もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

怪人に会ってきた

2020年09月11日 | 交遊録

*本日の「ひとりごと」は、2016年9月11日のブログの再録です。

怪人に会ってきた

2016年09月11日 | 交遊録

9月10日、神宮前のレンタルスペースで開催された「【肉眼では見えない!】宇宙の神秘をカメラで描く作家」と称される幸村真佐男氏のチベット高原の独立峰の「カイラス山報告パーティー」に押しかけ参加で会いに行ってきました。
 

  幸村真佐男氏とは、何の面識もなかったが、私とほぼ同年代と思われる高齢カメラマンがチベット仏教の聖地と言われるカイラス山(標高6656m)に五体倒地という祈りの形をとりながら太陽の軌跡を撮りに行くという記事を見て、まずそのバイタリティー、超人的体力を要するであろうと思われるエネルギッシュな行動力の根源を知りたかった。

幸村氏に会うまでの私が頭に描いていた怪人のイメージ
 

 9月10日、久しぶりの東京で、地下鉄銀座線の外苑前から徒歩で10分くらいという、報告会の会場まですっかり土地勘のなくなってしまっている私は、数人の人に道を尋ね、20分もかかってやっと会場にたどり着いたが・・・。

 その途中私にアクシデントが起こった!

 私は脊柱管狭窄症と言う持病を持っているが、ここ3年ほどはその持病を忘れてしまうくらい腰痛は治まっていたが、会場に着くまでの間に少しづつ痛みはじめていた。

会場内には、すでに怪人の旧知の間柄と思われる20人ほどの人たちが集まっていたが、押しかけ参加は私一人のようだった。

 

怪人はパワーポイントの調整に余念がない。

「開演時間までどのくらいある?」と怪人。

「もう5分過ぎています」とスタッフ。

それでも怪人は慌てる様子もなく、パソコン操作に没頭。

 

なかなか始まらない報告会に「何を待っているの?・・・」と怪人の友人らしき人から声が上がった。

「うン、開演時間を・・・」と怪人

「それならもう30分も過ぎてるよ」

「ん! もう過ぎてるの?」・・・ということで、ようやく報告会の幕は開いた。

 

報告会の冒頭は、何万カットという数のチベットの写真が秒速でスクリーンの上を走り、そのなかで怪人の話が始まった。

  出かける前には鳥葬と言うこともあり得るという覚悟で出発をしたのですが・・・鳥葬場は何ケ所かあったのですが、行ってみると、鳥はほとんどいなくて、犬がうろうろしているンです。
 それを見ると、犬に食われるのは嫌だなぁ・・・まぁ死んでからのことだから、何に食われてもいいようなものだが・・・というユーモアのある話を聞きながら、私は幸村氏から怪人というイメージは次第に消えて、仙人のイメージに変わってきた。
 幸村氏のイメージは怪人から次第に仙人に・・・ 

  話の途中で、チベットで買ってきたお土産という冬虫夏草が披露されて「権利のある人は一つとっていいですよ」と言われたが、おしかけ参加の私には権利のある人と言う意味が分からない。

 ・ ・・すると、隣の席にいた人が「今回の撮影旅行に寄付をしてくれた人と言うことでしょう」と教えてくれた。

 押しかけ参加の私は「権利のない人」だったようだ。

  で、冬虫夏草の写真だけを撮らせてもらって、次の席の人にに回すことにした。
 

◎今回の話は長くなるので、一旦ここで一休み・・・。
 皆さんもお疲れでしょうから、自分でお茶でも入れて一服して続きをご覧ください。

          続・怪人に会ってきた

2016年09月11日 | 交遊録

しかし、ややあって、その冬虫夏草が後ろの席のご婦人のところまで回ってきたところで、ちょっとこれ食べてみませんか・・・と声をかけられた。

 その人は権利のある人のようだが、冬虫夏草見た目の気味悪さで、口にする勇気が出なくて、どんな味なのか教えてほしいというのだった。

 私は権利のない立場だったが、それにも勝る好奇心とズル心が少しだけ勝って、素早く口に入れた。

 その味はというと、私がこれまでに口にしたものの中では・・・・。
爪楊枝を齧った時の感触に一番近かった。
 つまり、無味、無臭で何の風味もなく、何の神秘性も感じられないモノだった。

 仙人の話は中断して、今回の旅のガイドを務めたネパール人のクマールさんのジャンベ(ドラムの一種)と仙人の手祈りのホイール(楽器と言うより仏具)のセッションによる軽快なリズムの演奏が始まった。
 

 仙人の出す音は、クマールさんのジャンベの音にかき消されてほとんど聞こえないが、耳を澄ませてよく聞くと、仙人の奏でるホイールのリズムはジャンベのリズムとはまるで関係なく、無我の境地で仙人の面目躍如、独自のリズムを刻んでいた。

 背負い篭の中から取り出して、左手に持っているのが「手祈りのホイール」と称される楽器(仏具)で、ジャラジャラと言う音でリズムを刻む。

 報告会の話はまだ始まったばかりで、五体倒置、カイラス山の話も始まっていないが、悪いことに午後8時を少し回ったころになって持病の脊柱管狭窄症による腰の痛み激しくなってきた。

 残念ながら、そして主催者に対しても失礼ながら途中退席をすることになり、スタッフからはあとで先生に紹介をします・・・と言われていたが、それも果たせぬまま会場を後にすることとなってしまった、

 来る時は地下鉄外苑前駅から道に迷って20分もかかって来た道を、帰り道は迷わなかったが、腰痛で足が進まず30分かかった。

 そのあと、地下鉄銀座線➡千代田線➡小田急線の急行と各駅停車を乗り継いで、家に帰ったときには10時半を回っていたが、気が付くとあれほど痛かった腰痛は少し軽くなっていて、一夜が明けた今この投稿を描いているが、全く通常の体に戻っている。

   
 チベットの経典が書かれた経幡という小旗で、風になびいて、仏の教えが広まるといわれている。 

 昨夜報告会の会場で口にした冬虫夏草の効き目なのか、はたまた幸村仙人の妖術のなせる業かはわからないが、ありがたいことには変わりはない。

途中退場で聞き逃した話の方が多かったが、幸村氏は怪人ではないことは分かった。
しかし、高齢の身でチベットの奥地まで出かけて写真を撮ってこようなどと言う人は、やはり常人ではなく仙人であった。
 いつか、またお会い出来る機会があれば、氏の身体と精神的なエネルギーの源を突き止めたいものだ。
 左側の缶バッジは幸村氏撮影された南房総の太陽の軌跡 

 

 


ミニミニ県人会

2019年01月19日 | 交遊録

 50年前の東京オリンピックのあった年の前後に、名古屋からそれぞれが相前後して東京に出て来た三人。

 この3人が仕事を通して出会うことはなかったが、東京で再会をしたのをきっかけに、数年に一度3人だけで県人会と称して食事会をしていた。

 昨日、その3人が久しぶりに集まってランチを共にしてきました。

 Oさんは、名古屋ではすでに戦時中(関ヶ原の戦いではなく、太平洋戦争です)から洋裁塾を開いていた、草分け的な存在だった私の父の弟子だった人で、50年前は栄の交差点にあったオリエンタル中村(現在は三越になっていいるところ)、明治屋婦人服部などのデザイナーをしていて、後に東京に出て来た人で現在89歳となるも、現在も以前のお客さんのファッションアドバイザーとして月に数回は西船橋から日本橋、銀座に出てくるという健康体で現役。
               

 Iさんは、76歳。
名古屋の洋裁学校を卒業後、ファッションデザイナーを目指して新宿の文化服装学院で学び、そのまま同校教員を務め、定年後に和服のリメークにはまり、数々の作品を作ってきた人で、私との接点は・・・。
 Iさんが20歳くらいの頃、ファッション画を描きたくて絵画教室に入ったが、今から50年以上も前の名古屋ではファッション画はおろか、イラストレーションという言葉も存在せず、現在のグラフィックデザインはイラストレーションもレタリングも一緒くたにされて、商業美術と称されていた時代で、名古屋にはファッション画、スタイル画などを描いている人などはいなかった。
                            
 そのIさんは、まったく偶然の機会から私の小中学校の同級生で当時は電機メーカーで工業デザインをしていたS君と出会い、当時はまだまだファッション画は勉強中だった私のところに連れられて来た人で、指導をするというより、私の仲間たちでモデルを頼んでクロッキー会などで一緒に勉強をしていた人だった。

 
 Iさんも、今も和服のリメークの指導を中心としてまだまだ現役として活動中。

 そして78歳の私も、今では仕事30%、ボランティア70%ながら、マイペースで退屈をしない日々過ごしています。

この3人は、名古屋時代のファッションの世界という共通点をもってはいたが、東京に出てくるにあたっての共通点はなく、時期も同じではなかった。
 あえて言えば、当時の名古屋には自分の仕事を受け止めてくれる環境がなかった・・・という不満からの脱出だったのかもしれない。
              今ではトンボもお友達

 いずれにしても、この歳となった今もそれを続けていられるのは健康と、それぞれに他人から求められる<something>を自分の中に作り上げてこられたことが要因かと思います。

 ちなみに、この日のランチで出て来たグラスワインの一杯が私には今年口にした最初の酒でした。
             


怪人に会ってきた

2016年09月11日 | 交遊録

9月10日、神宮前のレンタルスペースで開催された「【肉眼では見えない!】宇宙の神秘をカメラで描く作家」と称される幸村真佐男氏のチベット高原の独立峰の「カイラス山報告パーティー」に押しかけ参加で会いに行ってきました。
 

  幸村真佐男氏とは、何の面識もなかったが、私とほぼ同年代と思われる高齢カメラマンがチベット仏教の聖地と言われるカイラス山(標高6656m)に五体倒地という祈りの形をとりながら太陽の軌跡を撮りに行くという記事を見て、まずそのバイタリティー、超人的体力を要するであろうと思われるエネルギッシュな行動力の根源を知りたかった。

村氏に会うまでの私が頭に描いていた怪人のイメージ
 

 9月10日、久しぶりの東京で、地下鉄銀座線の外苑前から徒歩で10分くらいという、報告会の会場まですっかり土地勘のなくなってしまっている私は、数人の人に道を尋ね、20分もかかってやっと会場にたどり着いたが・・・。

 その途中私にアクシデントが起こった!

 私は脊柱管狭窄症と言う持病を持っているが、ここ3年ほどはその持病を忘れてしまうくらい腰痛は治まっていたが、会場に着くまでの間に少しづつ痛みはじめていた。

会場内には、すでに怪人の旧知の間柄と思われる20人ほどの人たちが集まっていたが、押しかけ参加は私一人のようだった。

 

怪人はパワーポイントの調整に余念がない。

「開演時間までどのくらいある?」と怪人。

「もう5分過ぎています」とスタッフ。

それでも怪人は慌てる様子もなく、パソコン操作に没頭。

 

なかなか始まらない報告会に「何を待っているの?・・・」と怪人の友人らしき人から声が上がった。

「うン、開演時間を・・・」と怪人

「それならもう30分も過ぎてるよ」

「ん! もう過ぎてるの?」・・・ということで、ようやく報告会の幕は開いた。

 

報告会の冒頭は、何万カットという数のチベットの写真が秒速でスクリーンの上を走り、そのなかで怪人の話が始まった。

  出かける前には鳥葬と言うこともあり得るという覚悟で出発をしたのですが・・・鳥葬場は何ケ所かあったのですが、行ってみると、鳥はほとんどいなくて、犬がうろうろしているンです。
 それを見ると、犬に食われるのは嫌だなぁ・・・まぁ死んでからのことだから、何に食われてもいいようなものだが・・・というユーモアのある話を聞きながら、私は幸村氏から怪人というイメージは次第に消えて、仙人のイメージに変わってきた。
 幸村氏のイメージは怪人から次第に仙人に・・・ 

  話の途中で、チベットで買ってきたお土産という冬虫夏草が披露されて「権利のある人は一つとっていいですよ」と言われたが、おしかけ参加の私には権利のある人と言う意味が分からない。

 ・ ・・すると、隣の席にいた人が「今回の撮影旅行に寄付をしてくれた人と言うことでしょう」と教えてくれた。

 押しかけ参加の私は「権利のない人」だったようだ。

  で、冬虫夏草の写真だけを撮らせてもらって、次の席の人にに回すことにした。
 

◎今回の話は長くなるので、一旦ここで一休み・・・。
 皆さんもお疲れでしょうから、自分でお茶でも入れて一服して続きをご覧ください。

*この回の続きは次回にアップではなく、このページの下にすでにアップをしていますので、右端のスクロールバーで「続・怪人に会ってきた」をご覧ください。


続・怪人に会ってきた

2016年09月11日 | 交遊録

しかし、ややあって、その冬虫夏草が後ろの席のご婦人のところまで回ってきたところで、ちょっとこれ食べてみませんか・・・と声をかけられた。

 その人は権利のある人のようだが、冬虫夏草見た目の気味悪さで、口にする勇気が出なくて、どんな味なのか教えてほしいというのだった。

 私は権利のない立場だったが、それにも勝る好奇心とズル心が少しだけ勝って、素早く口に入れた。

 その味はというと、私がこれまでに口にしたものの中では・・・・。
爪楊枝を齧った時の感触に一番近かった。
 つまり、無味、無臭で何の風味もなく、何の神秘性も感じられないモノだった。

 仙人の話は中断して、今回の旅のガイドを務めたネパール人のクマールさんのジャンベ(ドラムの一種)と仙人の手祈りのホイール(楽器と言うより仏具)のセッションによる軽快なリズムの演奏が始まった。
 


 仙人の出す音は、クマールさんのジャンベの音にかき消されてほとんど聞こえないが、耳を澄ませてよく聞くと、仙人の奏でるホイールのリズムはジャンベのリズムとはまるで関係なく、無我の境地で仙人の面目躍如、独自のリズムを刻んでいた。

 背負い篭の中から取り出して、左手に持っているのが「手祈りのホイール」と称される楽器(仏具)で、ジャラジャラと言う音でリズムを刻む。

 報告会の話はまだ始まったばかりで、五体倒置、カイラス山の話も始まっていないが、悪いことに午後8時を少し回ったころになって持病の脊柱管狭窄症による腰の痛み激しくなってきた。

 残念ながら、そして主催者に対しても失礼ながら途中退席をすることになり、スタッフからはあとで先生に紹介をします・・・と言われていたが、それも果たせぬまま会場を後にすることとなってしまった、

 来る時は地下鉄外苑前駅から道に迷って20分もかかって来た道を、帰り道は迷わなかったが、腰痛で足が進まず30分かかった。

 そのあと、地下鉄銀座線➡千代田線➡小田急線の急行と各駅停車を乗り継いで、家に帰ったときには10時半を回っていたが、気が付くとあれほど痛かった腰痛は少し軽くなっていて、一夜が明けた今この投稿を描いているが、全く通常の体に戻っている。

   
 チベットの経典が書かれた経幡という小旗で、風になびいて、仏の教えが広まるといわれている。 

 昨夜報告会の会場で口にした冬虫夏草の効き目なのか、はたまた幸村仙人の妖術のなせる業かはわからないが、ありがたいことには変わりはない。

途中退場で聞き逃した話の方が多かったが、幸村氏は怪人ではないことは分かった。
しかし、高齢の身でチベットの奥地まで出かけて写真を撮ってこようなどと言う人は、やはり常人ではなく仙人であった。
 いつか、またお会い出来る機会があれば、氏の身体と精神的なエネルギーの源を突き止めたいものだ。
 左側の缶バッジは幸村氏撮影された南房総の太陽の軌跡 


野坂節

2015年12月10日 | 交遊録

 08年9月のはじめこのブログに「秋風」というタイトルで掲載した記事に、野坂昭如さんの唄「新古今集・春夏秋冬」の<>ことを書いた。

  作曲/桜井順・作詞/能吉利人・歌/野坂昭如の「新古今集・春夏秋冬」は洋楽器プラス琴の旋律という和のテ-ストを持った曲に乗せて、歌う歌詞は「黒の舟歌」をもっともっとビターにした怨念ソングの野坂節だ。

  40年くらい前に神田の共立講堂(だったと思うが、記憶違いかも知れない)のライブで聴いて以来、私の中には現在に至るもこの野坂節が染み込んで消えない。

  この新古今集のうち<>の♪・・・・・手の中に消えた、暑い暑い夏の日 冷たい冷たいホタル という一節は、野坂さんの直木賞受賞作「火垂るの墓」を彷佛させ、口ずさむだけで不覚にも涙が滲んでくる。

  春・夏・秋・冬を通して巧みなかけ言葉の妙と、強烈なまでにビターな味わいで人間の本質と生死感を語る歌は聴く人のハートに直に語りかけて来る。

  その怨念の過激さ故にかTV、ラジオの電波に乗ることも無かった歌はライブ版が「野坂昭如不浄理の唄」としてLPレコード化されているのみで、仮にそのレコードを見つけてもCD時代の今ではほとんどそれを聴く手段も無い。

 もしあなたが何かの縁でその歌を聴くことができたら、あなたの人生観が変わるとまでは言わないが、薄っぺらな歌をカラオケなんかで歌うのが嫌になるかも知れない。
  

  野坂さんには私の*2冊目の処女出版「わるの本」の出版に際しその序文を書いてもらい、面白半分時代は野坂編集長のもとにカリカチュアを描かせてもらい、野坂さんの小説に挿し絵を描いた他に、四畳半裁判(野坂さんが被告人だった)のイラストルポを描く(今で言う法廷画家の走り)などなどのご縁があった。
 *野坂さんに書いてもらった序文とその生原稿の一部。 

2冊目の処女出版と言うのは、牛坂浩二のペンネームでのはじめての出版と言うことで、それに先立つこと2年くらい前に35才の時にゴト-孟の名前で保育社から出した「手づくり遊び」が私の本当の処女出版。 

 野坂昭如さんの訃報に接し、ご冥福をお祈りしつつこの一文を捧げます。  

 合掌