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もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

感謝会

2010年02月22日 | 雑記
 近所の小学校の子どもたちがわざわざ私の家まで感謝会への招待状を届けに来てくれた。Photo_7

 感謝会というのは、この学校では毎年5年生が親や地域の人たちの協力を得て、学校の近くの田んぼ(1反)で餅米を栽培していて、自然の恵みそれを支えてくれた町の人たちへの感謝の気持ちを表す会ということらしい。
 ちなみに昨年は日照不足だったにもかかわらず、40㎏強の餅米が収穫出来た。

 数日前に学校から連絡をもらったときに、招待状はわざわざ届けてくれなくても、郵送をしてくれれば・・・と思ったが、学校の考えの中にこの機会に子どもたちに挨拶の仕方、大人に対する言葉遣いなどの指導もしたいという意図が感じられたので、連絡のあった日時には子どもたちがやって来るのを家で待つことにした。
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 招待状の中に「心を米(こめ)た>感謝会」などとユーモアも交えたコピーも見られて、体育会系的な押し付け礼儀作法でもなさそうだ。 

 招待状を届けに来てくれた子どもたちは、普段はあまり使い慣れない丁寧語でつたないながらも使者の口上を一生懸命にはたしてくれた。

 名前は忘れてしまったが、ボクシングの何とか兄弟や何とか龍という元相撲取り、オリンピックの競技では不様な顔面着地のズボン下げ青年なども、こんな学校に通っていれば、少しはまともな言葉遣いの出来る常識人に育っていたであろうに・・・。

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 で、当日、学校の体育館で開かれた感謝会のプログラムは、盛りたくさんの内容をコンパクトにまとめ、お米に関する子どもたちの研究発表と御神楽の指導など、この会を開くための先生方の裏方としての役割も大変だったろうと推察出来る。


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 感謝会の終わりには、子どもたちが自分たちで作った米を学校の給食準備室で炊いたお赤飯のお土産までついた。
 とても美味しかったよ。
 ありがとう。
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手描きの水引き、トトロや鶴の折り紙などの細かい気配りが感じ取れます。



割ばし鉄砲

2010年01月25日 | 雑記
 同じ団地に住む5歳になる孫は自分の誕生日のパーティーをするのだと電話を掛けて来た。
 パーティーは皆でするのだから、婆ちゃんの家で爺ちゃんも一緒に・・・という。

 なぜ<婆ちゃんの家で>なのか判らないが、ま、孫の希望通りにしましょう。

 パーティーの飾り付けなどを自分でしたいのかと思ったが、自分は招かれる方だから「それは爺ちゃんと婆ちゃんにまかせるよ」などと大人びた口をきく。

 パーティーのやり方などどこで憶えて来たのだろう?

 折り込みの広告を切って作ったチェーンに100円ショップで買って来た風船などで、孫の好きなブルーを基調にした飾り付けで孫を迎えることにした。

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 パーティーの方は型通りのケーキに立てたロウソクを吹き消し、ジュースで乾杯、これまた100円ショップの宴会グッズのくす玉割りで盛り上げた後、私はこの孫に初めて割ばし鉄砲を与えてみた。

 パーティーのゲームとして皆でマト当てをして遊ぶつもりだったが、孫はこの割ばし鉄砲が面白かったようで、誰にも鉄砲を渡さず、一人でターゲットを撃ち続けた。
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 この割ばし鉄砲には、私が今の工作おじさん(正確には工作爺さんだが)に至る最初のエピソードがある。
詳しくはホームページの遊びの歳事記の第1回割ばし鉄砲とクルクルターゲットをご覧いただきたいが簡単に話すと、今から40年近く前のことだが、当時4歳だった息子と割ばし鉄砲を作って遊んでいるうちに思いついたのがクルクルターゲットと名付けた回転式のマトで、このマトが<アイデア工作>の最初の考案だった。
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 当時息子もこの割ばし鉄砲がかなり気に入って、連日割ばし鉄砲遊びをしたことが思い出されるが、果たして孫も40年の時空を越えて幼かった息子と同じ反応を示し、明くる日もまた「きのうの バーンってやるやつで あそぼう」と我が家にやって来た。

 いつごろ誰が最初に考案したのかわからないが、子どもたちにとって永遠の遊びだと思われた割ばし鉄砲は今も古くはないが、これを伝える人が少なくなってしまっている。

 全国のお爺ちゃん、お婆ちゃん今のうちにお孫さんたちに伝えておいてくださ~い!!




初詣

2010年01月04日 | 雑記
 毎年正月3日は同じ団地に住む息子夫婦と4歳の孫、横浜から娘夫婦と小学校5年生と3年生の孫の合計7人がやって来て、寒川神社に初詣と言うのがここ数年のお正月の形になって来た。Photo

 JR相模線の寒川までは約10㎞の道程を、海老名に転居をしたばかりの50才代の頃には往路は徒歩で出かけ、参拝の後は神社の近辺に点在する花農家で鉢植えのシクラメンなどを買い求めて電車で家路につくのが定番だったが、いつの頃からか10㎞の道を歩くのはきつくなり、孫たちの出来た今では往復電車に乗っている。
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 初詣から帰ると夕飯までのひとときは例年は凧上げだったが、今年はベイブレードという昔のべいごまの安直版で一遊び。

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 前日の2日には、自転車で20分ほどの距離にある養鶏場まで新鮮な鶏卵を買いに行って来た。

 お正月は養鶏場も休んでいるんじゃぁない?
 ニワトリは盆も正月もなく毎日卵を生み続けているから、卵屋さんは休んでいないと思うよ。
 
 やはり売っていた。
 孫が喜びそうな3Lサイズの産みたて卵を買って来る。
 大玉の卵には卵黄が二つある可能性の高い。

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 当たり~! これで今年もいい年になりそうだ。
 孫たちの遊びも安直になってきたが、こちらのゲン担ぎも安直過ぎるかもネ。




賀状欠礼・その2

2009年12月28日 | 雑記
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 年賀状を書く頃には賀状欠礼の御挨拶をいただくが、その末尾に手書きの文字で「でも、もーさんの年賀状は集めているので下さい」という内容の添え書きをされてくるものが数年に一度ある。

 世田谷時代の子育ての頃には、小学生の子どもたちと一緒にいろいろな技法の年賀状作りをしていたこともあったが、それ以後はまた木版の原点に戻り、以後30数年も毎年木版画の年賀状を出している。
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 海老名に転居して来た平成3年頃の年賀状に彫った貫抜川の風景だが、現在この橋と川の護岸工事中で、来年にはこの景色は変わってしまう。

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09年12月現在の工事中の様子。

 以前にも書いたが、ことさら干支だの縁起物の図柄でなくても静物でも風景でも木版画にしてしまえばそれだけで年賀状らしくなってしまう。
 木版の年賀状は<プリントごっこ>の大流行でほとんど姿を消し、さらに<プリントごっこ>自体もパソコンによる賀状が全盛となって時代の彼方に淘汰されてしまった今、かえって木版画の年賀状が喜ばれているのだと思う。

 年賀状を集めていていただいているというのは光栄な話だが、それは私にとっては困る事情があるのです。
 
 ここだけの内緒話だが、毎年新しい風景を彫っていたような顔をして賀状を出していたが、実はこの30数年間にどうしても木版を彫っているヒマがなく、何年か前に彫った版を流用したことが数回あり、普通に1年くらいで前年の年賀状を処分されていれば、この絵柄はいつか見たような気がするなァ?と思う程度で終わる話が、集めていられると一目瞭然とこれは何年前の版と同じだと判ってしまうのです。


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 そんな内緒話しをバラしたあとで、実は今年も・・・というわけにもいかないので、今年の賀状は古い版ではなく、里芋の収穫をするお爺さんの姿を今、新しく彫っています。
 上の写真は、そのお爺さんの向こうに見える大山と富士山を描くための参考にした風景です。