経て和解に至る」ソナタ形式は弁論の精神に通じ、「啓蒙の時代が生み出した最も輝かしい音楽形式」(p115)であるとする点も、鋭い指摘です。

また、二十世紀前半の音楽の風景として、「前衛音楽、巨匠の名演、ポピュラー音楽」の併走(p221)だと指摘する点も、なるほどと頷けます。

著作隣接権の保護期間が満了して、多くのステレオ録音がパブリックドメインになろうとしている昨今、巨匠の名演が従来どおり聴かれ続けるのか、それともかつての神通力を失うのか。若い演奏家が次々に登場し、聴衆に支持されていくことができるのか。いわゆる前衛音楽とは違うタイプの音楽が、現代の聴衆に支持されていくのかなど、興味深いものがあります。個人的には、たとえば幸松肇さんの「弦楽四重奏のための四つの日本民謡」のような音楽なら大歓迎。演奏者も別に有名巨匠でなくてもいいし、CD/DVD、あるいはデジタル音源が出たら、いつでも購入したいと思っています。

(*1):岡田暁生『音楽の聴き方』を読む~「電網郊外散歩道」2010年2月
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