もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

夏休み工作教室

2008年03月31日 | 工作
W

 早くも栃木県のある公民館から夏休みの工作教室の依頼があり、今回は久しぶりに<がらくた宇宙船>を作ることにした。
 
 私のレパートリーのうちで一番人気のある工作だが、一昨年の夏に<さぬき子どもの国>(愛媛県)で行って以来になる。
 ・・・というのも、この<がらくた宇宙船>作りはいろいろな条件が合わないと出来ない難点があって、いつでも出来る工作ではない。

 まず、ラッカースプレーは屋外作業になるから、工作教室の場所的な条件として、すぐに屋外に出られる部屋かどうか?
 そして、当日がもし雨天だった場合に駐輪場などの屋根付きのスペースがあるかどうか?

 さらにベースになる材料の歯磨き、練りワサビなどの空き箱は紙皿や紙コップのように売っている材料でもなく、かつペットボトル、空き缶のように拾える材料でもない。
 我が家で使用した歯磨きの箱を1年溜込んでも、10人分にもならない。

 一人や二人の孫を相手になら何とでもなる工作だが、30人、50人という人数になると、いくら楽しい工作でも材料の調達が出来ない。

 参加を募る段階で、参加者に空き箱の材料持ち寄りの伝達ができるかどうかが鍵になるが、今回のクライアントはそれが出来、さらに前述の屋外でスプレーをする場所の問題もOKということで<がらくた宇宙船>作りの環境が揃った。

 2年振り久々の宇宙船作り、栃木の子どもたちにがらくたが見事に変身をする面白さで驚かせてやろうと今から楽しみになって来た。

 栃木県のどこでやるのかって?
 それはまだまだヒ・ミ・ツ・・・・。
 だって主催者の発表前に私が漏らすわけにはいかないんだモ~ン!




ハナカミ王子

2008年03月24日 | 雑記
 東京オリンピック(1964年)の前年からの花粉症だからもう45年になる。
 東京に出て来たばかりで未だ青年だった私は毎年この季節になると毎日未明からくしゃみで目がさめて午前中は垂れ落ちる水鼻をかんでいるだけで半日が過ぎて、午後になると不思議に症状は軽くなった。
 あの頃の春先の私はハナカミ王子だった。

 その頃には花粉症と言う用語はなく、アレルギー性鼻炎と称されていたがその名称すらあまり知られてはいなかった。

 その後鼻水の症状を押さえるだけの薬は出て来たが、根本的な療法はなく、以来45年経ったが私の花粉症はまだ続いている。
 一時症状がいくらか軽くなったときがあり、ある種の免疫のようなものが出来てこれで花粉症も卒業かと思った年もあったが、これもヌカ喜びで今年も早朝からクシャミで目が覚める。
 ハナカミ王子も今ではハナカミ老人となってしまった。

 私が生まれる2年も前の1937年に製作されたディズニ-の白雪姫の7人の小人の中に日本名でクシャミと呼ばれる小人がいるが、この小人は実は花粉症だったと言う説もあり、ディズニーアニメの中で小学生の頃に最初に出会ったお姫さまが白雪姫で、その憧れのお姫さまを慕う小人と同じ花粉症だということを慰めとしてこの季節を乗り切ることにしよう。
Photo
花粉症とは関係がないが、菜園に向かう途中のモクレンがきれいだ。 




折り返し展・18

2008年03月16日 | 雑記
 最終回
  昨年の10月3日から始まった「折り返し展」もやっと今回で最終回となった。
 いろいろな都合でこの折り返し展には掲載出来なかった挿し絵の原画もあったが、これで心置きなくこれらの原画を燃やして段ボール2個分だけ工房を広くすることができる。


 今回掲載のお祭りのポスターは世田谷に住んでいた頃に息子をが所属をしていたボーイスカウトの本部があった下北沢の北沢八幡宮のものである。
 Photo
Photo_2



 これを描いたとき、私はすでに世田谷から海老名市に転居をした後だったが、我が子だけでなく地域の子どもたちが神社の大広間や境内を利用させてもらっていることから、そのお礼の気持ちとして描いたものであった。 
 
 それから5年、毎年同じ絵では飽きもくるから来年は別の絵を描きましょう言ったが、その頃は神経を病んでいたころで<描かなければ・・・>と言う気持ちがプレッシャーになって気分が滅入り余計に描けなくなるという悪循環をくり返していた。

 仕事で描く絵も2~3日ゆとりがあってもなかなか手がつけられず、締め切りの前日になって「どうして昨日からやらなかったのだろう」と悔やみつつも毎回徹夜の作業になっていた。

 9月の祭礼のポスターだから7月の末には刷り上がっていなくてはならないが、どうしても手が進まない。

 7月に入って宮司さんに今年は間に合いそうにないから、もう1年前の絵を使っておいて下さいと頼みに行き、新しい絵は来年でも構いませんよと了承をもらってきた。

 <来年でもいいですよ> この言葉を聞いて帰ってくると<描かねば・・・>というプレッシャーから一挙に解放され、明くる日には<描こう>という気分がみなぎって来て、何ヶ月も描けなくて悩んでいた絵が一気に描き上がってしまった。


Photo_3

 扇面はそれから数年経って、同じく北沢八幡の四百五十年祭の記念品として作った扇子用に依頼されて描いた絵だが、この絵も祭礼のポスターにも流用して現在は3つの絵が順繰りに使われて、毎年下北沢の町のあちこちに掲示されて祭りを盛り上げるのに役立たせてもらっている。

 これらの原画をなぜ燃すのかと言うと、燃した灰は家庭菜園の酸性土壌の改良剤となる他にカリ肥料にもなる。
 この肥料が夏野菜に受け継がれ、さらにこれを食べる私のエネルギーとなって新しい工作のアイデアを生み出す・・・。
 エネルギー不滅の法則だ。

 



折り返し展・17

2008年03月09日 | 雑記
イラストルポ(見て来て描いたホント)
 現在の仕事は工作おじさんとして、あちこちと地方を歩かせてもらっているし、60坪の家庭菜園を耕してきわめて健康的な生活をしているが、30歳からレッスンプロとして教えに行っていたデザイン学校や洋裁学校も辞して、50才代の半ばまでは通勤することすらなくなり、日当たりの悪い仕事場で絵を描いているだけで運動不足の不健康な生活をしていた。

 あるとき、女房が世田谷区の広報紙を見ながら「初心者水泳教室にでもいってみる?」と声をかけてくれて、週1で、2ヶ月くらい近所のプールに通うことになった。

 水泳教室の初日、プールサイドで先ずは準備運動から始まったが、何と準備運動で息が上がってしまった私は<いきなり準備運動をするのは健康に良くない>ことを悟り、次回からは家を出る前に軽いストレッチで準備運動に備えてからプールに向かった。

 ま、それくらい運動不足の日々だったという話だが、それ以来私は編集者たちに「私の仕事は出張も単身赴任もない仕事だから、たまには外に出る企画はないかな・・・」と触れ回っておいた。
  
今回はその結果与えられたイラストルポである。
 上の3枚は20年前に読売新聞社から発行されたムック「THE奈良・大和路」に7ページに渉って掲載した修験道の行場である大峰山をルポしたときの一部で、大袈裟にいえば決死的な取材で、万一のことが起こったことの場合を考え、保険に加入しただけではなく、取材の前には多くの友人たちにそれとなく顔を出してから奈良に向かったものだった。

 モノクロの絵は原画で、色の付いたものは色指定をした印刷上がりです。

W1
W2
W



 下のイラストは、南房総の職人さんたちをルポしたもので、房州鋸、うちわ、船大工、竹細工、小鳥籠、万祝染め、磯がね 鋏み、農具作りの名人たちとの出会いから、運動不足を補うだけでなく長年ひとつの仕事に打ち込む職人さんたちの真摯な姿に触れることも出来た。
 

W12
W_2
W_3
W13
W_4
W_5
W_7



折り返し展・16

2008年03月03日 | 雑記
「講釈師 見てきたような ウソを言い」
 壇の浦の合戦でも関ヶ原の戦いでも講釈師はあたかも自分で見てきたような話し振りで語るということを表したものだが、イラストもときには「イラスト屋も見てきたようなウソを描き」ということもある。

 ウソとまでは言わないが、私だって三国志の時代など見てきたわけではないが、頼まれれば描かねばならない。
 例外的にイラストルポなどのように、見てきて描くこともあるが、ほとんどの場合は知らないものでも知っているかのごとく描くのが私の仕事だった。

W
Photo
W_2

 私が36歳の頃だった。
 ある出版社で方丈記の現代訳を出すにあたって鴨長明の似顔絵を描いて欲しいという依頼があった。

 ところが絵を描く根拠となる長明の肖像画はない。
 いや、あるにはあるが、それは長明の死後数百年も経ってから描かれたもので、それは何の参考にもならない。
「見てきたようなウソを描く」ためには、何かそれらしい説得力をもつ根拠が欲しい。

 数日間考えた末に浮かんだアイデアは、易者が天眼鏡で客の人相を見つめて運勢を占う方法を逆用する手段を思いついた。
 つまり「あなたのこのホクロは一生食うに困らないホクロです」とか「目尻の上がった人は・・・・」などなどの易者のアンチョコを借りてきて、鴨長明の生涯をなぞって・・・
 高貴な生まれにもかかわらず、家族運に恵まれなかった。
 文才に長け、61歳の寿命は当時としては長命だった。
 などなど長明の肖像画はないが、生涯や暮らしは分かっているから家族運に恵まれない人の眼は・・・、長命の人のまつげは・・・、高貴の生まれの人の鼻は・・・などと鴨長明の生涯を易者をしていた知人の虎の巻を借りて来て逆算的に人相をモンタージュしたものだった。

 なかば冗談の様な(冗談そのものだ!)根拠を頼りに描き上げた似顔絵はちょっと面白い試みだった。
 こうして鴨長明の似顔を見て来たように描き上げたところで、それを依頼してきていた零細な版元に何かのアクシデントがあったようで、その本は出版されることもなく、せっかく新手法による似顔絵も日の目を見ないままに終わった。
 もう30年以上も前の話で、残念ながらそのときの原画は見当たらない。

W_3
W_4


途中からこのブログをご覧の皆さんへ
 途中からご覧の皆様で、断続的に続いている「折り返し 」なるものはいったい何じゃ・・・とお思いの皆様もおいでかと思いますので、以前から見ていただいている読者の皆さんには話がダブりますが、一応いきさつを説明します。

 私は30年ほどカット、挿し絵、イラストルポなどを描くことを生業(なりわい)としていましたが、途中から工作おじさんとしての仕事とオーバーラップするようになり、現在はほとんど工作おじさんが主体となって来ました。

 70年近くも生きてくると、これからの人生を惰性で生きるのではなく、なお現役で生き続けるためには、ここらで不要になった過去のシッポを捨て、身軽になる必要があると気がつき、イラストレーションを描くことが主体だった私の過去、今はちょうど工作おじさんをライフワークとして生きるこれからの私の折り返し点であることに思い至りました。

 昨年の7月に工房の転居に伴って出て来た昔の挿し絵などの原画を廃棄する前に、この「ひとりごと」でさらしてしまおうと思い立ち「折返し点→折り返し展」と洒落た次第です。

 あと2回「折り返し展」におつき合いを下さい。