2が3つ並ぶ2月22日は私がコミセン講座を開いている地域のコミニティーセンターの利用度を高めるためのコミセンまつり。
*写真の上にカーソルを置いて、クリックしていただくと、大きな写真をご覧いただけます。
その告知のために数日前に地元のタウン紙が取材に来てくれて、記事にしてくれたが、折り紙、絵手紙、書、生け花、フラダンスなどなど10講座以上もある中で、新参者の私の主宰するおとなの工作教室主体の記事になっていた。
これでは、他の先輩講座から石でも投げられるかもしれないと思っていたが、タウン紙効果とでもいおうか、昨年より来館者が多く、他講座の先生方からのクレームもなかった。
私は昨年展示が主体の初参加だったコミセンまつりとは少し方向転換をして、今年はワークショップに重点をおいた展示をしてみたが、幼児から年配のご婦人まで好評を得て、用意をしていた40人分の材料は昼過ぎにはなくなってしまった。
中には、昨年市民ギャラリーで開いた展覧会を観に来てくれた6年生だという二人連れの小学生は、同じ海老名市内だが、少し遠い地域からタウン紙の記事を見てあのときの人の作品をもう一度観たいと誘い合わせて来てくれた子もいた。
何年か前に熊本と、高松の小学生からファンレターをもらったことがあったが、工作というカテゴリーながら私のファンは60歳代以上と先の短い?ファンが多い中で、こうした先の長いファンは大切にしなければ・・・。
急いで家に帰って追加の材料を持ってくると、コミセンの職員から、お客様が席について待っていますと告げられ休む間もないが、気分がハイになっているからそのままワークショップを継続。
こうして、朝9時の会場準備から、午後4時半まで7時間以上をハイテンションでフル回転をしてきたが、家に帰るとやはりドッと疲れが出てきた。
今日は早寝をしようと思ったが、身体は疲れているが神経は高ぶっていて眠れない。
普段は晩酌も寝酒もやらない下戸の私だが、とうとう酒に頼るようになってしまった。
・・・といっても、布団から抜け出して買ってきたのはカップ酒。
それも飲んだ量は写真のカップ酒の減っている量だけ。
これだけで、寝付けるのだからかわいい酒飲みだ。
しかも、飲み残した酒はこれまでの経験上、多分一ヶ月くらいしないとなくならないと思う。
長年の東京暮らしをしていたが、足立区と言うのは私にはあまり縁のない町だった。
先日足立区鹿浜いきいき館というところからメールをいただき、区内にある48館の施設で大人を対象にした工作教室を行う為の指導者たちの工作研修をしたいという希望で、昨日はその打ち合わせに行ってきた。
前日の最高気温13度と比べると、今日の最高気温は6度で、東京は雪が降るかも・・・という天気予報の中をダウンのコートに身を固め完全防備で家を出た。
ネットで検索したルートでは、小田急線、地下鉄千代田線、東武線と乗り継ぎ西新井からさらにバスというコースで、片道2時間以上かかりそうだ。
・・・ン! 西新井?
足立区にはほとんど縁のなかった私にも、西新井という地名だけは知っていた。
というのも、私が東京に出てきたばかりの20代の半ば、師匠のもとでファッション画の勉強中だった頃のことだが・・・
*今から50年前の25~6歳の頃、師匠のアトリエで勉強をしていたころのデッサンやクロッキー。
ある洋装店で4~5人のグループにファッション画を教えに来て欲しいと頼まれて出かけたのが、足立区の西新井大師の近くだった。
東京に出てきたばかりで、まだ西も東もよく判らないときだったが、当時住んでいた小田急線の参宮橋から新宿に出て、国鉄(当時)で池袋、そして西新井大師までは延々とバスにゆられて何度も通った記憶がある。
*ちなみに私の絵の師匠は原雅夫といい、数年前のNHK連続テレビ小説カーネーションに原口先生という役のモデルになった人物。
私の記憶の中の足立区はそれだけしかなかったのは、私にイラストを描く仕事を発注したくれるデザイン会社、出版社などがなかったからだった。
50年ぶりの西新井大師は、その周辺以外の道路も家並みも当時の面影もなく、この時代に洋装店など残って居ようもなく、しばらく周辺を散策してみたが、それと思しき場所も見つからなかっただけでなく、細い路地などを歩き回っているうちに方向を見失ってしまい、やっと見つけた交番で道を尋ねてようやくにいきいき館に行くバス停に戻ることが出来た。
以前に書いた生きがい発見塾のすてきな仲間づくり相談会が今日開かれた。
私にとってはこの相談会への参加は2度目だが、昨年のこの会ではどうしたらいいのか、良く判らないままにとにかく作品を並べ、一応効能書きのようなものもA4の用紙一枚にまとめたものも用意はしたが、終ってみればこれといった成果もないままだった。
与えられたスペースは、会議用テーブル一台と4脚の椅子だけ。
昨年の経験から学んだことは、会場を訪れる人すべてにヘイ、らっしゃい!奥様何をお探しで・・・と呼びかけるのも無駄が多すぎる。
合唱、フラダンス、テニス、料理、絵手紙、油絵などなど60団体もある中からまず工作に興味のある人を見つけ出すには、手間はかかるがワークショップで興味を惹くことが有効だということをおぼえた。
もう一つは昨年作ったA41枚の会の案内文章が長すぎた。
これを、写真を入れてもハガキの裏表の要点だけに絞り込むことにした。
この2点で万全だとは思っていないどころか、それでも誰も来てくれなかったら・・・という不安がよぎり、前日になってフェースブックに「ヒヤカシでいいから誰か会場に来て・・・」と書いておいたら、Kさん、Oさん夫妻、Tさんらが程のよい時間差で顔を出してくれて、それが予想外の効果をもたらせてくれた。
べつにサクラ的な役目をしてもらうつもりはまったくなかったので、椅子にもかけずに立ち話をしていただけだったが、そこに人がいるだけで安心感があったようで、子どもも大人も私のブースに寄ってきてくれた。
そして、ワークショップにも参加をしてくれて、案内のハガキを持って帰ってくれた。
あいにく昼前から雨が降り出し、人出が懸念されたが、おかげで私のブースはフル回転だった。
ボーイスカウト世田谷第八団から結団60周年の記念誌が届いた。
思い起こしてみると、今から40年前に息子がこの団のお世話になっていて、私も団委員の一人として、20周年記念誌の編纂、編集の手伝いをしたことがあった。
以来、海老名に転居をして来てからも、団委員としての役目からは外してもらったが、趣味として始めた家庭菜園の一角をボランティア菜園として毎年長芋・里芋、大根などの収穫体験にビーバースカウトとカブスカウトを招いていて、その収穫体験も20年を越えるようになった。
今では、この世田谷八団のカブスカウトに、私の孫も所属をしていて、昨年の芋掘りのとき、孫が私に「爺ちゃん・・・」と呼びかけたら・・・。
すると「お前のお爺ちゃんでも、ボーイスカウトのときはもーさんと呼ぶんだよ」と先輩スカウトにたしなめられる場面があった。
スカウトたちはもーさんというのは私の愛称で本名ではないということは知らず、ただリーダーたちが私のことをそう呼ぶので、それが私の本名だと思っているに過ぎないのだが・・・。
話の焦点が少しづつボケてきたので元に戻すと、届いた記念誌の中に私の写真も載っていて、そこには私の本名のあとに(もーさん)と書いてあったのを見つけて嬉しくなってしまった。
この記念誌を見て、スカウトたちはやっと私の本名を知ることになるのだろう。
私自身はこのもーさんという呼び方(呼ばれ方)がとても気に入っていて、各地で行う工作教室ではもーさんと呼んでもらうようにしている。
上の名札は5年前のゴールデンウイークの1週間、能代(秋田県)のエネジアムパークで工作教室を行ったとき、エージェンシーの担当者が作ってくれた名札だが、そのまま持ち帰り、以後どこの工作教室でもこの名札を首から吊るして工作教室を行っている。
ところで、昨年の夏、横浜こども科学館(はまぎんこども宇宙科学館)で行っていた工作教室で付き添いのお母さんから「もーさんというのは外国の方ですか?」と訊ねられたことがあった。
・・・が、話が長くなりそうだから、それは次の機会に・・・。
今朝、地元の小学校から電話がかかってきた。
正月早々に何の用かとと思って電話に出てみると、学校行事のお知らせで、今月21日の日程の確認だった。
そうか、今日はもう5日だ。
寒がりの私はこの時期はまだまだ頭も身体も半分冬眠中だ。
そんな私だが、3日には息子の家族に誘われて、江ノ島まで行ってきた。
私の菜園からも富士山は見られるが、江ノ島からの富士山は裾野の広がりまで眺められてここは絶景にポイントだ。
島の参道はかなり込み合っていて、昔なら迷子になってしまいそうだが、携帯時代の今はその心配はない。
混雑する参道を抜けて、参拝を済ませ、小学校4年生の孫は参道のお土産屋も島の砂浜も何もかも気になる様子だが、おなかも空いてきた。
あらかじめ息子たちがスマホで検索してきた目指すシラス丼屋は、多くの観光客もここを目指してきたようで、もう15時だというのに1時間待ち。
かなりのボリュームのシラス丼、船盛りのお子様ランチをそれぞれに平らげ終え、駅に向かうときには、薄暮の頃になっていて夕焼けの空に浮かぶ富士のシルエットがこれまた絶景で、今日はラッキーな一日だった。
杉作!もうすぐ日本の夜明けだよ。
杉作って誰なんだ?
イヤ、この富士山を見ていたら、子どものころに観た映画でアラカンの鞍馬天狗が角兵衛獅子の少年にそう言っていたのを思い出したンだ。