もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

春の菜園

2015年03月29日 | 家庭菜園

 冬の間は家庭菜園でも農閑期ということもあって、しばらく野良の話から遠ざかっていた。

 野良の情報などどうでもいいから、このブログは工作の話題に専念せよ。

 それにしても、家庭菜園大好きの私がこんなに菜園の話題から遠ざかっていたのは珍しいことだ。

 ずーっと遠ざかっていろ!

 緑色の文字の外野の声を無視して、今日は久々の野良話だ!。

 今年も油断をしていたらパッと畑から飛び立つ鳥の群れ・・・。
 Nン! やられたー!

 キャベツ、ブロッコリーは丸坊主に近いくらいの食害を受けていた。
 
 私が畑に居る間ヒヨドリたちは近くの木に止まって私が帰るのを待っている。
 待っていたって、これ以上食われてたまるものかと、早速防鳥ネットをかけたのは言うまでもない。 

 菜園の春は2月の下旬から3月にかけてのジャガイモの植え付けから始まる。
 久々の農作業で体がなまっているから、ついティータイムが長くなる。
 
 緑色の筒は屋外湯沸かし器で、ノラ仲間Oさんの自慢の茶器
 アルコール燃料だが、風では火が消えない構造になっていて、野点?には欠かせない重宝な品だ。


 今の収穫物はブロッコリーのわき芽、キャベツ、京菜、ノラボウ菜、冬の間に巻かないままでトウ立ちしてしまった白菜の花くらいのもので、これと言って珍しいものはないが、低カロリーで、きわめて健康的な収穫物とも言える。
 
 やがて団地の中を流れる水路の桜も咲き始め、イチゴの苗にも花が咲き始めるが、イチゴの最盛期はまだまだ先のゴールデンウイーク明けになる。
 
 ジャガイモのあとは、夏野菜植え付けのための土作りと続くことになり、何をどこに植えるかと考えているだけで、頭の中はすでにトマトやナス、キュウリの収穫時のばら色の風景にすっ飛んでいる。

 


歳のせいか?

2015年03月25日 | 映画

 足立区の住民支援センター鹿浜いきいき館というところでおとなの人を対象にした工作教室をしてきた。
 予定では今日はその記事をブログで書こうと思っていたが、何としたことか その教室の写真を撮ってくるのをすっかり忘れていた。
*写真は本文とは関係のないカット写真ですが、あえて言えば、耕作➞こうさく➞工作の写真です。

 カメラを忘れて行ったのではなく、2時間半もの間写真を撮ることをすっかり忘れていたのは歳のせいとしか言いようがない。

 ブログだのフェースブックだのは、写真のない文章だけでは面白くない。
 それでなくても最近は歳のせいか、文章が簡潔にまとめられなくなってきているから、写真でごまかさねば読んでもらえなくなってきている。 

 そんなわけで、鹿浜いきいき館での件は割愛して、今回は予定を変更して別の話にしよう。

 私が中学生の頃に二十四の瞳という原作・坪井栄の小説が映画化(監督・木下恵介)され、学校から観に行った記憶がある。
 
 昨夜、you tubeを検索していたらこの映画がヒットした。

 次の工作教室の準備はこの懐かしい映画を観ながらすることにした。
 高峰秀子主演の二十四の瞳は、大石先生と子どもたちが歌う七つの子浜辺の歌などの童謡、唱歌が全編を通して、時には子どもたちのコーラスとして、時にはBGMとして画面の裏で随所にそしてふんだんに流れ郷愁を誘う。

 30人分のはやぶさ・2を作る次の工作教室ための準備はかなり時間がかかる。
 
 二十四の瞳の画面を見ながら、時には音声だけを聞きながらの作業だったが、私の目頭が熱くなってくる。
 
 人の生き死にに関わる悲しいストーリーではなく、人と人の心の交わりだが、こういう心の温まる話につい涙腺の緩むのも歳のせいなのだろう。
  
 昭和29年(1954)に観たはずのこの映画を60年後に再び観てみると、当時は気がつかなかったことがいっぱいある。

 当時は私自身が子どもだったこともあって、気がつかなくても当然のことだったが、タイトルのあと、普通の映画では最初に表示されるのは主演の俳優、脇役の俳優と順に名前が現れるが、この映画では無名の12人の子役たちの名が最初に表示されていた。

 そして若かった頃の田村高広、月丘夢路などが出演していたことも今回初めて気がついた。

 歳をとるということは、忘れることもあるがあらためて思い起こすこともあり、さらに歳を重ねることで初めて理解できることもあり、交霊・・・ではなく高齢あなどるなかれである。

 いやいや、2時間半の長編作の二十四の瞳はただ懐かしいだけではなく、映画の言わんとすることとは関係なく、いろいろと考えさせてもらったうえに、工作教室の準備もはかどった。

 この次は安井昌二のビルマの竪琴おーい水島、一緒に日本に帰ろうのセリフに酔いしれたいがyou tubeで見つかるかなぁ?
 


合掌ーその1

2015年03月17日 | 交遊録

 媚びず、飾らず、力まず、本音トークを旨としてきたこのブログだが・・・。

 昨年12月21日にアップした、焼津魚センターというタイトルで、駐車場脇の喫茶店でキムチの友に会ってきたという内容の話を書いていたが、その話の半分は事実ではなかった。

 その喫茶店で待ち合わせたのはキムチの友ではなく、実はその弟さんで、彼の車で向かった先の病院で私を待っていてくれたのが、今年3月7日に急逝したノンフィクション作家の阿奈井文彦さんだった。

 彼のことをキムチの友と称したのは、私が牛坂浩二というペンネームで挿絵や社会風刺画を描いていたころ、阿奈井さんとコンビでいろいろな雑誌でルポをしていたが、1970年代に何かと話題だった月刊面白半分という雑誌で「アホウドリの朝鮮料理入門」という連載が始まり、当時地下鉄新宿線の四谷3丁目にあったモランボン料理学校に私と編集の土屋さんとの男3人で半年通ったことがあった。
  

 阿奈井さんは羅南現・韓国)からの引揚者で、朝鮮料理を作りながら子どものころに思いを馳せるという企画だったが、この連載のタイトルが朝鮮料理となっているのは、料理学校のモランボンというのが北朝鮮の地名であったことによる。
*アホウドリというのは阿奈井さんの俳号。

 半年間も料理学校に通って、いろいろな料理を習ってきたが、現在も私が作れる料理はキムチとユッケジャンスープの二つだけだが、静岡で入院中の阿奈井さんからは「旨いキムチが食べたいなぁ」などとメールが来て、トマトキムチ、オイキムチ、キャベツのキムチ、カクテキなどなどキムチメールのやり取りをしていた。

 そして桜の咲く頃に暖かくなったら阿奈井さんの見舞いに行こうと思っていたが、この冬、我家の菜園で採れた白菜で漬け込んだキムチがとても美味しく出来たので、それを食べさせたくて予定を変更して急遽キムチを手土産に見舞いに行ったというのが本当の話だった。
  
 しかし、昨年の12月には著名人だった阿奈井さんが入院中であることは多くの人には知られていなかったので、あの時点ではあまり詳しい話は書けなかった。

  しかし、久しぶりに会った阿奈井さんは食事療法をしていたようで、病院食以外のものを口にすることを禁じられていたので、寝た子を起こすようなことも出来ず、キムチを持ってきたことは話さず、彼の弟さんに持ち帰ってもらった。

 あれほど旨いキムチが食べたいといっていた彼に食べてもらえなかったのは残念だったが、春になってから見舞おうかと思っていた予定を急に変更して阿奈井さんに会いに行く気になったのは、虫の知らせというよりキムチの知らせというべきだったのかも知れない。


 この項としてもう少し書いておきたい話もあるが、長すぎるので一旦終わり、続きは、このまま下方にスクロールしていただき、合掌―2をご覧ください。


合掌ーその2

2015年03月10日 | 交遊録

  ・・・というわけで、合掌―その2です。

  こうして阿奈井さんとの交遊録は幕を閉じたが、時を35年遡って、かってモランボン料理学校に一緒に通った阿奈井・牛坂・編集者、土屋のトリオによるある快挙を書き残しておきたい。

 土屋もすでに他界し、当事者としてはただ一人の生き残りとなった今、阿奈井さんの知られざる一面を紹介する話を書き留めておきます

 1980年7月に面白半分社が倒産➞廃刊という事態に際して・・・。

会社が倒産して雑誌が廃刊というのは当たり前ではあるが、あまりにも当たり前過ぎて面白くもない。 

 最後のご挨拶くらいはしたいものだと思ったが、大手の債権者にしてみればこれ以上債権がふえるのはお断りと断られたのも当然といえば当然。 

そこで、面白半分社とは別に 臨終号編集委員会を立ち上げることにした。
編集委員会と言うのは大げさな言い方で、実態は阿奈井さんと牛坂土屋さんと、その後にいろいろな人の協力を得ることが出来たが、実質は3人だけでのスタートだった。

「今回も原稿料のお支払いが出来そうにありませんが・・・ 」
面白半分社の倒産で執筆の皆さん方への原稿料も未払いだったが、この臨終号への原稿の依頼もそんな書き出しの手紙でお願いをしたものだったが、誰一人断られることなく原稿を寄せていただいた。

 かくして、資金の都合もあって34ページ中綴じの冊子ながら、面白半分の臨終号は 昭和55年(1980)12月に無事発刊となった。

 それどころか、この臨終号発刊の予定が新聞に出たとたん、書店、個人のファンから注文の電話が鳴りっ放しとなり、編集委員会が一時的に使用させてもらっていた千代田区一番町にあった藤本儀一さんの東京事務所の機能はその電話の対応だけで完全に麻痺してしまっていた。

 電話の対応だけのアルバイトを雇わねばならない事態に陥り、地方紙にこの記事が出たときにはすでに発行部数も決定して印刷機は回っていて、送られてきた代金の一部はお返しするほどの評判となった。

 定価で300円の冊子だったが、香典だと5百円、千円を送金して下さった人たちも多々あり、中には洒落では通らない万単位の香典が送られてきたこともあったが、さすがにこれはお返しをした。

 電話番のアルバイト学生の夕食も当初は掛け蕎麦しか出してあげられなかったが、やがて天ぷらそばをとってあげられるようになった。

 毎日郵便局から、郵袋と呼ばれる大きな袋で小為替が届き・・・。

 などなど、この臨終号の編集から発刊に至るおもしろ話は数々あるが、ここで書くには長すぎるので割愛するが、阿奈井、土屋と私の3人は「倒産した出版社の臨終号発行だけを請け負う会社を作ろうか」などと冗談話をしたものだった。

* Wikipediaにはこの臨終号が月刊・面白半分の最後となっているが、この臨終号は面白半分社による発行物ではなく、ここに書いたようにいわば勝手連による発行です。

 低音でボソボソと話す阿奈井さんは、クックックッとやはり低音で笑いながら、こういうジョークにも積極的に乗ってくれるという一面もあったというエピソードを最後に今回は幕といたします。


*左より、面白半分社社主の佐藤さん、カメラマンの石山さん、編集の土屋さん、阿奈井さん、そして私・新宿西口の居酒屋犀門にて
 -合掌―


 


母校の便り

2015年03月07日 | 仲間

  
 おもしろ工作は、小学生でも作れる・・・と言っている手前、あまり表立って見せることをしていないが、当店?の裏メニューには写真のような外国の古新聞を素材としたレリーフもある。

 外国の新聞の活字を模様に見立て、当初は英字新聞を使っていたが、英語のわからない私には模様に見える活字も、英語のわかる多くの人にとってはそれは模様には見えないのかも知れないということの気がついて、最近はロシア、タイ、アラビアなどのあまり馴染みのない新聞紙を使うようにしている。
 
 ところで、これらの国の古新聞をどこで入手しようかと、まず最初に大使館に電話をしてみたが、ネット社会の現在大使館では本国からの新聞はどの国も取ってはいなかった。

 
 で、今回の話も古新聞や大使館の話を書こうというのではなく、私も母国ならぬ母校の現在を居ながらにしてネットで知ることが出来ている・・・という話である。

 光っつあのホームページというのは、私的なHPであるが、この光っつあは県立愛知商業高等学校の同期生で、卒業後50数年、同窓会、同期会の面倒をみていてくれて、その動向を逐一報告をしてくれるだけではなく、その後の同期生の活躍、現在の母校の生徒たちの活躍を観戦、鑑賞に出かけ、あるいは新聞記事の紹介などで、ともすれば薄れ行く母校との絆を保たせてくれていて、愛知商業高校の海老名大使館?も母国との大きな時間差もなく情報を共有できている。
 *同期生の作品展


 私たちが在籍していた1957には春の選抜で、甲子園に出場したことがあったが、そんな懐かしい記憶もあって同期生たちは今でも地区予選の応援には行っているようだ。
*後輩たちの地区予選を応援する同期生たち。
 新聞記事の切り抜きもうれしい情報。
 *在校生たちの活躍の新聞記事もアップしてくれる。
 光っつあは、卒業後教員の道にすすみ、いくつかの高校の校長を歴任したあと、もともと趣味だったという木彫から面打ちを始めたという変り種だが、その技は趣味の範囲を超えるのだから、その潜在的な能力は計り知れない人物で、在学中に成績が悪くて親が学校に呼び出された私とはドエリャア違いである。
     
*これが光っつあの作品のごく一部。

 海老名大使館より感謝の気持ちを込めて合掌。
 こらこら、まだ元気で存命中の人に対して手などを合わせるな!