もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

回顧or総括

2007年09月28日 | 雑記
W  今回の写真も本文と関係がないが、カブスカウトたちが収穫体験にやってくる私の家庭菜園の京芋(里芋の仲間)に咲いた花です。

 8年前のある日のこと。
「もう回顧展なの?」と私。
「だってもう還暦だから・・・」と友人の画家
 そうか還暦か、私も同じ年令だったが当時の私にはまだ過去など振り返る気にはなれなかった。

 過去を振り返るようになったらもう進歩は止まってしまうような気がしていたが、あれから8年の歳月が過ぎ、70年近くも生きてくるとこれからの人生を惰性で生きるのではなく、なお現役で生き続けるためには、ここらで一度振り返って不要になった過去のシッポを捨て、身軽になる必要があると気がついた。

 イラストレーションを描くことが主体だった20年前までと、工作おじさんの仕事とオーバーラップしていたこの10年、そしては工作おじさんをライフワークとして生きるこれからの私の折り返し点であることに思い至った。

 68歳といっても、自分のペースで生きて来たのはたかだか40数年に過ぎない。
 次回からはこの「ひとりごと」でこれまでの私に決別を告げ、これから後半の40年も現役で生きるために「折り返し」とシャレて、ネット上の展覧会を開いてみようと思う。

 おいおい、お前は何歳まで生きるつもりだ!という声が聞こえて来そうだが・・・。

 目下、昔の挿し絵などの原画をスキャナーで読み込み中です。
 近日公開!



原稿用紙-2

2007年09月24日 | 雑記
W_39
W_40?田辺聖子さんの専用原稿用紙、アップにしてみると枠の外に田辺さんの名前と住吉・真生納という作家に原稿用紙を納めていた会社の文字がある。
 右の野坂昭如さんの原稿用紙にも相馬屋製の文字が見える。



 前回は出版社の原稿用紙の話だったが、小説家の側では 出版社が用意したものや小学校の前の文房具店で売っている既製品の原稿用紙ではなく、紙質やマス目のサイズなどにこだわった独自の原稿用紙を使う人も多かったようだ。

 私など文章を専門に書くわけではない人間には原稿用紙など何でも良かったが、それでもイラストレーションを描くときには、いろいろな紙質やペン先を試した結果、自分のタッチを表現するのにはパイロットの製図用インクにペン先は日光ペンの253番、紙はミューズタッチというこだわりを持っていて、この道具でスピードを殺しながら引く線の味を楽しみながら描いていた。
 作家も自分の思考のリズムに合った筆記具と紙質とのバランスにこだわりを持っていたものと思われる。

 関西の遅筆で有名だったある劇作家の専用の原稿用紙はひときわ変わったもので、ひとマスの横幅は普通の原稿用紙の2倍という特殊なサイズだった。

「今 届いた原稿を翻訳をしていますから、あと2時間程したら・・・」
という変な電話が◯◯編集部から入った。
 翻訳????
 二日前に入るはずだったある劇作家の小説に絵をつけてほしいと言う依頼は以前にあったが、それが外国の作家だったと言う話は聞いていなかった。

 最初の予定より二日遅れ、さらに数時間後に私の手許に届いた原稿は、悪筆という言葉があるが、そんな言葉の範疇にはおさまり切らない文字と言うより記号の羅列で、印刷にまわすためにも挿し絵を描くためにも、その記号を文字に置き換えねばならなかった。

 翻訳と言うのはその作家の原稿を読むことのできる数少ない編集者が書き直す作業のことで、横幅が2倍ある原稿用紙の升目は、読める文字に書き換えるためのスペースだった。

 私が直接に出会った例ではないが、作家で政治家という某氏も悪筆らしく、それゆえに某氏は原稿と共に自分で原稿を読み上げたテープもセットにして渡されるという。
 あるときテープの音声は読み進んで行く内に一時中断し「ン・・・・一文字置いて」と書いた本人すら読めなかった字を読み飛ばした音声が入っていたと言う伝説を聞いたことがある。

 かって弁護士にして流行作家という某氏の原稿に絵を添えてほしいと言う仕事で、読み進むうちに防衛庁の統幕議長と書くべきところ<投爆議長>と記述してあった。
 タレントの書いた原稿ではなく教養のある弁護士にあるまじき間違いと思って編集者に電話をしてみたところ、その原稿の弁護士作家は多忙で自分でペンを持つ暇がなく、テープに吹き込んだ音声をライターが口述筆記したもので、<投爆>の誤記はライターの青さだったことが分かって安心した。

 念のために付け加えるなら、この話は今から30年くらい前の話で、昨今TVタレント化している軟派系の弁護士センセイたちの話ではない。

 某作家の家に泊まり掛けで原稿を取りに行った編集者は、君が一緒に起きていても、早く書けるわけではないから、君は隣の部屋で寝て待っていなさい、書き上げたら起こしてあげる・・・と言われてそれではと眠りについて夜中に目がさめて小説の進行状態はと隣の部屋を覗くと、先生も机にもたれて眠っていたという。

 都筑道夫さんの「退職刑事」という推理小説シリーズの挿し絵を描いていた時には、原稿を最後まで読んで描いたことは一度もない。
 やはり遅筆作家で原稿が間に合わないのである。
 小説雑誌の連載でも読みきりの短編小説でも原稿枚数はおおよそ30枚くらいだが、そのうちの15~20枚くらいの原稿を渡されて挿し絵を描くが、一番少ない時は冒頭の3枚だけの原稿とあとは<絵組み>といって、どんな場面の絵を描いておいて欲しいと作家から指示された内容の絵を描いておくしかないこともあった。
 
 阿奈井文彦さんとは「面白半分」をはじめ「夕刊フジ」「オール読み物」などで同行取材のルポをいろいろさせてもらったが、いつも私の絵の方が先に仕上がり、阿奈井さんは締めきり日を過ぎたころ任意出頭?をして面白半分社の編集室で缶詰めになって原稿を書いていた姿をよく見かけた。

 原稿用紙の話から遅筆作家の裏話に発展をしてしまったが、皆さん、この話は内緒話ですからブログなどに書いたりしないでここだけの話としておいてくださいよ。
 
 ブログに書いているのはお前じゃないかって?
 ホントだ! どうしよう。



原稿用紙ー1

2007年09月16日 | 雑記
 最近、吉行淳之介といっても知らない世代の人たちが編集者になっている時代だから・・・とある編集者が嘆いていた。

 そんな時代のことだから今から30数年前に<面白半分>という名の月刊誌のあったことなど知る人もかなり少なくなってしまった。

 当時、吉行淳之介、野坂昭如、開高 健、五木寛之、井上ひさし、田辺聖子・・・などなどの各氏が名目だけでなく実質的な編集長を交代で務めるなどいろいろ話題になった雑誌で、当時は同業他社の編集者からは絶えず注目を浴びていた雑誌があった。

 しかし、文系の読者の興味をひいたが、理系、体育会系の読者までは引き付けられず、零細出版社によるミニコミ誌のまま数年で生涯を終えた話題の雑誌だった。
               
 このところ引っ越しの荷物から過去を振り返ることが多くなっていて、実は私自身も気になっているがご容赦をいただきたい。
 そして今日もその荷物の中にあった過去の原稿用紙の話である。

 私も20年程前から企画書を書いたり、雑文の原稿はワープロからパソコンになっているが、それ以前はもちろん原稿用紙に書いていた。
 そして多くの場合、編集者は原稿の依頼と共に社名の入った原稿用紙を置いていってくれた。

 ペラ(200字詰めの原稿用紙の通称)で数枚程度の雑文の依頼でも50枚を綴じたものを1冊置いていったから、年に何冊もの原稿用紙が溜まってしまう。
 だから出版社の名入りの原稿用紙などには稀少価値などなかったが、マニアックな読者の中には前述の面白半分社の原稿用紙だけは欲しがる人もいたと当時の編集者が話していたことを思い出して、もう使うこともない何冊もの原稿用紙は捨ててしまったが、面白半分社のもの1冊だけは残しておいた。

W_27もう30年の歳月を経て、少し色が変わった200字詰めの原稿用紙。
 写真の上にマウスポイントを置いてクリックして拡大写真で見てもらうと、マス目の下のラインの中に[面白半分◯Half Serious]の文字が見える。


*次回は過去に出会った作家たちの原稿用紙の話を書いてみようと思う。




台風直撃

2007年09月08日 | 雑記
97とちぎ青少年センターで台風の最中に行われた研修会は、チラホラと空席が出てしまった。

 9月7日と14日の両日に宇都宮市(栃木県)で行われる「放課後児童指導員研修」1回目の7日は台風9号が関東直撃のコースで北上してきた。
 
 研修会での私の出番は午後からになっていたので、普通なら当日の朝に出発をすれば十分に間に合う予定でいたが、台風が接近すれば7日は列車がストップしてしまう可能性が大きくなって来た。

 受講者たちは県内の各地から来るのだろうから、多少雨風が強くても出席できるだろうから、宇都宮には急遽前日入りをすることにした。
 台風は午前2時ころに小田原に上陸し関東地方を直撃となり、前日の内に現地入りをしたのはやはり正解だったが・・・

 研修当日の宇都宮の朝は台風の進路となって激しい雨で、宇都宮市の小学校が臨時休校。
 学童保育は急遽朝からオープンしなければならない事情が発生し、100人を予定していた受講者は半分なってしまっていた。

 学童保育以外の指導者で台風の中を出席できた受講者たちは、研修というお堅い感じではなく、その日は童心に返って私の工作をすっかり楽しんでくれたようで、指導者が楽しんでくれれば、その楽しさがそのまま子どもたちにも伝わることになり、あいにく来れなくなってしまった人たちには悪いが、今日は意義深い研修となった。

 ところで、この研修会は来週も行われるが、同じ参加者で行うのではなく、会場のキャパシティーの関係から同じ内容で別の受講者を対象に2度行うもので、7日に出席できなくなってしまった受講予定だった人たちから再受講の希望もあったようだが、すでに2回目の講座も満杯の申し込みを受けていて、予定をしていた材料は残っているが、残念ながら会場に空席がないということだった。


7  台風9号の直撃で倒れてしまった山芋の支柱

研修から帰って、翌日の8日は台風一過の上天気だったが、家庭菜園の畑に出てみると、無惨にも山芋の蔓が伸びる支柱が全部倒れてしまって、多少の嵐には耐えられるように作っておいた支柱だが、台風の直撃には無力だったようで、ナス、唐辛子の畝を覆ってしまっていた。

 なまじ支柱を立て直そうとすると、長芋の蔓を切ってしまう恐れもあることから、世田谷からボーイスカウトの子どもたちが収穫にやって来る11月まではまだ2ヶ月もあるが、そっとそのままにしておくことにした。

 直撃台風によるドサクサはまだまだあるが、取りあえず今日(8日)は当地の「かかしまつり」初日の飾り付けの日で朝から慌ただしい一日になった。




検索で過去の私が・・・

2007年09月03日 | 雑感
8月になって2月5日にアップした「ひとりごと」にコメントがよせられた。
 コメントは「ひとりごと」に記述した文章に対してではなく、カットとして掲載した写真を見てのコメントだった。
 その写真は1974年に初版を出版し、その後15年程再版を重ねた私の処女出版「手づくり遊び」(保育社)の写真で、コメントの主は当時その本の読者だった人だった。
 今ではお母さんになっている人が何かのきっかけで、昔の私の本を懐かしく思ってインターネットで検索をして私のブログにたどり着いてくれたようだ。

 また夏休みに入る前に、あるTV局が柔道のできるお祖父さんと孫との対決という想定で・・・人を探していたようで、私のところにメールが来た。
 ところで、私が柔道をしていたことはプロフィールにも書いていない。
 テレビ局の人にナゼ・・・と尋ねてみると、やはり「ひとりごと」の中に柔道という文字があり、さらに他の記述で孫のいる人だと知ってメールを送ったと言うことだった。

 そんなわずかな文中に書かれた文字だけが検索でヒットするものだろうか。
 試しに自分で「柔道部」を検索してみると68万件もあった。

 TV局の人は、私達は徹底的に検索しますと言っていたが、私にはとてもその中から自分の記述を捜し出す根気はなかった。
 結局その話は番組として成立しなかったが、調べる気になればどんな細かい記述でも捜し出せてしまうことにあらためて驚きを感じている。 

 試みに自分の名前で検索をしてみると・・・まずは本名で検索をしてみると、同性同名の他人のことを書いたものがワンサと出て来た。

 ペンネームの「ゴト-孟」で検索をしてみると、自分のホームページ、ブログの中見出しなどの他に出版した本、過去に出かけた工作教室の主催者のホームページの記述などに行き当たった。

 私のもうひとつのペンネーム「牛坂浩二」で検索をすると、数年前に新潮社から出版した家庭菜園の本の感想をいろいろな人が書いてくれている。
 また、かってイラストを主に描いていたころの牛坂浩二の記述もあり、その中に1976年頃横溝正史さんの文章に私が絵を添えていたという記述もあったが、私の頭の中では横溝さんの文章に絵を描いた記憶は欠落している。
 しかし、先日工房の引っ越しをした時、昔のイラストの整理をしていたら、その中に確かに横溝さんの似顔絵の原画が出て来た。
Photo_58?左の絵が整理をした荷物の中から31年前に描いた原画で、確かにmoというサインの後に書かれた数字は76年の11月に描いたことを示している。


 さらに「もーさん」のニックネームでも検索をしてみたら、何と「もーさん」という犬の名前のブログがヒットした。