Oさんは、名古屋ではすでに戦時中(関ヶ原の戦いではなく、太平洋戦争です)から洋裁塾を開いていた、草分け的な存在だった私の父の弟子だった人で、50年前は栄の交差点にあったオリエンタル中村(現在は三越になっていいるところ)、明治屋婦人服部などのデザイナーをしていて、後に東京に出て来た人で現在89歳となるも、現在も以前のお客さんのファッションアドバイザーとして月に数回は西船橋から日本橋、銀座に出てくるという健康体で現役。
Iさんは、76歳。
名古屋の洋裁学校を卒業後、ファッションデザイナーを目指して新宿の文化服装学院で学び、そのまま同校教員を務め、定年後に和服のリメークにはまり、数々の作品を作ってきた人で、私との接点は・・・。
Iさんが20歳くらいの頃、ファッション画を描きたくて絵画教室に入ったが、今から50年以上も前の名古屋ではファッション画はおろか、イラストレーションという言葉も存在せず、現在のグラフィックデザインはイラストレーションもレタリングも一緒くたにされて、商業美術と称されていた時代で、名古屋にはファッション画、スタイル画などを描いている人などはいなかった。
そのIさんは、まったく偶然の機会から私の小中学校の同級生で当時は電機メーカーで工業デザインをしていたS君と出会い、当時はまだまだファッション画は勉強中だった私のところに連れられて来た人で、指導をするというより、私の仲間たちでモデルを頼んでクロッキー会などで一緒に勉強をしていた人だった。
Iさんも、今も和服のリメークの指導を中心としてまだまだ現役として活動中。
そして78歳の私も、今では仕事30%、ボランティア70%ながら、マイペースで退屈をしない日々過ごしています。
この3人は、名古屋時代のファッションの世界という共通点をもってはいたが、東京に出てくるにあたっての共通点はなく、時期も同じではなかった。
あえて言えば、当時の名古屋には自分の仕事を受け止めてくれる環境がなかった・・・という不満からの脱出だったのかもしれない。
今ではトンボもお友達
いずれにしても、この歳となった今もそれを続けていられるのは健康と、それぞれに他人から求められる<something>を自分の中に作り上げてこられたことが要因かと思います。
ちなみに、この日のランチで出て来たグラスワインの一杯が私には今年口にした最初の酒でした。