もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

後期高齢者は高貴高齢者ー2

2014年11月29日 | 雑記

 本業、アルバイト、ボランティア、展覧会と10・11月の無茶苦茶なスケジュールも今週は木曜日の横浜の磯子区幼稚園協会の先生方の工作研修と昨日の孫が通う地元の小学校での工作教室を終えて一段落・・・。

 仕事の忙しいときにアルバイトやボランティアなんぞはしなけりゃあいいのに・・・。

 そうはいっても、アルバイト仲間の一人にとうとう入院、手術という事態が起きて人手不足が判っているのに、自分も本業が忙しいからと抜けるわけにもいかなかったし、ボランティアだって、私を頼りにしてくれるところがあればやはりこれも断れないからね。

 でも、やっとその混乱から抜け出せた、ところで、今日は前回の続きで、私が後期高齢者になるのをカウントダウンをして待っていたもう一つの理由をお話します。
*今回の話の合間に箸休めとして挿入する写真は、本文とは関係がありませんが、間もなく打ち上げが予定されている小惑星探査機はやぶさ2のミニチュアで、今年の夏の横浜子ども科学館での工作教室のために私が開発をしたがらくた工作です。
 


 あまり真面目に読まれると困るが、ま、またも~さんのヨタ話・・・程度に読み流してください。

 私が中学校1年生のときに父親が亡くなった。
 父親の年齢は45歳だった。
 そのとき、母親が私にある話をした。
「話の源はわからないが、我家の先祖が祖先の霊を粗末に扱ったから、その恨みで当主を10年づつ若く死なせて、家系を絶やす」
 ・・・と、そしてさらに「そういえばオジイサンも50何歳だったかねぇ」と付け足した。

 しかし、叔母からの話は少し違っていた。
「先祖の恨みではなくて、昔、女を騙したご先祖様がいて、その騙された女の恨みで、後藤家の当主を10年づつ若く死なせて家系を絶つ」という内容だった。

 どちらにしても、私が35歳までしか生きられないという結論は同じだった。
 *大きさがわかるように手のひらの上に乗せてみました。
 中学生の私にとっては、ただの笑い話だったが、30歳を過ぎるころになると、たまたまの偶然にしろ、交通事故か何かで、ポーンと車にはねられて遠ざかっていく意識の中で、あ、やっぱり・・・と思いながら息絶えるなんてことがあるかも知れないナ、などと思うようになってきた。

 ここから先の私の心の中に芽生えたある変化が本当はとてもいい話なのだが、ここでそれを書いているととても長い文章になってしまうので、割愛して本題の寿命の話を急ぐことにする。

 結論だけを言えば、めでたく後期高齢者の称号を得ることが出来たのだから、35歳で死ななかったらしい。

 だが、ひょっとしたら・・・
 私自身が自分が死んだことに気がつかなくて、その朝起きてきてしまったのではないだろうか?

 
 そっと女房や子どもの顔を見るが、その表情には何の変化もなく、普通の朝だった。
 そうか家族も気がついていないのなら、このまま私自身も死んだことに気がつかないことにしておこう。

 そのころは、生活感のある絵を描くように努めていたころで、仕事にも油が乗ってきて、都筑道夫さん、半村良さん、田辺聖子さんなどの作家から、小説の挿絵は牛坂に描いてもらって欲しいと指名をいただくようになっていたので、まだここでは死にたくないという執念も出てきていた。
 ただし、ある女性の評論家からは「牛坂の絵はあまりにも日本人的だからイヤだ」という拒否反応を示されたこともあったが・・・。
*牛坂浩二というのは当時イラストレーションを描くときとエッセーなどの雑文を書くときに使っていたペンネームで、ゴトー孟の名前は後になって工作おじさんとしての仕事をするときのペンネームです。

 こうして私は35歳のときから、倍の70歳になったときも素知らぬ顔をして過ごし、とうとう誰にも気がつかれぬまま後期高齢者に到達してしまった。

 恨みを持ったご先祖様か先祖に騙された女か知らぬが、その時代には後期高齢者などという言葉もなく、人生50年と言われた時代だったが、私はその祟りとやらを乗り越えてしまったのか、あるいはその祟りどおりに35歳に一度死んでしまったのだが、それに気がつかないだけでけなのか判らないが、それならそれで、もうしばらくの間このまま死んでしまったことに気がついていないことを続けていよう。
れまでのお見せしたはやぶさ2の化粧前の元の姿は実はこれです。
 本隊の空き箱は、名古屋市に本社のある風船ガムの丸川製菓株式会社からご提供をいただき、他のメカっぽいものは食パンのクロージャー、ビーズ、マクドナルドのマドラーなどを使用し、二つの平面アンテナはゴルフのマーカーを使用するなどをしています。
 太陽電池パネルには、ホログラムの折り紙を利用しました。
 
 そして、いまや私のライフワークとなった子どもたちへの遊びの提案を発信し続けよう。 
 後期高齢者=高貴高齢者といわれる日まで。

*最後に見ていただくはやぶさ2は、横浜子ども科学館のエントランスで、やはりがらくたを貼り付けて公開制作をした実物の2分の1サイズのはやぶさ2です。


後期高齢者は高貴高齢者ー1

2014年11月27日 | 雑感

 OCNからgooブログに引っ越して、初めての投稿です。

 OCNブログでは後期高齢者までまであと何日と カウントダウンをしていましたが、ようやく本日後期高齢者に到達しました。

 後期高齢者という言い回しはあまり評判はよくないようだが、私はそれほどイヤではない。
 というのも、 この言葉には私にとってはとうとうここまで来られた・・・という実感があるからだ。

 ここまで来たという意味も二つあって、そのひとつは24歳のときイラストレーターを目指してファッション画の原雅夫先生に師事するために東京に出て来たが、さてこれからいつまで東京で暮らしていけるのだろうという不安がいつも付きまとっていた。
*原雅夫=2011年のNHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」に原口先生という登場人物のモデルになった人物。

   
上の絵は師匠のアトリエで勉強中の頃のものです。

 当初は師匠と同じ路線を目指したいたが、30歳を境に人間臭さのあるイラストを描きたいと思うようになって絵が変わったが、それが境になってイラストレーターとして自立できるようになって来たが、それでもまだあと何年東京で暮らしていけるのだろうと気持ちには変わりがなかった。


 話は過去に戻るが、私が東京に出ようと決めたころ、名古屋のあるギャラリーで童画家といわれる人が展覧会を開いた。
 その案内状にいわく、これまで東京で活躍をしていたが、体調を崩して名古屋に帰ってきました・・・。

 これまで東京で活躍をしていた・・・といわれても、絵本などでその人の絵を見たこともなく、また、私がまだイラストレーターとしてレッスンプロだった頃、某洋裁学校の卒業生が東京で活躍をしていたが、やはり体を悪くして名古屋に帰って来るから、あなたが持っているファッション画の授業をその人に代わってやってくれないかと言われたこともあった。

 そんなことから、仕事として成り立たない絵描きやイラストレーター志望者の病気を口実とした帰郷などというみっともないことはしたくない・・・と絶えず思っていた。

 当時は後期高齢者などという言葉はなかったが、名古屋には戻らないで生涯を終えたい・・・そんな思いがいつも脳裏にあった。


 後に神奈川県に転居をしたが、昨今この後期高齢者という言葉が出てきたときには、ここまで東京圏で仕事が出来ていれば、もう体調不良を理由に帰郷ということもなくこの地で骨を埋めることが出来るのという思いから、いつしか早く後期高齢者に辿り着きたいと願っていたのである。

 今回は話が長くなりすぎたので、もう一つの後期高齢者願望の理由は次回に・・・。