もーさんのひとりごと

ここでは工作に関する話の他に趣味の家庭菜園の話、時事(爺イ)問題、交友禄など日々の雑感を気まぐれに更新していきます。

東京再発見

2007年10月29日 | まち歩き
 <亀田一家>・・・おおっと<台風一過>の間違いだった。
 <不快の極み>と<快適の代表>とを間違うなよナ!。
 ゴメン!

 日曜日の朝から雲ひとつない快晴の空の下で久々に江戸歴史散歩の会に出席して東京を歩いてきた。

 今回の散歩コースは上野の池之端にある旧岩崎邸(三菱創設者・重要文化財)から横山大観記念館、湯島天神、加賀藩の大名屋敷跡というより東大の赤門をくぐって東大の構内の散策後は樋口一葉の住居跡などを巡るコースだった。

 東京に住んでいた頃、上野にも湯島にも行ったことがあるが、上野に行く時は渋谷から地下鉄の銀座線、湯島へは小田急の代々木上原から地下鉄千代打線に乗って、あさっての方向に行くことになる。
 だから東京に出てきて40年以上も、今日のコースを歩くまで湯島と上野がすぐ隣だったことを知らなかった。

 東京に出てきてから車の運転をすることもなく運転免許証の書き替えを忘れて失効して以来、東京での移動はほとんど地下鉄利用で地上のつながりを把握していなかった。

 そう言えば日本橋と人形町がすぐ隣だったことも昨年の歴史散歩で初めて理解したのだった。

 そして、今回の散歩ではもっと意外な発見があった。
 それは東京大学のお土産の存在だった。
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 キャンパス内の生協で、東大グッズなるものがあると聞いて、会の主催者が岩崎邸などを設計したジョサイア・コンドル像の説明をしている間にこっそりと抜け出して生協をのぞいてみた。

 東大の名前入りのシャープペンシル、ボールペン、お菓子のゴーフルを3分くらいの間に大急ぎで購入して会のメンバーに追いつく。

 まだいろいろなグッズがあったようだがコンドル像の説明が終わらない内に戻らないと、キャンパス内で迷子になってしまうからゆっくりとは見ていられなかった。

 名古屋、大阪、東京の内で一番長く過ごしたのが東京だったが、仕事に追われることにマゾヒスティックな快感を感じていた毎日で東京のことは何も知らないままだった。
 東京を離れ、仕事にも追われなくなった今になって、やっと東京の再発見を楽しめるようになってきた。


折り返し展・その4

2007年10月23日 | 雑記
<人間臭さ>を表現したいと思って描きはじめたイラストレーションだったが、ある新聞の日曜版の企画で某女性評論家の文に絵をつける仕事の時、その評論家からは「牛坂の絵はあまりにも日本人臭くて嫌だ」と拒否されたがことがあった。
 しかし、その日本人臭さは私が狙っていた<生活感のある人間>が描けている証しでもあった。
 そして、逆に日本人臭い絵は田辺聖子さん、半村 良さん、都筑道夫さんからは挿し絵は牛坂に描いてもらって欲しいという指名にもつながった。

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「牛坂浩二」のペンネーム-1
 私がまだ中学生だった1955年、「緑はるかに」という浅丘ルリ子さんのデビュー映画(それも本編ではなく、その予告編)を見てすっかり胸をときめかしてしまった。
 それ以来、私は彼女の出演する映画のポスター、看板の前を通るだけで心臓が高鳴ってしまい、その前は小走りで走り抜けるという純情少年だった。
 で、その後浅丘ルリ子さんの映画に通いつめたかと言うと、その逆で、余りの気高さに畏れ多くて68歳に至るも未だに1本の映画もTVドラマも見たことがない。
・・・この話は続く・・・


●新作の工作「お月さまのウサギ」をアップしました。 


折り返し展・その3

2007年10月18日 | 雑記
 この回から突然に絵が変わっていることに「もーさん、どうしちゃったの?」と思われるでしょう。
 
  この頃から見かけ上のかっこいい男、きれいな女を描くことに飽き足りなくなり、醜さもユーモアもある生活感のある人間を描きたくなった。
<人間臭さ>を描こうとして画風が180°変わり、30歳を期にファッション画を教えに行っていたすべての学校をやめて、発表の場を出版物に求め、<牛坂浩二>のペンネームで雑誌の挿し絵やカット、社会風刺のイラストを描くようになったのです。
 今回からは、しばらく30歳~50歳代に描いた挿し絵が続きます。

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 東京に出て来て6年が経ち、30歳を過ぎた頃からやっと自分自身が見えて来て、変な力みも抜けてイラストも文章も等身大の自分が表現できるようになって来た。
 振り返ってみると、この頃が自分のペースで歩き始めた出発点だったように思えるが・・・
 他の人たちと比べると、かなり遅いスタートだった。

●7月下旬の パソコンのクラッシュで消えてしまった予定原稿をやっと書き直し「遊びの歳事記」も5月以来の久々の更新で「第15話/潜水艦づくり」を本日アップしました。
 また、工作の「展示室」「実習室」も新作のアップをすべく、撮影のし直しを始めました。
 もうしばらくお待ち下さい。







折り返し展・その2

2007年10月14日 | 雑記
 昭和10年代生まれの私たちの世代はまだまだ親が決めた進路に従わなければならなかった時代で、自分の希望する高校には進めなかったが、東京に出て来て親の束縛から逃れて遅まきながらやっと本来の自分探しが始まったばかりだった。

 20歳代の頃はまだまだレッスンプロの時代で、東京をはじめ名古屋、四日市、桑名市、白河市などの洋裁学校、デザイン学校などでファッション画を教えることが主な仕事で、私もまだまだ青くて一生懸命 形を上手に描こうとしていた頃の絵です。W

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①桑名市(三重県)の洋裁学校のポスター
 東京に出て来て当時住んでいた3畳のアパートで、習い立てのシルクスクリーンの技法を使ってひとりで印刷までしていた
②記憶が確かではないが、東京に出て来る前に描いた紙バッグだと思うが、そんな古い袋がしわくちゃになって出て来た
③上の紙バッグをデザインしたときのもの
④1970年頃の若者向けの便箋の表紙
⑤1970年ころからアクリル絵の具が流行りだし、その習作
⑥デザイン学校の生徒募集のポスター


 この頃は東京で2年ほどデザイン、イラストの勉強をして、名古屋に帰りデザイン会社に就職をするつもりだったが、つい長居をしてしまって68歳となってしまった今はもう就職先はないだろうナ。



折り返し展・その1

2007年10月03日 | 雑記
 今日から昔々のお話のはじまりです。
「おもしろ工作ランド」をご覧の皆さんには意外に思われるかも知れませんが、私の出発点はこんなところにあったのです。
 まずは40数年前、24歳でファッション画の勉強に名古屋から東京に出て来た頃の師匠のアトリエでのクロッキー から。(1964年ころ)
絵の上にマウスポインターを置いてクリックしてもらいますと、拡大されます。
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 初めて東京に出て来たときは、西武・新宿線の野方にあった3畳一間のアパートに住み(家賃は1畳千円という時代だった)、新宿西口(後に代々木に移った)の原 雅夫先生のアトリエに通っていた。

「折り返し展」はこれから10数回に分けて掲載予定ですが、連続的な掲載ではなく断続的な気まぐれ掲載になります。